五 背徳 – immoral –

 木材の台所はピカピカに磨き上げられ、壁は重厚な赤土で気品溢れる、左右に仕切りのない座敷がずらっと並び、あの掘っ建て小屋の中とは思えぬほどの大容量な空間だった。そんな店内には、おれと未来人以外の人間がいない。

 おれたちは座敷に座っていて、目の前には美味しそうにグツグツと煮えたぎった牛鍋があった。味噌みその香りが立ち込めている。

 向かい側に天狗がちんまりと座っていた。目を向けると、奴は「いひひひ」と肩を揺らして不気味に笑う。


「もうすぐおいでなさるからァ、ちょいっと待っときィィなー」


 しかし、煮えたぎる牛鍋は食べごろである。待てと言われても待つには惜しい気もするが、あの凄惨せいさんな現場が眼球にこびりついているせいか、この牛肉にさほど興味がそそられない。隣の未来人も険しい口の形をしている。しかし、視線は牛鍋に一直線である。

 すると、天狗がピッと背筋を伸ばした。店の戸が開く。


「ふぅ、やれやれ。鬱憤うっぷん晴らしにはうってつけだったな」


 野良犬でも退治したかのごとく、また軽い口ぶりで神さまが暖簾をくぐって店に入ってきた。高貴なお役人とは言い難く、やはり怨霊の片鱗が微かに残る。

 かの御仁は、片手で人間の足を引きずっていた。それはどうやら、あの虐殺人間のようであり、よくよく見ればやはりそうで、あのうろこ模様が派手な着物が伸びきって横たわっている。獰猛どうもうなイノシシでも獲ったかのごとく、天神さまは虐殺人間を店の中へ放り投げた。


「まさか、殺したんですか?」


 未来人が訊く。さらっと軽々しく口にしてはいるものの、彼の口角は引きつっている。すると、天神さまは片眉をあげ、さしてつまらなさそうに返した。


「殺してやってもよかったんだが、こやつは死にたがっていたので、だったら殺すまいと決めたんだ。無駄な殺生せっしょうはよくないし、死にたがりならば尚のこと、外道の願いを聞いてやるつもりは毛頭ない」


「なんだ、よかったぁ」


 心から安堵したかのように未来人は息を吐いた。


「しかし、こやつの手に堕ちた者たちが浮かばれんな。あすこはしばらく立ち入り禁止になるだろうね……やれやれ、参るね。好き勝手に遊べやしない。それもこれもこやつのせいだ」


 虐殺人間はどうやら気絶しているらしい。白目を剥いている。その形相は苦痛に歪んだままであり、楽に気を失ったわけではないことが大いに読み取れる。


「どれ、そこの天狗」


 天神さまが話しかける。すると、おれたちの間にいた天狗が恭しく前のめりになった。


「君、この男を買う気はないかね。それが目当てだったんじゃないかい?」


「んぅ。おっしゃる通りでェェ」


 天狗は待ってましたとばかりに両手を高く掲げた。「わーい」と喜ぶ子供のような無邪気さだが、ハゲとひょっとこ面のせいで可愛げの欠片もない。

 天狗はいそいそと座敷から降り、虐殺人間を調べた。そして、奴の腕を引っ張ってひょいっと肩に引っ掛ける。そして、店の奥に置いていた荷車の元へ小躍りしながら向かった。

 呆気にとられるおれたちをよそに、天神さまは清々しい顔で座敷に腰掛けた。


「さぁ、現代人と未来人。折り入って話がある」


 夕刻に見たあの憤怒はどこへやら。爽やかな笑みさえ浮かべる天神さまのお顔は麗しく、直視するのもはばかられるほどに高貴な風格を示す。おれはひれ伏しそうになったが、体が固まっていてうまく身動きが取れなかった。

 一方、未来人は腕を組んで品定めをしていた。まったく、こいつは緊張感が足りない。締まりのない姿勢で天神さまと向かい合っている。そんな彼にも天神さまは慈悲深い。


「さっきは怒って済まなかったね。このところ、博多がわずらわしく……まぁ、虐殺人間あやつのせいなのだが。遊び場が荒らされて、無性にその……イライラしていたんだ」


「そうですか……じゃあ、しょうがないですねー」


 未来人がほっこりと相槌を打つ。どうやら向こうの調子に合わせるらしい。


「しかし、いましがた気が晴れた。浅ましき悪い奴に雷を落とすと、こう胸がスッとすくように……ゴホン。さて、未来人。君の願いを聞くとしよう」


 なんだか気まずげに言葉を濁しながら、神さまは厳かに訊いた。話を振られ、未来人は息を整える。そして、彼はあの願いを述べた。


「さっきも言いましたが、ともかく鶏口牛後です。そのありあまるお力をひとびとに分け与えてください。貴方は人間たちの長となり、人間たちは神さまの力をお借りする。つーか、そういう未来になるので、なにとぞよろしくお願いします」


