五 妥協 – compromise –

 結局、宿代まで奢ってもらったおれは高尾氏に深く礼をしたのち、清々しい気持ちで再び西新町へ向かった。

 彼からの情報をもとに、ともかくまずはあの鼻持ちならんガキを手なずけることにする。

 とにかく、後藤が通う学校の前で待ち伏せしていれば、容易に会えるだろうと簡単に考えていた。

 すると、おれは後藤に合間見える前に妙なものに引っかかってしまった。校門前で張り込んでいた最中である。

 まだ朝露あさつゆの残るしっとりとした空気の中で、学生の姿もない時間帯だというのに、おれ以外の人間が動いていたとは想定外だった。しかし動いていたと言うよりも、どちらかと言えば死にかけていた。

 学校の道に、行き倒れる旅人がいた。ぼろっちいかさを被り、四角形のかごのようなものを背負っていて、どうやら山の向こうからやって来たと思しき風貌だった。さすがに見て見ぬふりができず、おれはつい声をかける。


「もし? おーい、あんた、大丈夫かい」


 脇腹をつついてやるも反応はない。


「おい、酔っ払いなら道の脇に行きたまえ。通行の邪魔だ」


「………」


「行き倒れか? だったら、なおさら良くない。ほら、しっかりしろ」


 肩を軽く揺すってやる。仰向けにさせると、やはり行き倒れのようであり、幽霊さながらの青白い顔でぐったりしていた。見たところ、歳は二十かそこらくらいか。おれや高尾と同年くらいの男だ。唇がカサカサで、心配になってしまうほど不健康そのものである。


「飯、食ってないのか?」


 話ができないので訊いてみると、そいつはかすかに頷いた。


「宿でもらった弁当があるんだが、食うか?」


 おれは今朝に見送ってくれた女将おかみからもらった包み箱を見せた。

 瞬間、目にもとまらぬ速さで弁当が奪われる。電光石火とはまさにこのことを言うのだろう。ぶら下げた紐だけがぶらんぶらんと宙をそよぐ。

 行き倒れ男は乱雑に弁当の包みを開き、その場でガツガツと握り飯を頬張った。ぷりぷりのシャケや果肉たっぷりの梅干しなんかが入った特製握り飯弁当が、ものすごい速さで奴の口の中へ消えていく。さぞかし美味かろう。だって白米でできているんだもの。見ているだけでよだれが溢れそうな上等な握り飯である。


「そうくな。喉に詰まるぞ」


 残念ながら水筒はなく、近くに井戸もないので喉に詰まらせたら死を覚悟してもらわねばならない。と、思っていたら案の定、そいつはゴホゴホとむせ返った。


「あーあーあー、ほら、言わんこっちゃない」


 苦しそうに咳き込むが、彼は胸元をトントンと叩いてなんとか事無きを得た。そうして、たった数秒で握り飯は消え失せた。

 じっとかがんだままそいつのことを見ていれば、赤ん坊のようにクリクリとした睫毛まつげでこちらを見返しくる。男にしては随分とか弱そうな小顔で、顔立ちも幼くある。


「あんた、どこから来たんだ」


 世間話くらいは付き合ってやろう。その場に座り込んで訊いてみると、彼はなにも言わない。ぽやっと笑うだけ。


「ん? あれ? 日本語わからんのか?」


 挑発気味に言ってみるも、無言である。でも、こちらになにか期待するような目を向けているので聞こえていないはずがない。


「外国人? えーっと……What is your name?」


 これさえ覚えとけばあとはどうとでもなるという英語の挨拶をしてみる。

 だが、返事はない。うんともすんとも言わない。首を傾げて、おれを見つめる。わずかに眉根を寄せたので、どうやら英語圏の人間じゃなさそうだ。まぁ、見た目は日本人なんだけれど。


