四 産声 – birth –

 ここが地獄か。げに珍妙なことに、この現世こそ地獄とは皮肉なものである。

 生まれた瞬間より、ひとは生きるために修羅の道を歩むことを決め、産声うぶごえを上げる。

 しかし、我々はその決意を忘れて生きている。いついかなるときでも、身の危険が及ぶことを夢にも思わず、その日を自堕落に安心しきっていたのだろう。知ってか知らずか、それとも見て見ぬふりか。

 虐殺人間、百崎の魔の手が祭り屋台を一斉にいなした。凡人だろうと非凡人だろうと容赦はしない。

 砂が乱舞らんぶし、竜巻と化す。しなやかにうねる砂塵さじんの渦は、まるで竜神りゅうじんのようである。


「逃げろ、逃げろ。死にたくなけりゃ、さっさと逃げろぃ」


 狂気をはらんだ百崎の甲高い笑い声に、ひとびとはますます混乱した。どこか遠くでは子供の泣き叫ぶ声がする。子を呼ぶ母の悲鳴もある。

 猛威の巻き添えとなった者たちがまるで芋虫のように地べたを這いずる様に、百崎の勢いはたかぶっていく。

 こうして悪意が多くの者に刻まれるのだろう。平和ボケした凡人らの心に遺恨を植え付け、それを彼らは愉しみ、すべてを支配し尽くして次の地へおもむくのだろう。


 しかし、そうは問屋とんやが下ろすものか。

 壊れた車輪が唐突に百崎の脳天めがけて現れ、思い切り派手にぶつかった。

 この衝撃に、後藤がすぐさま振り返る。日野子さんが顔を真っ赤にして、屋台車を持ち上げていた。これに後藤は渋面のまま、ひとびとの向く波と逆行した。


「あら? 逃げるのですか?」


 拍子抜けしたのか、美影が驚いて両眼を見開いた。銀色の目がめらめらと光を帯び、すると逃げ惑うひとびとの足がピタリと止まる。

 急に立ち止まったことで、後藤も足をにぶらせた。体勢が崩れる。その瞬間、後藤の前にいた見知らぬ男が彼の肩をつかんだ。すぐさま振り払う。しかし、次から次へと手足をつかむ手が伸びていき、触手のごとくあり、滑らかに増え続けた。


「チッ」


 面倒だと言いたげに後藤は容赦なく、その手をぎ払った。骨が折れてしまうだろうが構うことはない。行く手を阻む有象無象らの腕が不自然に折れていく。しかし、勢いは止まらず、いくら引き剥がしても無意味なことだった。

 美影の目は人間の脳を支配することができる。いまの彼らに自我はない。後藤の判断は早く、小動物のごとき俊敏な動きで彼らの手を逃れた。


 一方、百崎はあちこちから振って湧いてくる物体をかわすのが堪らなく愉快そうで、美影たちには見向きもしなかった。もとより、この男には共闘という意思はない。美影もおそらくそれをわかっていて解き放ったのだろう。


「そんなもんでこのオレを殺せるわけがねぇんだぜ!」


 そんな挑発に乗るものかと言わんばかりに、日野子さんと松本は姿を隠したまま。

 百崎は両腕を奮った。


「死ね、つぶさに死ね! 命乞いしろ! 滂沱ぼうだに泣き叫べ! 己の弱さをさいなみ、悔やみ、呪いながら死ね! そして、知るといい! 貴様は弱いから淘汰とうたされるのだと!」


 のべつまくなし滅茶苦茶めちゃくちゃな暴論が展開される。狂った咆哮ほうこうが地獄の渦中を駆け巡る。その恐ろしさたるや。すべての希望を打ち砕く破壊力を持つ。


「オレぁな、力もないくせに虚勢を張るヤツが大嫌いなんだよぉ……でもよぉ、力があるくせに牙を剥かんヤツのほうが最も嫌いだ……そうだろう? 己の持つ最大限を奮ってオレを圧倒しろ。なぁ!? そんでよぉ、どっちかがぶっ倒れるまで殺し合おう!」


 次の一手は電柱だった。しかし、物体が重ければ重いほど、動きは鈍ってしまうようで、そして百戦錬磨のごとき修羅場をくぐってきた百崎の目にはスロウに映るのか、あっさりと身を翻してしまう。

