第2章 ~ 想い 過去の遺物
第2章 ~ 想い
【過去の遺物】
今も昔もこの地ヴィルガイアには3つの大陸が存在する。北部に位置するヴェルハウゼン、西方のメルヴィル、南東に浮かぶヴィンタートゥール。付け加えれば、この3大陸に囲まれる孤島ヴェルフ・ヴァン・リンスヴィル。この内、エル、オルガ、セシリアの3人が巡りあった場所はメルヴィルの一角。ヴィルガイアにおいて最も人間の多い、換言すれば最も人の住み易い大陸がメルヴィルであると言われている。それは人間にとっての外敵が相対的に少ないことを意味する。一方でこのメルヴィルを人間にとっての牢獄と考える者もいる。人間の戦力を極力抑制する為に適度なレベルの魔族と魔獣が送り込まれた大陸、それがメルヴィルであると。必要以上の戦力を人間は必要としない。強さを求めはしない。平和に憧れ平和を夢見る限り、人間はいつ滅んでもおかしくない道程を歩んでいるのだ。
オルガの足音が遠ざかって間もなく、沈黙を破ったのはエルだった。洞窟でセシリアが開いた魔族の情報に特化したクリーチャーエンサイクロペディア、それを見せて欲しいと。斜交いに座るセシリアは無言で本を出すと、エルへ差し出した。エルがゆっくりと、しかし滞ることなくページをめくっていく。書かれている情報に目は通していない。魔族の容姿だけを確認しては先へ進む。セシリアは黙って、どこに焦点を合わせる訳でもなく見つめている。そんなセシリアが暫くしてエルへと視線を上げる。エルが指を止めたからだ。こいつだ、エルは自分の目的を改めて胸に誓う。自分の意思を捻じ曲げられないように。
小さいながらも緑が豊かで、四季の移ろいが美しい村だった。その村の中心部、百合と桜の木々に囲まれた広場でが子供達が駆け回り、老人が憩い、犬猫が微睡み、小鳥が囀り、若者が微笑み、草花が揺らめく。太陽を受け入れ、風が流れ、小川が煌き、男の子が笑い、女の子も笑う。冠婚葬祭には村中の人間が集い、喜怒哀楽を共にする。経済的には決して豊かではない、その年の収穫に恵まれなければ確実に辛く苦しい冬を迎える辺境の地ではあるが、村中が家族とも言える程に皆の距離が近しい世界だった。しかしながらこの村でも魔獣との接触を避けることはできない。村の外で魔獣を見つけることも珍しいことではなかった。ご他聞に漏れず村には結界が張られ、結界師の育成にも余念がない。男子には武術の鍛錬が課され、当然エルもその1人である。そんな村に魔族が飛来する。空舞う魔獣を従え、低レベルな結界などガラス戸の如く一瞬で粉砕した。
エルの育ての親であり、剣の師でもあるカイツ。かなりの歳を重ねてはいたが、エルの師というだけあって剣の腕は見事、現役のエルを優に凌いでいた。エルに魔導石の使い方を教えたのもカイツだった。突然襲来した魔族を前に、最前線で剣を振るうカイツとエル。そこでエルは老成された師の強さを改めて知ることとなった。カイツは魔族の突然の襲来に対して全く戸惑うことなく、まるで予期していたかの如く戦いに身を投じる。エルが考えていたよりも、生活を共にし鍛錬を共にし、ほとんどの時間を共有してきたにもかかわらず、カイツはエルが感じていたよりも遥かな力を秘めていた。エルもこの村ではカイツに次いで腕の立つ戦士。同年代の若者よりも、カイツより若い熟練の剣士よりも強かった。そのエルが足元にも及ばなかった。味方、それも最も身近な人間の描く剣技に恐怖すら抱いていた。
カイツは人的被害を少しでも食い止める為、魔族らを広場へと誘導した。魔獣達の親玉である、遠めに見てもその神々しいオーラを纏う魔族は笑みを浮かべながら誘われるがままに導かれた。もちろんエルらも広場へと従う。しかしながら、カイツにとっての十分な戦力補強にはなり得なかった。そしてその必要もなかった。カイツは降り注ぐ有翼の魔獣を次々と撃破していった。傍から見ているといとも簡単に。次々、次々と太刀を浴びせては絶命を与え続けた。一方、魔獣同様、空に位置する魔族。下僕の魔獣共に命令を下し、村の壊滅を謀るものからは直に笑顔が消え失せた。