第二章 昨日の敵は今日も敵〜天狗奇談〜

一 逃亡 – escape –

 九月五日。

 我が松葉家にも祭の参加を募る回覧板が渡され、これを見つけるや否や、おれは手近な荷物をまとめて家を出た。

 親父に見つかったら連れて行かれかねん。それだけは何としても避けたい。むさ苦しいおっさん共と酒を飲むより、かわいい花のような乙女たちが働くカフェーで静かに酒を飲みたいのだ。どうせ宴会に行ったって、「お前は役立たずだ」と馬鹿にされるのがオチである。挙句には「嫁ば貰って早よ身ィ固めろ」とか言い出すに違いない。そうしてお節介おばさんが見合いの段取りを買って出る。面倒だ。

 路面電車に揺られ、まっすぐ東へ向かう。海沿いを走れば町がある。

 磯くさい田舎よ、さらば。しばしの別れとしよう。


 博多の大町ほどではないが、室見川を越えたらたちまち華やかだ。唐津街道からつがいどうをひた走ること数十分。博多へ行く道すがら、急遽、電車賃が尽きてしまったので、おれは仕方なしに、その小町にて降り立った。

 このあたりは最近、駅が開業したので人出が盛んになっている。また、文教地区でもあるので、品の良い人間か若者が行き交っていた。

 いざ、にぎわいの町へ。

 公園が近くにあれば小銭稼ぎができそうなんだが……そうしてぐるっと見回していると、なんだか見覚えがある校章が目に入った。鉄製の正門に、五芒星ごぼうせいがあしらわれたなんとも由緒正しき学校があった。そして、それは最近も見たことがある。


「ん……?」


 はて。どこで見たのだったか。頭を打ったせいで少々記憶が曖昧だ。

 すると、その鉄門が息を吹き返したかのように、学生諸君らが一斉に外へ放たれた。制帽をかぶり、白い木綿シャツと黒い学生ズボンの集団がわいわいガヤガヤと町へおどり出る。その瞬間、おれの脳裏に「デンジャー」という単語が警笛とともに点滅した。


「まずい」


 制服集団に反応するかのごとく後頭部の傷が痛んでくる。それはなんだか孫悟空そんごくう緊箍児きんこじのように。


 おれは西新町にしじんちょうの通りをひたすら西へ駆け抜けた。しかし、ここは学生街。どこへ行っても屈強で若々しい少年たちが群がっている。

 ここは後藤の縄張りだったか。一刻も早く、ヤツに見つからないようにこの場から離れなくては。その挙動不審があだとなったか、辻で立ち止まったところで背後から肩を叩かれた。

 ポンと軽く。

 おれは異常なまでに驚いてしまい、思わず「へぁっ」と声が裏返ってしまった。

 見ると、そこには純朴なオニギリ頭の大柄な学生が。太陽のもとでは彼の目は琥珀色こはくいろであり、新たな発見が垣間見れた。


「なんだ、松本くんか。脅かすなよ、馬鹿」


「すいません」


 松本は照れ臭そうに笑い、鼻の下をこすった。おれは彼の背後を気にし、爪先立ちになった。


「なんだい、君だけか?」


「えぇ。後藤はいま、図書館で勉強しとりますよ。会いますか?」


「いや、いやいやいや! いい! 結構だ!」


「おや? ここまで来んしゃったのは、後藤に用があるからやないんですか?」


「知ってたら来るもんかい!」


 おれの嫌がりようを松本はきょとんとした目で眺めていた。まったく、相も変わらず察しが悪いやつだ。

 しかし、後藤やつがいないならそれで良い。おれは気を取り直してシャツの襟を整えた。


「松本くん、喉かわいたろ?」


「はぁ、そうですね。あ、じゃあ、そこの珈琲舎コーヒーやに寄りますか」


「おぉ、ぜひ」


 松本はにこやかにおれの背後を指差した。どうやら、彼の行きつけがあるらしい。ともかくどこでも良い。後藤が現れる前に身を隠すのだ。


 ***


 煉瓦造れんがづくりの小さな店だった。引き戸のガラスには「浪漫ロマン珈琲コーヒー」と書かれてある。

 中に入ると、赤紫を基調とした西洋風の小洒落こじゃれた飾りがついたテーブルと椅子が並ぶ。

 ざっと見る限り、四人がけの席が八つほど。学生街だからか、松本のような男子の客が多い。中にはご婦人方が優雅な井戸端会議に興じているが、どこの席も大人しく落ち着いていた。

