第4話 夢と現

 あ、だめだって思った。

 着物が重い。息が出来ない。

 そう言えば海に飛び込んだなんて初めてだ。

 水って深くなると全く違うんだ。これは水浴びとも禊ぎともまるで違う。

 深い海はひたすらに恐ろしい。その海の深みへと、私はゆっくりと沈んでゆく。

 苦しくて掴んだ胸元に薫餌くのえの袋があった。

 掴みだし、口をあける。

 薫餌が海に溶け出す。

 苦しい。助けて。

 お願い。

 自分の内側で何かが弾けそうな感触がある。

 苦しい、苦しい、苦しい。

 いっそ弾けちゃえ。

 その時、ふわりと身体が支えられる感触があった。

 竜魚?

 違う。

 これは龍だ。龍眼たつのめで主が結んだような黄色い龍。

 

 依緒音?


 そっと呼びかけると龍が顔を寄せてくる。

 依緒音なんだ。

 いつの間にか息も苦しくない。

 龍の依緒音に柔らかく包み込まれる。

 

 まだ、その時ではない。お休み。


 遠くからそんな声を聞いた気がして、私は眠りの中に落ちていった。



 


 夢を見てる。

 自分ではっきりとそうわかる。

 これは夢

 何色ともつかない世界に始めての色が現れる。

 青、紅、白、黒、そして黄。

 色が分かれた事に従って、様々なものが分かたれた。

 季節、方位、力…

 それらは皆、色を核に絡まりあい、世界に龍が生まれる。

 東と春を司り、畏れを力とする青龍。

 南と夏を司り、苛烈さを旨とする紅龍。

 西と秋を司り、総てを結び、縛る白竜。

 北と冬を司り、整え正す黒龍

 中央にあってあらゆるものを惹きつける黄龍。

 渾沌の内から五色の龍が現れたことで、世界に秩序が現れる。

 最も軽い空は高い所に。

 最も重い地面は底に

 その間には海が。

 地面はなだらかには広がらなかったので、海が打ち寄せる陸が残った。

 これは、世界の始まりの物語だ。巫(かんなぎ)であれば知らない者はない、巫(かんなぎ)でなくても聞いたことくらいはあるであろう物語。

 世界を分ける三つの階層と、世界を彩る五つの色。

 それらの触れ合うところから、次々と神霊が生まれてゆく。生まれては消える神霊のうちから、少しづつ固く結ぶものが現れ、やがて肉を纏った「生き物」が現れる。

 生き物の息吹はさらなる神霊を結び、世界が複雑に豊かになる。

  やがて龍たちは気づく。自分たちが身軽に動き回るには、もはや世界は狭すぎるのだということに。あふれる生命の全てにとって龍は強すぎ、大きすぎた。

 龍たちは揃って四足の眷属を生み、それらが龍の代わりに世界を駆けるようになる。

 龍たちは世界の果てに去り眠りについた。

 青龍は東に、紅龍は南に、白竜は西に、黒龍は北に。

 そして黄龍は世界の中央に広がる海に沈み、地と結びついて島となった。

 龍の眠りからついに人が生まれた。

 人は四方から広がるに連れ、強く肉に縛られるようになり、神霊を感応する力が薄くなった。

 唯一、黄龍の島の人を除いては。

 中でも黄龍の心臓から生まれた一族は黄龍の力である煌(かぐ)をわずかに受け継ぎ、やがて推戴されて黄龍の島を治めることとなった。

 …これは、本当に私の夢だろうか。

 むしろかぐの龍の夢のような気がする。

 龍は眠る。

 世界の果で。あるいは煌(かぐ)の島となって。

 龍の眠りから生まれた人は、世界中へ広がってゆく。

 では、もしも龍が目覚めたら。

 一体何が起こるのだろう。



 

 

 「蜜月みつき! しっかりしろ!」

 頬を叩かれる感触に目を開ける。

 主?

