【第三章】◆希望《ぜつぼう》の中の光

 午後八時。約束の時間を迎えてデッキに出ると、視界には黒い空と黒い海が広がっていた。今この場所に、俺以外には人っ子一人いない……

 だが、時間と場所を指定してきたのは向こうだ。必ず敵はやって来る。

 いや、もしかすると、もう既に。

 俺は闇の中で目を凝らす。

 どこに潜んでいるかは分からない。さいかわでも見つけることはできないだろう。

 なぜなら敵は、ができる相手だ。

 たとえば、シャルと話した中でも出てきたワード──光学迷彩。斎川の左眼でも見つからなかったんだ。であれば、敵はそういった、人の視界から消える技術を備えた相手。

 そして俺はあの三年間の中で、

「回りくどいはもう沢山だ。とっとと出て来いよ──《カメレオン》」

 俺は見えない敵をにらみつける。

 なつなぎなぎさは、返してもらうぞ。

「はは、随分なご挨拶ですね」

 ふと、なにもない空間から声が漏れ出てくる。

「ここまで長い時間待ってあげたのは私の方だというのに。まったく、相変わらず礼儀のなっていない男だ」

 デッキの一番端、黒い海を背にしてそいつは顕現する。

 一瞬空間がねじれたようにゆがみ、やがて人としてのシルエットが浮かび上がった。

 照明が当たった先には、銀髪でアジア系の顔立ちをした、細身の男。そしてその男の口からはコウモリと同じく、触手のような《舌》が生えている。

 こいつが、夏凪を誘拐した犯人──カメレオン。

 長い舌に、周囲の景色に同化して能力、まさしくその異名はふさわしい。

 俺はあの三年間の中で、この男と事を構えたことがあった。

 その時は、さっきまでと同じように姿は一切見せず、声だけでその存在を匂わせていた──こいつの姿を目にするのはこれが初めてだ。

「久しぶりの再会に二、三、ごとでも交わしてあげたいところなのですが……私も随分と待ちくたびれたのでね。早速本題といきましょうか」

 カメレオンが言うと、渦を巻いていた舌の中に、一人の人物がぼんやりと浮かび上がる。

「夏凪!」

 俺が駆け寄ろうとすると、触手のような舌は夏凪をきにして高く持ち上げる。

「おっと、そこを動かないでもらえますかね」

「くっ……」

 伸ばせば十メートルにも届きそうなグロテスクな舌が、なつなぎ身体からだを船外まで運び、海の上にちゆうりにする。

「う……」

 意識がもうろうとしているのか、夏凪は目を閉じたまま苦しそうにうめく。

「待ってろ、今助ける」

 俺は腰のホルスターに手を伸ばす。

「はは、少しは落ち着いたらどうですか」

「うるせえ、さっさとその汚物を口の中に戻しやがれ。舌をい忘れて可愛かわいいのはゴールデンレトリバーだけだ」

 舌を出したまま器用にしやべってんじゃねえよ。

 俺はいらちのままに拳銃を引き抜き、セーフティを外す。

「ほお、随分と威勢がよくなりましたね。あのメイタンテイの影でしかなかった、あなたが」

「回想シーンにでも入るつもりか? 早速本題に入るって言ってたのはどこの誰だよ」

 ……だが、それから沸騰した頭を冷ますように、俺は質問を繰り出した。

「お前の目的はなんだ?」

 もちろん、夏凪は早く助け出さなければならない……だが俺にはそれと同時に進めるべき仕事もあった。

 ──それは、時間稼ぎ。

 今、この客船の乗客たちを、さいかわ主導のもと救命艇で海の上へ逃がしているところだった。この船のオーナーとして、あるいはトップアイドルとしての斎川のカリスマ性に賭けた作戦……だが全員の避難には、まだ時間がかかる。夏凪の保護と、乗客全員の避難のための時間稼ぎ、それが俺に課せられた最終ミッションだった。

「私の目的なら、何度もお伝えしているでしょう──メイタンテイの遺産を引き渡してください。そうすれば、そんな物騒なものを使わずとも、この少女は返してあげますよ」

 カメレオンは俺の右手の得物を見ながら嘲るように言う。

 やはりカメレオンの……《SPESスペース》としての狙いはシエスタがこの船に残したという遺産。それはきっと《SPES》打倒の切り札だった。

「そうしたいのは山々なんだが、あいにく俺たちもその遺産とやらに心当たりがなくてな」

「ふむ、そう来ましたか。……いえ、今日一日あなた方を泳がせてみましたが、どうやらそれは本当のようでしたね。なんとか見つけてくれることを今の今まで期待していたのですが、残念です」

 今までカメレオンは周囲の景色に溶け込み、姿を消して俺たちの様子を観察していたのか。であるならば、なつなぎの命とシエスタの遺産という交換条件が成り立たないことは理解しているはずだ。

