三 影響 – effect –

「どうも」


 そのひとは言う。

 あらかじめ美しく設計されたかのような精巧な笑顔でおれに微笑ほほえんだ。その柔らかさときたら、生糸きいとたゆませたような、触れるのもおこがましいくらい繊細であった。ここで微笑むのが至極当然であると、彼女の全身がそう語っている。

 そんな彼女の笑みを、おれはどうしたことか恐ろしく感じていた。


「どうされました?」


 か細く、かすかな声音が耳に届き、ようやく我にかえる。


「あ、や、えーっと……」


「あらあら、まるで金魚のようですわよ。貴方あなた


 みっともないことは承知の上である。が、しかし、このひとを前にしては、手も足も出ない。言葉が出ない。こんなことは初めてだ。このおれが、見ず知らずの他人を相手に、身動きに困ることは、ない。思考は正常なのに。

 戸惑っていると、彼女は自分の目を茶目っ気たっぷりに指差した。


「目」


「え?」


「目が、合ってしまいましたわね」


 その言葉にはなんとも返し難く、おれはただただ息を詰めて気まずく目をそらした。

 彼女が白い頭巾を頭にすっぽりかぶっていることを、いまになって気がつく。

 ダメだ。思考が正常だと言ったが、あれは嘘だ。なにも考えられないのに、脳はぐるぐると目まぐるしくなにかを考えている。それがなんなのかがまだわからない。

 彼女が少しだけ前へ進みでた。すると、おれの足は一歩だけ下がる。


「そう、貴方はそうですね。そうでなきゃ、いけませんね。貴方は大変素直ですから、あたくしのような者がお嫌いなのでしょう」


「や……そういうわけでは。これは足が勝手に」


「いえ、良いのです。しかし、私は貴方にひとつ、言わなければならないことがあるのです」


 瞬間、彼女はふわりと倒れ込んだかと思われた。が、軽やかにおれの目の前へ飛び出していた。眼前には精巧で美しい顔がある。


「貴方のお命、月が反転する夜までに尽きてしまいますわよ」


 息が、詰まる。

 だが、おれの呼吸を待たずに彼女は朱い三日月を揺すって笑った。


「お気をつけあそばせ。そのお命が尽きる日まで。では、御機嫌ごきげんよう」


「ちょっ、と、待っ」


 息をする前に声が飛び出した。その声がひどく不安定で、思ったように言葉が出ない。思わぬ空気が気管に入り込み、たちまちせてしまう。屈強だと思っていた自慢の喉に砂埃が張り付き、ますます呼吸がうまくいかない。

 顔を伏せてしまうと、いつの間にやらあの尼僧にそうはおれの横を通り過ぎて、まっすぐに道を歩いて行った。幽かに童歌を口ずさみながら。その唄がなんの唄なのかも思い出せずにいて、しかしそれはおれもよく知る唄に違いなかった。


 いや、それよりも、だ。


 あの女、なんて言った――?


 振り返ればすでに尼僧の姿はなく、それまでどこにいたのか人々が賑やかに歩く姿が四方八方に散見された。あの時間があまりにも異空間であり、まるでおれは時を止められたかのような錯覚をしている。


「はっ……なにを馬鹿なことを」


 馬鹿らしい。そんなわけがあるか。いくら、霊能者がこの世に存在することを知ったからと言って、そうホイホイ出くわすわけがない。出くわして堪るか。こちとら、先日から散々迷惑をかけられて腹一杯なのだ。


「月が反転する夜までに尽きる? フン、くだらん洒落しゃれかよ。そんなことでこのおれがポックリくかっての」


 後ろ向きで、あの尼僧に文句を投げる。しかし、女はどこにもやしない。

 乾いた風に話しかけるのも馬鹿らしく、おれは苦笑で肩を震わせながら前を向いた。

 そして――ガツン、と一発。

 


 ***


「――あー……嘘やろ。クッソ……頭いてぇぇぇ」


 鈍痛がこれでもかと言うほどガンガンとおれの脳を苦しめる。鼻の奥が気持ち悪い。

 意識が戻るよりも先に痛みに呻いていたことに気が付いたら、星の天井があった。墨を塗ったような広大な空と散りばめられた星々がある。それをちっとも美しいとは思えず、まさかおれはこんな夜更けまで気を失っていたのかとげんなりしてしまうのだった。

 そして、なにやら移動している。キィカラ、キィカラと車輪が回る音がする。それが地味に耳の中で響くから、おれの頭骨が可哀想にキリキリと泣きやがる。


 早速おれは死んだのか? いやいや、まさか。松本に殴られて頭をかち割られても生きていたのだから、そんなことはないだろう。

 ただ、なにが起きたのかはまったくわからんのだが。


 これは縫合した傷がまた開いたのではないだろうか。もしそうだったら、この荷車を引いておれをどこかへ連れて行こうとする不届き者の背後を狙うしかあるまい。

 動くのもつらかったので、顎を引いてみる。

 すると、夜であるというのに一目でハゲ頭だとわかる人物の姿があった。あのあやしくも美しい尼僧とは似ても似つかないつるっぱげだった。いや、どうだろう。あの女も頭巾の下はつるっぱげなのではないか。では、こやつはあの女か。ありえる。


