四 朦朧 – obscurely –

 あれはまだおれが幼いころ、三番目の弟が生まれたかそれくらいのとき。親兄弟よりも仲が良く、大事に可愛がっていた猫が死んだ。

 すでに老体で、毛も白くなり、目も濁っていたのだが、大きくやわっこい腹が気持ち良く、愛おしかった。あいつもおれのことを弟のように可愛がってくれ、ときにはおやつの取り合いもしていた。

 そんな猫が死んだのは突然だった。カラスに襲われたのだ。足が弱っていたこともあり、どこかの野良猫にひどくいじめられていたのかもしれん。カラスが猫の目をついばんでいたのを見たおれは、あまりにも理不尽りふじんな現実に打ちのめされ、猫のために泣き叫ぶこともできなかった。


 死とは、理不尽である。


 そして、なんの前触れもなく唐突に生者へと襲いかかる。不思議なことに、命あるもの皆平等にその瞬間が訪れる。

 また、死というやつは、そのどれもが強大な力に屈したときを狙っている。だから、命がついえるそのときまで、我々は懸命にたましいを磨くのである。そうして、悔いなき人生を歩んで楽に死ぬ。それが理想であり、おれにとっても最上の死に方だと思う。

 だが、おれはどうやらもう、この世から排除されてしまうらしい。二十年の人生をバタバタと慌ただしく畳まなくてはならない。


「おまえさんみてェのんが命をかすめ取られっちまうのは、切ないことだわね。だが、さだめられっちまったもんはしょうがねェの。諦めなァ」


「いや……うーむ」


「なァんだい、もっと慌てふためくと思っとったのにィ。んぅ? 言葉が通じなかったんかいなァ」


「や、慌てとるよ、これでもな。さっきから寒気が止まんねぇ。でもな、なんでそうなったかが、いっちょんわからん」


 そうなのだ。おれが釈然しゃくぜんとしないのは、そこだ。

 あの尼僧に会っただけ、天狗に言わせりゃ「目をつけられた」らしいが、おれが死なねばならん理由がわからん。


「死なんざ、いつだって理不尽なもんさァ。別におまえさんを選びたかったわけじゃあなァい」


 そうだ。その通り。たまたま早めに当たっちまっただけのことであり、もしかするとおれの命は生まれる前から〝この日まで〟といった具合に決まっていたのだろう。

 いや、待て。

 それならどうして、後藤は止めなかった? あの未来霊視様の忠告を無視したおれが悪かろうが、こうなることがわかっていたのなら、あいつはもっと真剣に、それこそ追いかけてでも止めるべきだった。

 まぁ、冷酷無情なあいつのことだ。おれの行く先など知ったことじゃない。しかし……しかしだ……やっぱり釈然としない。

 頭の内側に海苔が張り付いたみたいな、そんな意味不明なかゆさがあり、おれは頭をかきむしった。


「で、あんたはなんなんだ」


 すっきりしないことは山とある。おれはまず目の前の難問に立ち向かおうと、天狗を睨みつけた。


「なんなんって?」


「おれを轢いた理由ば教えろって言っとーと。そんで、おれをどうして運んでる? 貴様もあの尼の仲間か? どげんなん?」


 訊くと、天狗は「んぅ」と唸る。やがて、ひょっとこ面の底をさすり、まるで顎を掻くようにして、もごもごと言った。


「そだなァ……ワシはな、


 こちらの問いとは見当違いな答えが返ってきた。


「この世に捨てられちまったものさ。たちをォ、集めて売る。こォれが、なかなかうまいこと売れるんでねェ」


「ん? じゃあなんだ。つまり、おれを売ろうとしている……?」


「そぅ。平たく言うと、そうだなァァ」


 ひょっとこ面が肩をひくつかせた。笑っているらしい。おれはすかさずハゲ頭を殴った。


「勝手に売るな! 売るとしても、おれに断りを入れてからにしろ! だいたい、おれはまだ捨てられちゃいねぇ!」


 天狗は地面に伏してしまった。そのハゲ頭に向かって、おれは唾を撒き散らす。


「なぁ、おいちゃん。はっきりいーや。あの尼の仲間なんやろ? おまえらも霊能者と同じように、おれのことが気に食わんとやろう? 排除しようと目論む秘密結社なんやろう?」