その表情が人間の勇者へ向けた怒りと憎しみに埋め尽くされていく。魔獣の数はおよそ300体。絶望的な数字ではなかった。むしろカイツの赫々たる強さに希望の光が輝きを増していた。そんな時だった。短兵急に放たれた光芒と爆音。幾重にも綴られた青白く、微かに美しい閃光と空嘔を催すほどの残響によって、戦士達の表情が一変する。戦火に耐えて茂っていた緑は消失し、魔族の周囲を浮遊していたガーゴイル、ハーピー、ワイバーンの類までも殆どは絶命していた。それら魔獣の死骸、というよりもその破片、身体の一部が地上へと降り注ぐ。気色の悪い降雨を避けることもせずに、呆然とその力の差を認め始めたエル。そんなエルの肩にふと手が掛けられた。はっと振り返ったエルの目に飛び込んできたのは幼馴染で、エルよりも2つ年上の女性シンシア。シンシアはエルに向けて 萎れた精一杯の笑顔を手向け、すぐにやや遠方のカイツと視線を合わせた。頷くカイツに、涙を堪えた微笑で頷き返し、エルの手を引き後方へ逃げる様に走り出した。動じるエルからの質問には一切答えない。耐え兼ねて手を振り解こうとしたエルに対して一言だけ、お願いと伝えるのだった。
連れて行かれたのは普段使用されず、幼い頃から近寄ることも禁止され、固く閉ざされた古井戸だった。地下へと梯子も下ろされていて、まるでこの日のことを予言していたみたいに周到な準備が施されていた。梯子を伝い、そこから続く短い地下道の終点には転送装置が据えてあった。ほぼ無言でエルを機械の麓に立たせるシンシア。2人は何一つ別れの言葉を交わせなかった。エルが何かを言おうとした時、シンシアは既に装置を起動させていた。そしてエルの体が空高く浮かび上がったかと思うと、次に気が付いた時には全く知らない土地に立っていた。その残酷な転送。空を舞った一瞬、エルの目に焼き付けられた光景は魔族の姿と、血に塗れてひれ伏すカイツの姿だった。この時点で魔族を追い返せる勝算は皆無となった。
駆け足、一瞬、刹那の間にエルは昔を思い出し、振り返った。
オルガとセシリアに詳細は話さなかったが、クリーチャー・エンサイクロペディアからターゲットの名前は知ることができた。『シュクリスを殺す』。これがエルの目的であり、自分には打倒とする魔族がいると話すと、3人の目的として共有された。エルに話を聞かされたオルガは二つ返事で承諾したが、セシリアは散々にごねていた。シュクリスとは随分有名な魔族のようで、オルガもその名を知っていた。セシリアはシュクリスの名も知らなかったエルに文句を言い、知っているにもかかわらず容易に戦いを挑むとしたオルガを弁難した。男2人の思いは決して覆らないと分かっていながら。セシリアはシュクリスの居城を教える代わりの交換条件を突き付け、エルとオルガから了承を勝ち取った。ちなみにオルガは、セシリアから執拗に咎められている際にひたすら押し黙って聞いていた。一言も反抗しなかった。抵抗しなかった。お前がついて来なければいいじゃねェか、とは言わなかった。それは、シュクリスの居城を知っているのがセシリアしかいないから、だったのかもしれない。
「地図も持っていないなんてどういう神経しているの。信じられないわ。どうやって今まで旅してきたの。勘、勘なのかしら。そう、きっとドタバタとした出発だったのね。でもね、いくら準備する時間がなくたって地図くらい用意できるわよね。だって地図がなくちゃどこに向かっているか分からないものね。ああ、そうか、元々目的地の場所もはっきりしていないんだっけ・・・」セシリアが自分の問いに自らテキパキ答えていくのをオルガはタバコをふかしながら、エルは一点を見つめながら聞き流していた。
「ここがクルヴィの森があった場所。」トンと指で地図を叩き、クルルと赤印で囲む。エルとオルガが初めてセシリアの説明に耳を貸す。
「山を越えて南下するのが1番早いんだけど・・・モノには順序ってものがあるんだから。聞いてる、エル。」エルはクルヴィの森を南下した一点から視線を逸らさないままコクリと頷いた。それを確認したセシリアが続ける。