「………」


 そんなくだらない考えが過ぎり、おれは現実から目をそらそうとしていることに気がついた。


「おい」


 まだ混濁のままで、おれはようやく言葉を発した。


「なぁ、おい。あんた、何者だ?」


 すると、問いに答えるかのようにハゲ頭がピタリと立ち止まった。車も止まり、音も止んで辺りは静かになる。

 いっときの間。

 聞こえなかったのかしらと、もう一度言いかける。と、それにかぶせるように、そいつが言った。


「おまえさんよォ、とんでもねェェ奴に目をつけられちまったやねェェェ」


 不自然で不安定な音である。なんだかへべれけ親父のようなハズレ調子で喋りやがる。

 夜の静かな空間に異様な明るさで、それなのに顔を見せない。不気味に思うのも当然で、おれは怪訝けげんに「はぁ?」と返す。

 すると、そいつはまたも不気味な声音で言った。


「いやいや、困ったねェェ。おそろしねェェ。あァあ、しかし、よう生きてたや。よう生きてたよ。だのによォ、かわいそうで仕方ネェよねェ」


「なんだ、酔っ払いか? おいちゃん、言葉があべこべでわけわかんねぇよ。しゃっきり話しぃ」


 村のジジイらを相手にするように話してみると、ハゲ頭は肩を震わせた。「うっ、うぅっ」と胃をひっくり返すようにも泣くようにも笑うようにも聞こえ、どうにもやりづらい。


「ワシの車にかれてもピンピンしとるやつなんてなァァ、あんましらんのよなァァ。うっ、うふっ。そーんな奴に久々にうてよォォ、ワシは嬉しいんだ。でも、あんたはあのひとに目ェつけられちまったしなァァ。残念ねェ」


 最後のほうはなにやら口惜くやしげにポツリと言う。それから、ハゲ頭はなにごともなかったかのように再び荷車を引き始めた。


「おいおい、まだなんも解決しとらんのやけど? 待って待って、話が見えん……えーっと、なんだって? じゃあ、おれはあんたに轢かれたのか?」


「んぅ。そだよォォ」


「ふざけんな」


 いや、そもそも。荷車に轢かれるってなんだよ。どういう状況だ。


「じゃあ、なにかい。おれは、荷車に轢かれて死にかけてたってわけか?」


「そだなァァ」


「馬鹿な」


「それがあるンだよなァァ。おまえさんがその馬鹿ってわけだよなァァ。うふふぅん」


「気色悪りぃ笑い方すんな! さすがにいまのは馬鹿にした節があった!」


「馬鹿にもするさァァ。ワシの車に轢かれる奴は、大抵死ぬからよォ。そいつは大概がまともなんだな。まともじゃないヤツは死なんっていう、そうゆう占いをよォ、あすこの通りでたまにやるんだよォォ。うひへェ」


 占い?

 なんだ、このハゲ。酔っ払い狸かと思えば、そういう仕事をしているのか?

 ん? 酔っ払い狸と言えば、ごく最近にも聞いたような。


「あ」


 そこまでの答えに行き着くまで、こんなにも時間を要したのが悔しいと思った。おれは痛む体を叱咤しったして飛び起きた。


「あんた、唐人町の天狗か!」


 確信した。間違いない。こいつは、後藤が菰川に投げ飛ばしたという天狗だ。まったく、人間じゃなく怪人の類じゃないか。こんな常軌じょうきいつしたやつが人間なわけがない!

 すると、ハゲ頭もとい唐人町の天狗はゆっくりと振り返った。しかし、そこには紙でできたひょっとこの面がついていた。鼻で笑って答える。


「うふん、どうだかねー」


「いいや、あんたは天狗だ。たぶん……間違いない……」


 勢いよく言ったものの、本当にそうなのかついぞ自信が持てなくなり、声が縮んでいく。正体は「ひょっとこ」という線もありえる。

 そもそも天狗ってなんなんだ?

