第4章 死別 ファラム・ランサ ~ ミカガミ

             第4章 ~ 死別


           【ファラム・ランサ ~ ミカガミ】 


 夜半の月が緑を帯びて美しい。時折月を隠す雲に光が通ると月光が拡散して思わず見とれてしまう。歩き続けて火照った肉体には心地良い外気。魔獣の邪気はなく、最終の目的地であるファラム・ランサへ向かう4人に障害は見当たらなかった。ファラム・ランサ、そこにはヴェルハウゼン唯一の降雪地帯にして豪雪地帯。年中雪が止むことのない最北の地。クリアンカの言葉が蘇る。あるべきはずの弊害がそこにはなかった。

 確かこの辺りに、そうクリアンカがクチゴモッテカラ既に15分。眼前に広がるは海。クリアンカは徐に取り出したアクセサリー、だろうか、ピアスなのか紐を除いた首飾りなのか、鶏卵よりも一回り小さい六角錐。その表面は鏡の様になっていて暗闇の海原を映しているのだが、真夜中の海面には描かれることのないはずの色彩を反射することもあった。時にか弱く、時に激しく千紫万紅を照らし出すのだが、クリアンカ以外にその煌きを知る者はいなかった。栗あん家の手に握られている鍵、その名をフォルテナの鏡、これがファラム・ランサへの道を切り拓く鍵に他ならなかった。

 消失の結界。隠匿の結界。斑(むら)消えの結界。そんな所なのだろうか。クリアンカがファラム・ランサの鍵であるフォルテナの鏡をかざすと4人の目の前に、さも今頃ようやく気付いたのかと言いた気に音も立てずに扉が現れた。扉だけが現れた。前にも後ろにも部屋はない。扉の前にはファラム・ランサを目指す4人の遊子、扉の後ろには海。どこにでもある古びた旧式とも言える扉。そんな扉のノブを回してゆっくり戸を押すクリアンカ。少し重そうだ。戸を押しながら右足は既に半歩扉の中へ踏み入れていた。そのまま一連の動作を停止することなくクリアンカが戸の中へと吸い込まれていった。3人を振り返ることはなく、無論、海に落ちることもない。だから次に誰かが続かなくてはならなかった。まずはオルガ、間髪入れずにエルが続く。独り残された法術師。一度ギロリと辺りを見回してから、ファラム・ランサへ向けて一歩足を踏み入れた。

 クリアンカ、オルガ、エル、セシリアの4人が歩くは海の上。海面スレスレの見えざる道。クリアンカの話では30分程で到着するという。黒という名にふさわしい闇夜に闇よりも深い海、暗黒を背景に光る白い雪。白過ぎる雪が絶え間なく降り注いでいた。雪そのものが仄かに光を放ちながら4人を覆い尽くさんと舞い降りる。ただし雪が海に溶けることはなかった。雪が海に降り注ぐことがない為に。セシリアによれば今いる場所はヴェルハウゼンとは次元が異なる、ということだった。森で見た天使たちと似たようなこと、だそうだ。

 その雪に対してエルは土属性、オルガ、クリアンカとセシリアは森属性の魔導石による障壁の加護を受けて歩いていた。白光りして降り注ぐ雪のような物質は、微弱な魔力を含む『魔雪光(ませっこう)』と呼ばれるもの。5分、10分浴びたところで命に関わることはないが、確実に体力は奪われる。生あるものに触れると瞬時に少量の酸素を吸収して消滅する。生亡き者に触れると、この場合は一定量の酸素の有無を意味しているのだが、触れたものを僅かに侵食し消滅する。雨雪を防ぐ手段を持たないものに対して絶対的かつ絶望的な侵略を施す魔雪光。そんな豪雪地帯を4人は今、ファラム・ランサに向けて歩いていた。

 扉を潜る前と後で景色は何も変わらなかった。クリアンカの取り出したフォルテナの鏡によって唐突に現れた扉が前にあるか後ろにあるか、足元にあるのが陸か海か、それだけだった。眼前、眼下に広がるは大海原、振り返ればこれまで歩いてきた大陸が悠然と構えていた。降りしきる魔雪光を前にクリアンカの説明を受けてエルは自らの石の力で、他の者はセシリアの法術によって呪いの雪に対する防壁を巡らせた。前者の土の加護はゴツゴツしてみるからに堅そうな、後者の森の庇護は綺麗すぎる半透明の球形、故にどこか頼りなさそうに映った。しかし壁としての能力は見た目とは逆様。尤も、どちらも魔雪光を受ける程度で崩れてしまう代物ではないのだが。