「まずはここから南東へ進んで、リンツの塔を目指す。ここはゴーレムの住処とされている所。とりあえずはこれくらいクリアできないとお話にならないわ。そのあと街道を通ってグラーツ城へ。ここで一息つけるでしょう。装備品も整えられるかもしれないし。随分と立派なお城って話だしね。そこからさらに南下してザイアースベルグに向かう。ここがどういう所か、オルガなら知っているんじゃないかしら。」
「まぁな。嘘か本当かは分からんが、妙な噂は聞いている。この辺りじゃ有名だからな。アンデッドの住む町ってのは。」2本目のタバコに火をつけるオルガ。
「腕試しには持って来いでしょ。そこを抜けて西に向かえばシュクリスの居城よ。分かったかしら。」
エルは再び頷いたが、オルガは1つ条件を申し出た。グラーツ城で時間が欲しいと。エルもセシリアも反対はしなかったが、セシリアが提案する。何ならガレオス城に立ち寄ることもできると、グラーツ城からは決して遠くない距離だと。しかしながらオルガは、この提言に首を振るのだった。
オルガを先頭にエルが続く。少し距離を置いてセシリアが道無き道を歩いていく。小さな村では馬匹を手に入れることもできず、一歩ずつリンツの塔を目指すことになった。セシリアは2人の歩行スピードについていくことはできなかったが、文句や嫌味を持ち込むことはなく、ペースを落とすよう依頼することもなかった。一方のエルとオルガも気持ち歩度を緩めていたかもしれないが、それでも、黙々と目的地を目指した。優しい素振りを欠片も現さないと同時に、足でまといだという感情も一切表さなかった。セシリアはその心遣いに感謝しながら、歯を食いしばって必死に食らいついていった。
中途数える程の魔獣を男二人で蹴散らし、一行はリンツの塔へ到着した。野宿や宿営地で宿を取りながらではあったので疲労が皆無とは言えないまでも、戦えない状態ではなかった。
「さてと、さっさとゴーレムさんをぶっ倒してグラーツ城へ向かうとしようぜ。酒も飲みたいし、煙草も切れそうだ。」意気揚々と突き進むオルガとそれに続くエルをセシリアが慌てて呼び戻す。
「ちょっと、ちょっと。ゴーレムは聖獣よ、守護獣、ガーディアン。退治してどうするのよ。」
「へっ?」振り返る野郎2名。
「ったく、何にも分かってないんだから。いい、よく聞きなさいよ。」セシリアは腰に両手を当てて説明を始めた。
「要はゴーレムの額(デコ)の石を壊せばいいんだろう。結果的にぶっ倒すのと変わらんじゃねェか。」
「気持ちの問題よ、気持ちの!」2人のやりとりを聞きながらエルはにやにやと笑っていた。
本来は魔獣や魔族に対抗する手段として、人間の手によって造られた聖獣。物質に魔導石を埋め込み、できる限り人的被害を抑えようとした兵器。革新的対抗手段として期待されたが、幾星霜も昔に聖獣を作り出す技術は廃れ、聖獣の多くが封印されてしまったと言われている。
「いいのかよ、そんな神様みたいのにケンカ売っちまって。」
「ケンカじゃなくて試練よ、シ・レ・ン!言ったでしょう。ゴーレムに勝てないようじゃ、シュクリスにケンカを売るなんてできないからね。」エルは分かったと頷き、リンツの塔へと足を踏入れた。
神徳と聖光を感じながら塔を昇り行くセシリア。聖獣に関してはエアルから話を聞いていた。エアル達が現役で戦っていた頃よりもずっと前に作られ、魔族に対抗しうる秘密兵器として期待されながらも今では守護神。守護神と言えば聞こえは良いが御守り程の役にしかたっていない。多くの聖獣は魔族、もしくは人自らの手によって破壊され、活動を停止した。残された数少ない聖獣は勇者に加護と試練を与える存在として奉られていた。謎は多く調査すべき点は多々あったが、力になってくれるべき存在である。ちなみにエルとオルガは、神徳と聖光とやらを一握りも感じ取ることはなかった。
