第3話 追儺(おにやらい)
「おぉにぃぃやぁぁらい」
独特の節をつけて大舎人が叫ぶ。
だんっと一斉に沓音が鳴る。
沓を鳴らし、追儺のために朝の宮を練り歩くのは、渋染の衣を纏った武官たちだ。早朝に朝宮中宮から始まった追儺は、東宮から庭を抜けて戻り、西宮の上の
沓を踏み鳴らし、杖で隅を突き、全ての
朝宮を練り終ると舟に乗り、十二庄全ての宮をまわる。さすがに隅々まで歩き回るような事はできないので、追儺の舟が来るのに合わせて宮の内では
最終的に全ての隠が集められる島宮では楽を奏し、舞を舞って隠を誘い、
当然、主は島宮で働かねばならないので、朝堂の追儺が終われば、いつも急いで島宮へ渡る。
島宮には普段はあまり祀りにかかわらない煌族も集められて、順に舞を舞ってゆく。
今上、中宮様、東宮様は舞われない。舞い始めは今上の
続けて二宮様以下主以外の今上の
まず二宮様は無難に舞われた。
久しぶりに見かける三宮様は、相変わらず舞が下手だった。煌もたいして強くない。
引き換えて煌も強く優美なのは東宮妃である女二宮様だ。この方は煌の強さ故に異母兄である東宮の妃に迎えられたと言う方だ。もしも東宮妃でなければ、この方が
六宮様はすでに亡くなっておられるので、七宮様が舞われれば今上の御子は主以外は全員だ。七宮様は東宮様に次ぐ煌の持ち主で、舞の技量は平凡だけれど強く隠をひきつけている。
それから今上の御妹君で、乙姫様のお母様でいらっしゃる
今上の兄君の上壱宮様、上二宮様。弟君の上五宮様。今上の叔父様である師宮様は遠く
島宮のお二人の皇女も順に、お一人ずつ舞われた。お二人ともとてもお上手だ。さすがは島宮の姫君だと思う。特に三宮妃の島ニ皇女様の舞は、本職の舞人に比べても遜色のない出来だった。
その後は煌の劣る
乙姫様も姉君の大姫様と舞っておられた。
お兄様と島壱王様もご兄弟で一緒に舞われる。
本来なら私も舞うべきなのかもしれないが、さすがに今年は勘弁していただけた。来年はもう逃げ切れないかもしれない。
最後が島宮様と主の連舞だ。
この舞は影が形に添うように、同じ舞を並んで舞う。
強い煌が放たれ、惹きつけられた隠たちが浄化されてゆく。
居並ぶ煌族、
煌とはなんと強いものか。
煌とはなんと美しいものか。
その煌が人の身に備わり得るのだという奇跡に、何か自分の深いところにあるものが震わせられる心地がする。
それほどの舞ではあるけれど、余韻に浸る暇はない。夜の大祓に向けて主はすぐに師走庄へと向かうからだ。
舞が終わりを見るが早いか舟繋へ向かう。主が来るよりも早く、竜魚を舟に繋いでおかなければいけない。他の煌族方よりも先に舟を出さねばならないのだ。
小走りに舟繋に駆け込んだ私は、舟繋に誰がいるかなんて気にしてはいなかった。無人ではなかったので、早い人がいるなと思っただけで。
まさかその誰かが自分を待ち伏せているなんて思いもよらなかった。
何か布を押し付けられたのは覚えている。甘ったるい、嗅いだことのある匂い。
(
それに気づいた時にはもう、意識が遠のいていた。
睡菱というのは水面に放射状に平たい葉を広げる、菱と似た植物だ。緑がかった白い花を咲かせる。
尖った菱形の実を結ぶところまで菱と同じだけれど、睡菱の実には強力な睡眠作用がある。実を枕に入れて置くだけでも眠気を誘うと言われ、香として焚くと痛みを和らげて眠りに誘う。
中でも強力なのは実を煮出した水薬だ。傷に塗りつければ痛み止めになり、染み込ませた布を顔に押しつけるだけで意識を失わせる。
あまりに強力なので単体で用いることはまずなく、ごく少量を調合に加えて使う。
意識が浮上した時に、まず浮かんだのはそんな知識だった。きっと気を失う瞬間に強く意識した内容だったからだ。あの特徴的な香りは間違えようがない。
それから次に、主、と思った。
思った途端に目を開いて起き上がる。
ズキン、という嫌な痛みがこめかみに走った。
こめかみを押さえてうつむき、唇を噛む。
今日は年越祓だ。主を乗せて舟を走らせなければならないのに。
今はいつ?
ここはどこ?
私はどのくらいの間、意識がなかったのだろう。
依緒音。
依緒音を呼ぶ。依緒音の気配がいつもより遠い。私は主から引き離されているらしい。
私は懐から
じわりと染み渡ってゆく、自分の気。薄らぎ始めるこめかみの痛み。
私の身体は私の意識にこそ従うものだ。
「目が覚めたか。」
声に振り返ると大きな男が部屋に入ってくるところだった。
部屋、というか、
男が入って来た入口以外は全部壁で、隅には荷物が積んである。
「
いつ、はわかった。日暮れ前。
できればここはどこかも教えて欲しい。
私は男の発言を待つ。どっちにしたって声は出ないわけだから、他にできることはない。
「島宮の姫だっていうから攫うのは大変かと思ったが、そんな事もなかったな。お嬢ちゃんが迂闊なたちで助かったよ。」
迂闊?