 海上に敷かれた不可視の道。真夜中に白く発光する雪の中を新進と歩く4人。ただしそれは積もったり水溜りができたりということもなく歩き易いことも手伝って、常人には考えられないスピードでファラム・ランサを目指した。セシリアも遅れることなくついていく。彼女はもう、よほどのペースでなければ置いていかれることはない。無理せずとも実力ある渡り鳥に歩調を合わせることができた。そして程なく、街が見えてきた。正確には扉を潜った時から遠隔の地に存在していた街らしき存在を街として認識できるようになり、同領域へ侵入できる所まで到達した。


 

 人魔共存の町、ファラム・ランサ。人間族と魔族が共に過ごしている、確かに共に暮らしていたと大天使フォルテナに教えられた、オルガ、エル、セシリアの最終目的地に辿り着いた。話に聞くだけでは不得要領の塊だったが、こうやって現実に身を投じ己が眼で事実を享受すれば疑う余地はない。何故にこの状況が成立するのか、オルガの集中力が集約された。

 民家の窓辺には洗濯物が揺れていた。ほとんどの家が2階建て、もしかしたら法で建造物の規制が敷かれているのかもしれないが、整えられた人屋と清められた洗い物は美しく、町には香しさが流れていた。夕日のせいか赤、茶、石竹色に染まった石畳は整備がいき届いていて足を取られることはなく、見た目にも実務的にも良と評価できた。政治が民を守る、守ろうとしていることは、国としての平和が維持されていることは感じ取ることができた。魔雪光は不可視の道だけに降り注ぎ、闇夜は夕焼けに変化した。4人がファラム・ランサに入ると近くにいた人間と魔族がチロリと目を遣った。4人のことを目視し、見ない顔だねとでも言いたげに顔を逸らした。よそ者の登場に1度は時の流れを止めた周辺の者は、すぐさま何処かへと歩き去ってしまった。ファラム・ランサの民、その表情は硬かった。人間族のみならず魔族についても同様。


 「生きてんのか死んでんのか、分かりゃしねェな。」オルガの意見に異論はなかった。ファラム・ランサには人間族がいた。魔族もいた。でもただそこに居るだけ、そう見えてしまうまでに活力がまるで感じられなかった。大天使フォルテナから話を聞いた際には可能性の拡大と共に、魔族が人間を支配し自由を諦めた人間が・・・そんなケースもありうると想定していた。どうせそんな状況であろうと考えていた。結果は落胆沮喪、人間族だけではなく魔族からも揺蕩(たゆた)う重き雰囲気。そんな時、

「お前さん達、連れてこられたわけじゃないのかい?」色と音色と息吹の存在しない静止画が動き出す。明々白々な答え、成すべきことは単純明解だった。

「信じられないかもしれないが、町の中にいる魔族のほとんど、元々は人間なんだよ。」宿主はそう言って話を切り出した。

 

 ファラム・ランサ~元々は人間族だけが住む、小さくはあったが温暖な気候も手伝った暮らし易い島国、バカンスで訪れる者も多かった。ある日、ひとりの魔族がこの地に現れる。結界を破るでもなく暴れるでもなく、結界を前に立ち尽くしていた。魔族から大剛と恐怖は感じられず、それどころか半死半生の状態、容姿は枝程の手足をした老人。町人はその魔族を看病した。擦った揉んだはあったろうが魔族と承知して、恐らくは危険性が極めて少ないと当時の住民が判断して。数日の後、老人はすっかりと回復し、人間に、ファラム・ランサの町人に何か礼をしたいと申し出た。礼には及ばない、そう答える人間に対して、それでは私の気が収まらない。そんな遣り取りの結果、ファラム・ランサは魔族を飼育する為の牧場と化した。