 女給がトレイを持って近づいて来る。


「いらっしゃいませ」


 広いおでこに愛嬌あいきょうがあり、タレ目がしとやかで可憐なお嬢さんだ。日野子さんも美人だが、彼女も美人だと思う。縞柄しまがらの着物と白いエプロンの制服がとても似合っている。流行はやり束髪そくはつが美しく素敵につやめいていた。その女給に案内され、おれたちは外に近い席に腰を落ち着ける。

 ここでおれは「珈琲」、松本は「牛乳」を頼んだ。実は、おれは珈琲が苦くて飲めないのだが、できれば値段が高いものを頼みたいという卑しき貧乏性が顔を覗かせてしまったのだ。

 女給に注文を聞いてもらい、おれたちは改めて向かい合う。松本はえらく楽しげに話しかけてきた。


「いやぁ、見覚えのある服やなぁと思って声かけてみたら、やっぱり一色さんで。こんなとこで会うとは思わんかったです」


「おれもだよ。まさかこんなとこで会うとはね……もう二度と会わんと思ってた」


 最後のほうはゴニョゴニョと濁すように言った。しかし、店内が静かだからしっかり彼の耳に届いていたようで、人懐っこく笑う。

 そのちょうど、飲み物が運ばれて来た。この店は近所に金物屋があるから、ガラスではなく金属製の茶器に入っているようだ。西洋もののような洒落た持ち手がついている。そうして茶器を眺め回し、心を落ち着け、各々おもいおもいに一服した。


「そういえば、梅ちゃんの後見人が決まったんですよ」


 一息つき、口元を拭いながら松本が言う。

 なんと明るいニュースだろうか。これにはおれも「ほほう」と身を乗り出した。

 後藤醫院で療養していると聞いてはいたが、彼の太陽のごとき軽やかな表情から察するに、宮木梅の調子は好調のようだ。


「妹の後押しもあって、うちで面倒をみることになったんです」


「それはめでたい。君みたいな清らかな人のもとで暮らせば、彼女の将来も明るいこと請け合いだな」


「だといいんですがね。梅ちゃんも快く了承してくれたし、万事快調だとは思います……が」


「ふむ? どうした? やけに消極的な言い方だな」


 おれは珈琲を一口含んだ。苦々しく香ばしい。酸味が舌の上を滑っていき、なんだか風邪薬を飲んでいるみたいだった。

 そんなおれをよそに、松本は笑顔のままで肩を落とした。


「ほら、一色さんが言ってたやないですか。それは彼女が望んでいることなのかって」


「……あぁ」


 思いのほか思い出すのに数秒を要した。


「そんなことも言ったな」


「言いましたよ。しっかりこの耳で聞きました」


「まぁ、そんなのはおれの出まかせだから、あまり本気にすんじゃないよ」


「そんな無責任な」


 非難は軽く受け流しておいた。この松本の不安はなんなのだろうか。おれの言葉に左右されるとは情けない。いや、そんなことを言ってはおれが可哀想かわいそうだ。


「まぁ、なんだ。あんなのを見せられちゃ、おれの心も変わるさ。あんなことがまかり通るなんて、おぞましいったらねぇや」


 地獄耳を持つ少女は、その能力を恐れた両親から家に閉じ込められ、餓死寸前まで追い込まれていた。しかし、あんな不衛生な有様となっても生き延びたのだから、彼女はどこへ行っても強くたくましく生きていけるだろう。


