二 邂逅 – encounter –

 いまにでも大決闘が巻き起こりそうな勢いで互いに睨み合う。

 後藤の視線は夏の日差しよりも鋭く、冬の寒風よりも厳しい。それに立ち向かうべく、おれも細い目をさらに絞って睨みを利かせる。一触即発するに思われた。

 しかしそんなことはなく、店先に立つ彼を気にした女給が引き戸を開けた。


「いらっしゃい、後藤さん。お勉強、お疲れさまです」


 そう言われてしまうと、さすがの後藤も面食らった様子だった。言われるままに店へ足を踏み入れ、女給さんにカバンと制帽を渡す。

 この行きつけと思しき慣れた様が恨めしいやら憎らしいやら。やっぱり鼻持ちならん。


「なぁ、あそこの女給さん、知り合い?」


 おれは松本にコソコソと耳打ちした。


「あぁ、はい。横江よこえ美鳥みどりさんというお名前の」


「はー、シャレとんしゃあね」


 女優みたいだ。名は体を表すというが、彼女にぴったりなお名前だと思う。

 その美鳥さんと後藤はどういう関係なのだろうか。日野子さんというひとがありながら、あいつは誰彼構わず手をつける軟派野郎なんぱやろうなのではないか。そういう穿うがった目で見ていると、後藤が松本の横に座った。そして、美鳥さんにそっけなく「牛乳」と注文する。


「よくここまで来たな」


 後藤が切り出した。その上からの姿勢が気に食わん。おれは腕を組んで苦々しく言った。


「別におまえに会いに来たわけじゃないし、おまえの縄張りを荒らしにきたわけでもない。どっかの誰かみたいに鴨川だか菰川だかにぶん投げられちゃ堪んねーよ」


「丸腰のやつを川に投げ捨てるほど、俺は暇じゃない」


 後藤はため息交じりに言った。いちいち嫌味を言わんと気が済まんやつなのだろう。松本は牛乳を飲んだ。おれも珈琲を飲み、イライラしながら苦味を噛み潰す。


「んで? 後藤くんはなにしにここへ?」


「このことは今朝方、松本に会ったときから把握していた。あんたが知らず知らずにこっちへ来て、松本に出会って浪漫珈琲に来るところまで」


「はーん? なるほどなるほど、お得意の未来霊視ですか」


「いかにもそうだな」


 涼やかに不遜な態度で後藤が言う。


「なんだよ、不機嫌だな」


 続けざまに彼は言う。おれは即座に不信を抱いた。


「そういうおまえは機嫌がいいな」


 こいつとの付き合いはつい最近ぶりのことで、彼のすべてを知ったつもりではないからなんとも言えないのだが、天上天下唯我独尊を地で行く得体のしれん男であることはこの一色天介が保証する。なんなら全財産を賭けてもいい。

 彼を構成する成分は、天狗もひっくり返るほどの傲慢と天よりも高い高い理想と天下無敵の不機嫌であるから、この不敵な機嫌の良さが甚だ不気味なのだ。

 後藤は足を組んだ。


「別に、機嫌がいいわけじゃない」


「仏頂面の眉間がえらくゆるゆるだから心配になったんだよ」


 負けじと嫌味を言ってやると、その瞬間に松本が牛乳を吹き出した。だが、それよりも早く後藤はさっと制帽を取って難を逃れた。おれは当然、顔面に牛乳を浴びた。


「大丈夫ですか!」


 すぐさま美鳥さんがすっ飛んでくる。


「すいません!」


 松本があわあわと立ち上がる。しかし、おれは松本ではなく、隣に座ってすまし顔をする後藤を睨んだ。

 こいつ、読んでやがったな。

 こうなる未来が見えていたのだ。畜生。


「まぁまぁ、大変ですわ。お客さん、ちょっと失礼いたしますね」


 牛乳を滴らせる男の前に、花のような香りを漂わせて美鳥さんが近づく。

 彼女はよく気が利き、ふわふわの布巾でおれの顔を甲斐甲斐しく拭き上げた。その柔らかで甘やかにぬくい彼女の手を布巾越しに感じ、おれは後藤への恨みがわずかに鎮火していってしまったことに気がついた。


「申し訳ない……あとは自分でやりますんで」


 これ以上、彼女の手の温もりをタダで堪能するのは忍びない。

 名残惜しくも、おれは彼女の手から布巾を取った。美鳥さんは「そうですか? 本当に大丈夫ですか? せっかくのお召し物が台無しですよ」なんて優しいことを言ってくれる。


「いえ、心配ご無用。ただの安物ですから」


 気取ってしまった。まぁ、嘘はないが。


「お手間を取らせました」


 松本が丁寧に謝る。いまどきの学生にしては礼儀がきっちりしている。

 女性に対する扱いを見直すべきだと世間が賑わう中、それに反するがごとく男たちは圧力をかけており、いまや我が国は男女の壁が分厚く、火に油を注ぐ事態も危ぶまれている。

 そんな時代の申し子であるのに、なんだろう、この平和な空間は。後藤さえいなければ、このテーブルはもっと明るく平和だったろうと思える。


「なんでもお申し付けくださいね」


 美鳥さんは小首を傾げて笑った。薔薇の花のような頰が愛おしい。いや、ダメだ。おれには日野子さんというひとがいるのに。

 見とれているうちに、彼女はくるんときびすを返した。その後ろ姿を見ながら、おれはさりげなく言った。


「松本くん、おかわりを頼んでもいいよね?」


「え?」


「君、おれの背広を台無しにしといて『それは無理です』なんて言えんのか?」


滅相めっそうもありません」


 松本はすぐにひれ伏した。これに後藤は助け舟を出すことはせず、ただ静観している。なんでもお見通しの未来霊視に、おれは不服に訊いてみた。


「ちなみに後藤くん、おれが松本くんのゲロを浴びるのもあらかじめ知ってたわけかい?」


「あぁ、まぁ。これを見るためにわざわざ来た甲斐があった。間に合ってよかった」


 白々しく答えやがる。この男、ものすごく悪趣味だ。

 やつは数日前、おれに化かされて「悪趣味だ」と罵った。まさか、日をまたいでこんなバカバカしい復讐をされるとは思いもしない。しかもこの態度である。まんまと騙された。あんなに他人に騙されてなるものかと誓っていたのに、なんなんだこの体たらく。おれはやはりお人好しなのだ。