 魔族トムネは感謝の意を形として現すべく町人の心を紐解いた。人々の願い、それは平和。魔族や魔獣に鬼胎を抱くことなく暮らすこと。トムネは怒りを感じることなく、むしろ悲しみを覚えた。力、強さ、スーパーマン、ヒーロー。そんな絶対的な特殊能力が俺にあれば魔族などに負けはしない。ファラム・ランサを、世界を平和にできるのに。誰の心であったろうか。皆の心であったろうか。トムネに残された時間はさほど多くはなかった。あくまで魔族の時間感覚での話だが。その時間全てを捧げても良いと思った。トムネが人間族に授けたもの、授けようとしたものは力だった。

 まずは既存のものとは別の結界がファラム・ランサを包む。この地(ヴェルハウゼン)から異なる次元に隔離されたファラム・ランサ。次に町中が光に満たされる。冬の日差しを幾分強めた程の、さほどトゲトゲしくはない光の中で人々は苦しむ間もなく、太陽が雲から出たかなと思った時には、その場に倒れていった。声を発することもなく街中の人という人が卒倒した。そして9割の人間が死んだ。1割の人間が魔族への転生を試みる段階まで到達し、その内の1割が生を受けた。これが現ファラム・ランサの原型。いつしか、いつしかその目的は繁殖能力に劣る魔族の増殖へ刷り替わってしまった。次々と増え続ける人間、その中で屈強そうなものを中心に他国から連行してきては魔族への転生を試みる。大多数は失敗。希に成功したものはそのまま魔族としての運命を刻むことになる。時に招集がかかれば魔族の兵隊として駆り出されることも。現にファラム・ランサにいる人間は魔族となりうる人間、もしくは人間族を増殖する為の道具に過ぎなかった。逆らうことはできない。逃げることもできない。戦うこともできない。生来の魔族とは力の差が歴然。諦め受け入れることだけが生きる道だった。ここにきて、生への欲望を抑えることができなくなってしまった。そこに種族間の隔たりはなかった。ファラム・ランサは今、争いなく時が流れていた。

 ファラム・ランサには3つの館がある。弓手(ゆんで)の館、馬手(めて)の館、そしてかの老人がいるという廂(ひあ)間(わい)の館。この魔族の館へ入るには右と左の館の主を倒す必要がある、ということだった。


さてと。何かがおかしい。トムネの真意がひとつではない。トムネの心が変わった、そう考えるのが妥当なのではないか。何かが引っ掛かる。


 

 主人から話を聞いた翌日、宿を出ると捜すまでもなく3つの館が目に入ってきた。皆、形は同じ。向かって右に弓手の館、左に馬手の館、中央に廂間の館。この中央の館へ入る鍵は弓手の館で、弓手の館へのそれは馬手の館で手に入れなくてはならなかった。初めから中央の館に乗り込んで扉をぶっ壊せばいいじゃねェかというのがオルガの弁だったが、次元の組み換えが施されている為に力技ではどうにもならない、順々に館で鍵を手に入れるしかないとのことだった。まずは馬手の館。待ち受ける魔族、名はミカガミ。本来の目的から外れた魔族との戦。ファラム・ランサにオルガの求める人魔共存は存在しなかった。


 馬手の館で口を開けていたのは異次元へと通じるgate。宿主の話によればそのgateの中に魔族ミカガミがいるという。これまでファラム・ランサの人間も黙って指をくわえていた訳ではなかった。幾人もの人間がミカガミに戦いを挑んだそうだ。恐怖の名の下に安定を装うファラム・ランサを攻落する為に。時に魔族と化しながらも人の精神を失わなかった勇敢で頑強な戦士もgateを潜ったという。そして、誰も戻らなかった。次々と倒れる仲間に希望が縮み、夢が破れ、挑むものが少なくなり、今では誰もいなくなった。生きながらえる手段として、家族を守る為に、屈することを選ばざるを得なかった。だからということではないが、何の関係もないお前さん方がわざわざ危険を冒すことはない、そう助言してくれた主人にエルは笑顔で答えたのだった。重く沈んだ空気を換気するかの如く爽やかに。

「大丈夫。俺も魔族です!」

「ほぇっ!?」あっけにとられた宿主の顔が愉快で他の3人も続く。突然のエルの発言に驚いたのは主人だけではなかったのだが。

「私は見た目通りのリリト族です。」

「私はハーフエルフ。」

「悪ィ、俺は人間だ。」そう言った時にオルガは何かを反芻した。1度意識して目を閉じ、静かに開く。どことなく落ち着いた。いや、元から慌ててなどいないのだが、違和感のようなものが駆け巡った。何かきっかけが掴めた感覚が。何かがもしかしたら進展したのかもしれない。分からないが少々嬉しく感じた。オルガは周囲に感情の変化を悟られぬよう