 不利だ。不合理極まりない。殺し合い前提の大喧嘩など、日野子さんが耐えられるわけがない。


「どうせ死ぬんなら、愉快に死のうぜ。冥土めいど土産みやげくれぇにはなんだろ? なぁ、なぁ、なぁ!? きゃっははははははっ!」


 互いに一方通行の攻撃だ。どちらかがへばるまで続く。それももう時間の問題か。攻撃が息を整えるように止まる。

 赤児あかごさながらにはしゃいでいた百崎の眉がふと不快に曲がった。


「なんだよぉ、その程度かよぉ……だったらもういいや」


 百崎が片手を挙げる。次の瞬間、その場にあるすべての物体が上空へ浮き上がった。物、電灯、電線、木々までもがその場から一掃され、彼らを隔てるものはない。人間と野原だけとなり、物陰に隠れていた日野子さんと松本の姿が百崎の目に留まった。

 危険な口がニヤリと笑うと、獰猛な犬歯がむき出しになる。そして、なぶるようにすべての物体が一度に彼ら目掛めがけて降り注ぐ。


「死んじまえ」


 その声と同時に、美影が後藤を追い詰めた。行く手を阻む人間ダルマに押しつぶされる。その頂点に立つ尼僧の姿は人類を凌駕する恐ろしい怪物に見えた。


「私、あの方とは存外合いませんわ……しかし、心意気は愉快ですわね、んふふっ」


 百崎の様子を見やる美影の双眸には呆れの色が浮かんでいた。そして、その視線は後藤にも降り注がれる。


「さぁ、感情のままにそのまま悪意に飲まれてしまいなさい。貴方は貴方をもっと解放するべきです。そうすれば、貴方はきっと楽になれる。己のために生きて生きましょう?」


 甘みたっぷりに蠱惑的こわくてきな声音で囁く美影。ひとの手に揉まれて押しつぶされる彼に届いているはずがない。しかし、後藤はひとの手に揉まれてもなお、口元に笑みを残していた。

 不審に思ったか、美影は三日月の口元を初めて水平に結んだ。そして、首を傾げる。


「もう打つ手はないでしょう? 貴方が慕っていたお兄さまはいない。貴方が大層気にかけてらしたあのひとも、あの念力の方が殺してしまいました……ふふっ、それはそれは無様な死だったようですわよ。四肢ししを裂かれてあっけなく。それなのに、如何して抗いますの?」


 心底不可解だと言った具合に、女は疑問を呈した。

 肉ダルマとなっても、後藤は歩みをやめない。空気が薄い。息が切れる。いくら身体能力を磨いた彼でさえ、人間のかたまりを払うことは難しい。しかし、諦めない。絶対に諦めない。

 後藤は呼吸を乱しながら、ようやく周囲を蹴散らした。額から滴る汗をぬぐい、彼もまた危険な笑いを浮かべていた。


「あいつが死んだ? 馬鹿言え。あいつは何度殺してやっても死なん、三流奇術師だぞ」


 そして、彼は大きく息を吸い込むと、いままでになく喉を振り絞って叫んだ。


「一色ぃぃぃぃーっ!」


 その声を弾くものはなく、なにもない土地である。空中では念力者が物体を踊らせていたが、後藤の咆哮にピタリと動きを止めた。

 この奇行に、美影の眉もわずかに動く。

 後藤は面白そうに声を上げて笑い、言った。


「あんた、ここが大舞台だと思ってやがるんだろう? その目が節穴で良かったよ」


 刹那、彼は地面をつかんだ。そして、布を引くかのように地を引っ張る。するとどうだろう。世界は一瞬にして

 くすんだ空と荒れた大地が自転する。その場にいた全員だけを残して、にぎやかな祭りの模様へと変わった。空中で踊る物体もなく、勢いが消えたせいで百崎も呆気にとられる。

 美影は両眼を見開いた。なにが起きたかわかっていない。それでいい。これだから、奇術は面白いのだ。

 おれは紙を破るかのごとく欺きの封をビリビリ破り、全員の目の前に飛び出した。パチンと指を鳴らす。その間、わずか数秒。すかさず、おれは内ポケットからピストルを抜く。

 引き金を引いて、


「くたばれ、くそったれッ!」


 バチッと弾く破裂音が鳴る。銃口からは花びらと紙吹雪が噴射された。なんてことはない。ただの玩具オモチャ。しかし、そこには本物の弾が込められている。赤黒い弾薬が女の眉間を直撃すれば、それは勢いよく頭を撃ち抜いた。


