《3話 運命》
季節は移り変わる。満開の桜は花を落とし、強烈な陽射しの中で青々とその葉を茂らせた。海が何だ、熱中症、熱帯夜、過去最高気温を更新……。彼も、今年は暑さで何回か死にかけたそうだ。
そういった情報を流し見しているうちに、私が住む北海道では早くも上着が必要な時期となった。
文ちゃんの占いから半年――私といえば、相変わらず珀くんの理不尽に振り回されたり、好きなアイドルを発見したり、バイトでちょっとした昇進をしたり。特に何も変わらない日々を過ごしていた。
「はぁーーー」
今日は休日。することといえば、珀くんからの着信を待つか、愛猫のコマさんを抱っこしたり吸ったりするくらい。つまり暇だ。
「きみはあったかいなぁ」
ミャ。と、しっぽを揺らしたコマさんが鳴く。当たり前だろう、とでも言っているのだろうか。そうだよ、きみだけが私の心の拠り所だよ。
辛いことはない。むしろ、今の現状に満足さえしている。これ以上何を望むんだ。これは私が選んだ道。珀くんの“友達”でいる選択は、他の誰でもない私がしたんだ。
「珀くんは……今日は彼女と会ってるんだっけ」
とっくに諦めたはずなのに、そう思うと心がズンと重くなった。
「諦めきれてないじゃん」
いつまで……いや、きっとずっと引きずるんだろう。表には出せない気持ちを抱えたまま、何年も何年も過ごすんだ。
「つら……しんどいわ〜」
コマさんを抱きしめたまま、ゴロンと床に寝転んだ。すきま風で揺れるカーテンを見て、コマさんが喉を鳴らす。
こんなにも穏やかな一日なのに、私の心は決して穏やではなかった。それは、最近珀くんの当たりが少しばかりキツい……というか何だか馬鹿にされている気がするからだ。“友達”として慣れてきたからか、それとも知らないうちに私の一方的な気持ちが重くなって、嫌われてしまったか。
馬鹿にされる度思う。私のもう一人の友達である文ちゃんは、そんなこと言わないのに、と。人それぞれであることはわかっている。けれど、珀くんに貶されると、何故か全部私が悪いような気がしてくる。
――え、一人としか付き合ったことないの?
――十九歳で男性経験ないの?
そう言われた時、恥ずかしさと悔しさで顔が火照るのを感じた。それは珀くんの常識であり、私には私の生き方がある。なのに、「一度きりの人生なんだからもったいない」「若いうちに色々しておかなきゃ」なんて、らしいことを言うから、人生をのうのうと生きている私が悪いように思えてしまう。珀くんが正しいとか、私が正しいとかなんて、誰にも決められないはずなのに。
「そんなこと言うなら」
珀くんが私の彼氏になってくれればいいのに。その言葉は、口から出る直前で飲み込んだ。“友達”に、そんなことを思ってはいけない。
「辛いねぇコマさん」
いつもならすぐにでも文ちゃんに相談するけど、それができないのがまた苦しい原因なのかもしれない。文ちゃんに言われたことについて相談なんてした日には、きっと京都まで珀くんをシメに行っちゃう。あの子はそういう子だ。
「嫌いになったなら、いっそ言ってくれればいいのに」
そう呟くと、神様に通じてしまったのか、携帯の着信音が鳴った。驚いて心臓が脈打つ。珀くん? いや、もしかしたら文ちゃんかもしれない。お母さんかもしれない。誰でもいいから、珀くん以外で――
*
「遅いって。何コールしたと思ってんの」
「ごめんなさい」
少し機嫌が悪そうな声が、耳をぬけて脳に突き刺さる。神様は珀くんと同じくらい理不尽だから、そうだろうなって思ってはいたけど。病み気味のところにこれは痛い
「ど、どうしたの、突然。今日は彼女さんと会ってるんじゃなかった?」
「喧嘩して彼女帰った」
「ケンカ?」
「普通さ、家で会ってたらヤるくね? 彼女、今日はそういうことしに来たんじゃないって怒って帰った」
これまた私的にタイムリーな。というか珀くんはそれしか考えてないの?
