エピローグ
僕が旅を終えてから、いくつもの季節を巡った。
紆余曲折あった高校生活は、どうにかこうにか終了し、無事大学生になっていた。
運転免許も取得し、僕が知らないうちに香澄姉さんが僕名義で購入した車まで存在する。もっぱら取材旅行に連れ回されているわけだけど、それ以外は好きに使えばいいとのことでありがたく使わせてもらっている。
そして新しい春を迎えたおり、一人暮らしを始めているアパートから何時間も車を走らせて、一つの島を訪れていた。
島にある最も高い山の頂を目指し、幾重もの鳥居をくぐりながら歩いていると、懐かしい潮風が鼻孔をくすぐった。
澄み渡る蒼天。
降り注ぐ陽光がシャツからのぞいた腕を無遠慮に焼いている。
懐かしさに口元を緩めながら、木漏れ日が舞う参道にゆっくり歩み進めていく。
ふと視線を上げると、参道の上からなにやら本を読みふける男の子が下りてきた。
茶色の髪を短く切り揃えた、中学生くらいの男の子だ。
「ひぎゃっ!」
すれ違いざま、男の子は石階段に踏み外して派手にすっころんだ。
同時に、持っていたいくつかのものと一緒に男の子の体が舞う。
「おっ、とっと」
片手で男の子を受け止め、もう一方の手を踊らせていろいろ飛んだものをつかみ取る。
「こらこら、危ないよ」
「ご、ごめんなさいです。ありがとうです」
男の子は僕の手から離れると、自分の手を見下ろして目を丸くする。
きょろきょろとなにかを探し始める男の子に、僕は空中でキャッチしていたものを差し出す。
「探しているのは、これとこれ?」
「あっ、それですそれです。ホント、ありがとです」
そっと胸を撫で下ろしながら、男の子はぺこぺこと頭を下げる。
男の子が投げ出していたのは、高級感のあるガラスペン、それからクローバー柄の本だった。
「助かりましたぁ……。これ、どっちも借り物なんです」
「か、借り物をそんな雑な扱いしちゃダメだよ」
「うぅ、すいませんです。この本、他の人が書いた日記なんですけど、いろいろおもしろくて。なんか、すごくて。ああ、でもドジですいませんです」
「……そうなんだ。でも、危ないからちゃんと座ったりして見ようね。それにそっちのガラスペン、壊れちゃまずいでしょ?」
「は、はいぃ……このガラスペンは……」
男の子はなにかを言いかけるが、曖昧に笑って誤魔化した。
「すいませんです。ありがとうでした」
男の子はクローバー柄の日記帳とガラスペンを手に、また不安になる足取りで石階段を下りていった。
木漏れ日降り注ぐ参道に、男の子の影は、なかったような気がした。
数年たった今日このごろ、振り返ってみればあの旅は、夢だったんじゃないかと思うことがある。神様なんて露程も信じていなかった僕が、神様に導かれて旅をした、ほんの三ヶ月程度の旅物語。
でもあれは、夢幻なんかじゃなかった。
首にかけたネックレスに、そっと触れる。
あの世界で、ともに旅をした少女から誕生日プレゼントにもらった、ダブルループのネックレス。この世界で目を覚ましてからも、ずっと僕とともにある。
あの日、僕は死にゆく少女の手を取った。
満天の星の下、いくつもの流星が駆ける幻想的な夜に、死へ向かうはずだった少女の手を、たしかに取ったのだ。
そのあとのことは、曖昧だ。
僕は、毎日通っていた神社の境内で意識不明の重体で発見された。全身血だらけのぐちゃぐちゃ、骨もバッキバキだったらしい。高所から叩きつけられたような状態で、生きているのも不思議な損傷と出血量だったとか。
警察が調べたものの、怪我の理由は不明。真上にあった鳥居から飛び降りたとしても起こりえないほどの怪我であったのは一目瞭然の重傷。謎の事件として、今でも学校の七不思議として語り継がれているらしい。誰だ七不思議にしたの。