「安心しろ、俺たちがファラム・ランサを救ってやる。」そんな柄にもないことを言ってしまった。



 セシリア、クリアンカ、そしてエル、さすがにオルガでも予測できた通りの展開。gateから繋がるは次元の異なる空間だった。gateの先には、魔雪光が降り注いでいた先の道とは違ってすぐに、大きな湖とそれを囲む陸地が広がっていた。gateが導いたのはその陸地の一角。そして倒すべき魔族ミカガミは湖の中央に立っていた。足元に小さな足場でもあるのか、見た通り湖上に浮いているのか定かでないが、遠方からは水の上に白髪の小柄で細く弱々しい老人が浮いている姿が確認できた。

「あのジジィをぶっ飛ばせばいいんだな。」言葉とは裏腹にオルガは剣を抜くことができない。遠い湖の中央まで届く攻撃は限られていた。これが馬手の館における戦いの鍵。地形がミカガミにとって有利に働くことは間違いなかった。4人は自身の攻撃パターンを思い起こしシュミレーションを始める。じっと黙ってまずは考えた。

「人身御供ではあるまい。まだ分からんか、人間族よ。何十人殺されれば気が済むのだ。学べぬ種族ではあるまいて。」

 「さてと、あのジジィをどうやってぶん殴るか・・・」

「ここはみなさんに援護役をお願いするしかありませんね。空から私が行くしかないでしょう。」有翼人の意見に反対できるものはいなかった。それはそうだろう、まさか泳いで戦うわけにもいくまい。湖上に敵を誘い込む、これがミカガミにとって優良な環境ということであれば、魔族の攻撃手段やその能力は自ずと浮かび上がってきた。あとは能力値、レベル、次元がどの程度のものなのか。

 クリアンカが槍を抜き、サラリと翼を翻す。この姿に人間はどうしても見蕩れてしまう。美しい女性が結った髪を解くときのような心地良さが漂うのだ。ここはどうやらクリアンカに託すしかない。そう思われたが、

「ねぇ、セシリア。あの法術お願いできないかな。シャボン玉のやつ。」

「?しゃぼん・・・ああ、ハナキリンの崖で使った法術ね。構わないけど。エル、あなた全然動けなかったじゃない。やめておきなさい。」

「いや、多分、平気。」エルがハッタリを言うとは思えなかったし、見栄を張って得する場面でもない。それを考えると少し期待が膨らんだ。森を属性とする法術『名も無き木陰からの胞子』が発動される。エルの回りにしゃぼんができる。ありがとうと微笑むエル、そして、地上と変わらぬ身のこなしを3人の頭上で見せるのだった。お化けでも見てしまったかのような3人をよそにエルは2本の剣を抜き、クリアンカに視線を送った。クリアンカも羽を広げ宙へ昇る。まずは相手の出方を見ましょう。クリアンカの言葉に従うエル。馬手の館、対魔族ミカガミ、開戦。

 スゥ、とgateが閉じた。


 クリアンカとエル、一気には近付かない。ゆっくりと旋回しつつかなりの上空から魔族の具合を伺う。ミカガミは動かず下を向いたまま。陸地にいた時にははっきりと見えなかった魔族の姿は一層細く、小柄で、とてもとても強者という単語は当てはまらない。剣を向けることにも罪悪感を覚えてしまう位だったが、そうも言っていられない。エルとクリアンカはそれぞれ逆方向に魔族を中心に据えて円を描く。ゆっくりと半周して合流し、そのまま再度離れ、最も距離を隔てた地点で回転を止めた。仕掛けたのはエル。素早く2、3度レイピアを振ると細剣に呼応して風の刃が魔族へ飛んでいった。それをあっさりとかき消したのは立ち昇った水柱だった。皆が思っていた通りの展開、水を操る魔族。水属性の法術に長けた魔道士といったところか。相手の間合い、それは恐らくこの湖を指すのだが、そこで戦えばこれだけ広大な湖だ、圧倒的に不利な条件下でかち合うことになる。とはいえミカガミが湖の中央から動くことはないだろう。この一戦の喉首は2人が敵に近付けるかどうか。それを確信したエルとクリアンカが飛行速度を急激に高めていった。

