僕と彼女の願いと使命 ー5ー

「あの、すいません」


 外から施錠されて閉め切られた扉を叩きながら、葉月は声をかける。


「お手洗いに行きたいんですけど」


 扉の向こうの廊下で少し身じろぎしたような気配。微かな話し声のあと、返事があった。


「もう少し待ちなさい」


 廊下と教室を隔てる壁に耳を当てていた陽司が、三人、と呟く。廊下で僕らを見張っている教員の数らしい。続いて男性教師二人、女性教師一人と、さらに名前まで正確に。君は忍者かなにかかな。


 扉を開けることを拒否する教師たちに、葉月は後ろに控えた僕に目配せをして、うなずく。


「でも、このあと先生たちにいろいろお話をして、謝らないといけないことも多いんです。だから先にすませておきたいんですけど。他の二人はいいみたいなので、私だけで」


 殊勝な態度とおおよそ被害者だとわかっている姫嶋葉月の言葉。

 少しためらうような間があったあと、がちゃりと扉の鍵が開いた。


 その瞬間、脇で控えていた陽司が勢いよく扉を引き開ける。

 さらに驚いて飛び退いた男性教師と会議室の間に、その巨大な体をさらした。


「な、なにをするんだ榛名!」


 声を上げる男性教師。陽司は制止の声を無視する。その場にいた教師三人全員を、無駄に大きな威圧感で廊下の端に追いやった。


「今だ! いけ!」


 陽司の言葉を合図に、僕と葉月は陽司の後ろを取って廊下に抜け出す。


 そして、全速力で廊下を駆けていく。


「こ、こらお前ら待て!」


「どこに行くつもり!?」


 一緒にいた男性教師と女性教師が声を上げ、僕と葉月を追おうとする。だがすかさず陽司が教師三人をまとめて押さえつけ、進行を止める。


「先生ごめんよおおおおお、いい展開なんだよおおおお、超燃える展開なんだよおおおおおっ」


 悪びれる様子もなく先生たちを押さえつけながら、大人に反抗する図に燃えている陽司。三人がかりでもまったく押される様子がない。


 僕と葉月は一気に廊下を駆けていく。


 一階二階なら窓から飛び出していたがここは三階。飛び降りるわけにもいかず、階段を三段飛ばしで駆け下りる。


 一階に降り立つと同時に怒声が飛んだ。

 職員室は一階にあり、廊下で話していた先生たちは階段を駆け下りてきた僕たちに目を剥いている。


「待てお前ら! なんで出てきてる! 戻りなさい!」


 先生たちの声にも聞く耳を持たず、階段脇にあった外へと続く扉を、ほとんど蹴破るように押し開ける。


 僕が先に外に出ると、遅れてやってきた葉月が力任せに扉を叩き閉めた。

 そしてドアノブにしがみつく。すぐに追いついてきた教師に扉ががんがんと叩かれ、ドアノブががちゃがちゃと音を立てる。扉の向こうでは先生たちの怒号が飛び交っている。


「葉月!」


「行って! 結弦!」


 葉月は奥歯をきつく噛みしめながら、外に出てこようとする先生たちを食い止める。

 僕の方を振り返り、無理矢理作った笑みを僕に向けた。


「また、詳しく教えなさいよ……っ」


「……っ、ありがとう!」


 戸惑いはあった。だけど僕は走り出した。


 出口で一番近い正門に向けてアスファルトを蹴る。

 先生たちはすぐに回り込んでくる。時間はない。


 正門から足早に誰かが歩いてきた。

 意識を向けることもなく、一目散にひた走る。


「……結弦?」


 だが投げかけられたその声に、僕は足を止めてしまった。

 思考が現実に引き戻され、正門の方から歩いてきているその人に目をとめる。


 香澄姉さんだった。いつものだらしないスウェット姿ではない、よそ行きの青いシャツに黒のパンツ姿。


 校舎から飛び出してきた僕を見て、黒い目を大きく見開いている。


「高校に呼ばれて来たんだけど、どこに行くの?」


 重ねて口にされる問いに、僕は答えを返すことができなかった。

 なぜ姉さんがここにいるのかはわかりきっている。僕たちの大乱闘のせいで呼び出されたんだ。


 直後、背後から誰かが走ってきた音が聞こえたかと思うと、勢いよくアスファルトに叩きつけられた。衝撃に肺が悲鳴を上げ、一瞬息が止まる。追いかけてきた男性教師たちが三人がかりで僕の体を押さえつけていた。


