第19話

 

 いつも通り喜八は、夕霧になにもしなかった。そんな喜八をどこか寂しそうに夕霧は見送った。さて休もうかとした時、ほかの遊女たちがざわついているのが、遠目に聞こえる。

 そのざわつきは尋常じゃなく、普段は滅多に話しかけない夕霧が何事かと他の遊女に話しかけた。


「ああ夕霧か……東雲が情夫と足抜けしたんだよ」

「失敗してあのざまだがね」

「東雲が……?」

「馬鹿だね、東雲も……」


 そういい、庭を見ると下男に髪の毛を掴み引っ張られ、小屋に引きずられる東雲の姿があった。すでに何度か殴られているのか、反抗する様子はない。綺麗だった黒髪は乱れ、白い足は傷と土がついていた。


「東雲!」

「やめな!夕霧!」


 咄嗟に飛び出そうとする夕霧を他の遊女が諌める。


「やめときな。東雲が悪いんだ、分かってるはずだろ。わたしらが籠の中から出れないなんて」

「そんな……なんかの間違いだ、東雲が……」

「あの東雲が夢追いかけるたァ驚いたな」


 小屋の戸が勢いよく閉まると死ななきゃいいけど、と集まった遊女たちが散り散りになって行く。その中、ぽつりと夕霧だけが残った。


「東雲……」


 戸から下男が出てくると夕霧に、部屋に戻れ、近付くなと声を荒げた。後ろ髪を引っ張られる思いで部屋に戻るが、先ほどの光景をみたら気が気ではなくなった。


 いつかの夜、情夫は割り切らないとと月光に照らされた東雲の姿と、愛おしそうに簪を撫でる姿が思い出される。夕霧には分からない。……いや、分かってたのかもしれない。あの夜の悲しげな顔は、きっと自分では埋める事の出来ない穴があった。

 東雲の葛藤があったのだろう。それに気付かなかった夕霧は自分を責める。


 しかし、自分も籠の中の鳥。手助けもなにも出来るはずがない。自分の無力さに、夕霧は下唇を噛んだ。ろうそくを消し布団に横になるが、当たり前に寝付くことなどできなかった。少し小腹であれば凌げるかもと、袖に喜八からもらった金平糖しかなかったが、少しでも食べたほうがいいだろうとこっそりと廊下を歩く。


「誰いないよな……」


 当たり前に飯など与えられているはずがない東雲にと、小屋へと行くために、縁側を降りた。少しの砂利の音も、今は騒音に聞こえる。


「おい」


 後ろから楼主の声がした。びくりと肩を跳ねさせれば、追い討ちをかけるように話しかける。


「夕霧、近づくなと言ったはずだ」

「……」

「はっ、なに睨んでやがる」


 煙管の煙を漏らしながら、夕霧を見下ろした。


「てめぇも折檻されてえのか」

「……すぐ戻らぁ」

「おい、口の聞き方に気をつけろ」


 見つかってしまったなら押し切るわけには行かないと、部屋に戻ろうとする。肺いっぱいに煙管の煙を吸うと、ひんやりした夜空に薄い雲を使った。夜空を見上げたまま、楼主がが口を開いた。


「……なあ夕霧」

「……なんですか」

「俺の飼ってる金魚がなア」


 そう、楼主は話し始める。


「金魚が、生き生きすれば、と水を足したんだ」

「……金魚」


 楼主のいう、“金魚”が何を指しているかはすぐに分かった。東雲の入った小屋からはなにも物音がしなかった。


「水が溢れちまった。……金魚は、水の中を、長えヒレをなびかせて綺麗に泳いで見せなきゃいけねえのに、外に出ようと飛び跳ねちまった」

「……」

「水が無くなって、地面でぴちぴち跳ねてよ。おっ死んじまった」


 可愛そうだよなぁ、と煙を吐きながら、楼主はその立派な袖をぱたぱたと振る。深く煙管を吸うと、その大きい口から大量の煙が吐き出された。楼主の言う金魚が、東雲たち遊女だということは夕霧にも伝わった。悪びれた様子もなく、平気な目で煙管を蒸し、小屋を見る楼主に夕霧は言う。


「俺の馬鹿な金魚は一瞬でも勘違いしたのかね。外でも生きれる、なんて」

「何が言いてえんですか」

「所詮、水の中でしか生きていけねえんだよ」

「……ケチな狭ぇ鉢じゃなくて、もっと広いとこが良かったんじゃないですか?」

「……ああ?」


 楼主の鋭い目が、夕霧を刺す。それに負けじと、夕霧もたじろぐ事なく、ジイと目を見つめる。


「外の池にでもはなしゃあ、生き生きしただろうに」

「……外だあ?」


 そういうと、楼主は横目で夕霧に目をやる。


「赤が目立って烏に食われらァ」


 てめぇも口が立つようになったとクツクツと笑う。その様子に心底腹が立った夕霧は、小屋にいる東雲が気になりながらも廊下を歩き始めた。


「おい夕霧」


 夕霧は振り返り、楼主を睨んだ。


「おめぇは、溺れるんじゃねえぞ」


 夕霧は、袖に入った金平糖が何故か重く感じたのであった。

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