「れーのーしゃ? はて、なんじゃろ。人間の分際で『冥府めいふの力』を振りかざす、ヤベェェェ連中のことかいなァ?」


 天狗がむくりと起き上がる。

 そして、奴はにゅぅっと首を伸ばして、おれの目を睨んだ。


「あれと一緒にするんじゃねェェよ、おまえさんよ。殺すぞ」


 面の奥にある両目の瞳孔どうこうが縦に広がる。

 しかし、天狗は凄んだかと思えばすぐにあのへべれけ調子に戻り、しゅんと肩を落とした。


「ともかく、おまえさんは死ぬのさァ。死ぬったら死ぬ。絶対死ぬ。月がひっくり返ったころにな、それはそれはまァー、大変な死に方をするんでねェの。そんときは、おまえさんを売るからなァァァ。あは、にひひひひひひひひ。あーひゃひゃひゃひゃ」


 そう不気味に笑うと、天狗はでんぐり返しをした。くるんと一回転して、夜の闇に溶けるようにして消えていく。

 これをおれは呆然と眺めることしかできなかった。

 残された荷車とおれは、ぽつんと道に放り出されている。

 いったい、ここはどこか。この時点で早くも退路がないのではないか。あの女の迷路の中だとか言っていたな。ということは、ここはすでに黄泉よみくに? いや、でもおれは死んどらん。そのはず。

 考えていると、遠くで犬が吠えた。思ったよりも近いところで吠えるので、おれは思わず肩をぶるんと震わせた。


 どうしよう。


 すると、この悩みを解消するかのようにちょうど良くひとが後ろから通りかかる。砂利じゃりを踏む音に振り返ると、そこには見覚えのある行灯袴あんどんばかまがあった。


「おや? 一色さん。こんなところで出会うなんて、なんと奇遇きぐうな」


 探知の名手、高尾穣ノ助があの困り顔でおれの様子をうかがってきた。


「あれ? 奇遇、ですね……どうも、こんばんは」


「あの一件以来、もう会うことはないかもしれないと思っていたんですけれど。あ、失礼。気にさわったなら申し訳ない」


「いえ、おれもそう思ってたから、別に悪いことはないですけど」


 ひょんなところで会うものだ。おれは座り込んだまま、高尾を見上げた。


「いまお帰りですか?」


 会話が続かないので訊いてみる。


「えぇ、まぁ。紺屋町こんやちょうの米問屋にお邪魔していたところで。今日はもう遅いので、宿にでもと」


「その帰り、ということはここは紺屋町……?」


「の、外れの通りです」


 その言葉に、おれは視線を天空へ移した。

 おかしい。それまで開けた星天井だったのに、いまは建物の間に挟まっているような狭い星空だ。ここは暗い路地裏で、振り返ればちらほらと人が行き交っているのがわかる。


「あれぇ?」


 狐にでも化かされた気分だ。


「酒に酔って寝ていたんですか? まったく、君はろくな男じゃないな。そんなことばかりしていると、お母さんに叱られますよ」


 高尾はいたずらっぽくクスリと笑った。その顔は、やはりおれを昔から知るような節がある。

 おれはたちまち顔が熱くなり、荷車から立ち上がった。


「おい、あんた、やっぱりおれのこと知っとったな!」


「そりゃあ、まぁ。松葉さん家の長男は、どうしようもない悪たれで、教師泣かせってのは有名なんでね」


「よーくご存知で……」


 学年が違うから知られてないだろうと思っていたが、まさかそんな風におれのことが知れ渡っていたとは。まぁ、これを恥ずかしがるくらいにはおれも大人になったわけだ。畜生。

 おれはふてぶてしく鼻息を飛ばした。対し、高尾は大人の余裕を見せてくる。


「私たちはとくにいままでも接点はないし、昔のよしみというのも変な話だけど、ここで挨拶だけなのも忍びない……どうだい、一杯付き合ってもらえないかな」


 そう言う高尾はクイっと猪口ちょこを傾ける仕草をした。

 人懐ひとなつっこく笑う彼には、後藤やおれにはない独特な愛嬌あいきょうがある。娘のような可愛らしさとか、子犬のようなあざとさみたいなものがあり、それを向けられるのはさして悪くないものである。おれは腕をまくった。


