僕と彼女の願いと使命 ー6ー
頭上で、白いページがぱらぱらと舞っていた。
眩い光の向こう側には、驚きに目を染め上げて僕を見返す少女。見たことがないセーラー服を着て、首にはチェック柄のマフラーを巻いている。
行使している力は膨大で、見渡す限りの景色一面が真っ白に光り輝いている。大規模な回帰であるが故に時間がかかるのか、修復の進行はずいぶんと緩やかだ。
僕が意識したわけではなく、勝手に動いた左手が緑の糸を伸ばす。つけた覚えもないのに、左手首には当たり前のようにペリドットのブレスレットがはめられていた。
ブレスレットから伸ばされたユカリが日記帳のページに絡みつき、日記帳を縛る。糸に絡み取られ、ページの進みが一時的に止まった。
視界を埋め尽くしていた光がわずかに弱くなり、おぼろげだった少女の表情が見えた。
そして、僕は自分の選択が間違いでないことを知った。
「結弦……くん……?」
震える口から、呆然と言葉が漏れる。
「そうだよ。明日葉」
戻ってきた。
再び世界を超えて、一度旅を終えたこの場所にもう一度。
一度目は、僕の存在に意味はなかったのかもしれない。
けれど今度は、間違いなく僕自身の意志で。
「なんで……」
胸元で祈るように組んでいた手をそっと下ろしながら、明日葉は静かに問う。
「どうして、まだここにいるの?」
彼女にとっては、当然の質問なのだろう。
自然と笑みが漏れる。
「僕は、僕の願いを叶えるために、ここに来た」
一瞬、明日葉の表情が苦しげに歪んだ。そして、振り払うようにかぶりを振る。
「違う。違うよ結弦くん……。結弦くんは、私が呼んじゃったんだよ。自分が願った結果この世界に来たのに、なにも始められなくて、なにもできなかったから、私だけの力じゃ足りなかったから、神様が呼んでくれたんだよ。間違って、来ちゃったんだよ」
「もしかしたらそうだったのかもね」
「そうだよ。だから結弦くんはもうここに、江宮島にいちゃいけない。結弦くんは旅を終えて、これから自分の世界で生きていかなきゃいけないんだから。もう体がない、私と違って……」
明日葉の体は、大規模な力を使っているためか、急速に非在化を始めていた。体全体が光を帯び、端から粒子となって消えている。ガラスのコップにひびが入ったように、存在そのものが粒子となってこぼれ続けている。
「それなのに、なんでまた来たの? 私には、もう願っているものなんて、なにも……」
「これが、僕のところに来たんだ」
僕は自分の首に提げているそれを、明日葉に見せた。
顔を背け、辛そうに言葉を吐き出す明日葉の視線が、僕の胸元で光る二つの輪に、ダブルループのネックレスに止まる。
目を見開いた明日葉は、自分の胸元とマフラーを探るように手を触れる。
もし、僕がここで消えてネックレスを落としたのなら、ネックレスは明日葉が拾ったはずだ。
僕がプレゼントした髪飾りも髪に結っている。ダブルループのネックレスも、つい先ほどまで明日葉が身につけていたのだろう。
それなのに、ダブルループのネックレスは僕のもとに現れた。
「明日葉、このネックレスはさ、なんで僕のところに来たんだろう。葵さんが言ってたよね。御守は、強い思いが込められたものは、世界を超えるほどの力を持つことがあるって。僕はこのネックレスを持ち帰れなかった。だから、このネックレスには僕以外の、誰かの気持ちがこもっていると思うんだ」
僕がそこまでの思いを込められたのなら、もしかしたら自分自身でネックレスを持ち帰ることもできたのかもしれない。だが実際は持ち帰ることができなかった。僕だけではそこまでの覚悟と願いを持つことができなかった。
ネックレスは突然現れた。まるで僕と、誰かの思いに呼応するように。
「ダブルループのネックレス、モチーフの意味を聞いたよ」
今度こそはっきりと、明日葉の表情が揺れた。
これまでひた隠しにしてきたものが、ぽろぽろと崩れ始める。
ダブルループのネックレスの意味は、二つは決して離れない、永遠の絆。