「ほんとありえん。別に怒ることなくない?」
「……そうだねー」
上手く返事ができなかった。それを鋭く嗅ぎつけるのが珀くんだ。
「何か言いたそうやけど」
「なんでもないよ」
「陽香ちゃんのさ、そーいう煮え切らない態度、嫌いなんやけど」
嫌い。実際言われるとかなり苦しいものだ。
嫌い、嫌い。頭がぐるぐる回る。声を出せない。
「なんか言ったら?」
頭が割れそうなくらい痛いのに、言葉を紡げないでいるのに、珀くんは追い討ちをかけるように私を貶す。
「男の気も引けないような態度が悪いってわかってる? 陽香ちゃんがおれのこと好きだっていうから、友達として付き合ったあげてるんだよ? いいの? いつまでもおれに振り向いてもらえないよ」
わかってる。全部全部わかってる。私が悪い。なにもできない、私が悪い。だから、これ以上いわないで。
「そもそもありえないからね、十九で男性経験ないとか。周りの子はみんなしてるよ? 陽香ちゃんだけ遅れてるんだ」
今は関係ないじゃん。珀くんに言われる筋合いはない。でも、言い返せない私が悪い。涙と一緒に、ただ嗚咽を漏らすだけの私が。
死んでしまいたい。消えてしまいたい。こんなこと言われなきゃいけないなら、珀くんと出会う前に戻って、二度と出会わないように……いや、私が産まれる前に戻れればいいのに。
涙で視界が歪む。頭がぐちゃぐちゃで、もう珀くんが何を言ってるかもわからない。助けて、お願い、誰か――
ふと、暖かい風が吹いてきて、カーテンが大きく揺れた。反射的に、縋るように、そちらに目をやる。
ひな、ひな。私を呼ぶ声。そこにいないはずの友の声が、忘れるなと言わんばかりに木霊した。
秋なのに、目の前で桜の花びらが舞った気がした。
「ねぇ、陽香ちゃ」
「文ちゃんは」
やっと口に出せたのは、友の名前だった。
「文ちゃんは、そんなこと言わない」
「おれはブンちゃんじゃないし」
そうじゃなくて、“友達”なら互いを傷つけるようなことは言わない、ということだったんだけども。なんだか、否定するのも疲れてきた。
「そうか、陽香ちゃんはブンちゃんしか友達いないもんね。だからなーんにも知らないんだ」
「知らなくない。私は、そ、そういうことは、好きな人としかしたくないし……」
勝手に口が動いてしまう。止まって。珀くんに嫌われちゃう。
「珀くんはそんな感じでも、私は……」
「はぁ……。でもね、陽香ちゃん。ブンちゃんもおれが正しいって言うはずだよ。聞いてみればいいよ。で、考え方が変わるまで連絡してこないでね」
一方的に切られてしまった。シンと静まり返った部屋に、コマさんの鳴き声が小さく響いている。
「コマさん、どうし……うわっ」
先ほどの暖かい風は何だったのか、外は土砂降りで、開けていた窓から雨が侵入してきていた。
「ツイてな……」
一度は引っ込んだはずの涙が、また溢れてくる。勢いに任せて窓を閉め、コマさんを撫でたあと、私はふらふらと傘も持たずに家を出ていった。
*
初秋の雨は冷たい。気温だけでも十分に寒いのに、降りしきる雨がどんどん体温を奪っていく。
けど、これがいい。濡れてしまえば泣いてるってバレない。全部流れて消えてなくなる。
けれど、珀くんの声だけは、いつまでも頭の中に反響して離れない。雨音は大きく、他の音なんて聞こえないのに、まるで耳元で囁かれているかのようだった。
「消えるまで帰れない……」
今、とても酷い顔をしているだろう。誰にも見せられない。下を向いて、あてもなく、ただただ歩く。
小学校の前、お寺の横、知り合いもいない住宅街。とぼとぼ歩いているうちに、ひっそりとした公園にたどり着いた。心も体も疲れていた私には、そこのベンチが「こっちへおいで」と手招きしているように見えた。全身濡れているんだ、どうなろうと変わらない。
