三 錯乱 – confusion –

 後藤祥馬の目は未来を見据える。

 事の顛末を一歩先に予見し、あらゆる障害からも身を守る術を持つ。そんな彼にも、高尾の死は見えていた。そのはずだった。彼は迷っていたのだろう。でなければ、手を伸ばすはずがなかった。


 どちらが正しい未来か。

 人殺しを救う結末か、人殺しを見殺しにする結末か。


 彼の判断は後者である。そうに違いなく、後藤は気だるげにため息を吐き出した。そして、首を回して空を見上げる。足元では美鳥の嘆きがあり、その波はじわじわと波紋を広げていく。

 祭りに興じていたひとびとが目にするのは、ひとりの男の死であった。誰も彼もがその死に様に平等な同情を向ける。ざわざわと辺りは騒然となり、恐怖で逃げ出すひともいた。


「松本、」


 混乱の中、ふいに後藤が言う。


「俺の目はいつだって正しいよな」


「あぁ」


「この現場を見て、どう思う?」


 その静かな問いに、松本は琥珀色の目を泳がせた。


「残念だが、目的は達成された。復讐も終わった、そうだろう?」


「そう。そうなんだ。目的は達成された。俺たちの周りにいる悪人の排除は、これで終わり……悪いが日野子、これが現実。これこそ、俺たちにとっての最善だ」


 後藤は足元で呆然と座り込む日野子さんに冷酷無情な声を投げた。彼女は迷いながら振り返った。そして口を開けて、なにかを言おうとするも閉じてしまう。しばらく目を伏せて、立ち上がった。


「……いっこだけ言わせてもらえる?」


「あぁ」


 後藤は快く承諾した。

 すると、日野子さんは眉をしかめて拳を握りしめた。


「あたしね、高尾さんのこと許せんのよ……でもね、こんなことになるくらいなら、黙っとらんで文句のひとつでも言えば良かった。ミズキちゃんが受けた苦しみをそのまま味わわせてやりたかった」


 彼女の拳はさらに強く締まり、手のひらから血が滴り落ちていく。怒りや不甲斐なさから、力の抑制がきかない。彼女は傷つきながらなおも続ける。


「でもね、あたしは喧嘩はせんと誓ったけん殴らんよ。そういうことは、ただただむなしいばっかりだから……そう、むなしいよ。いくら正しかろうと、こんな終わり方はないよ。他に道はなかったと?」


「悪人に平等な死を与えるわけにはいかん」


 後藤はきっぱり言い捨てた。その言葉に、松本も日野子さんも息をひそめてしまう。

 美鳥は聞いているのかいないのか、号泣のあまり彼らの話に一切入らない。それどころではないのだ。最愛の男が目の前で殺されたのだから。

 誰もが冷静でいられない。しかし、後藤だけは違った。


「そういう奴はさっさと排除だ。無駄な異分子がのさばるから不平等な死が蔓延する。この世は地獄だ。腐っている。だったら、それを正すまで」


「なによ、それ……なんで、そんな目で言うとよ……」


 日野子さんは後藤の袖を引っ張った。彼の目には光がない。まるで機械的であり、やはり情のかけらも見当たらない。そんな彼の目から、日野子さんはなにを読み取ったのか、寂しそうに口を結んだ。


「日野子さん」


 後藤の後ろから松本がおずおずと弁明しかける。しかし、彼女は涙をこらえながら首を横に振った。


「よかよ。気持ちはようわかりました」


 受け入れたくない現実である。日野子さんの傷は癒えないだろうが、そんな悠長にしている暇はなかった。


「あらまぁ、寂しそうなお顔をして。いけないわ。せっかく、悪いひとを殺して差し上げましたのに」


 振り返ると、そこにはあの白い頭巾が憎たらしい妖艶な笑みを湛えて立っていた。朱い唇の憎たらしさたるや。瞬間、日野子さんの目の色が変わった。


「あんた、なにを……」


「しかしですね、誰かに恨まれたその瞬間より、その個体は小さなとなるのです。あら? まだ、お判りになられない? その方、貴女にとっての〝悪いひと〟ですよ?」


 日野子さんはおろか、松本も後藤でさえもその場から動くことはできなかった。まるで、その女に影でも踏まれているかのごとく。美影から発せられるその言葉と狂気は、人間の類のものではないことがこの場にいる誰にでも窺い知ることができた。