「ははっ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔してやがる……びっくりしたろ?」


 美影はあっけなく地に伏した。まったく、この女でもそんな顔をするんだな。愉快で堪らない。

 美影は身じろぎひとつしなかった。しかし、これで死んだとは思えないおれたちは、しばらく緊張のまま様子を窺う。


「――んふっ」


 やがて、美影泰虎は幽かに笑った。


「ふふっ……ふふふっ……あぁ、まったく。まったく、非道いことなさるのね。なんて、なんて気持ちが悪い……うふふふっ」


「おかしいな? 大蘇生奇術イリュージョンは成功のはずやけどなぁ。つまらんかったかい?」


 女の足元がざらざらと砂のように崩れていく。この不気味極まりない非常識な現実に、おれはともかく後藤ですら不快そうに眉を寄せていた。


「悪意は、ついえないのです……いつまでも、貴方がたの、中に。ふふふっ。愚かですわよ……貴方たち。私は、貴方を思って……」


「せからしか、お節介ババアが。己の道は己で決めるったい。ぐちゃぐちゃ説教れんな」


 半ば遮るように一喝すると、美影は目をつむった。それは人類との和解が果たせなかった己を恥じているようでもあった。


「あぁ。わたく、しの……力が……うしなわれてい、く……」


 朱い唇が塵となり、やがて女の姿も保てずに文字通り朽ち果てていく。静かに。ひと知れず、悪意の化け物は消え果てた。


 その背後では、この不気味さにそぐわないお囃子はやしが軽快なほど調子がずれていて、おれたちは苦々しく顔をしかめた。面をかぶって走り回る子供。果物を両手に抱えて笑い合う男女。着飾ってペチャクチャとお喋りに興じる大人、子供。シャボン玉で気を引く露店商などなど。

 幼子が足元で、おはじきを並べる。様々な模様が描かれた大小のおはじきを「えーい」と指で弾き飛ばした。

 今日も彼らはなにごともなく、この悪意に気づくことなく日々を謳歌していくのだろう。

 人混みの中で、おれは女の残骸を宙に蹴り上げた。


 ***


 遡ること、一週間前。

 無口さんからもらったあの弾薬は、あの女を撃墜するために使うものだった。これを見抜いたのはほかでもない、天神さまである。


「美影泰虎を葬るほかあるまい」


 出てきた助言は、実にあっけらかんとしたものだった。


「え?」


「それしかあるまいよ。彼奴を葬り、悪意の芽をそこで一旦摘んでおく。呪いも解消され、しばらくは平穏に暮らせるだろうさ。これが君にとっての最善だ……それ以外になにがあるという?」


「いや、まぁ、それはそうなんですけど……簡単にはいきませんよ」


「なぜ決めつける? できるかもしれないのに?」


 できるかもしれない。

 その可能性がある。だが、おれにそんな力はない……と、このときは心底そう思った。神の御言葉など、今後は一切信用してなるものかと胸に誓いかけた。しかし、誓う前に天神さまはおれの胸ポケットからなにかを取り出したのである。

 そう。それこそが、あの西新町で出会った無口さんが無理やり押し付けてきた狐印の小袋である。

 それを勝手に取り出すなり、天神さまは嬉しそうに笑った。弾薬を素手で触り、陽に透かすようにして掲げる。


「上々、上々。こいつはいい。あのとき、徳を積んでいて正解だったようだよ、君。こういう小さなえにしは大事にするものだ」


「そんなんで、あの化け物みたいな女を倒せますかね?」


 訊いたのは未来人だった。彼はどうも、おれと同じく訝っているようであるが、天神さまはクスクスと忍び笑う。


「相対するものをぶつけると、力を打ち消しあう。この弾薬はね、あの女と対となる者の血で出来ているのさ」


 おれは絶句した。では、あの無口さんはあの女と相対する者――その弾薬であの美影泰虎を倒せるというなら、おそるべき最終兵器である。そんなものを平気で胸ポケットに忍ばせていたおれもなかなかの強者ではないか。どうやら、おれは楽に死ねなさそうだ。


 そんなことを考えたのも、遠い遠い昔のように思える。

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