祝杯
1週間はとても早い。爆破予告なんてあってないようなデマだったと世間は認識しているし、ロキの洗脳にかかっていた人々にその記憶はないため、平穏な生活はすぐに戻った。
いつも通り病院に通勤し、いつも通りに手術をこなし、いつも通りに患者を診る。
時計を見る時間も惜しいほどにやることは山積みで、毎日気づけば退勤時間であった。
思えば医師に定時という概念は存在するのだろうか。もし午後5時が定時であるとするならば、定時で上がれることなんてほとんどない。手術もなく、患者も安定して何も問題ない日なら早く帰れることもあるが、そういう日に限って飛び込みの緊急患者があったりする。
そういうのがなくても学会の準備など業務外の仕事があったりするので、5時ピタで帰ることなんてそうそうない。制度上は5時で帰っていいはずなのだが。
午後7時、今日は金曜日、いわゆる花金であるが、あいもかわらず僕は残業に明け暮れていた。
ナースステーションで電子カルテのキーボードをカタカタ叩いていると隣の席に森田が座って話しかけてきた。
「今日ももう7時だな」
「もうそんな時間か。適当に切り上げて帰らないとなー」
「俺はいつでも5時ピタを狙っているが、なかなかうまくいかないな」
森田は仕事熱心ではない、と言うと語弊があるが、早く帰れるときは逃げるように帰る男だ。いつまでも居残って仕事を見つけては片づけるというようなタイプではない。そんな奴がこんな時間まで居るのだから、やらねばならない仕事が残っていたのだろう。
「でももうそろそろ帰ろうって算段だろ?森田は」
「お、バレたか。中野も切り上げて飲みに行かない?せっかくの花金だぜ」
「どうしようかな」
「なんだよ、煮え切らないな。小沼とはあっさり行ったくせに」
「見てたのか!?」「え、ほんとに行ったんだ、ちょっとびっくりした」
カマをかけられた。森田が嬉しそうにニヤニヤしている。
「まあ中野は小沼とならすぐ行くわな、わかるわかる」
「なんだよ、いいだろ別に」
「俺とも一緒に行ってくれてもいいじゃん」
「わかったよ、行く、行きます」
「よっしゃ決まり!さっさと仕事片付けろよ~、俺は先に着替えてるから」
そう言って森田は手を振りながら去っていった。仕事を早く片付けるのは悪いことではない。そういう点では森田は熱心と言えるかもしれない。彼に倣って僕も今日はさっさと仕事を終わらせることにするか。そうだ、ヴァルキュリアに連絡しておかないとな。最近のヴァルキュリアはスマホアプリも難なく使いこなしているので、メッセージでいいだろう。
「今日は同僚と飲みに行ってくる。晩御飯は自分で何とかしてくれ、と」
しばらくすると返信が来た。
「ピザとっていいか」と。
ピザ?なんか珍しいことを言っているが、一人寂しく留守番させているのだから些細な希望くらいはかなえてやりたいという、なんとも親心のようなものが芽生えた。了解の返事をするとそれっきり返信はなかった。
仕事を終わらせ着替えて森田と合流する。行先は結局この間小沼と行った店と同じ居酒屋になる。コスパが良いのだ。テーブルに通されて座ると店員がおしぼりを持ってきてくれた。
「とりあえず生2つと、枝豆、焼き鳥盛り合わせ、その他はあとで」
手早く森田が注文した。ほどなくビールが運ばれてきて
「では、今週もお疲れ様!」
と森田が言い、グラスをぶつける。
「まあ明日も仕事するけどな」
「細かいことは気にしない」
土曜とはいえ金曜日に手術した患者の様態をチェックしに昼までは顔を出すのが習慣になっているので、よほどのことがない限り土曜も出勤だ。思わず口から出てしまったが、森田は気にしていない様子であった。
「で、どうなのよ」
森田が切り出した。
「なにが」
「小沼とのことだよ!何か進展あったのか?」
僕はビールを吹き出しそうになった。
「別に何もないよ、たまたま晩御飯食べただけだ」
「えー、それだけかよ。次の約束は?」
「一応、してあるような、ないような」
「なんだそれ」
この間は財布を忘れて奢られてしまったので、次は奢ることになっているのだが、明確な約束ではない。そう、今のところは明確ではないのだ…。
「まあ、口約束だけ」
「そらそうだろ、わざわざ書面にする奴いるかよ」
森田は笑う。
「30手前にもなって、何を奥手になってるんだか!男ならグイグイいけグイグイ」
「うん、まあ、そうなんだけどね、言わんとすることはわかるけどね」
「まずはとりあえずその口約束を実現させるところから始めようじゃないか」
「え、あ、うん」
「とりあえず駅の近くにいい感じのバーがあるから教えてやる!そこに連れて行け」
