第13話
夕霧の部屋は、店でも1番奥の部屋になった。普通あれば最初は年上の遊女につき禿として働き遊女になるのだが、男である夕霧はそういうわけにいかない。影でひっそりと育て、客を取り、金を巻き上げる。守銭奴な楼主らしい、ひどいものであった。
「餓鬼のお前に一人部屋なんて贅沢だが……仕方ないだろ」
「……」
「さ、着替えるぞ。 」
そういって楼主は一式、新しい着物を持ってきた。花の柄がついた赤い着物に、腰巻。髪もこれから伸ばすんだからな、と簪をジャラリと置く。裾などが土で汚れた着物を、脱がされてゆく。これまでの外での生活が、ばりばりと剥がされていくように感じた。楼主が、華やかな着物を夕霧に被せると、夕霧は勢いよく楼主の手を払った。楼主の眉が、ぴくりと動く。
「やっ……」
「なんだ?」
「やめろ……」
「アア?」
目の前に広げられた女物の着物、簪。ふわりと漂ってくる香りは、大根についた泥の匂いでも、振り回して怒られた木の棒の匂いでも無かった。甘く、むせかえるような、“女”の匂いだった。かまどと、ご飯の、母の匂いではない。おしろいの匂いと花の匂いは、幼い夕霧にとっていい匂いではなかった。
夕霧はようやく事態を飲み込んだ。いや、確実には、飲み込みたくはなかったのかもしれない。心臓が早く脈を打つ。
このままでは、本当に女になってしまう
早く逃げなきゃ
その思いだけで、全速力で玄関の方へ走った。うしろから楼主の怒鳴り声が聞こえた。まだ五つ六つの子供である、あとのことなんか考えてはいない。考えられる余裕があるはずがなかった。
小さな足はもつれそうになりながら、息を切らし走り始めた。廊下にたむろしている遊女らの合間を駆け抜けていく。赤、緑、青、白。遊女の着物が線に見えるほど走った。きっとそれほど早く走っていなかったが、まだ小さい足で、冷たい廊下を走った。
あと少しで外だーーー
その瞬間、夕霧の頭に痛みが走る。風景が止まった。夕霧の足も、止まっていた。
「馬鹿野郎!」
後ろから楼主が髪を引っつかんで捕まえていた。
「ぐっ、うぅぅ」
「てめえ、逃げれると思ってんのか!」
歯を食いしばり大きな目から涙をボロボロと落としながら髪を掴まれた手を解こうと掴む。小さな手でいくら叩いても、楼主のがっちりとした大きな手は、夕霧にとって岩のように感じた。
「やめろ、やめろよぉ」
「てめぇは売られたんだ!覚悟決めろ!」
「売られてなんかねぇ、お母とお父のとこに返せ!」
夕霧の小さな手が、楼主の手を引っ掻いた。猫に傷つけられたような、赤いミミズ腫れがじんわりと浮いた。
「てめぇ……」
「はなせ!」
「血も繋がってねえ親……これからくる客の誰かに本当の“お父”がいるかもなあ!」
「うるせえ、うるせえ!!」
足をバタバタと暴れさせ抵抗するも虚しく、髪を掴み引きずられながら今走ってきた道を戻る。そのひどい言葉と様子に廊下にいた遊女は袖で口を覆い眉間にしわを寄せていた。しかし、それを止めるものは一人もいない。
「よくあんなひどい言葉が出てくるもんだよ」
「あんな年端もいかない小僧を……」
「あのタヌキジジィ、地獄に落ちるよ」
「女じゃ飽き足らず男も駆り出してきてまで、金が欲しいかい」
畜生の極みだよ、とヒソヒソ話している。
「てめえら聞こえてるぞ!見せもんじゃねえんだ!」
楼主がそう叫ぶと、これから見世物にするやつが何いってるんだいと、またもやブツクサいいながら自分の部屋へ戻った。
「いかないで!たすけて」
「うるせえ!」
遊女が助けてくれる…助けられるわけもなく夕霧は虚しく、奥の部屋へ連れ込まれた。
部屋に投げ込まれ、逃げたら承知しねえぞ、と啖呵切られる。
閉まる襖が、遮られる光が、何故か一生開かないもののように夕霧に感じさせるのであった。
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