「そういうわけだ。大人しくその子を返してくれないか」

 俺は短銃を下ろし、カメレオンに交渉を図る。

「なるほど、面白いことを言いますね。しかし、それではまるで取引になっていない。私にとってのメリットを提示してもらわなければ」

「メリット? そうだな、じゃあ。今ここで夏凪を素直に解放すれば、お前は俺の銃弾をケツにぶち込まれることなく、安心安全にママの待つおうちに帰れる……ってのはどうだ?」

「……はは、本当に生意気になったものですね」

 カメレオンは相変わらずくそ丁寧な物腰で、だが明らかにいらったような視線で俺をく。

「なにか勘違いをしていらっしゃるようですが、この交渉においてあなたが有利な立場に立てることはないのですよ」

 カメレオンの《舌》が、夏凪の身体からだを強く締め上げた。

「う……ぐっ……!」

「夏凪……!」

きみづか……?」

 夏凪が、カメレオンの舌の中で目を覚ます。

 周囲を見渡し、そしてすぐさま自分の置かれた状況を理解したらしい夏凪は、こんな時でも笑顔を浮かべる。

「……あはは、あたし、やらかしちゃったみたいだね」

 ごめん、と夏凪は小さく漏らす。

 そんな困ったような笑顔なら、俺は見たくなかった。

「メイタンテイの遺産は見つからなかった──ゆえに最初の交換条件は無効となる、これはいいでしょう」

 カメレオンは、俺たちのやり取りなど意に介さず、新たな提案をぶつけてくる。

「では、この少女の命と、この客船に残った乗員乗客全員の命、そのどちらかを選ばせて差し上げましょう」

「……!」

 ……っ、バレていたか。俺が時間稼ぎをしていたことも、今なお乗客たちを逃がしていることも、すべて。だけど、なぜ……。

「この船の乗客たちの命を奪って、どうするつもりだ? さっきお前が自分で言っていた通り、その行為にどんなメリットが発生する?」

「はは、意趣返しのつもりですか。しかし、ここで言う乗員乗客たちの命とは、まあ、ついでのようなものなのですよ」

「ついで、だと?」

「ええ、本来の目的はただ単に、この船を沈めることです」

 メイタンテイの遺産が眠ったこの船を、とカメレオンは言う。

「見つからないのなら、見つからないままにしてしまえばいい。手に入らないのなら、壊してしまえばいい。至極単純な話ですよ」

「……乗客の命は、この船を沈めるついでに奪うだけのものだと?」

「ええ、目的達成のために付随してくる結果に過ぎません」

 それを聞いて、再び拳銃を握る手に力が入る。が、しかし、まだ俺にはくことがあると思い直し、ぐっとこらえる。

「じゃあなつなぎは! 彼女の命を奪って、お前たちにどんな利点がある!」

 たった一人の少女の命。それを、こんな《人造人間》まで生み出すようなテロ組織が狙う意味なんて、そんなものは……。

「それも単純な話ですよ、この少女がメイタンテイの血を内蔵しているからです」

「……っ!」

 脳が大きく揺れる。

 やはり、そうなのか。そうだったのか。

SPESスペース》の一番の標的は、俺やさいかわではなく──夏凪。それも、夏凪がシエスタの心臓を宿しているという、ただそれだけの理由で……。

「ですがご安心ください。そう簡単には殺しませんから」

「簡単には、殺さない?」

 なぜだろう。その言葉は俺にはどうしても良い意味には聞こえなかった。

「ええ、なにせあのメイタンテイの心臓を宿しているのですからね。いわば、人体実験ですよ。足の指先から、髪の毛の一本一本まで──詳しく調してみる価値はあるでしょう?」

 カメレオンはニヤリと目を細めると、そのグロテスクな舌先を、夏凪の頬にわせた。

「……嫌っ!」

 のけぞる夏凪を、大蛇のような長い舌が放さない。

 暗い海の上、船外に伸びた舌の中で夏凪はもんの表情を浮かべる。

「てめえ、放しやがれ!」

 今度こそ俺はカメレオンに銃口を向ける。あとはトリガーを引くだけで、鉛玉をあいつの眉間にぶち込むことができる。

「だからあなたは、少し落ち着いた方がいい。そんなことをすればこの子は夜の海に真っ逆さま。助かるすべはありませんよ?」

「くっ……」

 ああ、そんなことお前に言われなくても分かってるさ。

 だが俺の衝動が、理性を上回ろうとして止まってくれない。暴発しそうになる右手を、震える左手を使って必死に押さえる。

「さあ、では選んでください。この少女の命を取るか、この船の数多あまたの乗客の命を救うか──二つに一つです」

 そうして世界で最も醜悪な選択肢が提示される。

 なつなぎを救えば、その他大勢の人の命が失われ。

 彼らを助けたら、夏凪は人体実験をされた挙句に殺される。

 ──こんなの、選べるはずがない。

 だが、選ばなければ、きっと二つの最悪が同時に現実になる。……いや、こいつらのことだ。どちらかを選択したとしても、本当にもう一方の命を救ってくれるとも限らない。さいかわの事件のときもそうだった。《SPESスペース》とはそういうやつらだ。