「……他には?」


 なんだかすべてを見透かすような口ぶりである。未来人は正座し、勢いよく頭を下げた。


「オレを元の時代に帰してください!」


 絶対こっちの願いのほうが遥かに強かろうな、とおれは密かに呆れた。


「素直でよろしい」


 天神さまは厳かに頷いた。互いに肚の探り合いをしているが、それ上手に結びつき軽妙にわかり合っている。なんとなく、二人が百年先も親しい理由が悟れた。


「――さて、それなら現代人よ。君はなにを願うかね?」


 話をこちらに振られ、おれは挙動不審に体をこわばらせた。ちなみに、我らをへだてる牛鍋は煮えっぱなしで、意外と焦げがつかないものである。本物かどうか疑わしく思えてくるが、いま考えるべきはそれじゃない。


「どうした? なにか喋りなさい。この未来人が言うように、私の力を貸そうか? 君がその第一号になってみるかね? それでも良いし、それが良いのではないかな。君はなんだか死相しそうが濃いものだから、見ていて痛々しい」


 天神さまはせっかちに訊いた。

 確かに、その言葉通りなのだが……この手に霊能力が備わるかもしれないという、あまりにも馬鹿げていて滑稽な、それでいて至極重大な一世一代の選択を促されている現実に、おれはしばしの沈黙を守った。

 だいたい、そんな簡単な話があってなるものか。

 でも。そう、でも。

 喉から手が出るほど欲しいに決まっている。楽な道を選んで気楽に生きるのが最大の目標だ。あまねく羨望をほしいままに、好き勝手に生きていければそれで良い。

 ごくりと唾を飲み、おれはおずおずと天神さまを見た。彼は気分爽快なのかすこぶる機嫌が良い。または、しがない人間の心を掻き乱して愉しんでいるのかもしれない。


「考えているね。まぁ、仕方のないことかな。しかし、うだうだ悩んでいては先に進めないよ。この好機、逃すわけにはいかないんじゃないかな?」


 おっしゃる通りだ。

 でも。

 でもな、そうじゃないんだ。

 おれが本当に欲しいのは、霊能力でも安定的な生活でも、地位や名声でも、ましてや延命でもない、のではないか。おれが本当に欲しいのは――一色天介という男の尊厳だ。


「……お断りします」


 震える声で答えを出す。

 すると、天神さまの眉が歪んだ。それは大きく弧を描き、おれを威圧するには十分だった。しかし、おれもおれで頑固に言い張る。こうなったら言わせてもらおう。しがない人間の小さくひ弱な大見得おおみえをここで切らせてもらう。


「おれはそんな大それた力を持つ自信がない。それを使いこなせる器量もない。霊能者が生きやすくなるなどという願望もなければ、神力の媒体という実験台になるつもりもない。誰だって己の道は己で決めるべきだ。それに力を借りて延命できたとしても、果たして本当に生きていると思うだろうか。否。それは本物じゃ、ありません」


 口にすれば、胸に溜まった違和しこりの正体が見えた。

 畏怖が脳を冷やしていく。口の中もカラカラだ。神道しんとううといおれでさえ、この舞台は身のすくものだった。

 神の目がおそろしい。だが、おれの口も引っ込みはつかない。


「……ひとならざる力は、確かに魅力的ではございます。しかし、それは手に入らぬゆえに夢や憧憬どうけいとなるのでして、そうやすやすと手に入ってしまえばとうとさがうしなわれ、つまらぬガラクタに成り果てましょう。つまり、なにが言いたいかと申しますと、面白くありません」


「しかし、死にたくはないんだろう?」


 やはり、天神さまはおれの心を見透かしている。まったくその通りで、おれは己の弱さに呆れた。呆れて思わず笑ってしまう。こらえようとしても、喉の奥が痒くて痒くて仕方がない。緊張が増せば増すほど、おれの口は滑らかになっていく。