 長い鼻と赤ら顔で、ともかく偉い。それが天狗か。たしか、身なりも修験者しゅげんじゃのような格好で、とにかく奴らは気高い。あ、あと黒いカラスみたいな羽がある。

 そんな理想の天狗像を思い浮かべていると、ひょっとこ面のハゲ親父が「うふひィ」と意味不明な音を出した。この不快極まりない音、どうにかならないのか。


「うふ。いい線いってらァなァァ。まァ、そういうもんだ、ワシは。あは。でもなァァ、天狗と名乗るにはちィィっと不自然があるんでねぇ。と言うのも、ワシは『堕天狗だてんぐ』なんでェ。えへ、にひひひん」


「だてんぐ?」


 うまく変換できずに困る。

 すると、奴は地面にうずくまって、しわくちゃな指を突き立て地面になにかを書いた。


『堕天狗』


 なるほど……? わかるようなわからんような。


「手っ取り早く言うとさァ、山からちたわけやねェェ。おまえさんよぅ、知ってんかァ? 遠い遠い国の文化でさ、天使ってェのがいんだけどにゃぁ、それが悪に堕ちたら堕天使って言うんだよぅ」


「まさかそれと掛けて言ってんなら、おれは構わずあんたの首をへし折ってやる」


 厚かましいにもほどがある。

 堕天使だって美しく描かれるのだから、そう名乗るにはまず身なりを整えることと、へべれけな言葉遣いを直すことだ。恥を知れ、このとっちり頓馬とんまのハゲ野郎。

 これは確かに後藤も思わず川に投げ捨てたくなるのも無理はない。そんな同情くらいはしてやろう。この天狗は投げられるべくして投げ捨てられたのだ。

 腕を組んで唸っていると、ひょっとこ面がもごもごと言い始めた。


「ま、堕天狗っていうより、ワシはこうして下界で売りもんをやってんだけどォよ――『禁書貸本天空商會きんしょかしほんてんぐしょうかい』ってェの」


 やたら長い名詞だけ、きちんとハキハキ早口で喋る。


「禁書貸本天空商會?」


「んぅ。そぅ」


「なんじゃそりゃ。聞いたことぇ」


 しかもあやしげな匂いがプンプンする。奇妙なことこの上ないが「禁書」という単語に好奇心がうずいてしまった。しかし、それきりヤツは喋ろうとしない。


「なんだよ、教えろよ」


「やァだ。だって、川に投げるもん。もうあれはりなんだよにェ」


「投げるのは後藤に任せるけん、なんも心配せんでいい。それより、教えてみぃよ。おれを轢いたこと、ちっとは後悔しとるんだろ。悪いことしたなぁーって思ってるから、ここまで連れて――、どこだ?」


 そう言えば、おれはなぜ運ばれたんだろう。死んだと思われて運ばれていたのなら、間違いなく死体置き場か墓場に送られるんだろうけれど、こいつがそんな常識があるかと言われたらはっきり「ない」と断言できる。

 天狗は無言で辺りを見回した。そして、首をかしげる。


「どこかってェ言われたら、どこかいなァ?」


「あんたもわからんのかい!」


「しょうがねェェよォ。だって、ここはあのひとの迷路だものー」


「あのひと?」


 さっきから本当にのらりくらりとされてイライラし始めているところなのだが、まったく要領を得ないので聞き返すしかない。それもそれで腹立たしいのだが、生きるか死ぬかの瀬戸際せとぎわかもしれないので致し方なし。

 ひょっとこ面の親父はやはりモゴモゴと煮え切らず「うーん」と首をかしげた。そして、言う。


「んぅ。あのひとね。ほらー、夕方会うてしまったあのひとさァ。あの別嬪べっぴんの」


「マジヤベー?」


 聞きなれない言葉だ。


「マジヤベーの。なんか、そういう使い方が合ってるねぇ。ヤベーヤベー」


 おっかなさそうに腕を抱く仕草をするひょっとこ面。自称天狗(堕天狗だが)も恐ろしいという感覚があるらしく、そしてそれが誰を指すのかは一目瞭然である。あの尼僧だ。


「あの尼、そんなに怖いのか?」


「んぅ、そぅ。名を『美影みかげ泰虎やすこ』っていうんだけどよォォ、まァこれがやばいのよにゃァ。あれに影響を受けたら、おしまい。あのひとはねェ、んだよォォ」


「死期……」


 その言葉に少しだけ心がさざなみを打つ。ざわざわと落ち着かなくなり、おれはゴクリと唾を飲んだ。


「んでさァ、死期を告げられちまった奴はなァァ、死ぬんだ。それも、かなァァァり最悪な死に方で」


「死ぬ……? おれがか?」


「んぅ」


 単純な言葉なのに、どうしてこうも脳が理解を拒否するのかわからない。言葉のすべてを否定しようともがくも、どうにもならないことを悟っていき、おれは血の気が引いた。

 まさか、そんなことがあるわけない。まやかしだ。デタラメだ。

 そう口にすればいいのに……できない。

 そして、否定してもすんなりと受け入れていく己の心に嫌気が差す。「近いうち、おれは死ぬんだろうな」と、物分りがよく諦めていく。それはなんだ。洗脳されているかのようではないか。

 一度にそんな意識が巡り、やがて焦燥が背中を突き抜けて臓器にひっそりと侵入する。


「死ぬのか、おれは」


 口の中が一気に冷えていく。ポツンと出てきたおれの言葉に、目の前の天狗はこくこくと首肯した。まこと残念そうに、しかし愉快そうに言った。

「かわいそうに」と。

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