「ぐっ……は、離してください!」


 必死に声を上げながら身をよじるが、押さえる力は一層強まった。


「大人しくしろ! なにやってるんだ君は!」


 締め上げられた腕が軋み、肺の奥から苦い声がこぼれる。


「僕は、僕にはいかなきゃいけないところがあるんです。だから離して――」


「あとでいくらでも聞く! 一旦高校に戻りなさい!」


「今じゃなきゃダメなんです!」


「黙りなさい!」


 怒声が降り注ぐ。

 遠くからさらに足音も聞こえてくる。


「あとじゃ遅い、今じゃなきゃ、今でないとダメなんだっ。だからっ――」


 押さえつけられた腕に、再び力を込める。


「――離せよッ!」


 これまでの人生で出したこともないような、鋭い言葉が漏れた。


 教師たちは少し怯んだように身じろいだが、力が弱められたのはほんの一瞬わずかな時間のみ。到底逃げ出せるほどではなかった。


 だがしかし、次の瞬間。


 僕を押さえていた力が、ふっとなくなった。


「え――」


「な――に――」


 遅れて、そんな呆気にとられたような声がいくつか、僕の上から離れていく。

 僕を押さえつけていた男性教師たちが、混乱した様子でアスファルトの上に転がされていた。


 なにが起こったのかを理解するより先に、僕と男性教師の間に誰かが立つ。


「行きなさい。結弦」


 香澄姉さんだった。


 僕に背を向けており、表情は読み取れない。

 でも声はいつものように暖かく、優しかった。


「なにをするんですかっ!」


 我に返り、再び僕を押さえようと寄ってくる男性教諭の体が宙を舞い、側に植え込みに背中から落ちた。続けざまにもう一人も投げ返され、しかしそれほど衝撃がないようにアスファルトの上に転がされる。最後の一人は、自分たちよりも明らかに小柄な姉さんに大の大人が投げ飛ばされていることに、驚き身動きができないようだった。


 適当に喧嘩をしている僕なんかとは違い、姉さんは本当に道場に通って武術を磨いていた。小説執筆に使うためにだ。小説を書くことについてはどこまでも手を抜かず真摯に全力で取り込む姉さんだ。中学生のときすでに、道場の大人をなぎ倒していた。


 校舎からわらわらやってくる教師たちの前に立ちふさがり、姉さんはちらりと僕を一瞥。

 その表情は、嬉しそうに柔らかく微笑んでいた。


「大事なことなんでしょう? 行きなさい」


 端的にそれだけ。


 どれだけ迷惑をかけたか、これからかけることになるかもわからない姉さんからの、これ以上ない言葉。


 僕はアスファルトに手を打ち付け、弾くように体を起こす。


「ごめん姉さん! ありがとう!」


 高校と、それから姉さんに背を向け、僕は走り始める。

 正門を飛び出し、通学路を全速力で引き返していく。



 真夏の晴天。降り注ぐ太陽と吹き抜ける風を体一杯に浴びながら、ひたすら走る。


 呼ばれている。ずっと遠くから、僕は呼ばれている。


 つながりなんて、ずっといらないと思っていた。

 僕はこの世界にひとりぼっち。誰かとのつながりなんていらない。孤独な存在でいいって。


 でも、今は違う。

 多くのつながりに恵まれていることを、嬉しく思う。


 私たちの旅は終わりだと、あの子は言った。


 違う。

 僕たちの旅は、まだ終わっていない。


 一人目の旅人が、そもそも旅人として認識されないイレギュラーな存在。だから僕とは、願いを知ることができない不完全な旅人なったとあの子は言った。


 だけど、違う。

 やっぱり、イレギュラーは僕だったんだ。一人目の明日葉が本来の旅人で、二人目の僕がイレギュラーだったんだ。


 僕は本来、あの世界に招かれるはずがない存在だ。

 神々に選ばれ、御守を授けられ、世界を越える旅人。

 その共通点は神社に足蹴なく通い、願いを捧げ続けてきた人物。


 だけどそれなら、僕は当てはまらない。


 なぜなら僕は、神社で願いなど初めから捧げていなかったからだ。


 今なら、はっきりとわかる。

 神社に毎日参拝していたのは僕にとって日課であり、幼いころからの習慣だった。何気なく家の近くに神社があって、早起きな体質だったから毎朝参拝していたに過ぎない。中学まで通っていた神社でも、高校生になってから通っていた神社においても、これまで続けてきたから参拝を続けていたに過ぎない。