 なんだか主の顔が近い。

 ぼんやりしてるとぎゅっと抱きすくめられた。

 「良かった…どうなるかと思った。」

 身体が重い。

 あ、これはきっと本当に重いんだ。だってなんだかびしょ濡れだもの。

 そう言えば凪海に飛び込んだったんだっけ、と思い出す。

 あ…時間…

 

 大祓は…


 主は抱きしめる腕を少し緩めた。

 「大丈夫だ。まだ夕刻だし。」

 意外と凪海に飛びこんでから時間がたっていないらしい。確かに主の向こうに見える空は、淡い紫色をしている。…ちょっと待って?夕刻?

 私は慌てて身体に力を入れて起き上がった。

 

 大丈夫じゃないです。着替えなきゃ。あ、もしかして湯浴みもいる?うわあ、髪をどうしよう。ああっ、だめじゃないですか主の着物まで濡れてるし。 

 

 どうして祀り用の白衣(びゃくえ)のままでびしょ濡れの人間を抱きしめちゃうかなあ。私のだけでなく主の衣装まで台無しだ。

 主が一瞬かたまって、それから吹き出す 

 「元気そうで何よりだ。まず風呂に入れ。」

 お風呂?

 それはとても魅惑的だけど、そもそもここはどこだろう。

 「お前は津宮の岸辺に倒れていたんだ。それも乙姫の対のすぐそばに。」

 促されて見渡すと、確かにすぐそばに露台の柱が見える。ここ、いつも乙姫様に教えていただくお部屋のすぐ隣だ。

 「依緒音が俺を呼びに来たんだ。それでお前を見つけた。ついさっきの話だ。」

 依緒音…そう言えば依緒音はどこだろう。

 そう考えた途端、小鳥の姿の依緒音が主の肩に下りた。


 依緒音、ありがとう。


 薫餌をあげたいところだけど、全部海に撒いてしまった。あとで予備を取りにいかないと。

 依緒音は首をかしげて私をじっと見ると、主の肩から飛び立った。

 主が私を抱きしめたまま立ち上がる。

 座った姿勢だった私は主に抱き上げられてしまった。

 「大祓は大丈夫だ。兄上が出て下さっている。前の大祓の時はみやこそのものをあけていたんだから、なんとでもなるさ。」

 主にはお兄様が四人おられるけれど、ただ兄上と呼ぶのは東宮様だけだ。

 「蜜月の準備ができれば連れてゆくから、さっさと風呂に入ってこい。」

 主に乙姫様の湯屋まで運ばれると、私は乙姫様の侍女たちの手に委ねられた。




 いい香りの湯で身体と髪を浄めてもらうと、上等の衣装が白衣まで一揃出てきて、あっという間に着せ付けられてしまった。濡れた髪も贅沢にたっぷりの布で拭ってもらって、まだ湿気ているのを侍女が二人がかりで広げて梳かしながら乾かしてくれている。

「ごめんなさいね。もっとお湯を用意できれば良かったのだけど。寒気とかしない?」

 乙姫様はそう言って、温かいお茶を入れてくださった。あの短い時間の間にあれだけのお湯を用意するのだって大変だったはずだ。このお部屋もいつもよりたくさん火桶を用意して下さっているのでとても温かい。

 

 大丈夫です。ありがとうございます。たくさんご迷惑をおかけしてすみません。


 筆談用の道具もだめになってしまったので主に伝えてもらう。

 いつもの乙姫様の居間に、乙姫様と主だけでなく二宮さまもおいでになっていた。

 「それで、一体何があったんだ。」

 主に問われて、どこから話したらいいのか迷っう。

 「わかっているのは蜜月が舟繋から突然消えたという事だ。直後に出ていった舟があったという事で、拐われたのではないかという話になって、今は追儺の終わった武官が総出で探してる。さっき見つかったと連絡したから、もう収まるだろうが。」