気圧される。すごい勢いで面白がっている。しかし森田の言うことはもっともである。いい歳こいてデートの一つも誘えないようでは、結婚なんて夢のまた夢だ。そう、僕は結婚願望がある。普通の人程度には、結婚願望がある。
だがしかし医師という肩書を武器にした婚活はしたくないのだ。それはなんとなく僕のポリシーに反する。そこで小沼だ。あの子自身も医師なのだから、肩書が武器にはならない。なによりかわいいのだ。働き出してから出会いというのは少ないが、彼女と出会えたのはラッキーである。ほんとに。
「じゃあ、今度連絡してみるよ」
「かー!これだから中野はダメなんだ」
「な、なにが」
「今度っていつだよ!!明日にしろ!!明日の夜行け!」
「そんな、急な、心の準備が」
「準備もくそもあるか!今連絡しろ!」
酒のせいもあるだろうが森田のボルテージは最高潮だ。押しに弱い僕は言いなりになってしまう。
「わかった、わかったよ。『明日の夜飲みに行かない?』、でいいだろ?」
「味気ないがストレートで悪くない!ほら送信だ!」
「あ」
森田は勝手に送信ボタンを押してしまった。僕は期待と不安が入り混じった緊張で、すごくドキドキしている。ビールを飲むスピードが速くなる。断られたらどうしよう、週明けから会ったときどんな顔すれば、などと考えてるうちに、意外と早く返事が来た。
「『おっけー!楽しみにしてる!』だって」
「中野!!やったな中野!!」
「森田!!心の友よ!!」
男同士でガシッと抱き合ってしまった。酒に酔った勢いとはいえ小沼を誘えたのは大きな成果だと言える。案ずるより産むが易し、誘ってみれば案外あっけなく約束は取り付けられた。今日は森田と飲みに来てよかったと心底思った。現金な性格である。何はともあれ、小沼との約束をした。これは、デートなのだろうか。飲みに行く約束をしただけだが、デートと言っていいんだろうか!
思いのほか盛り上がって終電で帰ることになった。小沼とデート、小沼とデート、と頭の中で繰り返してばかりの会であったため森田と何を話したのかはさっぱり覚えていないが、酒は進んだ。千鳥足で駅に向かい、森田とは逆方向なのでそこで別れる。
「それじゃあ、明日のデート、しっかりやれよぉ~」
と大きな声で言いながら去っていく森田を見送り、僕は電車を待った。そういえばヴァルキュリアから返事はなかったが、うまくピザは頼めただろうか。お金はある程度渡してあるからなんとでもなろうが、人間界の出前を神が取れるのか…。まあスマホの件と言い、驚くほど人間界によく順応しているし、大丈夫だろう。僕は浮き足立ちながら家路をたどる。
家の玄関を開けると、なにやら中からにぎやかな声が聞こえてきた。
「だぁかぁらぁ!!最後にあがるときは4文字以上の言葉じゃと何度言ったらわかるんじゃ!!」
「うるさいわね、うるさいのよ!貴方だって『うんち』とか『ちんこ』とか神にあるまじき言葉を連発してるんじゃないわよ!!」
「はぁあ~!?それどっちもきちんとした日本語じゃからルール上何の問題もないのじゃが~???それより4文字以上じゃないと上がれないルールも覚えられないお前の方が神にあるまじき愚鈍さなのじゃが~???」
「ヴァルキュリアよ、ロキ様は焦るとすぐにテンパってしまうのだ」
「フェンリル!!余計なこと言わないの!!!」
なぜロキとフェンリルがうちに居るんだ。
「こんな時間に、なにをやってるんだ…」
終電で帰ってきたのだから、日付は既に変わっている。そんな深夜にこれほどにぎやかに騒げるほど何を興奮しているのか。
「おぉ!ヒデアキ!帰ったか!!見よこの新しき遊具を!!」
そう言って見せてきたのは、しりとりで遊ぶカードのようなボードゲームだった。
「どうしたんだそれ」
「ふふん、これはな、場に出ているひらがなから始まって自分の手札にあるひらがなで終わる3文字以上の言葉を言いながらその手札を捨てていくゲームでな」
「いやそうじゃなくて、どこから手に入れたんだ」
「私が持ってきたのよ」
ロキが得意げに言った。
「ヴァルキュリアが暇すぎて仕方がないから遊びに来いってドアを叩くもんだから、仕方なく、仕方なく来たのよ」
「それで遊び道具にと思ってわざわざ家から持ってきたのか、といっても隣だけど」
よく部屋を見渡すとそのカードゲームだけでなく、なにやら楽しげなボードゲームがいくつも置いてあった。
「これ全部持ってきたのか?」
「そうじゃ!ロキが持ってきたのじゃ!」
「ロキ、おまえウッキウキじゃないか」
ロキが赤面して目をそらす。
「ウッキウキでしたよ」
「フェンリル!!!」
相変わらずフェンリルに振り回されているのか、このロキとかいう神様は。