 いくら器用なエルとはいえ、しゃぼんに包まれた時間は浅い。空を飛んだのは初めてではないが、さすがに空中ではクリアンカの方が軽快な動きが可能だった。立ち昇る水柱を回避するので精一杯のエルに対して、さらに反撃の機会を伺うクリアンカ。水柱の発生から自分に到達するまでの時間、直線と曲折時の速度の違い、水柱からの派生攻撃の有無、魔族の動作と法術発動の関係、また、槍で受けることでその威力も確認済み。恐るほどの法力ではないと判断できた。眼鏡の位置をなおす際の3本指。クリアンカの左手に雷が宿る。この戦い、初めて攻守が転じた。

「水には雷、昔からそう決まっているのです。飛雷針(ひらいしん)!」クリアンカ周辺で発した八本の槍、無論属性は雷、頭上からミカガミ目掛けて一気に降下した。

「未熟。」対して魔族の周囲からは新たな水柱が発生、その形(なり)は虎。クリアンカの砲術は虎の姿をした水柱にあっさりと呑み込まれ、水虎達はそのままクリアンカ目掛けて襲いかかった。

「甘かった、向こうも様子見でしたか。こりゃ、法力では勝負になりませんね。」機敏な動きで2度、3度と虎の牙を交わすクリアンカだったが、何度目かの追撃でついに捕まってしまう。槍を両手で支え喰われんと踏ん張り踏み留まろうとするのだが虎の進撃を抑えることができず、意図せぬ方向への後退、蛇行を余儀なくされていた。弾き返すにはやや時間がかかる、他の虎に囲まれると厄介だな、体と共に脳が活性化する。しかしクリアンカの頭に打開策が浮かぶよりも先に水虎は形を崩して湖へと落下していった。エルが先端部分の虎ではなくゴムのように伸びきった水柱を刺突すると、水の法術はいとも簡単に効力を失ってしまった。

「ありがとうございます。助かりました。」クリアンカがエルに近づき礼を述べた。ニコリと笑うエル。

「多分法力が強いのは水柱の先だけ。それ以外の場所に法力はほとんど感じられない。水柱が上がっている時に触ってみたけど、問題(なんとも)なかった。そこを断ってしまえばただの水に戻るみたいだ。エルがサラリと検証結果を報告した。」

「エル、あなたは見かけよりも随分と戦いに慣れていますね。正直驚いています。あれだけの攻撃の中、しかも慣れない浮遊法術を纏いながら。」エルの観察眼に驚きを隠さないクリアンカ。実際エルの分析はほぼ正解だった。

 その後はしばらく膠着状態が続き、エルのしゃぼんが消えそうになった時をきっかけに2人は一時陸地へ引き返した。ミカガミも追い討ちをかけることはなく、水音の消えた静かな作戦会議が行われるはずだった。予定を崩したのはセシリア。エルにしゃぼんをかけ直すと遠くの魔族を正面に捉えた。

「クリアンカ、覚えておくといいわ。水には雷じゃない。昔から水には火って相場が決まっているのよ。」クリアンカに口受したセシリアはロッドを構え、エルやオルガには馴染みのある法術を唱えた。

「フレイム・オーケストラ!」無数の火球があっという間に魔族を取り囲んでしまった。ユラリ・フラリとフワ・プカ揺れながらミカガミに狙いを定め、凄みを利かせていた。

 

 属性とは古の摂理。自然の理法。強いて言うなれば古臭いながらも反論を許さない法則。逆らえぬ瀑布。だがしかし、ここに魔族の力が加わると事情が異なってくる。属性が気休め程度のさざ波へと変化する。要は魔導石の力とその者の法力なのだ。・・・さてと、必要以上の法力を用いることもあるまい。相殺にて十分事足りる。


 数多の火球が魔族に向かって次々と降り注いだ。火球の対象者がゆっくりと杖を振り上げる。すると湖の水が舞い上がりミカガミを小さく囲う。セシリアの放った法術に対しての防御壁。水の属性から火の属性を掻き消しにいくことはなく唯々迫り来る炎球を迎え続けた。やがて湖の中心からは魔族と水の障壁を匿う白煙が立ち昇り、4人の視界を遮ってしまった。