「なにもないなんてこと、ないよ。明日葉からの強い思いがこもっていたから、このネックレスは世界を渡ったんだ。旅人と御守っていう決まりも約束事もすべて超えて、僕のところに。明日葉には、今も願いが……」
「違うっ」
僕の言葉を遮り、明日葉は鋭い声を発した。
「違うよ。私は、もうなにも望んでない。ネックレスに思いがこもるはずもない。私の願いは、もう叶ってる。いや、これから叶うんだよ」
笑みが作られる。
僕がこの世界を去るときに見せた、作り物めいたちぐはぐな笑み。
「私は誰からも必要とされなかった。つながりなんてどこにもなくて、いつもひとりぼっちだった。それでもこの世界でなら、私はいろんな人に必要としてもらえた。十分なんだよ。私がこの世界のためにできる恩返しに、江宮神社を直すことができるなら、それほど嬉しいことはないので。私は、だから、もう……」
「――じゃあ、どうして泣いてるの?」
明日葉の目が大きく見開かれる。
その拍子に、まだはっきりと残っていた道筋に、また一つ大きな雫がこぼれていった。それは明日葉の手にぽつりと落ちて、今まで気がつかなかったのか無理矢理作った笑みが驚きに染まる。
僕がもう一度ここを訪れてから、ずっとそうだった。
明日葉は、泣いていた。
最後に見るはずのこの場所で力を使うそのときでさえ、明日葉が自分で言う願いが叶うその瞬間であっても。
叶明日葉という少女は、誰に見られることも知ってもらうこともなく、一人涙を流していた。
それが答え。すべての答えだ。
「これは、ちがっ。私は、泣いて、なんて……っ」
取り繕うように湿った頬が何度も拭われる。それでも思いは止めどなく流れていき、声は涙に彩られる。
「違う……これはぁ……違うよぉ……」
きっと、ずっと押さえてきたのだ。我慢してきたのだ。
ありとあらゆる気持ちをその表情の下に押し隠して、涙さえ、見せることなく。
僕は笑った。
「ねえ、明日葉。僕さ、初めて自分の意志で、友だちに言ったんだ」
泣きじゃくる少女に、僕は言葉をかける。
「助けてほしいって」
明日葉の目が大きく見開かれ、戸惑いとともに僕に向かう。
「戻ってそうそうやらかしちゃって、しばらく高校から出られなくなってさ。僕だけじゃきっと、ここまで来られないと思ったから、友だちに、助けてほしいって頼んだんだ。そしたら僕の友だちさ、詳しいことなんてなにも聞かずに、僕を助けてくれてさ。僕の姉さんなんて、なにも言ってないのに僕を助けてくれたんだよ」
助けてほしい。
僕は今まで、その言葉を口にすることができなかった。
中学で僕がいじめを自ら受けていたとき、誰かに一言、助けてと言っていれば、もしかしたら問題はあんなに大きくならなかったかもしれない。誰かが僕を助けてくれて、僕にはどうにもできなかったいじめっ子をどうにかしてくれたかもしれない。
自分から誰かに助けを求めるなんて、これまでしたことがなかった。
途方もなく難しいことだと思っていたのだ。
自分ではない誰かに、その人にとって利益にならないことを強いる。自分は得があるけど、その人には不易でしかない。それが極端な考え方であるとはわかっている。
でも、僕にはできなかった。
自分だけが困るのであればそれでいいと。現状をどうにかしようとも、誰かに助けを求めることをしなかった。
「明日葉が、教えてくれたんだよ。つながりを持っている人も痛いと感じる。僕が痛いことを、誰かが痛いと感じてる。本当にそうだった」
僕は身を持って知った。
「向こうに戻ったら、友だちが僕のせいでいじめられた。それが、自分のことのように、いや、自分のこと以上に辛かった。苦しかった。うぬぼれかもしれないけど、僕が感じてきたこの痛みを、ずっと友だちに強いてきたかと思うと、どうしようもなく痛くて、泣き出しそうになった」
ずっと、間違い続けてきたのだ。
自分さえ傷ついていれば、それで誰も傷つかないと。自分が傷つくことを甘んじて受けていれば、それで誰も傷つくことはないと思っていた。誰も、痛みを感じることがないのだと。
