《1話 彼女じゃない》

 ――絶交するか友だちのままでいるか、選んでよ。

 黒く濁りきってしまった心に、その言葉が重く突き刺さった。大好きな彼の声。それが今は、何より辛く苦しい。

 乱れた呼吸と心拍とは裏腹に、思考は至って冷静だった。彼女の話も聞いてくれる友だちが欲しいの、と宣う彼に、なんてわがままな男なんだと考えられるほどには。

 ねぇ、どうするの?

 彼が迫る。私は、えー、あー、と適当に返事をして、頭を巡らせた。

 離れたくない。たとえ、この気持ちが実らないのだとしても。大切な彼を、失いたくない。

 陽香(ひなか)ちゃん、と彼が呼ぶ。追い詰めてくるくせに、あくまで優しい優しい声で呼ぶのだ。ずるい。そういう所が、私に“その”選択をさせてしまう。

「じゃあ……友だちのままでいる」

 この回答が、全ての……いや、彼と出会ってしまった時点で、波乱は始まっていたのかもしれない。



 六時。まだ太陽も登りきらない朝の始め、枕元に置いた携帯が着信音を奏でた。

 眠たい目を擦って画面を見ると、そこには「陰山珀」と表示されていた。思わず頬が緩む。

 一呼吸置いてから応答ボタンを押すと、多少のノイズと衣擦れの音の後に、不機嫌そうな彼の声が聞こえてきた。

「おそい」

 そんなこと言われても。画面を見て、にやっとして、一呼吸置いたとしても五秒やそこらだ。

「ごめんごめん」

 笑いそうになるのをこらえながら、適当に応対する。しかし、それが彼の機嫌を更に損ねてしまったようで、彼は長いため息をついた。

「次からは三秒で出て」

「三秒かぁ」

 相変わらず理不尽だ。むしろ、相変わらずすぎて安心した。今日も彼は彼だ。私の“友だち”の珀くん。実際に会ったことはない、いわゆるネッ友というものだ。でも珀くんは、ネッ友なんて言葉じゃ収まらないくらい仲がいいと自覚しているし、中学からの友だちの次に付き合いも長い。年齢も珀くんの方が五つ上で二十四歳だけど、そんなの気にならないほど何より……私は彼のことが好きなのだ。

「ねぇ陽香ちゃん」

 名前を呼ばれて、寝起きの心臓が飛び跳ねた。私は、この声にめっぽう弱いのだ。

「なに?」

 冷静を装って返事をする。これに返事をしないでいると、いつまでも呼んでくるからしんどい。

「聞いてよ。昨日彼女がさ――」

「あー」

 浮かれていた気分が少し沈んだ。

 そう、珀くんと私は恋人同士ではない。珀くんにはついこの前できたばかりの彼女がいる。可愛い女の子。とてもじゃないけど、横取りするなんて出来ないし、珀くんが幸せならそれでいいやと思うこともある。そもそも……この状況を選んだのは私自身だ。文句なんて到底言えない。

「でさ……聞いてる?」

「え、うん、聞いてる聞いてる」

 ほぼ聞いてなかったが、相槌や返事さえしておけば勝手に話してくれるから流しておく。

 電話口から聞こえる彼女の話。こんなことを言っていた、あんなことをしたって、私が珀くんに望んでいたことを与えてもらっている彼女が、羨ましく思えた。

 もしも、あの子の立場になれるなら……いや、そんなこと考えても意味がない。今の私にできること、つまり珀くんの惚気話を聞くことを精一杯やっておこう。いつか、報われる日が来るかもしれないのだから。

 刻々と、朝の穏やかな時間――私の内心は穏やかではない――が過ぎていった。仕事で行った営業先の話、推しのアイドルの話、面白かったアニメの話など、珀くんはいっぱい話してくれる。だから、一時間や二時間なんてすぐに経ってしまう。通話は六時から始めたのに、今はもう八時を回っていた。そろそろ終わりの時間だ。