「それにしても、よくこんなに集めたな」
「ふん、人間界で暇をつぶすためにね。通販というものは便利ね」
「おかげで日がな一日ロキ様のゲームの相手をしております」
「フェンリル!!!」
なるほど。ロキもたいがい暇というわけか。
「それでピザパーティをしてたんだな」
「そうじゃ。それにな、今日は祝い事も兼ねてじゃ」
「祝い事?」
空いた席に腰を下ろす。ボードゲーム用の緑の板が敷かれたテーブルを4人で囲うと麻雀でもできそうな雰囲気だ。
「そうじゃ、わしのバイト先が決定した」
「は!?」
寝耳に水である。
「ちょっと待って、ヴァルキュリアが働くの!?」
「驚くのも無理はない、順を追って説明してやろう」
ヴァルキュリアが言うには、前々から僕の財布にしがみついているのを少し気にかけていたらしい。ロキが通販でいろいろ買っているのを知って、自分も買い物したいと思うが、さすがに僕のお金を使うのは気が引けたそうだ。そこで、思い切ってバイト探しをすることにしたらしい。自分の使うお金は自分で稼ぐ、と。正義感の強いヴァルキュリアらしい発想ではあったが、神がアルバイトというのは、いささかイメージにそぐわない。
「いい心がけだと思うし、反対する理由もないけど…履歴書とかどうしたの?」
「ヒデアキの高校・大学を書いておいたわい。医学部じゃなくて経済学部にしておいたのもぬかりないと言えるじゃろ」
「学歴詐称じゃないか!」
「在学記録まで調べるバイト先なんかありゃせんじゃろ!大丈夫大丈夫」
「そもそも名前はどうしたんだよ、まさかヴァルキュリアって書いたのか?」
「いや、さすがにそれはまずいと思って、『中野リア』と書いておいた。人間界で使える人間の名前があった方が便利じゃからな」
「住所は?」
「もちろんここの住所じゃ」
「振込口座は?」
「作るのは難しそうだったから現金手渡しにしてもらったぞ」
僕は酒のせいなのかどうなのかわからない頭痛に襲われた。なんだって、ヴァルキュリアがバイト?しかもかなり人間界に順応したムーブである。確かに戸籍でもたどらない限りバレないだろう、なんという強かな行動だろうか。
「ロキは、ロキ達は何を収入源にしてるんだよ」
「私たちはほら、一応天界の命でこっちに来ているのだから、戸籍や金銭はもともと支給されているのよ。生活するのに必要なものまでは没収されていないの。」
なるほど、丸裸でこっちに来たヴァルキュリアとはスタート地点が違うというわけか。
「事情は分かった。で、どんなバイトなんだ?」
「ふふん、ちょっとお高めの鍋屋さんじゃ」
「鍋?」
「そうじゃ。客層が悪いのはゴメンじゃから少し高級感のある店がよかったんじゃ。で、冬場の鍋屋は繁忙期じゃからバイトの募集も簡単に見つかったのじゃ」
「そんなことまで考えてバイト先を選んだのか…本当に人間界に順応しているな」
「ネットで調べた知識が大半じゃがの」
もうなんていうか、心配いらないどころの話じゃないくらいしっかりしている。ヴァルキュリアを野に放つのはなんとなく不安であるが、これだけ考えて行動しているのだから、任せてみるか。
「わかった。バイト、がんばってな」
「お!意外にあっさり認めてくれたの!」
「だってもう決まった後なんだろ」
「まあそうじゃが!事後承認じゃな」
まさかの報告ですっかり酔いがさめてしまった。
「さて、ヒデアキ殿も帰ってきたことですし、我々はおいとましましょうロキ様」
「そうね、帰るわ。じゃあねヴァルキュリア…いえ、リア」
クスクス笑いながら出て行こうとするロキとその後を追うフェンリル。
「おい、このボードゲームの山はどうするんだよ」
「そうね、どうせまた来るのだから置いていくわ。私が居ない間に特訓しておくことね」
「ロキ様負けてましたよ」
「フェンリル!!!」
まったくおまえはとかどうのこうの言いながら2人は部屋を出て行った。
コップ一杯の水を飲んで少し落ち着いた。しかし本当に驚いた。ヴァルキュリアがバイトしてるところなんて想像もできないな。
「具体的には何をするの?キッチン?ホール?」
「ホールじゃ。注文取って料理を運ぶのじゃ」
食事処のいわゆる“店員さん”になるみたいだ。
「なるほど。言うまでもないことだけど、バレるなよ」
「人間離れしたことをするなということじゃな」
「わかってるならよし」
フヨフヨ浮いて接客するとか、食い逃げ犯を叩きのめすとか、そういうことがなければまあ大丈夫だろう。見るからに浮かれているヴァルキュリアだが、今回は信頼してみよう。
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