「あ、わかった。耳、聞こえないのか?」


 すると、それにはすぐに応えてくれた。両手で大きくバツ印をつくってアピールする。どうやらバッチリ聴こえていらっしゃる。


「じゃあ、話せないのか?」


 なんとも気まずくなってしまうのは、おれが臆病なお人好しだからかもしれない。


「喋れんなら、意思疎通いしそつうが難しいぞ。朝飯返せって言っても文句ひとつ言ってくれないわけだし。相性の悪いやつと出くわしたなぁ……」


 気まずさを打ち消そうと毒づいてやると、彼は少しだけ寂しそうに笑った。そして、憂い気に風の方向を眺める。南から吹く風がぬるくゆったりと、動き出す町の中へ溶け込んでいく。

 その流れを辿るように、彼は立ち上がった。子供がするようにおれの服を引っ張る。


「ん? どした」


 彼は好奇心たっぷりに道の向こうを指差した。

 そっちは昨日、おれがあの尼に出くわした通りである。それを見れば、どうにも苦手意識が働き、脊髄せきずい反射で顔を背けてしまう。しかし、おれの心情をつゆも知らずに彼は「行こう」と言わんばかりにシャツを引っ張る。

 あまりにもしつこいので、おれは諦めて、これみよがしにたっぷりと嘆いてみせた。


「あぁ、もう、わかった! ちょっとだけだからな!」


 ***


 さて、奴が好奇心に満ち溢れた幼子のように嬉々とした目で見つめているのは、もちを焼く露店であった。ただただ食い意地が張っただけで、おれまで付き合わされる羽目になったのは腑に落ちないことではあるが、おれも朝食がまだだったので仕方なくなけなしの金全部を払って餅を買った。

 一個、二銭也。平べったい餅の中に、意外とたっぷり詰まった餡子あんことしっとりした栗の粒に舌鼓を打つ。餡子は重たいものだと思っていたが、ほどよく甘く、また丁寧にこしてあるので喉につっかえない。店主曰く、季節に合わせた餡子をたっぷり使っているらしく、秋にふさわしい栗を甘く炊いたのだと言う。文句なしに美味い。


「おまえは一口で食っちまうんだよなぁ……」


 おれは脇で餅を平らげる行き倒れ男を見やった。こいつ、喋れないから名乗りもしない。なんと呼べばいいかわからんまま、なぜか朝食とおやつを奢る羽目になってしまった。

 しかし、死ぬ前にはこうして徳を積んでおくのも悪くはないだろう。なんて、若干の感傷にも浸っている。


「まったく、おれはこんなことをしている場合ではないのだ。明日にでも死ぬかもしれんというときに、呑気のんきに餅を食ってる場合じゃ……」


 ブツブツとぼやいていると、大通りを学生らが行き交っている様子が見えた。そろそろ始業らしい。どこからともなく名家の坊ちゃん方がぞろぞろしている。路面電車からもわらわらひとが溢れ出てくる。そんな中であの後藤を捉えるのは難しかった。

 しかし、松本の巨体があったので、その横にどうせあいつもいるのだろうとたかくくる。おれは餅屋から大通りへ飛び出した。


「おーい」


 声をかけると、群衆が一斉にこちらを見やった。そこには松本もおり、やはり彼はすぐさま反応を返してくれる。


「一色さん、危ない!」


 彼から飛び出したのは警告の声だった。道の向こう側から車がやって来ている。

 あわわと身を翻して歩道までたどり着くと、その場にいた全員がほっと安堵するように胸をなでおろした。松本が駆け寄ってくる。その後ろには嫌そうに悠々と近づく後藤もいた。