「あ、あたしが、恨んだからって言いたいの……?」


「えぇ」


「そんなことない! 違う!」


「いいえ、違いません。先ほど、貴女自信が仰いました。貴女の為に私が手を下したのです」


 日野子さんは言葉を失い、頭を抱えた。

 異様な空気。異質な香り。異彩の圧力。その得体の知れぬ、物体なきものに触れた瞬間、ひとは恐怖に縛られる。美影泰虎と相対する者、誰もがそう感じずにはいられないのだ。


「あら? 悪いひとをかばうのなら、貴女も〝悪いひと〟ということになってしまいますわね?」


 美影がひらりと動く。日野子さんは身動ぐこともままならぬ間に、鳩尾みぞおちに一撃を食らった。わずか数秒。松本が駆け寄るのと同時に、日野子さんはその場に崩れた。


「まぁまぁ、貴方も悪いひとなんですか? ここには悪いひとがたくさんいらっしゃるのね」


 美影は後藤を見やった。後藤も女を睨んでいた。その様子を随分と悲観めいた表情で美影泰虎は続ける。


「人間というのは面白い生き物ですね。他の為に情を注いで身をていする。なんと健気けなげで愛しいんでしょう。だからこそ苦しむ。悲しむ。身を滅ぼしても尚、それがたとえ愚かだとしても……美しい。素晴らしいです。悪人すらもかばい、公平に許そうとする。種としては残念ですが、貴方がたは何時いつだってそうですものね」


「だって、」


 苦しそうに日野子さんが言う。彼女を突き動かすのは、この場では怒りしかない。


「だって、それが、正しいから」


「正しい、ですか? 貴女はなにをってして、自らが正しいとお思いになるの? 貴女がいと思うものは、誰かにとっては悪になるのだと、如何どうしてわからないのです? 貴女の周りにはそういうひとしかいなかったはずでしょう? 貴女をおとしめるひと、さげすむひとしかいなかったはずでしょう?」


 うずくまる彼女に、美影は優しげに手を伸ばした。それに対し、日野子さんは松本に支えられながら大きく払いのける。


「あんたの目的ば教えてみぃ。なんなん? あんた、なんなのよ? あたしのなにを知っとうって言うんよ!」


「私に目的などありません」


 日野子さんの怒りを吸収するかのごとく、美影は無表情に鋭く言った。全員の目が驚愕に見開く。その愕然とした様子を見回し、美影は両手を広げて空を仰いだ。


「貴方がたがより良い暮らしを営むため、貴方がたの為を思い、適度な混乱を巻き起こすだけ。失ったものがあればあるほど、貴方がたは進化する。尊い犠牲の上に立ち、ますます発展していくのでしょう。そんな未来を想像して御覧なさいな。まこと楽しみじゃありませんこと?」


 能弁のうべんな口は恥を知らぬ。この女を人間ではない「波」だと言ったのは誰だったか。見事なまでに的確である。勧善懲悪かんぜんちょうあくのふりをした意志なき善意。それを具現化したのが美影泰虎の正体である。

 もう反論の余地はない。どんな正論を説いたところで、この諸悪の根源には届かない。だって、人間が立ち入るべき領域ではないのだから。どうにもできない。動かせない。絶対に理解し合えない。