 二宮様の説明に頭を抱えたくなる。

 うわあ。なんだか大事になっちゃったよ。

 どうしよう。


 拐われたのだと思います。たぶん睡菱ねむりびしの薬湯を嗅がされて気を失ったんじゃないかと。気がついたのは凪海の畔の邸のどれかでした。


 思い出しながら、一つ一つ説明する。大男がいた事、三宮様が私を「島宮になる条件」だと言ったこと。三宮様の子を生めといわれたこと。

 「蜜月、お前大丈夫だったのか。何もされなかったか。」

 主の言葉にちょっぴりムッとする。三宮さまなんかが私に手を出せるはずがない。あの方は色々足りな過ぎる。


 当たり前です。すぐに断りました。でも…


 そこで、あの男が出てきたのだ。真っ白な目で縛ってくる気持ちの悪い男が。その気持ち悪さから逃れるために、私は凪海に飛び込んだのだった。

 「白い目の術者? なにそれ?」

 乙姫様が薄気味悪そうに眉を寄せる。

 「何者か、三ノ兄上に聞けばわかるだろう。睦臣むつのおみにもだ。絶対に吐かせてやる。」

  主の顔がなんか怖い。主は優男が売りだと思うんだけど。

 「でも、無事にここに流れ着いて良かったわ。輝宮かぐのみやが血相変えて突っ込んで来たときは何かと思ったけれど。」

 乙姫様と二宮様は舟の通行を止めるために急遽、津宮に戻ってくださったのだそうだ。

 「ここを止めてしまえば遠くへは行けないからな。年越しだから舟も少なかった。すぐに止められたよ。」

 それからは辺りの舟を全て検めて下さったのだそうだ。私のことで本当に大事になってしまった。

 「幸い、該当しそうな時間に波津を出た舟はなかったの。むしろ今日は入ってくる船しかなかったようね。だから探すのは京(みやこ)と凪海周りになったのよ。」

 主も柑次さんの舟で凪海の舟を検めてまわっていたらしい。

 「最初は京を探す舎人に同行していたんだが、ずっと肩にとまっていた依緒音が急に凪海の方に飛び去ったんだ。それで柑次に舟を回してもらって、凪海の方に向かった。」

 きっと、私が依緒音を呼んだ時だ。

 「凪海の舟を検めて回っていたら依緒音が飛んで来たんだ。それで後を追ったら蜜月が倒れていた。」

 柑次さんは主や私の着替えを取りに輝宮に舟を走らせているらしい。

 うわあ、本当に皆に迷惑かけてるなあ。

 「そろそろ帰って来るだろう。そうしたら師走庄へ向かうぞ。」

 今日は年越祓の夜だ。

 輝宮とその従者が、京にいるのに欠けるべきじゃない。

 「宮様、輝宮よりの荷が届きました。」

 乙姫様の侍女が柑次さんから受け取った包を運んできてくれる。主の白衣と袙の替えと、私の薫餌の予備の袋も入っていた。

 「蜜月は今の衣装で行きなさい。私はもう着ないから。」

 主が手早く着替える間に、乙姫様が髪を撫でて下さる。

 「さすがにまだ湿っているわね。風邪をひかなければいいけれど。」

 それからそっと抱きしめられた。

 「無事で良かったわ。気をつけて行くのよ。輝宮かぐのみやから離れないで。」

 本当に、心配をかけてしまった。抱きしめて下さる乙姫様は暖かくて、ちょっとだけ泣いてしまった。

 「行くぞ。蜜月。」

 主の言葉に顔を上げる。行かなきゃ。

 乙姫様が涙を拭って下さる。

 「新年の色々が落ち着いたらいらっしゃい。美味しいお菓子を用意しておくわ。」

 二宮様は主と話している。

 「三宮一党の話はこちらで各所に通しておく。さすがに内々に処理はできん。悪質すぎる。朝堂の方へ戻っておくから大祓が終わったら一度合流してくれ。」

 それから主と一緒に舟繋から、柑次さんの舟に乗った。

 「蜜月、無事でよかった。心配したぞ。」

 いつも言葉の少ない柑次さんのいつにない言葉数の多さに、ここでも心配をかけたことを実感する。柑次さんはいつもなら何か問われでもしない限り主の前では話さない。舟が凪海に出ると依緒音が飛んできて肩にとまった。

 柑次さんの操る舟はすごい速さで進んでゆく。あっという間に凪海を抜け、川を遡り、淡海に入った。師走宮の舟繋へとひたすらに進む。

 「お気をつけて。」

 柑次さんの声を背に宮を抜け、主に用意されていた馬の、鞍前に乗せられて大道を進み、やがて主が浄化した禊川のほとりにでた。

 


 

