思案
男性と別れ、帰路に着いた梅花は、月花楼の門の前で警備をしている、男性に都に出入りするときに必要な手形を見せる。
辺りは黄昏時に染まり、人の顔を判別することが難しい。
妓楼は営業をしていないというのに、
門の直ぐ側には、大きな桜の木が植えられており、門から建物の入り口までは石畳が真っ直ぐ敷かれ、石畳の両側を挟むように、牡丹が植えられた垣根と等間隔に灯された灯篭が、帰路に着いた妓女らを迎える。
梅花をはじめ、妓女は十日に一度の休み以外に、自由に外出を禁止されている。
手形を受け取った男性は、裏返し凝視する。
手形は、木製で表に妓楼の名、裏に梅花の名が記されている。
梅花の顔を一瞥し、手形を返し門を潜るように促す。
梅花は門を潜り、石畳を踏みしめる。
妓楼は木造三階建てで、一階は男性を酒や料理などでもてなす妓楼、二階と三階は妓女らが寝起きする場となっている。
妓女らは一部を除いて、数人一部屋で共同生活を営む。
梅花は靴を脱ぎ、廊下を真っ直ぐ進む。歩く度に、廊下の冷たさに思わず身震いし速足になる。
梅花は襖に手をかけ、ゆっくり引く。
「おかえりなさい」
部屋の中には、二人の妓女がおり襖が開くと同時に声を掛ける。
一人は
もう一人は
「簪は? 買えなかったの?」梅花が手ぶらで帰って来たことに、気づいた芽李花が問う。
梅花は、畳の床に座り込むと、露店商に絡まれていたところを、名も知らぬ男性に助けて貰った、と話す。
「怪我は? 大丈夫だった?」芽李花が、梅花の身を案じ問う。梅花は、笑みを見せ大きく頷く。
「ならいいけど……」梅花の反応に、ひとまず胸を撫で下ろす。
「#艶話__つやばなし__#みたい!」と、芽李花とは違い夢見がちな華琳は、几の上に置いてある長方形の琥珀糖を手に取り声を弾ませる。
琥珀糖は薄桜色で、霞がかったかのように、表面は砂糖を纏い、一口齧るとしゃりっという音と砂糖の膜を砕くような、ぱりぱりとした歯ごたえが心地いい。
表面のぱりぱりとした歯ごたえと、中のぷるぷるした食感が相まって、絶妙な味わいである。
砂糖が高価な代物である天香国では、砂糖のみを使用した
梅花も琥珀糖を手に取り一口齧る。
しゃりっという音と共に、寒天のぷるぷるとした食感と、さっぱりとした甘味に思わず目を細める。
華琳によれば、甘味や軽食は、妓女でも安易に手に入るという。
その話を聞きながら梅花は、昼間助けてくれたあの男性のことを思い出していた。
名前ぐらい尋ねておくべきだったー。
あの時、男性に名を尋ねずに別れたことを、今更ながら悔やむ。
また会えるだろうかー。
別れ際、妓楼と自分の名を尋ねられたことから、客として妓楼に来てくれることを、期待せずにはいられなかった。
白桜が梅花を助けてから数日後。
都に桃苑の姿はあった。白桜の命を受け、梅花に渡す簪を探しに来ていた。
雲が広がってはいるが、雲の切れ間から日差しが差し込む。
左丞の娘との縁談もまとまりかけた、一国の王子が別の女人にものを渡すなど、褒められたことではないが、白桜の「簪を買う機会を、台無しにしてしまった詫びをしたい」という言葉で、桃苑は渋々といった
幾つも飾り物を取り扱う店を覗いたが、気に入るものと巡り合わずふと、道端で露店商が広げている品物に目が止まった。
露店商に近づき、品物を手を取る。
簪は、平簪と呼ばれる、平らな簪である。色は漆黒で所々に金箔が施されている。先に梅の花の
送る相手の名が、梅花なことから、梅の花が施されているものをと、白桜から命じられていた。
これなら、白桜から文句も言われないだろうと、桃苑は露店商に代金を支払うと、簪が入った木箱を受け取り、足早に王宮へ向かった。
王宮は、警備の為に周りを高い城壁に囲まれ、厳重な警備が引かれている。門の前では、兵部の官吏が二十四時間体制で警備に当たっている。
桃苑は、警備を行っている官吏に、王宮に入るための手形を見せる。
手形は木製で、表に
官吏は、差し出された手形と桃苑の顔を見、微かに頷き門の中に促す。
桃苑は手形を、深衣の懐に仕舞い込むと、門を潜り王宮の中に足を踏み入れる。
王宮は、石畳が敷かれ、様々な色の襦裙や深衣を来た、女官や官吏、内官が忙しなく往来している。
女官や官吏、内官が身に纏っている、襦裙や深衣が色鮮やかで、目を細め外廷を抜け白桜が待つ宮に足早に向かう。
白桜は、宮にて書に目を通しながら、桃苑の帰りを首を長くして待っていた。
深い紺色の深衣の袖に、桜色で刺繍されている桜が映える。胸と背に、金色の糸で大きな牡丹が刺繍されている。
「白桜様。ただいま戻りました」障子が開き、桃苑が姿を現す。
「ご苦労。面倒なことを頼んで悪かった。買えたか」
「如何でございましょう」
桃苑は、几の上に簪が入った木箱を置く。白桜は、木箱を開け中から、簪を取り出し眺める。
「良かろう」満足そうに頷くと、笑みを浮かべた。
この簪を身につけた、梅花の姿を思い浮かべると、何故か愉快な気持ちになり口元が綻ぶ。
白桜の穏やかな笑みとは逆に、桃苑は怪訝そうな顔をしている。
「白桜様」桃苑は、硬い声で主の名を呼ぶ。
簪を仕舞わずに、笑みを浮かべていた白桜は、桃苑の怪訝そうな顔を見て小首を傾げる。
「まさかとは思いますが、あの梅花という妓女に何か特別な感情をお持ちで……?」
「どうだろうな……」
桃苑の心配を、白桜は曖昧に言葉を濁す。
「気にならないと言えば嘘になる。しかし、色恋かと聞かれれば
世の男らは、気に入った妓女相手に、色事を楽しむのだろうが、生憎白桜にはそのような趣味はない。
「ならば良いですが……」
桃苑の口振りと表情から、そのような面倒ごとは御免だ、という気色が滲み出ていた。
白桜は、木箱に簪を仕舞うと口を開いた。
「月花楼にはそなたが行き、梅花にこれを渡して来てくれ」
「わたくしがですか!?」
甲高い素っ頓狂な声を上げる。
「ですが、わたくしは
男でも女でもない宦官が、妓楼の妓女に会うなど……」
桃苑は苦い顔をする。
天香国では、宦官が妓楼に足を運ぶことは咎められてはいない。
だが、宦官のなかには桃苑のように、官奴の立場で色事の場に足を運ぶことに、嫌悪感を持つものも少なくない。
男性の象徴を持たず、色事とは無縁な宦官らにとって、夜な夜な
かと言って、白桜自身が妓楼に出入りすれば、政の重鎮に露見され、桜月と春玲の耳届く可能性は十分にある。
縁談が纏まりかけたこの時期に、王宮の期待を裏切るような真似は避けたかった。
首を縦に振らない桃苑に、白桜は渡したら直ぐ王宮に戻ってこれば良いと、説得し桃苑も渋々頷いた。
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