「仕事行く準備しなきゃ」

 会話が途切れたタイミングを見て、私は言った。電話の向こうでは、珀くんがグダグダ文句を言っている。出来ることならこっちだって切りたくないわ! と思いながらも、口には出さずただ謝り倒して電話が切れるのを待つ。自分から切らないのは、彼の機嫌を損ねないためもあるけど、少しでも長くこうしていたい気持ちがあるからだ。

「もういいよ。行ってくれば」

 しばらくの押し問答の後、ブツン、と電話が切れた。ごく稀に、この瞬間に「行ってらっしゃい」と言ってもらえることがあるけど……今日はそんなに機嫌が良くなかったみたいだ。残念ではあるが、無言で切られる時よりは何百倍もマシだった。

「さて……準備するか」

 緩んだ頬を一発叩いて、私はベッドから立ち上がった。



 仕事は、あくまで真面目にやっているつもりだ。上司に怒られたこともないから、その解釈で間違えていないんだろう。まぁ、風体が真面目だとしても、頭の中では今朝や昨晩の電話を思い出しているけれど。ただパソコンのキーボードを叩くだけの仕事だから、こうでもしないとやってられない。人生、逃げ道はいくらでもある……これはもう一人の友人がよく言う言葉だ。まさにその通りだと思う。辛くならない逃げ道を探して探して、今の珀くんとの“友だち”という関係があるのだから。

「やってられないな……こんなの」

「ほんと、やってらんないわよね」

 隣の席から、一人の女性が顔をのぞかせた。金野茉里さん……私がこの会社に入った時から、教育係としてついてくれていた先輩だ。面倒見がよくて、彼のことについて相談に乗ってもらったり、助言をしてもらったり……何かと手助けしてくれるいいお姉さん。ゆるく巻いたチョコレート色の髪の毛とか、上から下まで隙のないプロポーションとか、ちょっと鼻にかかる可愛い声とか……全女性の憧れ、というもの全て持っている。

「ごめんなさいね、聞き耳たててたつもりはないの」

 茉里さんが柔らかく微笑むと、背景に花が咲き誇る。私はなんとなく目を逸らした。

「いえ……私も口に出してたとは……」

「また、あの坊やに悩まされてるのかしら? あなたも大変ね」

 はい、まぁ……と曖昧な返事をして、視線を更に下へ向けた。茉里さんの細い足首と小さな足が目に入る。

「男はね、好きな子は困らせたくなるって知ってた?」

「珀くんには困らされてますけど、私のこと好きなんじゃないと思いますよ。彼女いますし……」

「人間、同時に二人を好きになることだってあるわよ。ヒナちゃんが選ばれなかったのは、条件が揃っていなかっただけ」

「条件……」

 まぁ、私が住む北海道と彼が住む今日ととじゃあまりにも距離が離れすぎている。もし、茉里さんの言う通り同時に好きになって、あの子が彼女に選ばれたのは……やっぱり距離なんだろうか。

「会ったことも……ないしなぁ」

「会えばいいってもんじゃないわ。会わないからこそ通じるもの、会わないからこそ得られるものもあるはずよ」

 それでも、あの子が彼女になってしまったのは事実だ。珀くんの中に好きな人が二人いたとしても、彼女の座に就けるのは一人だけ。その席はもう埋まっている。

「話せてるだけで幸せですから……」

「ヒナちゃんがそう言うなら、いいのよ。自分の幸せなんて、自分にしかわからないもの。痛みを抱いて初めて、失い難いものだったと知ることもある……だから、ね?」

 そう言うと、茉里さんは綺麗なウィンクを残して持ち場に戻ってしまった。この人が含みのあるもの言いをするのは毎回の事だけど、今日は何だかいつにも増して含みがあったように思う。

 私は、このぬるま湯の中で、何か大切なものを見落としているのだろうか。だとしても、今の私にそれがわかるわけない。自分から現実に目を背けている今じゃ、理解する価値さえないのだから。

 難しい。珀くんと向き合うことが、こんなにも難しいことだなんて思いもしなかった。本当に私は、私たちはこのままでいいのか? 感情の起伏、一日のやる気、二十四時間の思考のほとんどを彼の言葉に握られていて、いいのだろうか?