 馬を下り、主と共に幕が張られている前へ歩き、跪く。幕は内側からの灯りで仄かに光って見える。その光の中に淡い人影が座っていた。

 「父上、ご心配をおかけ致しました。」

 人影がわずかに動く。

 「輝宮(かぐのみや)か。蜜月もおるのか。」

 巫(かんなぎ)たちが塩と水を運んでくる。私と主はそれらを使って手を浄め、口を漱いでから幕の内へと招かれた。幕の内には黄の衣の今上の他に、黄丹の衣をまとった東宮がおられる。ずっと肩にとまっていた依緒音が、幕の内に招かれる直前にふわりと空へ舞い上がった。

 黄が帝の禁色であるように、黄丹は東宮だけが纏う色だ。他の誰もその色の衣を許されない。

 私が見つかった事はすでにお二人ともご存知だったけれど、何が起きたかの次第はここで主が話した。

 「そうか。三宮か。」

 主上が噛みしめるようにおっしゃる。三宮様も主上の御子だ。その罪の報告は聞き苦しく辛いだろう。

 「父上、睦臣(むつのおみ)は茅の輪の控えにいるはずです。すぐに連れてこさせましょう。この事に関わりあるかの調べがつくまで、祀りに侍らせるわけにはまいりますまい。」

 東宮様はそうおっしゃると、かんなぎを一人武官の控えへ走らせられた。

 「兄上は蜜月の言う白い目の術者にお心当たりはございませんか。」

 東宮様にとって三宮様は同腹の弟君だ。同じ睦宮を本拠としておられる。

 「いや。しかし術を使う時に目が白くなるなら、気づいておらだけかもしれん。あの宮は人の出入りが多いし、外国の者も見かけた事がある。母上は外国の文物を好まれるのでな。」

 中宮様はもちろん朝宮の中宮を本拠にしておいでだけれど、元々は睦宮にお住まいだったはずだ。当然今でも度々お運びはあるだろう。

 三宮様の実の母君である中宮様や、同腹の兄君である東宮様を主が疑っていない事には理由がある。お二人は三宮様を次の島宮とする事に同調しておられないのだ。声高に三宮様を島宮に推しているのは睦臣とその周辺の黒衣の官だけで、煌の強い中宮様や東宮様が同調なさるはずもない。務まらないことはわかりきっているのだから。

 「私も母上も忙しかったのでな、三宮は睦臣の子息とばかり遊んでいたのだ。あれが良くなかったかもしれん。」

 そうおっしゃる声は苦かった。

 やがて幕の外が騒がしくなった。

 「主上、いったい何事でございましょう。」

 何人もが跪く気配がして、睦臣(むつのおみ)様の声が聞こえた。

 「三宮が蜜月を拐かした件へのそなたの関わりがはっきりするまで、蟄居を申し付ける。」

 幕の外で巫が主上の代弁をする。

 「思いがけぬお言葉なれど、まさか三宮様がそのような罪をおかされるとは思えませぬ。あの方はお静かなお心根のお優しい方でございます。」

 平伏しているのか、睦臣様のお声がくぐもっている。私がきいても嘘なのかどうかなど聞き分けられるはずもない。

 「例えば見目よき女童に懸想されたとて、なぜ拐かされることなどありえましょう。貴い宮様の誘いに、女童とて心動かされたやもしれぬではありませぬか。」

 いや、ないし。

 三宮様はそもそも宮様の割に貴くない。

 煌も弱いし、性格のアレだし、頭も悪いし、宮様とか言う以前に人としてかなり残念な感じだし。

 「早耳のそなたが知らぬはずはあるまい。蜜月は私の妃だ。私と三ノ兄上を比べて、三ノ兄上になびく女などこの世にはおらん。苦しい戯言もいい加減にしろ。」

 うっわあ言い切っちゃった、主。しかもなんだか顔が怖いし。

 確かに煌以前に、顔も身体も頭の中身も、三宮様は主に比べてかなり見劣りするけれど。

 さすがの睦臣(むつのおみ)も絶句して、武官たちに連れられていった。

 自邸での蟄居とは言っても、母屋から出ることは許されず、武官と巫が見張りに付く。母屋は昼間でも蔀を上げる事もできないだろう。どう考えても最悪の年越しだ。

 睦臣のいなくなったあと、幕の内には静寂が落ちた。






 

 

 




 

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