「……珀くん」
ぽつり呟いた言葉は、雨音とともに宙に溶けた。もう何度目だろう、涙がこぼれ落ちる。
「…………」
しばらく、ベンチに座ってぼんやりしていた。本当ならすぐにでも歩き出したいのに、なかなか立つことができない。いや、立とうとしてないだけだ。立てても、歩けても、どこへ行けばいいんだろう。
わからない。このまま雨に溶けて、死んでしまいたい。
いよいよ寒さで体も震えてきた頃。ふと雨音が遠くなった。雨が当たらないから、少しだけ暖かくなる。目線を上げると、どうやら誰かが傘を差し出してくれているようだった。
「ひな」
咎めるような、でも心配してくれているような声。目線の端で生成色の上着の裾がひるがえり、その人物が姿を現した。
「……ひな!」
「ふみ……ちゃん……どうして、ここに……?」
「学校帰りだ。なんか嫌な予感がして……もう! バカ、バカ陽香! なにやってんだ、こんな所で!」
「は……珀くんが…………って……」
寒くて思うように話せない。文ちゃんが来てくれた安堵感からか、今までそんなには感じなかった寒さを自覚した。体が小刻みに震える。
「くそ……風邪ひいたんじゃねぇの。ウチ、近いから上がっていけよ。お風呂入れるように言っとくから……すぐ温まって」
「いいよ。このままでいい」
「だーめーだ。ひなが何と言おうと連れてく。誘拐上等、いいから着いてこい」
文ちゃんは、ほら、と手を出す。赤ちゃんみたいな小さな手。私は、ゆっくりその手を取った。
「これで、ひなも共犯な。さ、行こ」
「……うん」
にひひ、と意地悪そうに笑う文ちゃんの顔を見て、また泣きそうになったのは内緒の話だ。
*
お風呂から上がって、服を乾かしてもらっている間、文ちゃんが話を聞いてくれることになった。
あったかいココアとあったかい服のおかげで体力も回復した私は、珀くんとの電話であったことを一通り話した。
「はぁ〜〜〜〜???? なんだそれ〜〜〜〜〜????」
果物ナイフで柿を切り分けながら聞いていた文ちゃんは、般若よりも恐ろしい顔で叫んだ。今、この子に刃物を持たせてはいけないと直感的に思い、そっと果物ナイフを下ろさせる。
「なん……なんっだそれ……は……訳分からねぇ……ほんとに人間か……?」
「残念ながら人間」
「ありえんのはあっちだ。ひな、ひなは自分の主張に自信を持て」
文ちゃんは、立ち上がり続けた。
「だいたいなァ、脳ミソにチ〇コ生やしてるような、全身下半身男の言い分なんてクソでしかねぇんだ! あぁ鳥肌が立つ。地肌まで鳥肌立っちまった。殺すか? 殺しに行くか?」
ほら、すぐ殺しに行こうとする。
「やめてやめて。私はもう落ち着いてるから」
「そうか。ならいい」
どかりと床に腰を下ろすと、文ちゃんは大きな柿にかじりついた。そして、ひなも食えよというようにこちらをじっと見る。
「いただきます」
「もんー」
柿は甘く、みずみずしかった。思わず、美味しい、と呟く。
「そうだろうそうだろう。近所のスーパーで特特売やってたやつだ」
「買おうかな」
「それがいい。旬の味覚は今しか味わえない。甘栗もあるぞ。冷凍庫には秋刀魚もある。なんなら泊まってくか? 一緒に秋刀魚食べようぜ」
「でも、迷惑じゃ……」
文ちゃんは勢いよく首を横に振った。
「ひとりで泣かれた方が迷惑だ。私に出来るのは……話を聞くくらいだから、今日くらいは傍にいさせてくれよ」
「うん……ありがとう」
今は文ちゃんの気持ちに甘えよう。一人でいたら、また珀くんのことを考えてしまって、死にたくなるだろう。
「……むっ」
「え? どうしたの、文ちゃん」