一ヶ月ほど昏睡状態が続き、夏期休暇を丸ごとベッドの上で過ごすことになった。
しかし目を覚ましてからは、医者から『君、本当に人間?』と聞かれる程度にはすさまじい回復力で完治して退院。二学期の始業式に滑り込み周囲をどん引きさせた。
目を覚ました僕を待っていたのは、怒濤の連続だった。
僕が眠っている間に、高校でのあれこれは一時的に全国ニュースに取り上げられる事態になったらしい。ようやく体を起こせるようになった僕に、大爆笑しながら陽司がニュースの録画を見せてくれて、その陽司の頭に葉月が数十発のげんこつを落としていた。
いじめは白日のもとにさらされた。
ひどい落書きがされた葉月の机を見た世間は、入院中の少年が少女をいじめていたと勘違いした。だが直後、周囲の生徒から真実が語られることになった。いじめられていたのは机を投げ出した少年であり、彼は新たにいじめのターゲットにされた友人のために怒りを覚えたのだと。
さらに一年生のころに起きていた女子生徒へのいじめも掘り返さたらしい。
渦中の富岡たちを庇う人たちはおらず、見て見ぬ振りだったクラスメイトや教師もすさまじい手のひら返しで糾弾。結果、夏期休暇に入るより前に高校を退学していた。
一ヶ月の冷却期間もあり、僕が意識を取り戻したときには事件はある程度風化していた。当時熱を燃やしていたメディアや警察、教育委員会の反応もずいぶん淡泊だった。
器物破損に暴力行為、逃走の果てに謎の重症から意識不明という理解されがたい経緯。聴取こそされたものの、僕は一貫してよく覚えていないと答え続けた。僕のことを人間かと疑っていた先生も、一ヶ月も昏睡状態だったため記憶が相当混濁しているとフォローしてくれた。
実際は、昨日のことのように鮮明正確に覚えていたのだけれど。
僕が大けがを負った理由については、想像することしかできない。
僕はあの日、死にゆく運命にあった女の子の手を取り、屋上へと放り投げた。代わりに僕が、高校の屋上から落下した。僕の体は屋上から十数メートル下の地面に叩きつけられた。
旅人である間の怪我は元の体には戻らないはずなのだが、それはきっと、あくまでも加護がある江宮島の中での話。僕は江宮島の外で大怪我を負ったため、その代償がすべて自分の本当の体へ跳ね返ったのではないかと思う。
二度目の、それも以前にも増してひどい事件を起こしてしまった僕を、家族は温かく迎えてくれた。父さんも母さんも僕を責めることはなく、姉さんと一緒に、僕が目を覚ましたことに涙を流してくれた。
ついでに、僕と中学時代にあれこれ問題になったクラスメイト三人を、葉月と陽司に連れてきてもらった。以前会ったときは、手厳しく突っぱねてしまったから。
取り立ててなにか会話をしたわけではないが、今の生活とか、昔のこととか、なぜか普通に話せるようになっていた。かつてのわだかまりも、少しはなくなっている。
木々に囲まれた参道に歩みを進めていると、ポケットのスマートフォンが電子音を響かせた。
取り出してみると、同じ大学に通う葉月からのラインだった。
『ちょっと、今どこにいるの?』
現在いる島の名前を打ち込む。
『あんたはホントにどこまでも行くわね』
『どこへでもは行けないわよ。行けるところだけ。ってやつだな!』
一緒にいるのか、すかさず陽司のボケが入ってくる。
『週末ご飯行く予定、忘れてないでしょうね?』
本来なら二人でご飯に行くべきなんじゃなかろうか。僕は彼氏彼女の間に割って入るほど、無粋ではないつもりなんだけど。
そう返事をすると、予想していたのではないかと思うほど瞬間的に返事が入る。
『バカなこと言ってないで』
『いいからこい』
いとこカップルは本当に仲がよく息ぴったりである。