仕事をしていただけだ。そっちこそ他人の仕事のj邪魔をしないで欲しい。
依緒音。依緒音。
呼びかけ続ける。呼びかけながら自分の身を確かめる。
着物、帯、香炉。
全て揃ってる。どうやら気を失った私を単にここまで連れてきて、転がしてあったらしい。
いくら火種を繊花で包んであるとはいっても、香炉で火傷したりしてないみたいで良かった。
「お嬢ちゃんの身柄を欲しがっている御仁がいるのさ。どうするつもりかまでは知らんがね。お嬢ちゃん、相当のべっぴんだから、もしかしたらもしかするかな。」
御仁って誰?
それが一番知りたい。
ここがどこかはだいたいわかったし。
するすると近づいてくる依緒音の目を借りれば、川伝いに
「無傷でって条件がなけりゃ、俺が楽しんでも良かったんだが…おいおいつまんねぇな。反応薄いだろ。お嬢ちゃん耳の方もだめなんじゃないだろうな。」
大丈夫。耳は聞こえてる。
単にいらない情報は気にしてないだけだ。
「ちょっとぐらい、泣くとか怯えるとかしてもいいだろうよ。」
だって怖くないのだもの。
ここは凪津のすぐ側だし、依緒音ももうすぐそこだ。
りんっ
甲高い音がした。
貴人が存在を示すために使う鈴の音だ。この音が鳴れば庶人は膝をつき頭を垂れねばならない。私も一応主のを持っている。主が面倒くさがるから使った事はないけれど。
「控えよ。」
大男の後ろの戸が開かれて私の感じではさっき見たばかりの顔が現れた。三宮様だ。
「ふん。面白味のない娘だ。これがなぜ島宮となる条件なのだ?」
はい?
「叔父上はよほどこの娘の母親を寵愛していたと見える。妃を島宮にお入れにならぬのもそのあたりが理由か?」
ええと、どこから突っ込めばいいんだろう。
なんだか誤解と偏見以外の要素が見当たらない。
「叔父上の唯一の嫡出の皇女と思って我が妃としたのに無駄であったか。」
ああ、そういう…
うちの主も
一応皇子と名乗れる煌があるのに、どうしてわからないんだろう。
今上、東宮、島宮、輝宮。どれも強い煌なしにつとまる役目じゃない。誰の子供とか寵愛とか、そんなものだけではつとめきることなどできないのだ。
「だがまあ、条件がこちらの娘だというならそれを手に入れるまでだ。そなた、私の子を産め。」
はあ?
私は手早く布と筆筒を取り出し、でかでかと「拒否」の文字を書いた。一文字では弱いかと思ったので二文字で。
それを見た三宮様が目を丸くする。驚いているらしい。
なぜ驚く? 驚かれた事にびっくりだよ。
「輝宮の子は産めるに、私の子は産めぬと申すか。」
うん。
それ同じことじゃないから。
恋心とか以前の問題だから。
この求婚だかなんだかでうなずくって、もはや特殊趣味の人だから。
でもこんなに筆談するのは無理なので私はきっぱりとうなずいた。
こんな時は出ない声が恨めしい。声が出たら相手が口を挟めないぐらいまくしたててやるのに。
「ぶ…」
控えていた大男が小さく吹き出す。三宮様がキッと男を睨めつけた。
「私になんの不満がある。中宮の次子、東宮の弟ぞ。」
お母様とお兄様を引き合いに出さないと誇るものがないあたりがまずダメかなあ。私よか十五とか年上で、それは本当にだめなんじゃないかな。
思いを込めて三宮様をじっと見る。
なんだか三宮様が怯んでる。この人本当に主のお兄様なのかな。東宮様も、二宮様も、主のご兄弟は結構腹が座った印象の方ばかりだ。主だってしれっとはったりぐらいは効かせる。
どうして同じ今上の御子にこんな方がおられるのか不思議としか言いようがない。
「宮様、娘が目覚めましたかな。」
そうしている内に三宮様が開けたままの入り口からさらにもう一人が現れた。
なんだろう、変な感じ。なんだかチリチリする。
私は無意識に姿勢を直した。
依緒音は近い。もうこの邸の上空にいる。
「お嬢ちゃんは嫌だとよ。」
大男が言うと、三宮様がまた男を睨めつける。
ここで一番位が高いのは確かなんだけど、三宮様の存在がなんとなく軽い。
「おや、それはそれは。その娘も煌(かぐ)の虜と言うわけですか。巫(かんなぎ)は煌(かぐ)が強いものに惹かれるとは聞いておりますが。」
ん?
なんだろう、この微妙な気持ち。
別にそういうのじゃないんだけど。
むしろそれ以前の問題なんだけど。
「ですが惹きつけるのが無理なのならば従わせれば良いでしょう。そもそも私に言わせれば煌とはまだるっこしいのですよ。」
三人目の男が私の顔を覗き込んだ。男の目から色が消え、真っ白になる。
何? 気持ち悪い。
「そなたは三宮様の子を生むのだ。そうだろう?」
白目だけみたいな顔は気持ち悪いけど、男が放つ力はもっと気持ち悪い。
頭の中で男の言葉が響く。
三宮様の子を生むのだ。
ありえないから!
気持ち悪い
気持ち悪い
気持ち悪い
私の意思を素手で捻じ曲げようとするようなこの男が気持ち悪い。
無理、本当に無理。
依緒音!
あけたままの戸から依緒音が飛び込み、男に襲いかかった。身をかわした男の喉から血が飛ぶ。依緒音の爪が掠ったのだ。
生まれたスキをついて戸口から飛び出す。依緒音がすぐそばを飛ぶ。御簾の向こうに見慣れた凪海の景色が見えている。
「まてっ」
男の手が伸びて来るのを、依緒音の爪が再び切り裂く。私は御簾を払いのけ、水面に張り出した露台から凪海へと飛び込んだ。
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