撃墜少女

 数日後。たまにはオペが長引いて帰るのが遅くなる日もある。この日はオペが終わって病棟業務をしていると時計は9時を回っていた。たまった仕事を終えラウンジで缶コーヒーを飲みながら一息ついていると声をかけられた。




「中野くん、おつかれ。今日は遅いね」


「小沼か、おつかれ。そっちもなかなか遅いじゃないか」




同期の小沼が来た。彼女は消化器内科医であり、胃カメラなど内視鏡の検査でたびたび遅くなったり、夜に呼び出されることもしばしばあるようだ。僕からすればなかなかバイタリティのある科であると思うし、彼女もまた仕事熱心であった。




「うん、今日はね、緊急が続いちゃって。私は今やっと終わって休憩しに来たとこ」


「そっか。僕はロングオペが終わってカルテ書き終わったとこ。そろそろ帰って晩御飯にしないとな」


「あ、晩御飯まだなんだ、私もだよ」


「ほんと、じゃあどっか食べに行く?」


「うん、一緒に行こうかな」




心で小さくガッツポーズをしてしまった。仕事で疲れた日のご褒美にしてはいいご褒美だ。小沼と晩飯いけるなんてラッキーである。彼女は美人なのだ。森田には悪いが抜け駆けさせてもらおう。




「じゃあ残ってる仕事終わらせてくるね」


「わかった、また連絡してくれ」




小沼は手を振りながら笑顔でラウンジを出て行った。さて、どこの店に行こうか、こんな時間から空いてる店で、かつデートにふさわしいような…と思案していると、携帯が鳴った。




「もしもし?」


「なにをしておる!わしは腹が減ったぞ!」




ヴァルキュリアか、忘れていた。あいつの晩御飯のことまで頭が回っていなかった。




「あぁ、ごめんごめん、ちょっと仕事が長引いちゃって。それで同期とご飯食べに行くことになったから、今日は一人で食べてて」


「なんじゃと!?何を食えと言うのじゃ!」


「カップラーメンか、冷凍食品で我慢してくれ」


「ラーメンは昼に食べたのじゃ!!晩御飯はヒデアキの手料理が食べられると思って楽しみにしておったのに!」


「ごめんって。週末はうまいもん食べに行こう、な?」


「本当じゃな!?埋め合わせはあるんじゃな!?」


「うんうん、約束する」


「本当じゃな!?本当に本当に」




電話を切った。適当にあしらったが、まあ大丈夫だろう。それよりもお店探しをしないとだ。






 「お待たせ、ごめんね遅くなっちゃって」




私服の小沼を見たのはいつぶりだろうか。白いコートに赤いマフラーはとてもよく似合っている。




「いや、全然。どこ行こうか、何か食べたいものある?」


「普通の居酒屋とかでいいよ。デートじゃあるまいし」




そっか、デートじゃないんだ…。まぁそうだよな、同僚と一緒に晩御飯を食べるだけだ。少しついたため息が白く見える。




「そう、だね。じゃあそのへんの居酒屋にするか」


「あれ?ちょっとがっかりした?」


「別に!」




小沼はいたずらにケラケラと笑う。そういう距離感が彼女の魅力なんだろう。今まで何人の男が引っかかってきたのだろうか。






 ほどなく見つけた居酒屋に入り、2人席に案内された。店の中は暖かい。コートを脱いで席に着く。




「私居酒屋久しぶりだなー。枝豆と焼き鳥は必須だよね…あ、中野くんもビールでいいよね」




ウキウキで注文を考える彼女は新しい遊びを覚えた子供のようなはしゃぎ具合であった。




「生2つ!あと枝豆と焼き鳥盛り合わせ、キャベツ盛りください。そのほかはあとで考えます」




呼び鈴を鳴らして注文を取りに来てくれた店員に淀みなく注文する小沼。僕は頷くだけであった。寒くなってきたねと何気ない世間話をしてしばらくするとビールと枝豆が運ばれてきた。




「それじゃ、おつかれさま」


「おつかれさま」




ジョッキをコツンとぶつけて乾杯する。僕はあまりお酒が強くないので少しだけ飲む。仕事終わりのビールはお酒が苦手でもおいしいものだ。小沼は一口でジョッキの半分ほどを飲み干していた。




「ぷはーっ!やっぱ仕事終わりのビールは格別だねぇ」




と、おっさんも驚きのおっさんっぽい発言である。屈託のない笑顔で枝豆をつまむ彼女は。病院では一切見せないあどけなさを伴っていた。






 こういう席での小沼はよく喋る。患者がどうだとかあの先生がどうだとか、笑い話から愚痴まで表情をコロコロ変えながら話す。僕はトーク上手ではなかったので聞き手に回ってもいい状況は楽であった。小沼も楽しそうに話しているし、聞いてる僕も楽しかった。