僕は苦笑いをこぼしながら、わかりましたと頭を下げるスタンプを押す。
僕の日常は、変わった。
ごくありふれた高校生活になり、僕のことなんてほとんど知らない人たちの中で、一緒に進学した友人と大学に通っている。
おおよそ普通の、平々凡々な日常だ。
スマホをポケットにしまっていると、参道の先から二人の男女の賑やかな話し声が聞こえてきて、視線を上げた。
僕より少し上、二十代半ばくらいの男女二人組が下りてきていた。
「お前、あれから本当に書き終えた日記全部、この神社に納めてるよな」
「だって仕方がないんだよ。最初はなにも書かれていない日記帳納めちゃったんだから。神様も怒り心頭なんだよぉ……神道だけに」
「黙れ。あの真っ黒になるくらい書き込んだのにあとで全部消した黒歴史な。病気に対する恨み辛みを書き連ねたくせに完治しやがって。なにが不治の病だよ半年の命だよ笑わせんな」
「く、黒歴史って言うな! 完治したのは神様のおかげなの! だからこうして、ちゃんと神様に感謝を込めて、日々の日記を納めてるんじゃない」
何気ない、端から聞いているとどこか心地よくなる会話。言い合ってはいるが、それに反して仲よくわいわいと楽しげだ。
女性が僕に気がつき、にこりと笑みを浮かべる。
「こんにちはっ」
「ちわ」
続いて男性も短く挨拶をしてくる。
僕も笑って挨拶を返す。
「こんにちは。今日はいい行楽日和ですね」
「ですね。最高の天気です。頂上まではもうすぐですので、頑張ってください」
「はい。ありがとうございます」
女性のエールに送り出され、僕たちはすれ違う。
「だいたい、あの日記帳納めたとき、そっちだってブレスレット一緒に納めてたでしょ。私に恩着せがましく、退院できたら返せなんて言ってたやつ」
「ばっかお前。あれは人のつながりを意味するブレスレットでな。この世界にお前をつなぎ止めてやろうと俺のありがたい思いが成就したから神様に還したのであって」
「よく言うわ。緑の石だからってペリドットをエメラルドと勘違いしたくせに。ゴールデンウィーク明けだったから頭ぽわぽわさせちゃってさ。ペリドットは八月の誕生石。私の誕生月五月。エメラルドだから。五月病か。五月だけに」
「ちょ、おま、俺の黒歴史を掘り返すな。あと全然うまくねぇよ」
そのあとも、二人は賑やかに言い合いながら山を下りていった。
おかしくなって、僕まで吹き出してしまった。
旅人としての生活が僕の中に宿したものは、日に日に大きくなっている。
たどりついた場所で、僕は足を止めた。
いくつもの鳥居を通り抜け、石階段を上ってきた先にあったもの。
島の頂上にそびえ立つ真っ赤な大鳥居。
一礼を捧げ、鳥居をくぐる。
僕自身の体でここを訪れるのは、初めてだ。
もうずっと前、僕は神様からもらった仮初めの体で毎日訪れていた。
見慣れた、そして途方もなく懐かしい光景。
そして、初めて訪れる季節。
視界一面が、桜色に染まっていた。
込み上げる記憶に、喉が震えた。
雲一つない快晴の空から降り注ぐ陽光が、僕の足下にくっきりと黒い影を落としている。
僕は、再び訪れた。
この、江宮島に、江宮神社に。
江宮島は、僕たちの世界ではない異世界に存在する島ではない。
僕自身の世界に、現実に存在する島だった。
僕は自分のベッドで眠っている間、時間の差違がある同一世界の島に、仮初めの体で訪れていたのだ。
多くの人が当たり前に知っているほど有名な島で、その風景は雑誌や写真集でもたびたび見かけるほど。
しかし僕はつい先ほど、車から降りて江宮島の地面を踏みしめるまで、かつて夢の中で訪れていた島であることを認識できなかった。
江宮島が自分の世界と同一の世界である。その事実を認識するために必要なもの。