石で作られたリンツの塔。その色は灰や茶、黒ではなく白に近かった。ただし醇正な白に溜息ほどの黒インクを混ぜ合わせた新聞紙の様。永い間人の立ち入った面影も、魔獣の棲みついている跡もなかった。今度は一緒に歩を進める3人は、間もなく、最上階に安置されて聖獣を、その巨大な石の怪物を見上げた。塔の天井に頭がぶつかりそうな大きさなのだから、もしもこのゴーレムが五体満足の状態であればこんな小さい塔の、小さな一角には収まりきらないだろう。ましてや動き回れば塔自体が無事に済むわけもないが。周囲よりも黒み掛かった全身、否、上半身と2本の腕が、岩を繋ぎ合わせてできたゴーレムが、3人の気配に反応して2つの瞳を開けた。少しの前触れもない、突発的な開戦の合図だった。
聖獣ゴーレム。冒険者の勇気と戦闘能力を試すもの。残忍非道な魔族と対峙しても命を接ぐ可能性はあるかどうか。魔族へ戦いを挑む資格があるかどうか。命を落とす前に身を以て推し量るべし。
破壊された両足の為にゴーレムは移動できない。だから攻撃の届かない距離を保って安全地帯に位置すれば、石の拳骨を受けることはなかった。突然に開戦してからもじっくり作戦を練ることができた。焦ることはない。間合いをとって隙を伺い、額の、いわゆる第三の目があると言われている場所の浅紅石を壊せばゴーレムの活動は停止する。予定通り事が進めば危なげなく試練を終えられるはずだった。しかし残念なことにそんな思惑は外れ、石飛礫が次々と放り投げられるのだった。エルは攪乱の意味も含めて動き回り、オルガはセシリアの前に立ち、盾の役割を果たした。もはや手順も作戦もへったくれもなかった。石を放り投げるというよりは、振り回す両腕からどんどん石が剥がれ落ちていく感覚だったが、スピードは速く、狙いも定められていた。
「エル、飛び込めそうか!?」オルガが飛び回るエルに問いかける。
「やってみる。」エルが徐々にゴーレムとの距離を詰めていった。ゴーレムはエルのスピードについていけず翻弄される。両の腕は空を切り、石飛礫は見当違いの方向へ放たれている。エルが聖獣ゴーレムの挙措進退を見切っていることはセシリアの目にも明らかだった。そしてエルの攻撃がゴーレムの額の石を直撃したことも目視できた。オルガの目にはエルの突きが十三発、ゴーレムの朱い第三の瞳を連撃したのが見えていた。刹那、広々とした水面に小石を静かに落とした時に広がる波紋が幾重にも空間を通り抜けた。思わず手で払いの退けるか、身を縮めてしまう輪っかはエルを通り抜け、オルガとセシリアを通過し、背後の石壁にて弾け飛んだ。しかし誰も背面を振り返らない。細剣を正視するエル。野分のレイピアは刀身が砕け、ゴーレムの瞳は無傷だった。
やや険しい表情で聖獣と散った細剣を交互に見遣り、ドラグヴェンデルへ持ち替えようとするエルを静止するオルガ。代わろう、と。オルガ自身も既にゴーレムの動きは見切っていてエルほど華麗にとはいかないが、踏み込める目処はついていた。エルとオルガの位置が静かに交錯する。オルガは躱しきれない石飛礫を大剣で弾きながらゴーレムに接近し、振り下ろされた巨腕を避けて飛び上がった。天井に足を着き、浅紅石に向けて突撃するオルガ。‘the lightning to a mole’。響き輝く閃光と轟音。セシリアは大きく揺れる髪の毛を片手で抑えながら戦況を見届けた。エルは乱れる髪もそのままに、複雑な心境で待機する。ゴーレムの額の石は音もなく、いとも簡単に砕け散り、間髪入れることなく本体は大量の砂と化していった。お見事と、口元を緩めて腕組みをするセシリアを置いてエルは、そのカラクリを探るべくオルガに近付いていった。確かにパワーは自分よりも圧倒的にオルガの方が上。それに異を唱えるつもりはないが、それでもあまりに容易に石を破壊したように見えたのだ。
エルの腑に落ちないといった表情に気が付いたオルガはニカッと頑丈そうな歯を見せながら種を明かした。目には目をってな、と。ヒョイと持ち上げた大剣の先には先程まで散乱していた石飛礫の砂が、文字通り粉々になって付着していた。ダイアモンドを削るにはダイアモンドを使う。聖獣の石を壊すには聖獣の石を利用するのが最も確実。オルガは言葉を発することなく、エルに伝えた。