「ちょっと、一色さん! なにやっとるんですか! 道路は確認せないかんですよ。まったく、ヒヤヒヤした」


「すまん。つい……面目ない」


 なぜか謝ると、松本は呆れたようにおれを睨んだ。図体がでかいのだから、そんな顔でこっちを見ないで欲しい。思わず萎縮してしまうではないか。


「おい、なんだ。もう会わないんじゃなかったのか?」


 ようやっとこちらにたどり着いた後藤がふてぶてしく言う。おれは、まるで親友との再会を喜ぶかのように後藤の肩をがっしり掴んだ。


「あー、やっと会えた! 坊ちゃん、君に会いたくて会いたくてなぁ」


「気持ち悪ぃ……」


「まぁ、そう言わんで。ちょっと見て欲しいことがあって」


「見て欲しいこと? 後ろのそいつか?」


 後藤が指差す。おれはその指をたどって振り返る。

 そこには、さっき餅を恵んでやったあの無口さんがニコニコとたたずんでいた。これに後藤だけでなく松本までもが重たいため息を吐く。

 後藤は頭痛に耐えるかのように眉間に指を押し当て、嘆くように言った。


「ついに仲間を増やしたのか……この無垢むくそうな人をたぶらかして、あんた、またどうしようもないことを企んでるんじゃないだろうな」


「まさかまさか。こいつは、さっき行き倒れていた無口さん。ついさっき会ったばかりの名無しの権兵衛ごんべえだよ」


「どうだか。インチキ奇術にも人手があったほうがいいんじゃないのか?」


 確かに。それはもっともな意見である。

 おれは無口さんをちらりと見た。彼はキョトンとするばかりでただただおれと後藤のやり取りを面白そうに眺めており、こっちの話に入る気はなさそうだ。じゃあなんで追いかけて来たんだろう。わけがわからん。


「それはそうと、一色」


 後藤が空気を変えるように静かな声音で言った。


「あんた、俺の忠告も聞かずに女に会っただろう?」


「お、やっぱりわかりますか、坊ちゃん。さすが天下の未来霊視さま」


「茶化すな」


 どうやらなんでもお見通しのようだ。それなら話は早い。

 おれは緩めていた口を真剣に結んだ。


「相談があるんだ」


「あとにしてくれ。授業が始まる」


「そこをなんとか。一日くらいサボったっていいやろ? な、頼むよ、坊ちゃん」


 事は一刻を争う。いましがた車に轢かれかけたこともあり、内心はかなりビビってしまっていた。

 おれの頼みに、後藤と松本は互いに目配せする。そして、後藤はゆるゆると仕方なさそうに息を吐いてカバンを肩にかけた。スタスタとおれの脇を通り過ぎ、すれ違いざまにおれの髪の毛を掴んで引っ張る。


「いでっ」


「行くぞ」


「あーはいはい、あんがとさん……って、その持ち方はやめろ!」


 半ば強引にズルズルと引きずられながら、おれは後藤のあとについて行った。対し、松本は校門の方へ歩いて行く。そして、無口さんはおれに懐いているらしく、一歩遅れておれたちの後ろからついて来た。


「……あの無口さん、信用できるのか?」


 餅屋の前を通り過ぎながら、後藤が密やかに訊く。


「うーん、どうだろうな? 悪いやつじゃなさそうなんだが」


「あんたは警戒心がなさすぎる。だから、道端で女に呪われたりするんだ」


「へいへい」


 またあの珈琲舎にでも行くのだろうかと思いきや、後藤は曲がり角を曲がって、人気のない広い空き地まで歩いていった。

 どうやらそこが彼の穴場のサボり場所らしく、どこかからか乱雑に廃棄された椅子を引き寄せて、木陰に陣取った。おれと無口さんは手頃な椅子が見当たらなかったので、タンスの上に並んで腰掛ける。