それはおそらくだが、江宮島が自分の世界と同一の世界であるという確信を持った上で、江宮島に足を踏み入れること。江宮島が異世界ではないと考えているだけでも、偶然で江宮島に立ち入っただけでも足りない。二つの条件を同時に満たす必要があるのではないかと思う。
僕は早い段階から、眠っている間に訪れている江宮島が、パラレルワールドや異世界でないと気づいていた。
理由はいくつかある。
一つは、御守が加護として宿す、江宮島の外には出られないという制約そのもの。僕たちは願いを持って江宮島にやってきている。そもそも行動の距離に制限などなくとも、願いと関係ないなら島の外に出ようとさえしないはず。ましてや出たところで、どこにいようが眠りつけば元の世界に戻るわけだし、長く居着いたところで非在化して旅が終えるだけ。
行動範囲を江宮島内に制限する理由は、外に出られては同一世界だとわかる可能性があるため。最悪、時間のずれがあるため自分自身や自分を知っている人間に会うことが起こりえるからだろう。
それともう一つ。僕を導いていたブレスレットの御守、ユカリの力だ。
ペリドットのブレスレットが示すつながりには、時間にも距離にも際限がなかった。僕と出会った人たちとの間に存在する残り香のようなそれを、目に見える形で示してくれる。
気づいたのは、逃亡したコーギーくんを追いかけた際、僕が進めない範囲の外までユカリは伸びていたとき。ふと思いつき、陽司や葉月にユカリを伸ばそうとしてみると、海の向こうまではっきりユカリは伸びていた。
御守によって得られる力にまで、加護の制限は及ばなかったらしい。
確認として、コーギー犬捕獲の依頼をしていた雑貨屋さんで購入したポストカードを、自宅宛に大量に送ったことがある。旅人は電子機器と相性が悪いのはわかっていたが、もしかしたらポストカードなら届くかも、そんな希望を頼りに試したのだ。
江宮島から持ち帰った個人名や地名には加護の影響で阻害されていた。だが逆に江宮島に持ち込める情報は阻害されることはなかったのだ。自宅の住所もそのまま機能していた。
案の定、数十の写真付きポストカードが姉さん宛てに無記名で届いていた。加護のせいかすぐには認識できず、自分が送ったものだと気づいたのはずいぶんあとだが。すでに姉さんが処分していたので、どこなのかはわからず、結局自分の足で探すはめになったけれど。
神様の加護には結構穴が多いのだ。
迷える旅人が自らの意志で答えを見つけられるように、意図的に様々な道が残されている。そんな推察は考えすぎだろうか。
葵さんと栞ちゃんへの挨拶も、先ほどすませている。
葵さんへの挨拶が終わると同時に栞ちゃんが帰ってきた。高校生になったのに相変わらずちんちくりんだった栞ちゃんは僕を見るなり、本気の顔面パンチ。仕方ないと思い殴られ続けていたが、葵さんが止めてくれなければ顔をアンパンマンにされていただろう。まだ頬がじんじんする。
このあと夕飯を一緒に食べる予定になっている。それまでには、泣き止んでくれるといいけれど。
一度は焼け落ちてしまった江宮神社拝殿と拝殿。
彼女の力によって回帰された神殿は、今でも歴史を誇る姿で鎮座している。
僕が旅人になったのは四月も半ばを過ぎてからだった。
しかし今は四月も早い春。
訪れてみれば、江宮神社は周囲を一面のソメイヨシノに囲まれた桜一色だった。潮風の中を、ひらひらと桜の花びらが舞っている。
僕は探していた。
彼女と出会うことができたこの江宮島を探すために、旅人でなくなってからもずっと旅を続け、探してきたのだ。
もうずっと前、僕はたしかに江宮島に、あの少女とともにいた。