 一方で、神は不満に口を尖らせた。


「まったく、うだつが上がらない男だな。面倒な奴め」


「はい、私は面倒なのです。生粋きっすいの嘘つきでございます。確かに死にたくはないし、なぜ私が死なねばならんのか甚だ疑問でありますが、こうなってしまったこともサダメと言いましょうか。しかしまた、これを背負う気概はありません。なるべくなら長生きしたいところです。が、三流の奇術師が霊能力を持ってしまえば、それは嘘ではなく真実になってしまいます。曲がりなりにも、これからも嘘をつき通して生きたい所存でありますし、これこそが私の矜持きょうじ。そこは、たとえ天下の天神さまとて立ち入るべきではない。ご容赦ください」


 深く深く礼をすれば、天神さまや未来人の顔色もまったくわからないものだ。ひとりの世界は随分と気楽であり、また、一色天介という男を演じていられる気力がみなぎってくる。

 三流の奇術師が神に楯突たてついた。このどうしようもなく阿呆で、憎めぬ相棒がまさに自分なのだと思い知らされる。


「――では、私からは以上です。ご静聴せいちょう、まことに有難ありがと御座ございました」


 そう言い切り、おれは勝手に座敷から出た。誰の制止もないので、そのまま店の外に出ていく。

 外はすっかり月がきれいで、つるりとふくよかに丸い。満月が過ぎれば、死期に刻々と近づいていく。

 そんなことがあってたまるか。

 おれは誰の手だって借りずに生きてやる。そう決めた。後戻りできるはずもなかった。


 ***


 生きたいと嘘をつくのか、死にたいと嘘をつくのか。好きだから愛するのか、愛したいから好きになるのか。この辺りが判然とせず、おれは途方に暮れてしまう。行き交うひとびとは、男女共に連れ立って仲睦なかむつまじく、のんびりと明日を夢見て生きているのだろう。豊かで仕合わせな暮らし。結構なことだ。

 だが、おれはその輪の中に入れなくて、いつの間にかひとりだった。己でさえも気が付かぬほど周囲に愚鈍であり、他人に潔癖であった。ひたすら真っすぐに己の世界に浸っており、それはどうもハタから見れば落ちこぼれだが、おれはおれでさほど困ってはいない。生きていくというのは、そういうことだろう。


 そんな勝手な屁理屈を頭の中でこねていると、道の真ん中に貧弱そうなおかっぱの少女が佇んでいた。前に見たときよりは幾分か頰が肥えたような気がする。まどろみの瞼がこちらを見つめており、目が合えば彼女はにっこりと微笑んだ。


「お梅ちゃん?」


「はい、梅でございます。お会いしとうございました、一色さま」


 月明かりの下にいるのは、彼女だけではなかった。日野子さんと後藤、それに松本までもが揃っている。高尾はいない。それだけで、おれはここまでの経緯が読み取れてしまった。同時に虚しさが爪先を冷やしていく。


「ということはなにか? さっきの話、全部聞いてやがったんだな?」


 一同に訊けば、各々がクスクスと忍び笑う。後藤だけは相変わらずの仏頂面なのだが。すると、お梅ちゃんが無邪気に手を合わせた。


「はい、全部しっかり聴こえておりました」


「そりゃあ、君はそうだろうね。一言一句聞き漏らしはなかったろうさ。あーあ、畜生」


「いや、おまえの声がでかすぎるんだ」


 すかさず後藤がしれっと言う。


「まったく、だからあの女を尾行しろと言っただろう。手間をかけさせるな」


「別におまえの力を借りてまで生き延びようなんざ思っとらんよ。思い上がりも甚だしい」


「フン」


 後藤は不機嫌よろしく鼻息を飛ばした。おれは腕を組み、後藤に言った。


「それで? 高尾さんがこの場にいないということは、おまえが追ってたのは、あいつだったわけやな?」


「あぁ」


 おそらく後藤はこっちを追いかけていた。お梅ちゃんを救うことも、おれを引き入れたことも、すべては霊能者殺しの犯人をあぶり出すため。

 まったく単純と言ってしまえば聞こえは悪いが、単純なカラクリである。その単純の後ろに控える悪意の芽を考えたらその言葉が適当。後藤でさえも想像のつかぬ巨大な力が潜んでいたのだから。