「誘ったからにはおごってくださいよ、旦那」


「もちろん」


 そうしておれはようやく、あの薄気味悪い世界から解放された。


 町はそれほど明るくなく、ひしめくように住宅が並んでいる。しかし、何軒かは店もある。ここはどうも城下町であり、商店などもあるようだ。軒先で飲み語らう老若男女がいて、夜更よふかしの香りが漂う。大都会の華やかさとは月とすっぽんだが、暖かな心地よさがある。

 行きつけなのか、高尾氏は慣れた足取りで道をぐんぐん突き進んだ。

 さやかに川が流れる静かな場所である。こんな場所に酒が飲める場所があるのだろうか。


「えぇっと、ただ飲むだけなら安い珈琲舎コーヒーやでもいいんだが……美味うまいものを飲むなら、ここにしようか」


 おれの意見は聞くつもりがないようで、彼は勝手に店を選んだ。

 道とも言い難い、建物と住宅の隙間のような細い小径こみちである。壁伝いに行く。すると、唐突に繊細な明かりが現れた。


「んん?」


「極秘の穴場ですよ」


 高尾はいたずら小僧みたいにくつくつと笑った。

 それもそのはず。そこは本来なら、壁のはずだ。しかし、扉がある。見た目はそこらの珈琲舎や酒場と大差ないのだが、玄関をくぐり抜ければ、その印象がガラリと変わった。

 三和土たたきの奥は、改装したと思しき西洋的な空間が広がっている。黒い板張りの階段と床は赤い生地の絨毯じゅうたんが廊下の端まで敷かれ、そして、目の前に燦然さんぜんと輝くステンドグラスの扉から向こうでは、ひとと酒の匂いがたむろっていた。

 土足で構わんと言った具合に、高尾はさっさと中へ入った。つられて行き、ガラス扉をくぐり抜ける。


「まさか、こんなところにカフェーがあったなんて」


 思わず驚きの声を口にした。これに高尾は敏感に反応する。


「おや、その言い方だと珍しくはなさそうな」


「まぁ、これでも東京ではそれなりに有名な芸人だったもので」


 くだらん見栄みえを張ったが、どうも彼は信用していないようで「へぇぇ」と軽く笑っていた。しかし、このひとも隅に置けない。清廉潔白せいれんけっぱくそうに見えて意外と軽薄で、しかもまた洒落ているもんだから敵わない。


「まさか、そういういかがわしい店を霊能力で探し当てたんじゃないのかい」


 意地悪に訊くと、彼は「さてね」と怪しくクスリと笑った。いかがわしい大人だ。好感度が上がってしまう。やはり、金持ちはこうでなきゃ。

 おれたちは店の真ん中のテーブル席に座った。そこで、高尾はおもむろにタバコを取り出した。マッチを擦って火をつける。おれは手持ち無沙汰なので、行儀悪くあたりを見回す。

 可憐な乙女たちが客に愛想を振りまいていた。酒を注いで、ただただ可愛らしく微笑むだけで客は金を渡す。洋酒にタバコの煙が混じることで、さらに空気がふわふわと桃色を帯びていくのが堪らなく愉快である。


 しかし、普段ならはしゃいでしまいそうなおれが、大人しくじっとしてしまうのはやはりあの奇妙な出来事のせいである。あれが胸の中に引っかかってしまい、素直に楽しむことができないでいる。