お互い仮初めの存在だったとしても、僕がただ彼女を救うための存在だったとしても、もう二度と、出会うことが叶わないだろうとしても。
自分なりにあの少女のことを調べてみたが、結局のところなにもわからなかった。
江宮島で得た情報はまともに持ち帰れない。
神様の慈悲か、叶明日葉という名前だけは覚えていたのだが、それ以外で覚えていたことは同い年であったことくらい。ありとあらゆる方法で調べたが、ついぞ存在の一欠片もつかむことはできなかった。まるで霞を探っているような、無味な感触だけだった。
あの子がずっと誰かに助けを求めていることに、僕は気づいていた。
ユカリの力で、一つだけわからなかったこと。
僕の意志とは別に、誰かと僕をつなぐ緑の輝線。
ひったくりに突き飛ばされて倒れそうになった女の子。
転がってくるトラベルバッグがぶつかりそうになった親子。
どの人たちも、誰かに助けを求めている状態だった。
ユカリの意志か、もしくは僕が天然のお人好しだったからかはわからない。
緑の輝線は、助けを求める声を無意識に拾っていた。
この場合だけは、会ったことがある、知っている人などの制限はなかった。
あの子には、幾度も緑の輝線がつながっていた。
ずっと助けを求めていたんだ。
僕こそがイレギュラーな旅人だった。
助けてほしいという願いを持ち続けた彼女を救うために、神様が選んだ願いを持たない旅人。
しかしまあ、思い返せば無茶なことばかりしていた。一度は江宮島を去り、再度自らの意志で願い江宮島に戻ったこと。彼女と江宮島でともに旅をしていなければ、強いつながりや彼女を救いたいという願いは生まれず、あんなとんでもはできなかったであろうこと。
どこからどこまでが神様の意図することだったのか。無口な神様はわざわざ教えてはくれない。
でも僕の使命は間違いなく彼女の願いを叶えることだった。僕の中に生まれた、江宮島に戻るために必要不可欠だった願いも、彼女の願いを叶えることだった。
あのときのことだけは、はっきりと覚えていない。
屋上へと投げ飛ばした彼女がどうなったのか、そのまま別れた僕に知る術はない。
それでも、確信を持って言える。
僕は救った。
死にゆく運命にあったその手を取り、ずっと助けを求めていた彼女を救ったんだ。
彼女は、今も生きている。理屈ではなく、僕の存在が理解できている。
多くの出会いとつながり、大切な時間をくれた神様を前に、今度こそ僕自身の体で祈りを捧げる。
神様の箱庭。
迷い人が旅に訪れる場所であって、居座る場所ではない。
だけど僕はもう一度訪れたかった。この江宮島に、この江宮神社に。
僕に様々なものをくれた江宮島で、あの少女とのつながりをくれた神様たちに、一つだけ、お願いをするため。
そのために、僕は江宮島を探していた。
拝殿を前に、二度頭を下げ、二度手を叩く。
そしてそのまま両手を合わせ、そっと目を閉じる。
「…………」
たとえ、もう二度とあの少女と出会うことができないとしても、大丈夫です。今もきっと続いているあの子の、明日葉の人生が、楽しく素敵なものでありますように。
僕は目を覚ました日から、ずっと願い祈っている。
神様にお願いすることは、それだけで、十分だから。
目を開け、最後にもう一度頭を下げる。
僕は、ずっと探している。
そして僕はこれからも、彼女を探す旅は続ける。
いつになるか、もしかしたら生涯なし得ないかもしれないけれど、それでも。
「まだまだ、これからだ」
自らを言い聞かせるように、そう口にする。
これだけは、神様からもらった旅でするのではなく、自分の旅でやらないといけないことだから。
そのとき――
パンパンと、春の潮風に乗って、手を叩く乾いた音が耳に響いた。
江宮神社の最奥に位置する拝殿の入り口、桜に囲まれた大鳥居の下に誰かが立っていた。