「はっきり言うが」


 後藤は偉そうに足を組みながら言う。


「あんたの命は、明日にでも尽きるかもしれん」


 その言葉の重さに、おれはごくりとつばを飲んだ。しかし、うまく飲み込めない。

 なにも言わずにいると、後藤があとを続けた。


「曖昧な言い方しかできんが、とにかくはっきりしているのは、あんたはいつ死んでもおかしくない状況にいる」


 そう言う彼の目元は、あの涼しく冷酷であったものの、瞳の中がわずかに揺れている。


「おまえの未来の見え方とやらは、昨晩、高尾さんから聞いた。だから、今度は誤魔化さずあるがままを伝えてくれ」


 おれも真剣に言うと、彼は鼻から息を吐いた。その音がとても長く、どうやら全身の空気を外に出しているように思えた。それがあまりにも重く、おれの肩にものし掛かってくるようである。

 やがて、後藤は気怠げに言った。


「俺の目がおかしくなったのかと思ったよ。とにかくこんなことはいままでになかった。俺は、あんたの未来が見えている」


「いくつも?」


「あぁ、そのどれもが今日から十日後くらいまでの間に死んでいる。全部のあんたが死んでいる」


「どんな風に死んでるんだ?」


 訊いてからすぐに後悔した。後藤の目尻が怒ったように吊り上がるので、おれは「やっぱりいいや」とすごすご尻込みする。


「その女、何者だ?」


 後藤が訊く。


「わからん。ただ、おっかないやつであることには変わりねぇ」


「人間なのか?」


「そう見えたが……まぁ、人間離れした空気をまとっとったな……尼さんなんだし、そういうもんじゃないか?」


 ちなみに、ここまで無口さんは一言も発しない。邪魔もしないで、ただただこちらの会話をじっと見守っている。


「そうやな……例えるなら、蛇に睨まれたカエルのような気分だった。あの女を見ているだけで、どうにかなってしまいそうになる」


 おれの言葉に、後藤は不機嫌に舌打ちした。


「霊能者の可能性もあるな。この辺りでそういう妙なやつは聞かないんだが……それより俺は他にやることがあるのに」


 インチキ霊能者を退治するという大義はいまだピンピンと健在のようだ。おれは呆れて口元を引きつらせた。


「あ、そうだ。天狗に会ったぜ。坊ちゃんが川にぶん投げた天狗。あいつがどうもあの尼さんのことを知っているようだった」


「あいつか……じゃあ、間違いなく俺たちの敵だな」


 後藤の見解は大雑把である。しかし、見ず知らずの他人に死の呪いをかける女に、わけのわからん天狗の組み合わせは、間違いなく敵だと認識せざるを得ない。

 互い、神妙に唸っているばかりで、話は前進しない。それに気がついたか、後藤が組んでいた足を解いて宙を見上げた。


「よし、一色、いまから川に投げ飛ばすから気合いを入れとけ」


「あぁ、そうだな……って、川に投げる!?」


「設定のし直しだ。なんだ、高尾さんから、そこまで聞いたんじゃないのか?」

「いや、聞いたけども! 急に川に投げるって、おまえ、おまえが先におれを殺すんやなかろうな?」


「死なない程度にうまくやる」


「安心できねぇな。それでうっかり死んでみろ。おまえの末代まで祟ってやるからな」


 しかし、川に投げ捨てられれば、もしかすると後藤の死の回避とやらがうまくいくかもしれない。身をもって体験しているので、これをやってみるに価値はあるだろうが……いや、でも、いまから投げ飛ばされるのは嫌だ。心の準備ができないぞ。いくらなんでも。なぜ、進んで自ら痛い目に合わなければならん。

 どうにも煮え切らないでいると、おもむろに後藤が立ち上がった。向こうは川へ投げ飛ばす準備が万全らしい。まったく、このサディストめ。この件が片付いたらもう二度と会うもんか。


「おい、一色」


「はいはい、わかりましたよ」


 投げやりに返事して立ち上がると、どうやら無口さんも後藤も空き地の入り口をじっと見つめていた。おれもならって見やる。

 と、そこには荷車を引いてこちらを見つめるひょっとこ面が突っ立っていた。

 昨晩、おれに喧嘩をふっかけてきたひとりでもある禁書貸本天空商會――へべれけの堕天狗である。

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