「あの子は、生きるべきだな。生きる意志のある者はしかるべき場所でのびのび元気にしていればいい」


「そう言ってもらえると心強い」


 松本の肩が現金に機嫌よく持ち上がった。


「いつか、一色さんも会ってやってください」


「そうだな。君がおれを雇ってくれるんなら検討しよう。手品一種につき、十銭でどうだい?」


 サイコロや数字のカードをちらつかせると、松本は愉快そうにも、しかし苦々しく笑った。なんて軽口を言い合っていると、おれたちはなかなか簡単に打ち解けた。


「それはそうと、なんでここまで来たんですか?」


 やにわに松本が訊いた。それに対し、おれは少し言いよどんだ。打ち解けたとは言え、事の顛末てんまつを話すほどの仲ではない。


「ちょいと野暮用やぼようでね」


「野暮用、ですか?」


「あぁ。断じて、君たちの縄張りを荒らしに来たわけじゃあない」


 これだけはしっかり口に出しておかないといけない。すると、松本は「ししし」と嚙み殺すような笑いをした。


「そんな怯えんでもいいやないですか」


「怯える? 私が? なにを言ってるんだね君は」


 強がってみたものの、その声は自分でもわかるほど震えていたので、あまり効果は期待できない。すると、松本は笑いを噛み殺しつつ、わずかな申し訳なさを目元に浮かべて姿勢良く頭を下げた。


「その節は本当にすいませんでした。ここの代金は僕が出しますんで、勘弁してください」


「うむ。よかろう」


 無論、最初からそのつもりである。

 それから間もなく、おれたちは別の話題へ移った。


「唐人町だったかな。後藤のやつが言ってたが、あそこに怪人がいるとかなんとか。ちょうど、その道を通りがかったんだが、そんなものは見当たらんかったぞ」


 いつか後藤が言っていた、赤ら顔の天狗にも酔っ払い狸のようにも思えたが、怪人には違いない、と。

 その怪人とやらがいる唐人町を通ったとき、ふとその話を思い出したのだが、そんな珍妙極まりない物体は電車の中からじゃ見つけることができなかった。本当にいるのだろうか。

 訝っていると、松本は顔をしかめて遠い目をした。なんだか痛そうに右頬をつっぱらせている。


「あれはまぁ、なかなか派手な戦いでしたよ。あの露天商、後藤が菰川こもがわに投げ飛ばしてからは約束通り、あの辺で商売しとらんみたいです」


 川に投げ飛ばすとは、正気の沙汰さたじゃない。

 背筋が冷たくなり、おれは顔をしかめた。


「なるほど。確かにあやつの毒牙にかかると頭の中がざわついて仕方ない。そういった具合で、かの怪人も身の危険を感じたのなら、やはりそいつは怪人じゃなく人間だったんだ」


 おれは腕を組んで厳かに言った。

 すると、松本が澄まして言う。


「後藤の思いは一途なんですよ」


 だが、後藤の息がかかった男である。そう言いたくなるのは当然だろう。


「一途にも限度があるだろうが……それに、やっぱりあいつはまぁ本物かもしれんが、口数が少ないせいで思考が読めん。なにを考えとるのかさっぱりわからん。ハタから見りゃ、あいつのほうがよっぽど危ない。過激な思考をどうにかせにゃならんと、おれは思うね」


「そういう説教は本人にしてください」


「君、あいつのお友達だろう? おれが出る幕じゃないよ」


「僕は後藤の力を信じとるだけです。あいつはインチキ霊能者探し以外じゃ、優秀で優しい純朴な男ですから、僕から口を出すことはできませんって」


「はぁ……君も救いようがない阿呆あほうなやつだな……」


 あの男は優秀で優しい純朴とは似ても似つかん、別の次元へ曲がりくねり、そのままの形で突き進むタチの悪い正義病に冒された哀れな少年に過ぎないし、その偏った正義が頑固一徹な鋼の精神と絡みついて強固なものにしている。しかも、己の正義感で動くものだから、おそらく世界は彼を中心に回っているのだろう。あぁ、二度と関わりたくない。

 と、思っていたら窓の外から件の仏頂面が顔を覗かせていた。


「そんなところでなにをしている」


「あらら……」


 会いたくないと願ったばかりで、さっそく出くわすとは。おれの世界は逆風でも吹いているのだろうか。もしくは、地獄に行ったついでに疫病神でも拾ってきたのかしらと疑いたくなるくらい、最高に運が悪い。


「おい、松本。こんなやつと関わるとロクなことにならんぞ。馬鹿が感染うつる」


 相変わらず口の減らない後藤祥馬閣下のお出ましに、おれの後頭部がざわついた。

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