オルガとエルでは経験値に差があった。セシリアは言わずもがな。ゴーレムが唯の石で作られていないことは理解していなければならなかった。レイピアが砕けるまでに一三発。その前に剣を止めるべきだったのかもしれない。そもそも聖獣として崇められ、魔導石の力を付与されていた。飛んでくる弾岩を退避して満足している場合ではなかった。触れて、感じて、探り、見定め、考え、決断、実行する。全てとは言わないまでも、その多くを怠っていたエル。その代償に愛刀は使い物にならなくなってしまった。
カイツから「野分のレイピア」を授かった時は嬉しさよりも恐怖が勝った。ようやく一人前として認められたという優越感、達成感、満足感、幸福感、充足感、そして自尊心。しかしこれらを一蹴するように、カイツは命の話を延々と続けた。その晩、まだ幼かったエルは大きく、重た過ぎるその細剣と一晩中向き合っていた。
これは魔族の命を奪うもの。魔獣の命を奪うもの。動植物の命を奪うもの。命の遣り取りを仲介する道具。それを携えているということは、自らの命を賭けて相手の命を奪う意思があるということ。己の全てを尽くして大切な人間、仲間の命を守ろうとする。たとえ他人の命を削り取る結末に至っても。他人の命を奪うということは、その者の時間を砕くだけでは終わらない。その者を慕っていた者、頼っていた者、可愛がっていた者、信じていた者、育てていた者、嫌っていた者、憧れていた者、目指していた者、愛していた者の一部を殺すということに他ならない。加えて肝に銘じるべきこと。それは決して死んではならぬということ。自分が死ぬということは、自分を支えてくれてきた人間を裏切り、欺き、悲しみに時間を浪費させる。殺す覚悟と生き残る勇気。奪う覚悟と守りぬく勇気。剣を握る覚悟と再び収める勇気。
剣に慣れ、戦いに慣れ、残念ながら命を狩り獲ることに慣れてしまったエルは、久しくその日の事を忘れていた。カイツからの片言隻語を忘れていた。結果として慢心を生み、警戒を怠り、愛刀を失う羽目になった。エルは折れた細剣を鞘に収め、セシリアはゴーレムに埋め込まれていた石、「聖護符の魔導石」を目敏く拾い上げた。エルは2人に落胆を悟られないよう努めて普段通りを装い、グラーツ城へ向かうのだった。
結界を抜けると噂通り、賑やかな城下町が広がっていた。3人がグラーツに着いたのは夕刻、慌ただしい時間帯ということもあったが、心地の良い華やかさに3人は胸を撫で下ろした。旅と戦いの疲れを癒す為にまずは宿を目指す。中途、どんな店があるのか探りを入れながら、活気に満ちた城下町を、殊更セシリアはキョロキョロ・うそうそしながら闊歩した。そしてそのまま宿へ安着かと思われたが、何事もなく到着することを期待していたのだが、男2人が目を丸くする出来事が展開された。
道中で手に入れた幾つかの魔導石。魔獣を倒すと希に手に入るものだから片手で数えられる程の数量だし、魔族を倒した訳ではないので質も決して高くない。唯一、ゴーレムから手に入れた「聖護符の魔導石」がそれなりの力を秘めているようだが、相性が芳しくなかったからだろうか。セシリアは不要な魔導石を全て売り捌いてしまった。その際、店主との交渉に一切の妥協は無し。極限まで売値を高めていた。見事な交渉力、強引さ、時に色気まで駆使しながら男主人をメロメロのヘロヘロにしていた。エルとオルガは距離を置いて他人のふりをしていた。
「なぁ、他の石ころはともかくとして、聖獣の魔導石まで売っちまって良かったのか?」オルガがセシリアに尋ねる。
「エルも私も相性悪いんじゃ、持っていても仕方ないわ。それに低級魔族の魔導石だけじゃほとんどお金にならないしね。締めて300,000ピゲスか。まぁ、こんなもんかしらね。」ついこの間まで森の木々に囲まれ、大樹と心を通わせて生活していたとは思えない慣れた手つきでペリ・ペリ・ペリと金勘定を行うセシリア。そして50,000ピゲスづつ小分けし、はい、とエルとオルガにそれぞれ手渡した。オルガが間髪いれずに不満を口にする。