 日野子さんは猛烈に喉を振り絞った。たける叫びは彼女の腹の奥底から飛び出していく。


「あぁぁぁぁぁーッ! 腹立つッ! 祥馬さんも、松本さんもなんとか言って!」


 依然として後藤に動きはない。松本も怪訝そうに見ており、彼はとにかく日野子さんをこの場から連れ出すことに徹した。


「日野子さん、もう逃げよう。僕らじゃ太刀打ちできませんって」


「いや! まだなにも解決しとらん! それに、あたしがおらんと、誰があいつをぶっ倒せるん? いま使わずにしていつ使うん!?」


「喧嘩はせんって誓ったやないんですか!? 怒りに飲まれたら、それこそあいつの思う壺です!」


 そんな松本の制止も聞かずにジタバタともがく。だが、腹に食らった一撃がまだ残っているかのようで、彼女の動きは松本でさえもすんなり封じられた。


「後藤! あとば頼むぞー!」


 松本の声にも、後藤は返事をしない。一方、美影は悠然と彼らを見送った。


「理解できないわ……己をりっしたところで、不満は高まるというのに。そうじゃありませんこと?」


 その問いに、後藤は足元を見やった。美鳥と高尾の姿がない。いつの間にか消えている。この混乱に乗じてどこかへ逃げ出したのだろうか。もしや、この美影が二人を異形なる力で消し去ったのだろうか。しかし、後藤にはどちらでも良いことのようで、彼はとにかく面倒そうな顔つきで諸悪の根源を見ていた。


「……高尾を追いかけているうちに、まさか、こんなところで会うとは思わんかったが」


 彼は脈絡なく、懐かしむように言った。その口元には言い知れぬ巨大な感情がこもっている。怒り、悲しみ、苦しみ、そういったものではなく、もはや怨嗟うらみの類のもの。


「あら? 私、貴方のことは存じませんよ。それに現世の年数に興味がありませんで。申し訳ありません」


 終始笑みを浮かべたままの美影。対し、後藤は構わぬといった様子で苦笑を漏らした。


「俺はあんたに


「はぁ、それはそれは。光栄の至りですわ」


 そこまで言って、美影は両眼を開いて合点した。そして、クスクスと笑う。

 一方、後藤は感動の再会にはそぐわぬ殺意を漂わせた。


「必ず殺してやろうと思っていたんだ」


「それはそれは、穏やかではありませんね」


「あんたは確実に悪意をばら撒いた。そして、その芽はいま、あんたの思い通りに花を咲かせている。五年前も。いや、その前からだろうな。その後もそうだ」


 言葉にも声音にも怨嗟は幾重となり、彼の中からいま、どす黒いなにかが放出された。まごうことなき悪意の花が、彼の中ではすくすくと育っている。

 これに、美影は思案げに唸った。そして悪気なく、軽々と衝撃的な言葉を口にする。


「貴方のことでしょうか? しかし、貴方のお母様がそう望んだことでしたから……」


 風が吹き荒れたと思われた。それは後藤がただ動いただけのことであり、彼は俊敏な動きで女の口を塞いだ。しかし、後藤の手は空振からぶっていく。確かに塞いだはずなのに、女は彼の背後に立っていた。

 そして、悲しそうにうなだれている。美影の端正な眼からはうっすらと細い銀色の涙が落ちていった。


「私、貴方のような才覚に恵まれた方を死なせるのは嫌いなんです……それなのに、如何してわかってくれないんでしょう。残念でなりません」


 すると、瓦礫がれきの中からせぎすの肩甲骨けんこうこつが不気味にうごめいた。さながら飢えた野犬、いや蟷螂カマキリのようである。節足動物のごとき細い腕がようやく自我を取り戻す。

 封じられていた百崎が有り余った力を駆使して飛び出した。


「っしゃああああああああッ! きゃははははははははッ!」


 気合いの入った掛け声に、美影は振り返ることなく無表情に振り返った。そして、アリの整列でも眺めるかのようにほのぼのと言う。


「あら、やっと出られたんですの?」


「いいぜ、いいぜ。爽快だッ。スッキリ目ぇめちまったぜぇ……ひゃははッ! こう言っちゃ癪だがアンタのお陰サマサマだよぉ! 生まれてはじめて恩に着る!」


 百崎は宙を蹴って空を跳ねた。その様子を唖然と見るのは、遠くへ走ったものの立ち止まった松本と日野子さんであり、後藤はうるさそうに眉間にシワを寄せる。最悪の状況であることは否めない。人類は驚異の力に脅かされ、錯乱さくらんしている。

 悪意の花と化した霊能者と、比類ひるいなき凶悪な力を持つ者共が一堂に会す。これを望んでいたのかどうかは神のみぞ知るところか。天神さまは見当たらない。


「あぁ、あの死んでしまった殿方、人殺ししておりませんよ。あの場では、そうすることが求められていましたので……さながら無名の犠牲者、とでも言えばお判りになりますかしら?」


 朱い三日月がわらう。

 その瞬間、後藤の目がたちまちどす黒く濁った。

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