 そんな自分に嫌気が差してしまい、椅子の背にもたれて天井を見上げた。木目を見ながら、おれは「はー」とため息を宙に投げつける。


 静かだ。気が抜けるような静けさ。

 時折、こちょこちょと婦人方の声(「虐殺人間」だの「落雷」だの物騒だ)が聴こえるも、それ以外はとくになにもなく緩やかで穏やかな、まるで川のせせらぎでも聴いて昼寝しているようなそんな気配が漂った。

 学生二人はいまや、テーブルに学用品を広げて勉強をしている。熱心なものだ。と言うか、何故なにゆえおれが無視されなきゃならん。


「つまらん。帰る」


 その宣言に後藤は「ふん」と、にべもなく鼻息をとばしやがった。

 対して、松本は「え?」となぜ驚いた顔をする。


「まだお代わりを頼んでませんけど?」


 そうだった。


「ええい、うるさい。帰るったら帰る。心地が悪くて仕方ない」


「どこへ行かれるんです?」


「別にどこでもいいだろ。君らには関係ない」


 冷たく突っぱねてやると、松本はしょんぼりとした。


「せっかく仲良くなれると思っとったのに」


「君のゲロ浴びて仲良くしたい男がどこにいるって言うんだよ。じゃあな、これっきりだ」


 松本には悪いが、おれは後藤とよろしくするつもりは毛頭ない。くたくたの背広を正し、おれはお代を出さずにそのまま出入口の戸を開いた。

 その時だった。


「おい」


 刹那。後藤がおれの腕を掴んだ。その剣幕たるや。鋭い眼光は鷹のごとくあり、または猛獣のように恐ろしい気迫だった。その異様さに、おれは情けなく息を飲んだ。


「な、なんだよ」


「あんた、気をつけろよ」


「はぁ?」


 未来霊視のお力だろうか。その手には乗らん。

 だが、後藤の表情が尋常ではなく、例えるならやはりこの間の奪還作戦のときと同じような警戒心を張り巡らせている。彼の眉間に指を入れたら埋まってしまうのではと思われた。


「気をつけるってなにに? 松本のゲロならもう浴びたぞ」


「いや、そんな間抜けな話をしてるんじゃない。いいから、いまから出会う女に気をつけろ。いいな。でないと、あんたはぞ」


 沈黙。それはかなりの間、息を詰めるほどの長い間。

 おれは言葉を脳内で変換するのに忙しく、対して後藤は切羽詰まったように腕に力を込めやがる。ぐぐっとさらに力が入り、おれは思わず払いのけた。それにより、後藤はなにやらほっとしたかのように息を吐いた。ふいっとおれから目をそらす。


「まぁ、死んでもいいならそれで構わんが」


「なんだよ、それ。そう言われちゃ、ますます死にきれんぜ」


 後藤の安堵に、おれはどうにも臆病になってしまい、へらりと笑ってしまった。


 ***


 女。女ねぇ……美鳥さんは数に入れないのかって訊くのを忘れてしまった。後藤のあんな引きつった顔を初めて見たせいか面食らってしまったことが悔やまれる。

 しかし、女に出会って死ぬとは。やや不気味だが、麗しの花に出会って死ぬのなら本望だ。

 願わくば、そのひととしっかりねんごろになって、どうにもならん愛の逃避ゆえの心中ならなおよし。男として死ぬには相応しい結末じゃないか。まぁ、こんなゲロまみれの男に惚れてついてくるような女はいないだろうけれど。


 いや、そもそも後藤の予言が当たるという保証はない。未来を捻じ曲げるくらいの気概がなけりゃ、この先おれは命がいくつあっても足りんだろう。


 浪漫珈琲を出てしばらく歩くと、陽が傾き始めていた。あかく濃く暮れなずむ空が眩しく、最近引かれた電線がせっかくの豪快なキャンバスを遮っていた。空に区切りがあるのは都会の証拠か。確かに、どこまでも無限に続く空は果てがなく、途方もない。

 どこかで区切ってもらわなきゃ、人間がいかに小さい生き物か、わざわざ知らんでもいいことを突きつけるような、そんな余計な世話を焼かれている気分になる。


 朱い色はひとを惑わすというが、不思議な魅力を感じるのはなぜだろうか。

 あの朱く燃える太陽と一体になれたらとたまに思えてしまう。そんな気持ちを遮ってくれるのが電線だった。


 そうして黄昏たそがれながら、道をまっすぐ行く。

 そのときだった。


 朱い空の下、商人と学生が行き交う往来の中、異彩を放つ姿がひとつ。

 白い頭巾をかぶったそれは、あまである。

 ふっくら厚い唇は空と同じく朱く、自然の色みであるのにかかわらず強くくっきりと形をつくっていた。それがキュッと口角をあげて笑うから、おれの目はその唇に釘付けだった。

 例えるならば、それは朱い下弦かげん三日月みかづき

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