 葛藤とともに生まれたこれら疑問の答えは、どれだけ考えても出ることはないのだった。



 夜は比較的自由な時間が過ごせる。珀くんから電話がかかってくることもあるけど、今日はもう夜も更けてきた。恐らく、彼女でもなく私でもない、他の女の子と寝落ち通話でもしているのだろう。勘だけど、そんな気がする。彼は、平気でそういうことをする人だ。

「なんとも……思わないのかな」

 思わないのだろう。きっと、自分が良ければそれで良いんだ。結果誰かが悲しむ羽目になっても、自分が悲しむわけじゃないから……というより、悲しんでいる誰かを見つけることができないのか。

 それでも彼のことが好きだと言えるなんて、私はどれだけ盲信的な恋をしているんだ。周りからは、さぞ愚かな女に見えていることだろう。実際、友人は私が相談をする度に哀れみを込めた目で見てくるし、母親も、顔を合わせたこともない相手に日々悩まされている娘を心配している。

 ほんと、色んな人に迷惑をかけている。見捨てないでいてくれる人たちに、心から感謝をしなければ。

「……電話は来ないか」

 考え事をしながら待ってみたが、着信音が鳴る気配は一向にない。どうやら、最初の私の予想は当たっていそうだ。

 珀くんから電話がこないなら起きている意味なんてない。ちょっと眠くなってきたところだし、そろそろ寝よう。うつ伏せの状態から仰向けになり、枕に頭をつけたところで……ピコン、とメッセージの通知音が鳴った。

「珀くん?」

 期待を込めて画面を見たが、そこに表示されていたのは、彼の名前ではなかった。漢字二文字が並んだその名前は、よく見覚えがある。

「ふ、文ちゃん……? 早寝遅起き精神の文ちゃんが……こんな時間にどうしたんだろう」

 文ちゃんこと蕚文(はなぶさ ふみ)は、私の中学時代からの友人。特に私のことを応援する訳でもなく、むしろ珀くんのことなんかは嫌っているようにも見えるけど、なんだかんだ話を聞いてくれる良き理解者だ。