「ちょっと待て、随分と少なくねェか。」
「デカイ図体して小さいこと気にしないでよ。どうせ男共にお金を渡したってギャンブルに注ぎ込むか、下らない玩具(おもちゃ)を収集(コレクション)するかでしょう。武器とか防具とか、必要な物以外はお小遣いの中で遣り繰りしてよね。私だって大変なのよ。・・・残り200,000ピゲスだと、一ヶ月もつかしら。まだまだ貧乏ね。やだやだ・・・」ブツブツ言いながら札束を収め、宿を目指すセシリア。
「こ、小遣いって、ガキじゃあるまいし。っつうか、魔獣も聖獣もぶっ倒したのはほとんど俺とエルなんだぞ。」ぼやくオルガが横目でエルを見遣ると、エルは素直にお小遣いをしまい込んでいた。
「俺、小遣いって、もらうの初めてなんだ。」と~っても嬉しそうなエルの表情を見て、オルガは自身の完敗を悟るのだった。
積み重なる皿、皿、殻、空、皿。言わずもがな、その大半をセシリアが築き上げ続けていた。エルは食後のお茶を飲みながら、オルガは宿について6本目の煙草に火を付けながら、麗人の箸が止まるのを待った。もうかなりの時間、待ちぼうけを食っていた。
「オルガ・・・」珍しくエルから話し掛けた。
「グラーツで時間が欲しいって言ってたけど。」
「ほ~ひへぱ(そういえば)-」セシリアもオルガへと視線を移した。
「ああ、そうだったな。それは明日、多分話せると思う。明日まで待ってくれ。」
「はひほ(なによ)・・・ング。もったいぶらずに言えばいいじゃない。」セシリアは口に頬張った肉の塊を飲み込みつつ、次の更に手を伸ばしながら言い放った。
「まぁ、焦るんじゃねェよ。ゆっくりいこうや、いろんな意味で・・・」セシリアは耳を貸しているのかいないのか、あっという間に次の皿を空へと近づけていた。
その晩遅く、エルはこっそり部屋を出た。折れた細剣を携えて。宿の裏手に人気の無いちょっとした岩山があり、エルはそこを弔いの場所に選んでいた。小走りにかけていくエル。目的の所までは5分とかからない。夕方とは違って大通りにも人通りは無し。圧力を感じる静けさの中、岩山の最も高い位置に立つエル。岩と岩の間の土の部分に刃の折れた「野分のレイピア」を差し込む。柄にはセシリアに剣から外してもらった「涼風の魔導石」が紐を通して引っ掛けられていた。膝をついたり手を組んで祈ることはなく、黙って剣を見下ろした。長い間世話になったと。
エルが部屋を抜け出し、扉から忍ばせた靴音が遠ざかると、同室のオルガも身を起こし、窓からエルの向かう先を確認していた。大きめの徳利を片手に立ち、エルの足取りを辿る。ゆっくりと。人気の消えた暗い夜道を、小さな街灯といつもより頼り甲斐を感じる月明かりを頼みに進んでいく。虫の音も消えた闇夜だったが、少しだけ風が出てきた。しかし揺れる草木が無い為か、夜の静寂(しじま)が破られることはなかった。無音は時として恐怖を沸き上がらせる。恐怖の対象がある訳ではない、理由無き恐怖。オルガに対してもそんな恐怖が容赦なく襲う。そしてオルガはふと笑う。声は出さず、こみ上げる笑いを殺すように鼻を擦る。いつの間にやらエルに追付いた。祈りを捧げるエルに。いつからだったか、エルもオルガの存在に心付いていた。
「俺も挨拶させてもらうぜ。」オルガは細剣に近付くと左胸に掌を当て、静かに目を閉じる。何も語らず、深閑とした夜に溶けようとしていた。その姿は以前ガレオスで見せた、服装こそ異なるが、死者へ祈りと捧げ、現在(いま)を生きる者を見守ることを願う姿だった。やがて持参した酒を剣に注ぐ。コツ・コツと地面にも雫が垂れる。酒の音は優しく遠くまで響き、月明かりに共鳴する様に光を放っていた。白い光を発し、2人を照らしながら別れの時を惜しんでいた。
「エル、お前もやるか?」いつの間にかオルガは座して、自分も飲み始めていた。
「うん。」エルも微笑みながら座り込み、共に酒を飲み始めた。少し、慰められて心が楽になった。
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