感応

 月花楼を出た桃苑は、急ぎ足で王宮へ向かう。

 

 久しぶりに酒を口にしたからか、吐く息は白く深衣の隙間から冷たい風が入り込むが、身体は温もっている。


 王宮に門限が存在する訳ではないが、あまり長時間主の側を離れることは良く思われていない。


 王宮の門を足早に潜ると、わき目も振らず白桜の待つ薫風宮くんぷうきゅうへ足を進める。

 王宮内は人の往来がまばらで、王宮内の警備を行う衛尉えいいの官吏が、鋭く目を光らせている。


 宮では白桜が、卯の花色の夜着を身に纏い、桃苑の帰りを待っていた。手燭てしょくに灯した火が、ぼんやりと几と白桜の辺りを浮かび上がらせる。

 几の上には、尚食の女官に作らせた夜食の、白桜の好物である餡を白玉の生地で包み、胡麻を塗し揚げた芝麻球チーマーチュウが三つ乗った、皿と茶が入った湯飲みが置いてある。


 白桜は、一つを手に取り齧る。

 熱い―。

 湯気が出ていないのと、手にしても外が熱くないことに油断した。中の餡の熱さに口の開閉を繰り返す。

手に持っている、食べかけの芝麻球から湯気が上がる。

 冬の寒い時期は、芝麻球のようなてん点心が身体を温める。

 何とか飲み込むと息を吐く。


 ぬるめの茶で、口の中の熱を取ると、残りを口に放り込む。

 揚げた胡麻の香ばしい香りと、餡の甘さ、更に白玉の柔らかな触感が絡み頬が緩む。


 白桜が二つ目も咀嚼し、三つ目に手を伸ばしかけた刹那―。

「ただいま戻りました」桃苑がそっと障子戸を開ける。

 その声に、白桜は伸ばしていた手を引っ込める。

「まだ起きていらっしゃったのですか」

 桃苑が几の上の、芝麻球と湯飲みを見問う。

「そなたを待っていた」桃苑の顔をじっと見つめる。

「そなたも食べるか」桃苑の視線が、芝麻球から動かないことから尋ねるが、「いえ」と頭を振った。


 白桜が成人を迎えた十五の頃より、内官として仕えてくれている桃苑は、同い歳ということもあり友人のような間柄である。しかし、その仕事ぶりは勤勉で生真面目であり、あらゆる場で気を配り主を立てている節が見受けられる。


 白桜に仕える際、桃苑の師父しふをしていた宦官から、桃苑が自宮じきゅうし宦官となったと、宦官になる経緯を聞いたことがある。

 桃苑のように、自宮し宦官の道を選ぶ者は、けして少なくはない。困窮している家が、口減らしとして男児を宦官として、差し出すことは決して珍しくないことである。

 因みに師父とは、幼い宦官の教育をする、宦官のことである。


 最後の一つを口に入れ、惜しむようにゆっくり味わう。茶を啜り顔を上げる。

 よく見れば、ほんのり顔が赤いように見える。

「顔が赤い。

 酒でも飲んできたのか」

 白桜の指摘に、思わず口を手で覆い視線を逸らす。

「まぁ……。たしなむ程度ですが……」

 まんざらでもない桃苑の言動に、白桜はふっと笑う。

「思ったより楽しんできたようだが?

 それはそうと……梅花に渡せたか」

「ええ。大変喜んでおりました。

 それで……」


 桃苑は懐を探り、梅花から預かった立て文を取り出し白桜に手渡す。

「これは……?」

「例の妓女から、文を預かって参りました。白桜様に渡して欲しいと。

 本来なら、左丞のお嬢様と縁談が組まれている白桜様が、他の女人しかも妓女からの文を受け取るなど、信用に関わることではございますが……お礼だと聞いたもので」

 白桜は文を開き目を這わせる。


 文には、簪のお礼は勿論、妓女である自分を卑しい者ではなく、一人の女性として見、更には都で助けてくれた時に言われた「この国の民は皆、平等なはずだ」という一言が嬉しかったことが、女性らしい丸みを帯びた素直な文字で認められている。

 

「今は、女人でも読み書きが出来るものなのか」

 白桜は認められていた内容よりも、女人が読み書きが出来ることに驚き声を上げた。


 王宮で働いている女官の中でも、読み書きが出来ないという者は珍しくない。

 第一、都の貴族の娘以外の女人に、読み書きなど必要ないと考える大人も多く、女人の識字率は低い。

 王宮の女官がそうなのだから、妓女である梅花も当然、読み書きが出来ないと決め付けていた。


「女人云々というより、あの者が妓女だからでしょう。

 妓女は、馴染みの客と逢引きするのに文を出す、と聞いたことがございます。

 それに、妓女はただ客に夜伽をし、楽しませることのみが仕事ではありません。妓女には、読み書きは勿論のこと、囲碁の腕や舞や詩歌しいか、更には器楽まで要求される故でしょう」


 妓女は決して妓楼にいるだけではなく、王宮内でも慶事を祝う場にて、宮廷音楽を演奏し、舞を披露する宮妓きゅうぎという者も存在する。

 また、妓女らが宮廷音楽を学ぶ教育の場として、教坊きょうぼうが設置され多くの妓女が切磋琢磨しあっている。

 

 桃苑は、妓楼に関わることに対して、良い顔をしないが妓楼や都の仕組みに詳しい節がある。

 恐らく、同じ内侍省ないじしょうの宦官から、あれこれ耳にしているのであろう。


「返信はどうなさますか」

 恐らく返信はしないだろうと、踏んでおざなりに尋ねる。

 しかし、白桜の答えは予想だにしないものだった。

「返事を書けば、そなたがまた届けてくれるのか」

「白桜様がご所望ならばですが……」

 桃苑は内心、苦い思いであった。

面倒なことに巻き込まれなければ良いのですが―。

 

 白桜は、文に今一度目を通し温和に笑う。 

 自分の正体を知らぬが故だが、梅花の素直で純粋な文に何故か、この女人のことを知りたいという欲求が顔を覗かせる。

「では、返事を書こう。

 そなたが届けてくれるなら、父上も母上も言及はせぬであろう。誤魔化すことができるるはずだ」

 “誤魔化す”という言葉から察するにどうやら、一応まずいことをしているということは、理解しているらしい。

 桃苑は、呆れ「どうなってもわたくしは知りませんよ」と、声を落とし忠告をした。

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