若い女性。観光客だろうか。首元の開いた水色のシャツに、丈の長いベージュのスカート姿の女性だ。
女性は、今し方打ち合わせたであろう手をすっとほどき、そのまま両手の指を絡めた。
そして、祈りを捧げる。
神域に踏み入れる前に、深く、深く捧げられる祈り。
握りしめられた手を薄い唇に押し当てるように、強く、強く願いが捧げられる。
清らかで神聖な光景だった。
女性は、長く祈りを捧げたあと、そっと手をほどき、拝殿に向けて歩き始めた。
「……」
誰かの祈りの時間を、わざわざ邪魔するべきではない。
僕の用件は、もう終わったのだ。
僕は拝殿に背を向け、歩き始める。
大鳥居から拝殿までの長い桜色の回廊で、僕は女性とすれ違う。
一歩、また一歩と、お互いに進んでいく。
僕は小さく笑みを落とし、江宮神社をあとにする。
「あの……」
背後から、鳥のさえずりのような声が響く。
同時に視界のすみで、なにかが舞った気がした。
左手。今はもうなにもつけていない、つけることはしないと決めている左手。
もうなんの力もない。誰かにつながりを示し続けてくれたブレスレットは、神様のもとに還ったのだ。
だけど一瞬、左手で、いつか僕と誰かのつながりを示してくれた、緑の輝線が結ばれたような気がした。
我に返ればそんな糸はどこにもなかったけれど、それは、たしかに。
僕は、足を止める。
「どうして、泣いているの?」
言われて、気づく。自分の頬に、熱が伝わっていることに。
あふれ出したそれは、ぽたり、またぽたりと雫となって石畳を濡らしていく。
僕は振り返る。
一際強い潮風が大鳥居から流れ込み、僕たちの世界が桜に色づく。
神々しい拝殿に背を向けて、女性が笑っていた。
自分だって頬を涙で濡らしているくせに、それでもどうにか作り上げられたとわかる笑み。首元が開けた水色のシャツからは、なんのあともない、白い綺麗な肌がのぞいていた。
「……さあ、どうしてかな。もしかしたら長い長い旅が、それでも楽しい素敵な旅が、ようやく終わったからかも」
僕がそう答えると、女性はおかしそうに笑う。
「君は? 君はどうして、泣いてるの?」
潮風に誘われ、ふわりと亜麻色の髪が舞う。
細い手で押さえられた髪には、輝く宝石を散りばめたような髪飾りが結われていた。
「困ってる、からかな。だからもしよかったら、私のお願い、聞いてほしいので」
幻想的に桜色を放つ視線の先で、また彼女が笑う。
いつか見た影を落とした笑みではなく、晴れ晴れと輝くような穏やかな笑顔で。
「私ね、いろんなつながりのおかげで、こうして、今を生きていけるようになったんだ。ちゃんと話してみれば、思いを口に出してみれば、私を必要としてくれている人はたくさんいて。毎日毎日本当に楽しくって。幸せなので」
でも、と彼女は続ける。
「それでもやっぱり私は、大好きな人と一緒に生きていきたい。また二人で、旅をしてみたいので。一緒じゃないのが、本当に本当に、嫌なので。だから……だから……っ」
また、女性の瞳から思いが伝う。
女性は走り出した。
石畳の上を駆けてきたその薄い体を、僕はそっと受け止める。
「だから結弦くん、私をまた、助けてほしいので……っ」
耳元で紡がれた、ずっと祈り続けた願いとともに、僕は女性を抱く手に力を込めた。
「助けるよ、僕が明日葉を、絶対に。僕には君が、必要だから」
僕たちの世界は、再びつながった。
そして。
つながる世界の明日から――
僕と彼女はまた、旅をする。
【完結】毎日神社に通っていたら、異世界に渡る旅人に選ばれました 楓馬知 @safira0423
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