「そういえばさ、こないだ隣駅で銀行強盗あったらしいじゃん」




ギクッとした。僕の家と病院の最寄り駅は1つとなりである。職場から近いところを選んでいいところに住めたと思っている。




「ああ、らしいね。こないだの日曜でしょ?」




白々しいとは思うが、関わっていたことを話すとろくな結果にならない予感がした。




「あれ、女の子が一人で撃退したって噂知ってる?」




ほらきた。どうせその話だろうと思った。噂というのはどうしてこうも人を引き付けるのだろう。だが今回は都市伝説のような類のものではなく紛れもない事実だ。撃退したのはうちに住んでる神様だよ、と言えばいいのか。いや、言えない。




「噂だろ?そんなまさか」


「そう思うよね。でもね、実は今日も噂があってね」


「どんなのさ」


「また隣駅でひったくりがあったらしいんだよ。」


「またそういう話か。いつからあの駅はそんなに治安が悪くなったんだ」


「それもそうなんだけど、どうやらまた女の子が捕まえたらしいんだよね」


「え」




いや、そんなはずはない。ヴァルキュリアは昼間は家でゲームをしているはずだ。今回は関係ないだろう。




「SNSがその話題で持ちきりなんだよ。その女の子は素早く逃げちゃって画像は残ってないんだけど、銀行強盗を撃退した子と同一人物じゃないかって話題になってる。『撃墜少女』って名前で通ってるみたいだよ」


「へ、へー、そうなんだ」




うっかり目が泳いでしまった。銀行強盗はともかく、今日のひったくりに関しては僕は無関係だ。にしても、正義感の強い女の子っているんだな。ひったくり犯が男か女かは知らないが、勇気ある行動には頭が下がる。




「…中野くん何か隠してる?」


「いや、全然、何も」


「そう?ならいいんだけど」




小沼は鋭い。察しが良い女の子ってのは怖いものだ。






 それから他愛のない話で場は盛り上がり、11時ごろに解散の流れとなった。伝票を受け取り、見栄を張ってここは僕が支払おうと思ったときに、大きなミスに気が付いた。




「あ、財布がない」


「え、嘘でしょ、ご飯誘っておいて、財布持ってないの?」




小沼がケラケラと笑った。僕はカバンの中をひっくり返して探したが、見つからない。




「参った。家に忘れてきたのかな」




病院内では病院内で使う用の小さな小銭入れを使っているので、財布を家に忘れてきていても気づかないことがたまにある。今日がその日に当たるなんて。




「ドジだねー。いいよ、今日は私が払うから。今度は奢ってよね」


「ごめん、そうするよ」




塞翁が馬とはこのことだ。財布を忘れたことによって、次またご飯に誘う口実ができたのだ。棚からぼたもちである。財布を忘れたことは禍を転じて福と為すファインプレーになった。次はちゃんとしたデートで支払うことにしようと、少し浮かれていた。






 小沼と次の約束も取り付けられた僕は、気分上々で帰りの電車に乗っていた。小沼と駅前で別れてからは少しにやけていたかもしれない。酒の力もあってか、ホカホカで家に帰ってきた。




「ただいま」


「遅かったの!まったくわしをひとりでほったらかしおって、罰当たりめが」


「ごめんって。それより僕の財布知らないか?持っていくの忘れちゃったみたいで」


「お、おお、それなら机の上に置いておいたのじゃ」


「やっぱり家にあったか、サンキュー」


「れ、礼には及ばんぞ」




何か歯切れの悪いヴァルキュリア。不審に思った僕は、ふと小沼との会話を思い出した。




「今日、ひったくりがあったらしいんだよ」


「へ、へー、そうなのか」


「犯人の女、かわいそうに顔面にあざができちゃってたらしいんだ」


「女じゃと!?あれはどう見ても男じゃったぞ!」


カマをかけると簡単にぼろが出るこいつに、神などという職が務まるのだろうか。僕は頭を抱えた。


「やっぱりお前か…」


「えっ、あっ!違う!違うのじゃ!あれは咄嗟に体が動いてしまったというか、事故みたいなものなのじゃ!」


「いや、そもそもなんで家の外に…」




そこで僕はさっきから感じていた違和感の正体に気づいた。この部屋に、カップラーメンのごみがないのだ。確かヴァルキュリアは、昼食はラーメンだったと言っていた。




「お前、昼はラーメン食べたって言ってたよな」




ヴァルキュリアは冷や汗を流している。




「てっきりカップラーメンを食べたのかと思っていたが、お前まさか…」


「うわーーん!!!!!!ほんの出来心じゃ!!!!食べたくなってしまったんじゃ!!味噌ラーメンを!!」


ヴァルキュリアは泣き始めた。


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