第2話 水色の帽子
営業成績を上げなければいけないのに、中々売れない。俺はくさくさしながら次の客先へ向かって歩いていた。この先のバス停からバスに乗ってと思っていたら頭に何か落ちて来た。
「いてっ!」
頭に手をやると、ぬめりとした感触がある。手に血が付いていた。足元に帽子が落ちている。布製の、オーガンジーというのだろうか、薄く透けた生地で出来た帽子だった。軽そうな帽子なのに、これぐらいで頭に怪我をするだろうかと拾ってみたら、真珠のブローチが付いていた。
すぐそばに立っていたマンションを見上げる。高層階から落ちてきたら、頭に怪我くらいするだろう。
スマホで時間を確認する。次のお客さんとの約束まではしばらく時間がある。
俺はマンションのエントランスに入り管理人に文句を言った。
「おい、ここのマンションから帽子が落ちてきて、怪我したんだけど」
カウンターに帽子を叩きつける。管理人が迷惑そうに俺を見て、
「それ、本当にうちのマンションから落ちて来たの?」
「はあ? そりゃあ、落ちる所は見てないよ。でも、そこを歩いていたら落ちて来たんだから、こちらのマンションでしょ」
俺と管理人が言い争っていると電話がなった。電話に出た管理人は話しながらチラチラと俺を見る。
「この帽子の落とし主が降りてくるからそこで待ってて」
とオートロックのドアを開け、歓談用のソファの方へ手を振って見せた。
謝りもしない。
俺は帽子を手にソファにどかっと座った。ハンカチを傷に当てる。
「あの、ごめんなさいね。うっかり落としてしまって」
エレベーターが開いて、上品な老女が出て来た。帽子と同じ生地でできた水色のスーツを着ている。
「気をつけて貰わないと困るんだけど。ほら、俺、怪我したんだよ」
血のついたハンカチを見せる。
「本当にごめんなさいね。あの、怪我を見せて貰える? 管理人さん、消毒薬持ってない?」
無愛想な管理人が救急箱を持って来た。老女は慣れた手付きで俺の頭に消毒薬を降りガーゼで抑えた。
「大丈夫、これくらいの傷なら血はすぐに止まるわ」
「あんたね、これくらいって、痛い思いをしたんだよ。どうしてくれるんだよ」
「本当にごめんなさいね。一人暮らしなものだから、昔の思い出に浸るぐらいしか楽しみがなくて。あの、これ少ないけど御礼です。この帽子についてるブローチ 、昔、主人が買ってくれた物なの。無くならなくて本当に良かったわ。だからね、こちら、僅かだけど御礼とお詫び」
老女が白い封筒を出した。中に三万円入っている。
「え? これ、悪いけど貰いすぎ。俺、タカリじゃないから。ただ、その、嫌な思いをしたから誠意を見せて貰えばいいんだ。俺、これから仕事だし、まあ、タクシーに乗ったら間に合うからタクシー代だけ貰っとく」
「あら、そういう訳には行かないわ。どうか、貰って下さいな」
それから、貰う、貰わないという話になって、結局俺は貰って帰った。
以来、仕事の合間に時々手土産を持って老女を訪ねるようになった。買い物の手伝いをしたり、話し相手になったりしている。老女は博識な人で、なかなか売れない、仕事がうまくいかないとこぼすと、いろいろとアドバイスをしてくれた。彼女の言った通りにすると、大口の契約が取れ、上司に褒められた。彼女は幸運の女神のようだ。俺にも運が向いて来たかもしれない。
管理人は時々老女を訪問するようになった若者を見てニヤリと笑った。彼女が帽子を落として若者を引っ掛けるのは何回目だろう。引っ掛かった若者は彼女にいいように使われている。若者を自由自在に使うテクニック。さすが元銀座ナンバーワンホステス!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます