本心

 白桜の要望に、辺りは沈黙に包まれる。糸を張ったような緊張感。

 白蓮の、先程まで見せていた笑みは消えている。


「顔を上げなさい」沈黙を破ったのは、春玲の静かな声音である。

 白桜は春玲の声に顔を上げる。春玲は、目を吊り上げ白桜を鋭く睨みつけていた。

「王子は、自分が何を言っているかお分かりですか!?

 この土壇場で“縁談を白紙に戻せ”!? 」

 春玲の低く怒気を含んだ声。

「お嬢様が、どれだけ貴方をお慕いかご存じでしょう」

「王妃。兎に角、白桜の言い分を聞いてはどうか?

 叱りつけるのは、それからでも遅くはないとは思わぬか」

 噛みつくように糾弾していく春玲を、桜月がやんわりと諭す。桜月は白桜に視線を送る。


「恐れながら申し上げます。

 わたくしには、思いを寄せ心に決めた女人がおります。今、縁談をお受けすればその女人を、傷つけることになります。そのようなこと、したくはありません」

 白桜の言葉に白蓮は息を呑み、柊明は白桜ら三人を睨みつける。桜月は、口を開け呆けた表情である。

「その女人は、どこの娘ですか」

 春玲は怒りを抑え、つとめて冷静に問う。

「申し訳ございません。今ここでその者の、名や身分を明かすことは出来かねます」

 宮に動揺が走る。


「では、この文は出任せだと仰せになるのですか?」

 白蓮は手にしている、白桜からの文を握りしめる。声が震え裏返る。

「わたくしを正妻に娶り、共にこの国を弥栄な国にしていきたいという、白桜様の文言は全て偽りでございますか」

 自分でも怖いほど、冷静な口振りである。

「この国を、弥栄な国にしていきたいと認めたことに相違はない。

ただ、そなたを娶る云々は……」

 白桜はゆっくり頭を振る。

「ならば何故、心にもないことを?

 心にもなければ、最初から縁談をお受けしなければ良いではありませんか」

 柊明が娘の心情を察し口を挟む。

「それは……」

 柊明の言い分は至当であり、言葉に詰まる。


「白桜。

 何故、その女人に拘るのです? ひとまずお嬢様を正室に迎え、意中の女人を側室とすれば良いではありませんか」

 春玲の声が、怒りから苛立ちを含んだ声音に変化する。

 白桜は大きく頭を振る。

「幾ら母上の頼みとはいえ、そのようなことは出来かねます。

 女人を側室に迎えれば、私の寵愛は白蓮ではなくその女人に傾くでしょう。それでは白蓮を、悲しませてしまいます」

 遠回しに、“自分に対して幼馴染以上の関心がない”と言われた白蓮は、呆然としたまま立ち上がる。

白桜様は優しすぎる。残酷なまでに―。

「白蓮」柊明は愛娘の名を呼び、手を握る。

「縁談が白紙になったのならば、わたくしにはここにいる必要がございません。

 お父様。わたくしは先に、邸に戻っております」

 そう言い残し、柊明が握っていた手をほどくと、踵を返し宮を後にした。

 背後から、春玲が腰を浮かせ「お嬢様!」と悲痛な声で名を呼ぶが、白蓮の耳には届いていない。


 宮の外で、女官や内官らと待機をしていた梅月は、憔悴した主の姿を見て目を見開く。

「お嬢様……?