『ひな〜! 明日のこと忘れてないよね?』

 文ちゃんからのメッセージには、こう書いてあった。

 忘れるはずがない。明日は、文ちゃんとの月イチ定例近況報告会……つまり遊ぶ日なんだから。

『忘れてないよ〜十時半に、いつものバス停でしょ?』

『うん。楽しみにしてる♡ じゃあオヤスミ〜♡』

 珍しい。いつもは前日に確認なんてしてこないのに。文ちゃんにも何かあったのか、それともただの気まぐれか。付き合いは長いが、まだまだわからないことだらけだ。

「さて……寝坊したらボコられそうだし寝ますか」

 珀くんから連絡がなかったのが少し寂しいが、明日も早いし、今度こそ寝よう。

 部屋の電気を消すと、私はすぐに眠りの淵へと落ちていったのだった。



 朝五時。深く眠っていた私は、今日も着信音で目が覚めた。そして、時計を見てびっくりした。

「えっ、早くない? あ、三秒!」

 開ききらない目を擦る暇もなく、昨日の約束通り三秒で出ることを目標に応答ボタンを押した。

「も……もしもし」

「四秒。おしかったね」

 ケラケラと笑う声が聞こえる。今日は、そんなに機嫌が悪いわけではなさそうだ。

「おはよ、陽香ちゃん」

 朝の挨拶をしてもらえるとは。これは相当ご機嫌が良いのでは。

「おはよう、珀くん。なんか……今日は早かったね」

「ダメやった?」

「いや、そうではなく。珍しいなって」

「あーまだ五時なんだ。今気づいた」

 まさか、目が覚めてすぐにかけてきたのだろうか。しかしまた、どうして……。

「いやぁ……昨日寝落ち通話した女の子さ、声はすっげー可愛くて癒されたんやけど、さっき起きてみたらめっちゃイビキうるさくて。思わず起こす前に切っちゃったよね」

「そうなんだ」

「そ。で、陽香ちゃんの声で浄化したろー思って、電話かけたらまだ五時だった」

 なんて可愛い生き物なんだ、珀くんは! 私の声で浄化ができるとは思わないけど、朝起きて真っ先に浮かんだのが私だなんて、嬉しすぎる。この言葉だけで、今後一週間分くらいの理不尽は笑顔で許せる気がする。

「ごめんねー、こんな早い時間にかけちゃって」

「いや、だいじょう――」

「まっどうせいずれ起きるんだし、時間なんて関係ないか」

 前言撤回。うーん、なんてわがままな生き物なんだ、珀くんは……。私は呆れ半分で、ケラケラ笑う珀くんの声を聞いていた。人の気も知らずに、いや、知ってるか。知ってるくせにこの様子だ。

「朝はやっぱり陽香ちゃんだよね」

「彼女は?」

「彼女? まだ寝てんじゃん」

 私も寝てたんですけどね! いいや、何言っても無駄そうだし、電話してくれただけ幸せだ。

「陽香ちゃん、今日も仕事?」

「いや、今日は遊びに行く」

「誰と?」

「文ちゃん」

 たぶん、珀くんとの電話で名前を出されることを良くは思っていないだろうけど、隠したり嘘をついたりすると機嫌を損ねるから……ごめんね、文ちゃん!

「ふみ……あぁ、ガクブンちゃんね」

 彼女の苗字『蕚』がガクとも読めることから、珀くんは文ちゃんをガクブンちゃんと呼ぶ。本人に知られたらブチ切れて京都まで珀くんを殺しに行きそうだから、黙っておこう。そもそも……珀くんが何をしようと、文ちゃんはブチ切れるのだが。

「で? 俺は連れてってくれないん?」

「来れないでしょ」

「えー行きたいんだけどー。陽香ちゃんと遊びたい」

 そう言われましても、あなたは京都にいるでしょうが。私がいるのは北海道だ。どうやって今から来るというのだ。飛行機か? どこでもドアか?

「いつか会いに来てね」

「いつかね」

「いつかっていつ?」

「いつかだよ」

 私たちは哲学者なのか。こんなやりとりも、もう何回目だろう。珀くんに彼女がいるうちは彼女に申し訳なくて会えないし、私も自分に自信が持てるまで会うつもりはない。会いたいって思わないの? と聞かれたこともあったけど、そんなの会いたいに決まってるじゃん。でも、こっちにも事情があるんだ。というか、そんなに会いたいなら自分からこっちに来なよ、と思うんだけども……。会いに来られたらちょっとこまる私もいる。

 だらだらと、いつものように電話を続けて、また時間が過ぎていった。今日は彼女の話は少なめで、さっきまで寝落ち通話していた子がいかに(悪い意味で)ギャップの激しい子だったのかを力説された。途中でイビキの真似をしだすものだから、早朝にも関わらず声を上げて笑ってしまった。その後は、いつも通りゆったりとした時間が流れていた。

 八時。いい加減、準備をして文ちゃんとの待ち合わせに行かなくちゃ。

「珀くん、そろそろ……」

「いっつも陽香ちゃんから電話切るもんね。いいよ。行けば。ガクブンちゃん待ってるよ」

「うーん、まだ待ってないと思うけど。行ってきます」

「行ってらっしゃいー」

 ブスッとはしていたけど、行ってらっしゃいと言ってもらえた。これが仕事の日なら、一日頑張れるんだけどなぁ。まぁいいや。早速、文ちゃんに報告しよう。

 私は、ルンルン気分で出かける準備を進めていった。

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