【第二章】◆海に行こうと君が言ったから

 あの斎川のドームライブから一週間余り、学校は夏季休暇に入っていた。

 さっそく訪れた長期休暇、夏凪たちと交わした約束を実行するにはうってつけの機会である。とりあえず近場の海にでも行こうかと、そう思っていたのだが……。

「それじゃあ、エーゲ海に向けて出発進行です!」

「スケールがでかすぎる!」

 えいえいおーと勢いよく右手を突き上げた少女に向かって、俺はいやおうなしに突っ込みを入れる。

「あのな、斎川。確かに俺と夏凪はお前に海に行こうとは言ったが、それがどうして八日間の船の旅になるんだ。お前の海に対するイメージは一体どうなってる」

 海に行くって言ったら普通、とかしようなんとかその辺りだろう。それがなぜにヨーロッパ……地中海……。

 しかし白いワンピース姿で、大きな麦わら帽をかぶった少女──斎川唯は小首をかしげる。

「え、でもきみづかさん行くって言ったじゃないですか。それに、うだうだ言ったところでもう船は出航しちゃったんですから、切り替えていきましょうよ」

 ……そう、さいかわの言う通り。

 既にここは大海、揺れる波の上。俺たち三人は客船の甲板に立ち、徐々に遠のく日本列島を眺めていた。

「ほんと本当。優柔不断な男は嫌われるから」

 今度はなつなぎがサングラスを外しながら、好戦的な視線で俺をのぞく。

 ショートパンツに、上はぶかぶかのTシャツ。肩から覗くひものようなものは下着かはたまた水着なのか。こういう格好がやたら様になる女だった。

「でも、あたしもクルーズ船に乗るのなんて初めてだから、結構楽しみなんだよね。ありがとう、ゆいちゃん」

 俺にはそう向けられることのない笑顔で、斎川に微笑ほほえみかける夏凪。あの事件以降、随分と仲良くなったらしい。

「いえいえ、せめてもの、その、償いです。わたしにできるのは、これぐらいのことしかありませんから」

 償い──俺たちの命を危機に脅かした、しよくざい

 無論その罪は「斎川家が主催する豪華客船クルージングツアーに招待する」ぐらいでは許されないだろう。斎川だって、そのことは分かっているはずだ。だから──

「俺たちと一緒に、《SPESスペース》と戦ってもらう。それをやってくれれば文句はない」

 そういう約束を。同盟関係を、俺たちは結んだ。

 同じくやつらに、命を狙われている者同士として。

「はい、もちろんです。わたしにできることは、なんだって」

 斎川の丸く大きな、黒い瞳。

 そして、眼帯の下のサファイア色の瞳も、ぐ俺を見据えている気がした。

「おや、君塚さんどうしたんですか、わたしの目をそんなに見つめて。……ははーん、分かりました。分かっちゃいましたよ、わたし。今度こそ本当に唯にゃのとりこになっちゃったというわけですね、まったく君塚さんったら……ふふっ」