 どうかなさいましたか? 縁談は?」

 梅月は掠れた声で呼ぶ。白蓮はぎこちなく振り返ると、痛々しいほどの自虐的な笑みを浮かべ口を開く。

「縁談は白紙。白桜様に手違いがあったそうなの。

 梅月。行きましょうか」

 梅月の反応を見ることなく、歩みを進める。

なんの前触れもなく、白紙とはどういうことか。手違いとは―。

 梅月は主の身に、何が起こったか分からぬまま後を追った。


 外廷を抜け城門を潜ると、停まっていた輿に乗り込む。

「お嬢様? お忘れものですか?」

 柊明を邸に送るために、城門の前で待機していた使用人が不思議そうに問う。

「いいえ。縁談は白紙よ。白桜様は、わたくしが正妻ではお嫌だそうよ。他に、思いを寄せている方がいらっしゃるそうなの。

 邸に帰りましょうか」

 沈黙が満ちる。

「……お嬢様そのお話、誠でございますか? 白桜様に、他の想い人がいらっしゃるというのは……」

 梅月が、恐る恐る口を開く。

手違いではなく、心変わりだったとは思いも寄らなかった―。


 “信じろ”というのが、無理な話なのだ。

 この縁談は、王宮から正式に打診が来ている。いくら通常、王宮から打診が来た縁談を、反故ほごにすること自体、ありえないことである。


「本当よ。祝言が済んでから、色事に手を出されるよりもましだと思わなければ……。

 いいから。早く邸へ」

 白蓮の一言と同時に、輿が動き始める。

そう祝言を済ませてから、裏切られるよりまし―。

 邸までの道すがら、輿に揺られながらそう自分に言い聞かせる。


 輿が微かに揺れ地面に付くと、梅月が無言で輿の引き戸を開ける。

 白蓮は、輿を降りるとおぼつかない足取りのまま、自室へと戻って行く。見かねて梅月が「お嬢様!」と声を掛ける。

「悪いけど、暫く一人にしてくれる?」

 自室の前でそう口にすると、白蓮は障子を開け部屋に足を踏み入れる。そのまま、振り返ることなく、障子を閉める。


 戸を閉めると、その場に座り込む。


 部屋は、整然と片付けられている。

 王宮に入れば、実家に帰ることなど無いに等しいのだからと、今日まで片付けに徹していた。

 まさか、白紙になり帰ってくるなど、想定外のことである。

 柊明から縁談の打診があってから今日までのことが、走馬灯のように脳裏に浮かぶ。


 てっきり、白桜も自分に懸想を抱いているものだと、思い込んでいた。縁談の打診があるということは、白桜も自分と同じ気持ちだと。

 実際は、浮かれていたのは白蓮だけであり、白桜は想い人との板挟みになっており、白蓮は白桜にとって幼馴染以外の何者でもなかったのだ。

 自分は、白桜を好いていながら彼のことは、何も理解していなかったのだ。

 白蓮は考え無しの自分に腹が立つ。と同時に、深い断腸の思いが胸を突く。思いは、胸の痛みへと変化する。

 好いていたのだ。誰よりも。

 初めて出会った時から、これ以上ない程に。

 

 王妃の座も権力も欲してはいない。白蓮の望みはただ、好いている殿方の隣で、人生を共にすること。

 それがこんなに、呆気なく崩れてしまうなど、誰が予想しただろう。


 部屋の中から、白蓮の深い慟哭どうこくが聞こえてきた。


 白蓮が邸に戻ったときには、空高く昇っていた太陽も西日へと傾いている。

 白蓮の代理として、王宮にて今後のことを話し合っていた柊明は、深いため息を吐きつつ帰宅した。

 すぐにでも床に就き休みたかったが、白蓮と梅月に話すことが残っている。


「白蓮は?」出迎えた梅月におざなりに問う。

「お嬢様は先ほどから、お部屋に籠っていらっしゃいます。何度も、声をお掛けしたのですが……。『ひとりにして欲しい』と仰せで……」

「そうであろうな……」あれだけのことがあったのだ。白蓮が憔悴するのも無理もない。


 白蓮の自室から微かに、歔欷きょきする声が聞こえてくる。


 柊明は躊躇せずに、部屋の障子を開ける。

 中では行灯も灯さず、白蓮が蹲っている。

「白蓮」柊明が名を呼ぶと、振り返り涙に濡れ、真っ赤に充血した瞳を向ける。

「話をしても良いか」涙を拭い微かに頷く。


 柊明は一拍取ると、重い口を開く。

「縁談だが……。正式に白紙になった。

 ただ白紙になったのが、白桜様のお心変わりという理由ゆえ、他の殿方に嫁いでも構わないという、王様からの寛大なるお言葉だ」

他の殿方に嫁ぐなど、そのような選択肢は存在しない―。

私の望みはただ一つー。

 柊明の言葉が、通り過ぎていく。


 通常、王族との縁談が打診された者が、何らかの理由で縁談を白紙にされた場合、その者は既に王族の女人として扱われ、他の殿方に嫁ぐことは許されず、一生独身で過ごすか王宮から側室の打診があるのを待ち続けるかどちらしかない。 

 故に、此度の桜月の判断は異例である。


「此度の縁談について、お前に話しておかなければならないことがある」

 白蓮は濡れた瞳を見開く。

これ以上何があるというのだろう―。

「私は、お前の恋心を利用した。

 お前が白桜様に嫁げば、この家は外戚として王室の後ろ盾を得ることになる。さすれば、私は今よりも高い官位を望める。そう思案していた。

 お前を、騙すような真似をして悪かった」

 柊明は旋毛つむじが見えるほど、深く頭を下げる。

「お父様は、これからどうなるのですか。縁談を白紙にされたことで、影響があるのではありませんか。今まで通り左丞として、お仕えできるのですか」

 声に覇気がない。帰宅してから、はじめて愛娘の声を聞いた。

「案ずるな。左丞を降りろという話は出ていない。

 それよりも今は、自分のことを考えろ。じっくり、静養するとよい」

 柊明は、白蓮が望むなら都を離れても構わない、と言ってくれた。事情を承知の桜月も、柊明に快く暇を出してくれるだろうからと。

「考えておきます」

柊明の気遣いと優しさに、少しだけ胸の痛みが軽減した気がして、白蓮は穏やかな表情を見せた。

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