 願いがわからないのではない。初めから存在していないのだ。

 旅人になる条件を満たしていない。

 僕が、あの世界に呼ばれるはずがない。


 その答えは、きっと――。


「はぁっ……はぁっ……」


 破裂しそうなほど心臓が強く脈打っている。燃えそうな吐息が吐き出され、噴き出した汗が散っていく。


 行くべき場所はわかっている。

 止まるな。少しで速く、一歩でも前に進め。


 なんで、今の今まで気がつかなかったんだろう。

 なんであのとき、大丈夫だからと言う彼女から、離れてしまったんだろう。


 自分の願いは、誰かに必要とされることだと、明日葉は言った。でも彼女は、神社に通い始めたのは家庭内暴力が始まってからだと言っていた。


 あなたなんかいらない、お前なんて必要ないと言われ、彼女は自分の命を絶った。


 だとするなら、それより以前から神社に通っていた彼女は、それまでなんの願いを捧げていたのだろうか。 


 あの子は、江宮島においても毎日毎日汗を流しながら長い参道を登り、神前に祈りを捧げていた。

 誰よりも真剣に、純粋に願いを捧げ続けるその真摯な姿を、僕はずっと隣で見ていた。


 葵さんは言った。

 旅人の願いは、葵さんたちに告げていた願いと、本当に祈っていた願いが違うことがあると。


 誰かに必要とされたい。それも願いの一つだったのかもしれない。

 だけど明日葉の願いは、本当にそれだけだったのだろうか。

 江宮島にやってきても祈り続けていた明日葉には、他に願いがあったのではないだろうか。


 あの子の願いは、それだけじゃないんだ。


 走りながら、左手首に目を落とす。


 今はない、僕と江宮島をつないでくれたペリドットのブレスレット。

 意識すればつながりを示すユカリの力。


 だけど、意識せずとも勝手につながりが示されることがあった。

 あのユカリは、いったいなにを示していたのか。


 ずっと、思い当たることはあったのだ。


 足を踏み出すたび、視界のすみで銀が跳ねる。誕生日プレゼントにもらったダブルループのネックレス。


 御守は、江宮神社から神々のもとに還されたにも関わらず、この世界に留まることを選び、なおかつ世界を越えるほど強い思いが宿ったものだと、葵さんは言っていた。


 お焚き上げされたわけではないが、ネックレスが最後にあった場所は僕が一度旅を終えた江宮島拝殿と本殿の場所。

 そして、僕の元へ世界を越えるほど強い思いが宿ったもの。


 込められた思いは、捧げ続けられた願いは、きっと――


 住宅街の外れに、それは見えてくる。


 その中にぽつんとそびえる丘の上に建てられた神社。

 毎朝参拝を続けてきた神社。

 旅のきっかけをくれた神社。


 今朝は足がすくんで進めなかった。

 だけど今度は、迷わず参道の石階段を駆け上がる。


 栞ちゃんは言った。

 願いは、絶対じゃない。叶う願いもあれば、叶わない願いもあると。


 当然だ。すべての願いが叶うわけじゃない。

 僕も同じように思っていたからこそ、習慣として参拝を続けても、願いを捧げることをしなかった。


 願いとは、すなわち弱さだ。

 自分の力では叶わないと思っていることを、神様に叶えてもらおうとしているのだ。

 誰しも心に弱さがあり、だからこそ人は願うのだ。


「……っ」


 乾き張り付いた喉につばを飲み込み、燃える呼吸を吐き出した。


 僕はこれまで願いを捧げてこなかった。

 だけど、今僕がするべきことは、やりたいことは、やらなきゃいけないことは、自分一人の力では絶対になしえないことなんだ。


 だから、神様、お願いします。

 一つだけ、僕のお願いを聞いてください。


「神様っ、僕は、もう一度あの島に行きたい!」


 石階段を駆け上がりながら、僕は祈る。


「もう一人の旅人のところに――あの子のところに――明日葉のところに――」


 これまで一度として願いを捧げてこなかった神様に、その祈りが届くように。



「――――ッ!」



 吐き出した砲声は、蒼天へと舞い上がる。

 それは思い、あるいは願い、あるいは祈りとなって、神様の道を貫き、天高く駆け抜ける。



 空で、なにかが光った。

 


 夏風に揺られながら、緑の光が僕へと落ちてくる。

 わかっていたように、待ちわびていたように。


 参道の階段最後の一段を蹴り飛ばす。



 そして、再び僕の元へやってきた、つながりを示すブレスレットをつかみ取った。

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