「暗い顔してる。……まったく、女の子にこんな顔をさせるなんて、とんでもねぇ男だよあの野郎は」
文ちゃんは、近くにあったブランケットを手に取ると、大きく広げて私の頭に被せてきた。そして、ブランケットに埋もれた私の手を握り、優しく力を込めた。
「ひな、いいか。きみを悲しませるやつとなんて、関わらなくていいんだ。ひなにはひなの人生がある。苦しまない道に逃げてもいい。縁があれば……またいずれ交わることができる。もしかしたら、また別の人と縁が繋がるかもしれない。だから……だから」
手を握る力が強くなる。こころなしか、声も震えているようだ。
「だから、お願いだ、ひな。わたしの大切な友よ。ひなはひなで、素敵に咲き誇るんだ。誰にも縛られるな。このままじゃいけないと思っているなら、どうか……」
切実な願い。私は、今までどれだけ文ちゃんに心配をかけてきたんだろう。
「あの、文ちゃん……」
「謝るのはひなじゃない。あのクソだ。アレにはいつか、地面に額を擦って『私は人類史の汚点です、不躾な発言をしてしまい陽香さま申し訳ございませんでした』って言うまで裸吊りにす」
「お願いだからやめて」
モゾモゾ動いてブランケットから出ると、すぐ前にいた文ちゃんと視線がぶつかった。真っ直ぐに据わった目。マジなやつだ。珀くんが北海道に住んでいなくてよかったと心から思った。
「それでもまだ庇うんだな、あんなやつを」
「庇う庇わないの問題じゃなく、文ちゃんがやろうとすることが過激すぎるんだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
心外なんだろう、文ちゃんは驚いた顔をして少し考え込んでいた。
「まぁ……もしこの件でひなが自殺なんてしてたら、あいつの住処まで行って息の根止めてたし、もぎとってたし、なんならひながアレと出会う前まで時間戻してたかもしれない」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃない。それほど、ひなが大事なんだ」
「そっか。ありがとね、文ちゃん」
今、死んでしまったら。たぶん、文ちゃんの手によって世界がやばいことになるだろう。私のためなら、平気でやばいことをしてしまうのがこの子だ。それだけは何としてでも阻止しなければ。
「だから、キケンなことはしないでね」
「ひながそう言うなら善処する」
私の手を握ったまま文ちゃんは微笑んだ。その緩みきった顔につられて笑いながら、私も彼女の小さな手を握り返した。
*
その日の深夜。
文ちゃんが規則的な寝息を立てる横で、私はスマホの電源をつけてメッセージアプリを開いた。今までお世話になりました、なんて呟きながら、そのアプリをアンインストールする。
最後に見た画面には、三十六分といういつもよりかなり少なめの通話時間が表示されていた。
『考え方が変わるまで、連絡してこないでね』
わかったよ珀くん。一生考え方は変わらないから、もう連絡はしない。これは誰より……珀くんが望んだことなんだよ。
アンインストールが終了すると、ホーム画面にはそのアプリがあったところだけ、ぽっかりと穴が空いていた。途端に、何故か寂しくなって、涙が溢れてきた。
諦めたんだから、早く止まってくれないと困る。もう珀くんのことで泣きたくなんかないから。次泣く時が来るなら、その時を待ってもいいなら、また珀くんと――
いや、やめよう。後のことを考えてもいい事はない。今は目先の楽しいことを……例えば、アイドルのライブに行ってみる、とか。
珀くんがいなくても、生きていける何かを探さないと。
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