 陸地、セシリアに最も近い所で腕組みをして見守るオルガ。煙に吸い込まれるように空を舞って再び戦いの場へ戻るエルとクリアンカ。攻撃の最中であるセシリアは炎球を半分程打ち込んだところで手を止めた。理由は明確、手応えに乏しかったから。すぐに溶け始める煙幕。現れたるは水の結界と独りの老人。果たして残りの火球を打ち込むことに意味があるのだろうか、セシリアに生じた迷いを見透かした魔族。ミカガミが杖を振り上げると戦局が動いた。攻守が切り替わった。

 湖上を渡る風が細かく震えたかと思うと水面にプクリ・パカリとマグマに現る大振りの泡が沸いた。気配の変化に空飛ぶエルとクリアンカが気を引き締める。法術の唱え方は人其々異なる。例えばセシリアは気合一閃大声を張り上げて発動するのだが、ミカガミは対照的に表情ひとつ変えることなく、口を開くこともなく、杖を振り上げるだけ。それに呼応して湖から水でできた虎が魔族の周囲から幾匹も吹き上がってきた。水虎達は空に浮かび上がると転々としている火球を瞬く間に呑み尽くしてしまった。まさにあった言う間。

「あ~~~、あのバカ虎共!」っという間に湖を紅に染めてきた不知火の色彩が飲み込まれ、騒がしくはあるものの彩色は落ち着きを取り戻した。穏やかでないのは空中で虎に囲まれてしまった2人。地上では滅多に背後を取られることのないエルだったが慣れない空の戦いに動きと頭の回転が鈍ってしまったのか、何の抵抗をするでもなく魔族の目論見通りに事が運んでしまった。

 水虎がエルに躍りかかる回数が増えてきた。寸時もゆるがせにできない。エルのしゃぼんが再び消えかかっていた。エルもクリアンカも虎をよくよくいなしていたが反撃へ転じるまでには至らず。さらに空での戦いに不慣れのエルは次第に水虎と取っ組み合う時間が増えていった。自力で追っ払うこともあったし、クリアンカが側面から切り裂くこともあった。かろうじて、魔族の法術に対して一方的に押し込まれてしまうということはなかった。ただしエルの時間制限についてはミカガミも抜かりなく気づいていた。水虎の攻撃は湖と陸地を分かつ壁となるように、殊にエルが待ち人の下へ近づけぬよう巧みに誘導されていた。エルにはさほど焦った仕草はなかったが、穂歌の3人は気が気でなかった。確証はないが湖の水を自在に操る法術師、湖へ落下すれば一溜りもあるまい。しかしクリアンカは手一杯。手が空いているのはオルガとセシリア。メサイアは2人に絞られた。

 館のgateを潜って初めてオルガが大剣を抜いた。左にスカーレット、右にドラグヴェンデル。普段であればどんな戦いの時も間抜けなまでにニヤついてどこか楽しげに構えるオルガが、大きく息を吐きだし自らを落ち着け顔は真剣そのものだった。隣のセシリアもロッドを構えるが、その表情も緊張の色が濃い。もしも攻撃に失敗してエルを湖に落としたらただでは済まない。どうにか隙を作らなくてはならなかった。エルが陸地に戻れるだけの空隙を。その為にここから攻撃を仕掛ける、が、魔族は当然塞(せ)き止めにくる。煩わしい水の法術によって。どうにかして接近戦に持ち込まねばならない、そうすれば勝機が見える、どころではないのだ。先ほど開いたクリーチャーエンサイクロペディア。ミカガミのランクはA。法力はSクラスの一方で肉弾戦のレベルはDクラス。エルやクリアンカ、もちろんオルガもだが、一太刀でも、それこそ一矢報いることができればミカガミを一蹴することができるだろう。たった一撃。それをこの上なく難解にしているのが馬手の館、この戦場だった。水の法術に刹那の空白を。

 オルガとセシリアが同時に攻撃を放った。玉響の隙を作るべく、エルの逃走経路を確保する為に。‘till the end of the spiral!’二刀の大剣から繰り出された遠距離攻撃と法術士の一発。セシリアの選択した法術は湖上に立つ魔族が放つものと同じ属性、水の法術に細工を施した反抗。『氷結秋水』。それは巨大な氷柱(つらら)。槍や剣といった美しく整った形ではなく、どこぞの氷山の一角を召喚してきたとのではと思わせる野性的な外見をしていた。ひとつは螺旋、ひとつは傲慢なまでに直線を描き、二つ並んでミカガミに向かっていった。陸地から湖上の目標地点までは距離がある。路程は長いが、どうにか届けなくてはならなった。

