邂逅


 異空間。それは、人間界にありながら天界と同様に神本来の力を発揮できる空間である。もっとも、人間界の正常な空間とは次元のズレがあるため、普通の人間は認識できない。


神にとって異空間は人目を気にせず寛げる空間であるから、それを作り出せる道具を天界から持ってくるのが普通である。


ヴァルキュリアも例にもれず準備段階ではきちんと用意していた道具だ。そのような道具が作り出す異空間に突然連れ込まれたヴァルキュリアであったが、これが何であるかは瞬時に理解したし、そのようなことができるのは人間以外の、自分と同じ神のほかにないこともすぐに把握した。


そして、この異空間ではいわゆる気配での意思疎通や識別が可能であるから、誰に連れ込まれたのかもすぐに理解した。


「…ロキか。道理でぶつかるまで気配を感知できないはずじゃ」


人間ではないのだから、人間の気配を察知できないのは当たり前の話である。


「驚いた、驚いたわね。なぜヴァルキュリアが人間界を歩いているのかしら。しかも、人間の男と連れ立って」


ロキと呼ばれた長身の美女は驚いて問うた。


「いろいろあったのじゃ、本当にいろいろな。おまえに説明する義理はない」

「あらあら、久しぶりに会ったにしてはそっけない態度じゃない、ヴァルキュリア」

「わしはお前が嫌いじゃ、ロキ。おまえ、人間界は出禁になったんじゃなかったのか?」

「別に出禁ってわけじゃないわよ。前は少し悪戯をしすぎて天界王に怒られただけよ」

「少しじゃと?一歩間違えれば世界中で核戦争になりかねなかったのじゃぞ?」

「あれには驚いたわ。人間って過激よねぇ。その件に関しては、アマテラスに感謝しなくちゃね」

「たわけが、アマテラスが居なければ今この国はあるまい。なるほど、最近この街の治安が悪くなっていたのもお前のせいじゃな?ロキ」

「あらあら、たいそうなことを言うわね。私はただ、人の悪意の背中を少しだけ押しただけよ」

「のうロキよ。ここらでその悪戯はやめておかぬか?」

「嫌だといったら?」

「ねじ伏せる」


ロキはそれを聞いて声高々と笑った。


「手帳も持たない分際で、この私をねじ伏せる、ですって?少し見ない間に冗談が上手くなったわね、ヴァルキュリア」


実際痛いところを突かれた、とヴァルキュリアは思う。研修手帳は、研修内容が書いてあるだけのものではない。肌身離さず持っておかないと、神本来の能力が発揮できないような仕組みになっているのだ。


車のキーを持っていないと動かせないように、手帳がないと何もできないに等しい。今この場でロキと戦っても、勝てる可能性は万に一つもないのだ。


「でもね、私たちの計画の邪魔になるのが手帳も持たないヴァルキュリアであると知れてよかったわ」

「なんじゃと?」

「今のあなたじゃ私達の計画の大した障壁にはなり得ないということよ」

「またろくでもないことを企んでおるのか、ロキ」

「さあ、どうかしらね、どうかしら。これ以上はお話ししても無駄ね。今日の所は帰してあげる。もう邪魔しないでね」

「あ、待たぬか!」


フェンリルが指をパチンと鳴らすと、異空間は崩壊し、ヴァルキュリアは元の場所に立っていた。その場には呆然としたヒデアキが居るだけで、ロキとフェンリルの姿はどこにもなかった。



気づくとそこにヴァルキュリアは居た。まるで何もないところから突然現れたように、そこに立っていたのだ。


「どこ行ってたんだよ」

「ヒデアキよ、少々厄介なことになっておるようじゃ」

「厄介なこと?」


ヴァルキュリアは異空間内であったできごとを僕に話した。ロキのこと、最近の治安のこと、手帳のこと、そしてロキが何か企てていること。


「こと戦いにおいてわしが人間におくれを取ることはないじゃろうが、手帳持ちの神が相手となると話は変わってくる」

「つまり、勝てないってこと?」

「そうじゃな、いい勝負にもなるまい。それくらい手帳の存在は大きいのじゃ」


そんなに大事なものを持たずに人間界に来たのかこいつ。外国でパスポートをなくした時とどっちがヤバいのだろうか。


「わしが人並外れた身体能力を持つように、ロキは人の悪意を糧にすることもできるし、また人の悪意を増長させることもできるのじゃ。さらに手帳を持っておるから、基本的な戦闘能力においてもわしより上じゃろうな」

「そんな奴が、何をしようっていうんだよ」

「わからぬ。わからぬが、ちょっとしたお遊びで戦争を起こさせるような奴じゃ、警戒するに越したことはないじゃろう」


 家に帰るとヴァルキュリアはいつものように上機嫌にゲームをするのかと思いきや、炬燵に入り思案にふけっている。珍しいことなので話を聞いてみることにした。


「どうしたの、いつもと違って真剣な顔をして」

「ぬ、いつもはふざけた顔をしているかの言い様じゃな、失礼な」

「そういう意味じゃないけどさ、何悩んでるのかと思って」

「いや、ロキの目的について考えておったのじゃ」

「ああ、なんで人の悪意を増長させてるのかってこと」

「そうじゃ。あいつは昔からそういうわけのわからないことをする奴じゃったが、人間界にまで来てそういう悪戯をする意味が分からん」

「楽しいから、じゃないの?」

「それもあるかもしれんが、それにしてはやることがみみっちいのじゃ。昔はもっとド派手にやっておったのに」


確かに、ロキはその気になれば核戦争でも引き起こせるような力を持っている。遊びつくしたいのであれば、もっとド派手にやってもおかしくはない。だが実際やったことと言えば銀行強盗やひったくりを唆すくらいのことで、戦争と比べるとまるでスケールが違う。


「確かに、やってることは小さいね」

「起こった後とはいえわしが未然に防げる程度のことじゃ、とても小さいのじゃ。」


うーんと唸るヴァルキュリア。


「手帳を持たぬわし程度では障壁にもならんと言っておったから、何かもう少し大きいことをしようとしておるのかもしれん」

「だとすれば、厄介だね」

「他人事ではないぞヒデアキ。おまえはわしと一緒にいるところを見られておる。十分被害者になり得るのじゃぞ」


そうか。僕の存在がヴァルキュリアにとってどんなものであれ、休日の昼間に2人で街中を歩く仲だ、ロキにとってヴァルキュリアの弱点というふうに見えていてもおかしくはないだろう。


「用心しておくよ」

「もっとも、神が相手じゃとどうしようもないと思うがの」


はぁ、とため息をつくヴァルキュリア。それもそうだな、ロキにとって僕を無力化するなんて赤子の手をひねるより簡単だろう。


「晩御飯、何がいい」

「ラーメンが食べたいの」

「好きだなそれ、それは他の日にしろよ」

「ならハンバーグ!」


ハンバーグなんて一人暮らししてから作ったことなかったな。


「わかった、買い物行ってくるから、作るの手伝えよ」

「承知じゃ!」


こうして土曜日の夜は更けていった。

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