 ひとつの不義が恐ろしい悪意をばら撒いている。誰の仕業か。あの尼僧か、それとも霊能者たちか、我々凡人なのか。もはや、誰が始めたものかわからない。ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。


「つまり、霊能者の中にも悪人がいる。そういうわけだ」


 簡単にまとめるとそうなるのだろう。あの虐殺人間がいい例だ。あいつほどではなくとも、ひとをひととも思わぬ霊能者が我々の生活を脅かしている。

 おれの言葉に、後藤は重だるいため息を吐いた。


「そういうことだ。わかったら、おまえはおとなしくしていろ」


「はぁ? 天下の天神様に大見得切ったばかりだぜ? いまなら華々しく散ってやってもいい」


「ダメよ! それはあたしが許さんけんね!」


 日野子さんが力強く言う。駆け寄って、おれの袖を握るので、シャツが破れてしまったかもしれないと少し心配になった。そんな彼女は、いまだに顔色が優れない。彼女はなにも知らなかったんだろう。まぁ、そのほうが良かろうなと、おれでさえもそう思う。


「おい、後藤」


 おれは日野子さんから離れ、後藤の前に詰め寄った。彼は眉毛ひとつピクリとも動かず、能面のようにおれを見返す。


「おまえ、あの女のこと、知ってやがったな?」


 訊くと、彼はわずかに視線を逸らした。そこになにが隠されていようとも、おれはどっちにしろこいつを責めるつもりだった。


「知ってて黙ってたな。おれを餌にしたわけだ。そういうことやろ?」


「………」


「まぁ、そうだよな。おれは最初からそうだったもんな。結局、ただの撒き餌でしかない」


 そうだ。おれは最初から無関係だった。ただ、たまたま霊能者こいつらに出会ってしまい、たまたま死の呪いを受けてしまい、たまたまその場に居合わせていただけの、名無しの道化だった。それも、あの未来人とは似ても似つかぬただの能無し。

 物語は別の方向からはじまっていて、別の方向へ進んでいる。だから当然、おれなんかがここまで立ち入るべきではなかったのだ。

 鼻持ちならんが、こいつにはこいつの考える最善の道がある。そのうちのほんの一部の登場人物に過ぎないおれに、この男がベラベラと手の内を明かすわけがない。


「やっとわかったか、このお人好しの三流め」


 後藤はニヤリと口角を上げた。その笑みがあまりにも似合ってないから、おれも下手に笑うしかできない。


「あんたの推察どおりさ。どのみち干渉は避けられん。だったら、餌にしてしまえばいい。その方が合理的だ」


「後藤……」


 そうたしなめるように言ったのは松本だった。彼はどうやら、おれに対しては同情的で、どことなく気まずさを感じているらしい。

 日野子さんに至っては苦々しい顔つきで、それでも口を挟むまいと耐えている。お梅ちゃんも真剣な顔つきで押し黙っていた。

 そんな面々を見ていると、おれはやはりこの中には入られんと悟れた。誰かと手を組んでなにかを成し遂げるということに慣れていない。慣れていないから、どこへ行っても除け者扱いにされる。いいように使われて、気がついたときには手遅れで、おれはどこまでいってもお人好し。

 ため息が漏れる。無性に息を吐きたくなる。胸の内に溜まった疲れを、思う存分外へぶちまける。


「さながらおれは、最初から最後まで道化だったわけだ。騙されてあげとうつもりが、いつの間にか本当に騙されとったわけやな……あーあ、やってらんね」


 残念なことに悔しさはない。むしろ、さっぱりと気が晴れた。そして、おれの耳は幾分爽快なので、後藤の言葉のどれもに哀を感じていた。こいつの言葉には、いつだって裏が潜んでいるから油断ならないことくらいとっくに学んでいる。


「これからどうすんですか?」


 堪りかねたように松本が訊く。おれはくるりと踵を返した。


「どうもせんよ。道化は道化らしく、役目を終えりゃ、さっさと舞台から降りるしかなかろう……あ、そうだ。今度、筥崎宮で放生会があるやんか。そこでまた魔法商売でもやろうかなぁと思ってんだ。見にくるかい?」


 しかし、誰も返事はしなかった。

 まったく、おれには人望すらない。まぁ、いいか。ようやくものが落ちた気分だから、とっくに腹は決まっている。そろそろおれはおれのために動くべきだ。


「じゃ、せいぜい頑張れよ」


 そう言って、おれは勝手に別れを告げた。

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