第20話


「…東雲」


 襖を開けると、髪は乱れやつれた東雲が窓際に座っていた。


 東雲は夕霧にちらりと目をやると、何も言わずにまた窓をみる。夕霧は黙って東雲の横に座った。二人の間にしばらくの沈黙が流れる。外の喧騒がよく聞こえた。すると東雲が口を開く。


「……馬鹿だと思ってるだろ」


 東雲は月を見上げたまま言う。どう言っていいか分からない夕霧はキュと口を結んだ。ただ、東雲を見つめるしかなかった。


「二人でさ、逃げようって言ったんだよ」

「……うん」


 夕霧は畳に金平糖を置いた。東雲は白い金平糖を摘むと、指でコロコロと弄りながら言う。


「裏の小路で落ち合おうって。」

「うん」

「どうなったと思う?」


 突然の問いかけに夕霧は、分かんないとポロリと溢れる。


「来なかったんだよ」


 東雲のハッと乾いた笑いが部屋に響いた。なにも、気持ちは笑っていないのに、顔と声だけ、軽やかに笑う。


「そんで、突っ立ってるまま御用だ。なーんにも抵抗する気も起きなかった」

「……」

「あの野郎、怖気付きやがった……」


 語尾になるにつれて、声が震えた。月夜に照らされる東雲の頬には涙が伝っている。


「馬鹿だよな……馬鹿だよ……」

「東雲……」

「到底身請けできる野郎じゃねえ、だけど、あの野郎と幸せになりたいと思っちまったんだ」


 本当に馬鹿、と畳にぼたぼたと涙が落ちた。


「東雲……」

「愛してるんじゃなかったのかよ……」


 片手に握られた硝子の簪を見る。


「いっそ死んでしまおうか」


 東雲はキラリと光る簪を喉に突き立てた。その瞬間、夕霧は簪を東雲の手から奪い、窓の外に投げた。外からは、あぶねえだろばかやろうと怒鳴り声が聞こえる。


「なにすんだ!」

「いるのかい、あの簪」

「だって、ありゃあ……」

「女が死ぬ気で覚悟したっていうのに、怖気付いた野郎の簪に、東雲は殺されるのか!」


いつにないはっきりとした言葉は、東雲の心に刺さった。東雲は、どこかでまだ、情夫への気持ちを捨てきれていなかったのかもされない。そのことを、今自覚した東雲は、また、ああそうか、馬鹿だなあと呟く。


「……東雲、逃げよう」

「そんな……嘘だろう」


 夕霧は、東雲の両手を握りまっすぐな目で言った。


「東雲ならその綺麗な声で、きっとどこの街でも生きていける」

「街に出られやしないのに」

「私が笛を吹こう。東雲は歌おう、きっと、2人でやって行ける」

「夕霧、なにを……」

「本気だよ」


 和紙からザラリと金平糖がこぼれる。畳に溢れる白色と桃色の金平糖は、端まで転がっていった。まばらに転がった金平糖は、畳の上に星空を作った。

そんなことは気にも留めず、夕霧は話し続けた。


「夕霧……?」

「……あの狸親父は、金魚は鉢でしか生きられないと言った。池じゃあ烏に食われると」


 今までにみたことのない夕霧の姿に東雲の涙は引っ込んでいた。瞳は凛とした雰囲気をまとい、東雲を見つめる。


「そんなこたぁない。わたしたち2人なら、きっと、外の池でも生きていける」


 そう力強くいう夕霧は、足抜けで折檻されたばかりの東雲でさえ揺らぐほどであった。


「……どうやって」

「考える。逃げられる方法を」


 絶対、と付け加えた。東雲は、月夜に照らされた夕霧が初めて男に見えた。


「……絶対?」

「だから、死ぬなんて考えちゃダメだ」


 生きよう。その夕霧の強い眼差しは、東雲に染みる。


「わたしたちなら、大丈夫」


 東雲のおでこにこつんとぶつける。


「……ほんとうに、夕霧も馬鹿」


 そう言って流す東雲の涙は、絶望の色に、希望が少しだけ混ざっていた。

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