 魔族に焦る仕草は見られなかった。杖を軽く振り上げる。すると湖から水の巨壁が立ち上がり、オルガとセシリアの遠距離攻撃を防ぎにかかった。1枚ではない。3枚、4枚の防御壁が魔族と陸地の間に割って入る。オルガの剣撃とセシリアの氷柱が1枚目の水壁に挑み、あっさりと撃破。2枚目、横向きに水飛沫が上がり、破壊。ただし、氷柱が欠けた。音もなく水の壁に飲み込まれた。欠けたといえば微々たる損傷に聞こえるが、氷山の一角と紛う氷柱の先端が破損すればその威力は激減する。瞬間的にセシリアの表情が曇った。水壁3枚目、セシリアの法術に壁を打ち破るだけの法力は残されていなかった。熱湯に放り込まれた小さな氷塊のように融解、氷結秋水は力尽きた。いっぽうでオルガの螺旋は進撃を止めず3枚目を弾き飛ばしたが、そのspiralは明らかに短く寸詰まり。ラストの4枚目、剣士の気迫が乗り移ったのだろうか。一呑みに干されると思われた螺旋が、実際に飲み込まれたのだが、光を増して水の防御壁に挑み、大力の大半を使い果たして魔族への道を切り拓いた。ただし残されたspiralは至極僅か。螺旋を描くことすらままならない状態だった。

 「ドゥパウ・・・」あ、当たった。そして軽く吹っ飛んだ。湖へと落下するミカガミ。3秒程水中に姿を消したがすぐに浮かび上がり、濡(そぼ)つ体で小さな足場に戻ってきた。溺れたのか高があの程度の攻撃でダメージがあるのか、呼吸が乱れていた。エル、クリアンカ、オルガ、セシリアが戸惑う。期待した通りの成果に混乱を覚える。思考が霞み点滅する。その迷いをいち早く振り払ったのはリリトの戦士だった。3人よりも先に冷静さを取り戻し、今の攻撃の目的を思い出し、次に為すべき行動を啓示した。

「エル、早く姫の所へ。法術が切れてしまいますよ。」エルは目の焦点を取り戻すと頷き、セシリアの待つ陸地へ飛んでいった。陸に3人。湖に独り。空中に独りと、幾匹もの水虎。空を降りる前にエルはクリアンカに言葉を残した。魔族の注意を引きつけて欲しい、と。

 虎達が照準を合わせる。ゆっくりクルクリ回りながらクリアンカを中心に水虎達が円を描き、隙と飛び込むタイミングを伺っていた。状況はいつしかと逆転。やがてツギツギドンドンカワルガワル襲いかかる水虎達。その全てがクリアンカひとりをターゲットに脇目を振ることなく迫り狂った。しかしながらクリアンカ、空中であるにもかかわらず俊敏な身ごなしで攻撃を躱し、槍で突進を受け止め、側面へ回りこんではこれを破砕した。最初は度肝を抜かれた法術や環境にも慣れてきた。エルに手間を掛けさせるまでもない。これであれば法術を受け流して本体との間合いを詰めることができる。弱り果てそうな魔族、一撃でも余りある。クリアンカに余裕が生まれ次の段階へ踏み出そうとした時、有翼の戦士よりも先に動いたのは老いた法術師だった。

 不意に周囲の水虎が動きを止めた。しかしクリアンカは水の静止に乗じることができない。緩やかに一箇所、クリアンカの正面に集うと水虎は巨大な水竜へと姿を変えた。意外なまでに円滑な合体、不覚にも見とれてしまったクリアンカ。虎から竜への変化と共に、発せられる法力が数段上昇した。

「そう、きましたか。ならば・・・」クリアンカの目付きが変わる。グァプンと翼を1度羽ばたかせると、双翼が一回り大きくなった。その力も。眼鏡の奥に優しい瞳は存在しなかった。鋭い眼光が竜と魔族を一直線に結んでいた。