 じゃあ、最初から俺に選択肢なんて──

きみづか

 ふと、俺を呼ぶ声があった。

「あたしを撃って」

 それを言った少女は、この暗闇の中にあっても、崖際に気高く咲く一本の白い花のようにりんとした表情を浮かべていた。

「なにを言ってる、夏凪」

《舌》に巻かれた夏凪は浅い呼吸の中、それでも俺だけをじっと見つめて思いを伝えんとする。

「簡単なことでしょ。こういうときは、最大幸福を考えるべきだよ。四則演算もできなくなっちゃったわけ?」

「……そんな理知的な考え方、お前らしくもない」

「そうかな? そうかも。でも、今のこの状況で必要なのはあたしの激情じゃなくて、名探偵の理性だよ」

「お前だって名探偵だろ」

「違うよ。あたしは何者でもない、ただのまがいもの」

「そんなことは……!」

「君塚」

 再び夏凪が俺の名前を呼ぶ。

「誰かの代わりにならなくていいって──そう言ってくれたこと、うれしかった」

 ありがとう。

 その口元は、どこか微笑ほほえんでいるようにさえ見えた。

 ここでなつなぎを撃てば、敵は人質を失う。その後相手は恐らくこの船を乗客ごと沈めようとしてくるはずだが、そこは俺が死んででも食い止めてみせる。夏凪という人質がいない状況であれば俺もなんの躊躇ためらいもなく相手に銃口を向けられる。百パーセントの勝機は望めなくとも、五十パーセントの相打ちなら狙えるかもしれない。

 だから、そう。

 夏凪の自分を撃てという判断は、どうしようもなく正しい。正しいのだ。

 で、あるならば。俺の取るべき行動は──

きみづか

 その時、再度、夏凪が俺の名を呼んだ。


「撃って」


 その瞬間だった。

 俺の脳裏に、いつか昔の記憶がよぎる。

 白い髪の少女が、俺に内緒で一人、凶悪な敵に立ち向かっている光景だった。

 そうだ、あいつはいつも、自分が犠牲になることをいとわなかった。恐れもしていなかった。それが正しさだと勘違いしているようなやつだった。だからあの時、たしか俺はあいつを叱り飛ばしてやったのだ。その時のあいつの、見たこともないようなほうけた顔は、今でもはっきり覚えている。

 そんなワンシーンを思い出して……ああ、同じだなと思った。

 今の夏凪は、あの時のあいつとうりふたつだった。

 だから、きっと、今。

 夏凪の言葉を聞いた、今この瞬間だった──俺の取るべき選択肢が決定されたのは。


「──そんな正しさなら、いらないな」


 夏凪が、わずかに目を見開くのが分かった。

「自分は何者でもないって、そう言ったのか?」

 俺は一歩、夏凪の元に歩み寄る。

 当然カメレオンは警戒し、俺に向けてなにか攻撃をする素振りを見せてくるも……それより一瞬早く、俺の銃口がやつの眉間に向いた。

「……そうだよ、あたしは他人の生き方をすることしかできないただの偽物。何者でもないんだ」

「そうか、そりゃあ良かった」

 俺はもう一歩、なつなぎの元に歩みを進める。

「まだ何者でもないんだったら、これから何者にでもなれるってわけだ」

 飛び方を知らないのなら、誰かに翼の動かし方を習えばいい。

 生き方を知らないのなら、誰かと一緒に並んで歩けばいい。

 十八年もベッドの上だったんだ。きっと百メートルを走るのだって人より楽しく感じるはずだ。まだお前の知らない楽しいことは、この世界に山ほどある。これからお前は、何者にだってなれるんだ。

「だから、俺はこうする」

 俺はハンドガンのマズルを、夏凪の方へ向けた。

「……おやおや困りますねえ。この子は我らのアジトへ持って帰って、実験に付き合ってもらうのですから。まだ殺させるわけにはいきません」

 カメレオンがうそくさい笑顔で、むなくその悪いたわごとを吐いている。だが、なにやらこの男は大きく勘違いをしているらしい。まあ、知る由もあるまい。

 あいつは、あのぬばたまの夜に誓ってくれたんだ。


「夏凪なぎさは、俺より先に死ねないことになっている」


 悪いが、そういう約束だ。

 俺は狙いを定め、夏凪の身体からだを締め上げている

「があああああああああああああああッ!」

 カメレオンのうなるようなほうこう。血が飛び散り、《舌》は真っ二つに切断される。

 そしてそれに巻かれていた夏凪は、暗い海に落ちていく──だが、


「渚さん──ッ!」


 暗黒の海に夏凪が落ちる寸前、一そうのマットを敷いた小型ボートがその間に滑り込んだ。

「遅くなりました!」

 ああ、さいかわ。暗闇でも光るその青いまばたきは、確かに三十億の価値があるだろうさ。

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