 ひとり腕を組み、こくこくとうなずく斎川。

 そんなあまりにも純粋と言うべきか単純な少女を目の当たりにして、つい──

可愛かわいい奴だな」

 言ってしまった。

「ふふっ……ふふ、ふ……ふ?」

 すると、得意げに微笑んでいたはずの斎川が急にフリーズする。やがて上がっていた口角が徐々にもにょもにょと動き出し、なにやら頬もあかく染まり始め……。

「……あ、あの。そ、そういうストレートなのは、ちょっとやめて頂きたく……」

「おいアイドル、耐性なさすぎだろ」

 自分が攻める分はいいが、攻められるのはダメと……別に知らなくてもいい一面がかいられた。

「ストーップ!」

 と、次の瞬間、俺とさいかわの間に勢いよく手刀が入った。

「あっぶな! なんだよ、なつなぎ

「……ラブでコメな空気を察知した」

「ラブでコメって」

「そんなことより! 真面目な話!」

 ふんっ、と可愛かわいく鼻息を鳴らし、夏凪が腕を胸の前で組む。

「その《SPESスペース》っていう組織は、どうして今さらゆいちゃんに接触してきたわけ?」

「あ、たしかに。なぜなんでしょう」

 夏凪が斎川を見て、斎川がまた俺を見て首をかしげる。

「どうして今さらって、そりゃあ……」

 そんな当たり前のこと、と言おうとして思いとどまった。

 ……そうか、よく考えれば奇妙ではある。

 斎川が《ひだり》を手に入れたのは七年前だという。もしも《SPES》が真にその破壊を目的としていたならば、今よりもっと早く行動に移していてもおかしくはなかった。それがどうしてだったのか。

 いや、よく考えれば斎川だけではない。

 なぜ俺も、今になって《SPES》に狙われている?

 この一年間、やつらはシエスタ亡きあとの俺にまったく興味を示さなかった。名もなき助手風情に構っている時間などないと、そんな哀れな裁定を下されていたはずの俺が、なぜ一年たった今、再び奴らの標的になっているのか。

 ──だが、ここまで考えれば、おのずと一つの推論は導き出される。

「……あっ」

 夏凪が、なにかに気づいたように小さく声を漏らした。

 彼女もまた、消去法に思い至ったのかもしれない。

 で、あるならば。

「さあな、あんな頭のおかしな連中の考えてることなんて、分かんねーよ」

 俺は薄く笑いながら、夏凪の不安を蹴飛ばす。

「……そっか」

「そうだよ」

 だってこんなのはあくまで推論、仮説に過ぎず……きっと真実ではない。

 たとえば《SPESスペース》の真の狙いは、さいかわでも俺でもなく、宿だった──だとか。そして助手であった俺との接触があったことを知り、何らかの危惧を抱いた──なんて。

 ああ、そんなのはあり得ない。あっていいはずがない。

 なつなぎの人生が、そんな理由で壊されていいはずがない。

「ま、どうしようもない悪に行き遭ったんだと悟って、なんとかやっていくしかないだろ」

 だから俺は、そんなたわごとでこの場をす。

 実際、理由はどうであれ、斎川の件でなおさら俺たちは、を受けたに違いない。敵が直接姿を見せてこなかったことから、恐らく今回はまだ様子見ということだったのだろうが……結果として、完全に宣戦布告をしてしまった形になる。

 ぬるま湯から抜け出さなければならない日が、遂に来てしまったのだ。

「指名手配真っ最中に、のんきにクルージングしちゃってるけど?」

 俺の取りなしの言葉に納得してくれたのか。夏凪はおどけたようなポーズを取って見せる。

「それを言うのはなしだぞ、夏凪」

 いや、でもむしろこれが正解な気もする……なぜなら三年前だってそうだった。

 三年前、俺とシエスタもこうやって日本を飛び出して、目もくらむような流浪の旅に出たんだ。だからこれは、きっとあの日の再現で、定められた宿だ。

「まあ、何事も起きないのが一番なんだけどな」

 独り言は、潮風に乗って流れていく。

 ああ、分かってるさ。本当は分かっている。

 これだけ色々なことが重なって、今さらなにも起こらないなんて、そんな都合の良いことがあるわけがない。


 そして、その予感は間もなく的中する。


「──キミヅカ?」

 ふと俺を呼ぶ声がして、振り返る。

 と、そこには、

「シャル……?」

 潮風に吹かれて流れるのは、生まれながらにしてのブロンドヘア。

 欧米の血筋が光る整った顔立ちは、驚いた表情さえも美しく見せる。

「……一年ぶり、か」

「ええ……あの日以来、ね」

 俺たちは、硬い表情のまま見つめ合う。

きみづか、知り合いなの?」

 首をかしげるなつなぎに、俺はこう答える。

「ああ、シャルは俺の……俺たちの昔のだ」

 彼女の名は、シャーロット・ありさか・アンダーソン。

 今は亡きシエスタを慕う、彼女の弟子とも呼ぶべき存在だった。

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