「上等だ、クソジジイ。真っ逆様に沈めてやろう。」クリアンカと水竜の一騎打ちが繰り広げられる、かに思われた。迫り来る巨大な水竜。真っ向から受け止めるべく重心を落とし猛襲に備えるクリアンカ。頭突きか噛み付き以外に脳のない攻撃、法力が上がったとはいえ敵は正面の一匹、虎だろうが竜だろうが恐れるに足りない。強襲する水竜への準備は万端、そう思っていた。突如巨大な水竜から枝分かれする幾匹もの細長い水竜達。やや高音の雄叫びを上げながら上方、下方、前方、後方、そして側面。空中ならではの全方位型強襲。掌の淡雪を握り潰すかのようにクリアンカを飲み込まんとするのだった。対するクリアンカ。槍の構えを解き、左手3本の指で眼鏡に触れるのだった。そして。

 「雷破(らいは)。」低く落ち着いた声と共に、クリアンカの全身から放射される浅葱色の靄(もや)と電光。突然の発光に魔族も含めた皆の目が奪われた。時の間の全方位型反撃。空舞うリリト、天空の戦士を見くびるなよ。地上よりも死角の増える空において全方位型の攻撃と防御はいわば基本中の基本。雷を属性にもつ法術『雷破』。稲妻が遠方まで届くことはないが体全体から発せられる雷撃。リリト族にとっては護身の為に備えるべく最低限度の盾に他ならなかった。数匹の竜は単なる水に姿を戻して湖へ落下、その他の竜は稲光と眩さに動きを止めていた。


 静止した時の中で唯一駆け出す者がいた。それはエル。助走をつけて陸地から魔族目掛けて跳ぶ。湖面スレスレ、超低空。くるぶしには風の翼。その手には風のレイピア。風の人が目にも映らぬ速さで、けれどもやはり重力には抗えない。魔族までの距離は3分の1程残っている。ミカガミまで届かない。そして魔族が察知する。エルの足が湖に触れ、頭上からは一匹の水竜が急降下していた。

 jokerは隠し持っているからjokerなのよ。奥の手は残しておくことに意味があるの。最後まで使わず結果として日の目を見ないもの、それが切り札。私は、エル、できればあなたの・・・あまり、見たくない。

 セシリアの願いが胸を締め付けた。1年前の記憶が蘇る、というかあの日のことを忘れたことはないし、今でも時々夢に出てくる。今後も消えることのない傷跡として脳に刻まれ続けることだろう。決める。一撃で敵を討つ。それにねセシリア、引き出しも少し増えたんだ、だから、心配しなくていい。


 とはいえ、緊張しながら右足を踏み込むエル。法術師にも緊張が走る。足を落とす先は湖。さすがのエルでも湖を飛び越えることはできない、風の力を用いても。魔族まで辿り着くにはどうしても水に脚を踏み入れる必要があった。上空からは水竜が迫る。沈めば一気に喰われるか。けれどもその心配は杞憂に過ぎなかった。手応えならぬ足ごたえアリ。セシリアの法術によって足元の水は氷へと姿を変えていた。エルが氷上で一歩踏み込むと、あっさりと水竜の目の前からエルは姿を消した。そして次の瞬間には魔族を貫いていた。

 陸地から助走をつけて水面スレスレを征くエル。中間地点は超えるが、魔族までは到底届かない。右足を踏み込む。くるぶしに羽の生えた右足を水面に、否、そこには氷の足場が出来ていた。セシリアが法術で作り上げた即席の足溜り。下落する速度と体を支える命綱。そして勝機を見出す希望の浮氷。水竜の眼前から姿を消し、ミカガミが防壁を紡ぐ前にエルのレイピアが魔族を貫通していた。

「見事・・・」耳にした最初で最期、ミカガミの声。エルを讃えた声かセシリアに対する敬意の表れか。まずはミカガミが湖に落ち、続いてエル。さらにはクリアンカを包囲していた水竜達が姿を崩し飛瀑(ひばく)が懸かった。エルの沈んだ場所にも容赦なく降り注ぐとクリアンカが急降下、地獄と相違なかった湖に突っ込む。そしてすぐさま、エルを担ぎ上げるのだった。エルに肩を貸し、濡れた翼で浮かび上がる。エルの右手には細剣と魔導石、左手には杖が握られていた。

 馬手の館、攻略。

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