 そんなおれに高尾が怪訝に思ったのか、彼は女給に葡萄地酒ウヰスキーを頼んでからタバコを噛みながら言った。


「金の心配はしなくていいって」


「あ、そこは心配してないんで」


 すぐに返すも、調子が悪い。おれは膝に手を押し付けるように、意を決した。


「高尾さん、あの」


「なんだい?」


「おれ、どうやらもうすぐ死ぬらしいんですよ、ね……」


 脈絡なく話し始めると、高尾は「ほう」と首をひねった。タバコの吸い殻を灰皿にトントンと軽く落とす。


「君は死なないはずだと思ってたんだけれどなぁ」


「やっぱりそう思うよね? おれもそんな気がしてる」


「どういう意味で死なないと断言するかはわからんけれども」


 そう言いながら彼は力なくふやけるように笑う。そして、驚くべきことをサラリと煙を吐くのと同時に言った。


「あの後藤くんが、君を死なないようにはずなんだよね」


 設定、とは。

 およそ人間に向けた言葉とは思えない妙な言い方に、おれは幾ばくの不安を抱いた。それを見て、彼は口を曲げ、思考するようにゆっくりと言った。紫煙が揺れる。


「いやね、言葉のあやというやつだよ。後藤くんは未来を見ることができる。その見え方は、生者の死までを見通すというものである。その運命の道順にメスを入れることで、彼はこともできるんだ」


「死を操る?」


「つまり、死を回避させるために致死量の打撃を与える。それによって、その人物の。荒っぽいやり方だけど。要は、そのひとが死ぬべき時間を延命させられるんだ。致死量の打撃を与えることで、未来を変えられる。言ってること、わかる?」


 おれは言葉を頭の中で咀嚼そしゃくした。だが、うまく噛みきれないので思考は重たい。

 確かに後藤はおれを突然、昏睡状態にさせた。また、救出すべき宮木梅を餓死寸前まで助けなかった。それも致死量の打撃と言うのなら、あいつのやり方は確かに荒っぽい。が、それなら必ず救えるという寸法である。


「って、おれはどっちにしろ、近いうちに死ぬ運命だったわけか?」


「いや、そうじゃなくて。どっちにしろ人間は死ぬ生き物だからね……ほら、あの宮木のご主人が斬りかかったときに君は丸腰だったわけで。ああいう事態に遭っても、死なないように設定するのが彼のやり方であり、能力なんだ」


 高尾の言葉に、おれは静かに息を飲んだ。そして、喉の奥で唸る。頭の中で噛み砕いて、ゆっくり考える。

 その間に、女給が色目づかいをしながら葡萄地酒ウヰスキーを運んできた。高尾が彼女に金を渡すまで、おれは静かにじっくり解釈する。


 後藤の力の使い方がようやくわかった。あいつは本当に口数が少ないから理解しづらい。

 未来霊視もなりふり構わず使えるわけではないのだ。視覚的に捉えているのか、感覚的に捉えているのか、それが脳内でヴィジョンとして映し出されるのか判然としなかったが、この証言で掴めた。

 活動写真みたいなものだろうか。だとすれば、そのフィルムの中に横槍よこやりを、メスを入れるだけで未来への道筋が枝分かれするというのは納得のいく解釈である。


「ともかく、後藤くんに見てもらいなよ。君が誰にそんな恐ろしいことを言われたかは知らんけれどさ」


 高尾はグラスを機嫌よく回した。まったく、楽観的なひとだ。

 おれは酒を一気に飲んだ。喉に流し込んでしまえば、突然に頭の中がふわっと香り高い陽気ななにかに包まれる。


「……今日、不吉な尼さんに出逢ったんだ」


「尼さん? その相反する表現がわけわからなくて面白いな」


「確かに正反対だよなぁ……あはは。そいつが言うには、月が反転する夜までに死ぬんやって。どうも、その尼はタダ者やない。そう、おれは天狗にったっちゃん」


「次から次へと妙な言葉が飛び出すな。あ、でも、その天狗なら僕も聞き覚えがある。後藤くんがぶん投げたっていう?」


「そう、それそれ。そいつに逢っちまったんだ。やっこさん、どうもおれをどっかに売り飛ばすつもりやったって。知っとうね? あんた。『禁書貸本天空商會』っての」


 高尾はどこか神妙な顔つきになった。しかし、あの困り眉をつくっては、洋酒を一口含んで彼は申し訳なさそうに言う。


「そこまでは知らないかな」


「うーん、そうかぁ……ま、この際、どうでもよか……」


 しかし、おれはそう笑いながらも、後藤の顔を思い浮かべた。

 あいつに会うのは嫌だし、頼みごとも癪だが、何せ命がかかっているもんだから、まずはおれの未来を見てもらうしかない。そして、回避させる。

 だって、おれは、まだ死にたくない。

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