だけどそうじゃない。つながりからはいろんなものが伝わる。
つながりが痛みを生む。誰かとつながっているからこそ、痛いこともあると。
僕が痛いと感じていたことで、葉月や陽司、姉さんに痛みを強いてきた。傷も、苦しみも、痛みも、ありとあらゆるものを。
そのことを教えてくれたのは、この江宮島。
そして、叶明日葉という一人の女の子だ。
「見て、明日葉」
僕の左手から、無数のユカリが伸びて空へと広がった。
幾重、幾本もの緑が舞い上がる。光を放つ江宮神社を飛び出し、世界に伸びていく。
葵さん、栞ちゃん、この島で出会った数え切れない人たち。
そして、それ以外の人たちにも。
「人と人とのつながりは、言葉じゃ言い表せないくらい多い。僕もこんなにもたくさんの縁に恵まれていたんだ。ずっとそれを疎ましく思っていたけど、今は、誇らしく思えるんだ。それを教えてくれたのは、他でもない、明日葉なんだよ」
明日葉の顔が、再び苦しげに歪む。
人と人のつながりなんて、本来見ることはできない。
でもそれが僕の力。
誰かと誰かのつながりを示すことが、ユカリの力だ。
僕が江宮島に旅をしなければ知らなかったこと。
明日葉という旅人に出会わなければわからなかったこと。
少女は首を振った。
「もう……」
明日葉の頬を、一際大きな涙が流れていく。
「もう、遅いんだよ……結弦くん……。私、もう死んじゃってるので……」
顔をくしゃくしゃにしながら押さえ込もうとしている感情が、それでもあふれ出し、ぽたり、ぽたりと落ちていく。
江宮島で眠ることができる旅人。それはつまり、戻る体がないことを示している。
それは明日葉が犯した、罪の代償。
「私だって、私だってね……。この江宮島で、多くの人と触れ合って、多くの人の願いを叶えて、つながりを作ってきた。もしかしたら、私があんな結末を選ばなければ、私の世界でも綺麗な明日があったのかもしれない。そんな風に考えちゃう。でも、でももう全部、遅いんだよ……」
明日葉は、ほとんど透明になっている自身の両手を見下ろした。
泣きながらに思いを吐き出す明日葉の体は、今も急速に非在化を続けている。現在行使している力を使い終われれば、その存在が消えてしまいそうなほどに。
「結弦くんが友だちのことを痛いって思ったのは、結弦くんが誰かから助けてもらえたのは、結弦くんが気づかないうちにつながりを作ってたからだよ。でも私は、誰ともつながりなんてもたなかった。持ってもらうことができなかった。お母さんにとっても、お義父さんにとっても、私の世界の誰にとっても、私は必要のない人間で、いちゃいけない人間だったから……」
明日葉の側には、お母さんとお義父さんの二人がいた。しかし二人からは必要のないものとして扱われ、高校やその他の場所においても、不必要を強いられてきた。
お母さんは目を覚ますかもわからない昏睡状態。お義父さんは逮捕され、まともな精神状態ではない。
「だから、だからこんな私は、私には――」
言葉が紡がれるより先に、僕は重ねる。
今にも消えてしまいそうな明日葉の両手に、僕自身同じように、半透明になった両手を。
明日葉が驚いた表情で、非在化が始まっている僕を見やる。
僕は一度旅を終えた身で、無理矢理この場所に戻ってきた、イレギュラーもイレギュラーな存在だ。そんな僕に、非在化が起きないはずがない。
僕の手から明日葉の手に、もう一本、とびっきり光を放つ緑色の糸が伸びた。
「僕と明日葉と間には、もう切っても切れないつながりがあるんだよ。僕と明日葉の世界とか、時間とか、どこにいるかなんて関係ない。たとえどこにいようが、僕たちのつながりはちゃんとある。僕たちはこの世界で出会って、つながりを結んだんだから」
僕たちは、旅人にならなければつながりを得ることはできなかった。でもだからこそ、この世界でたった二人、僕たちだけは同じ旅人で、それはどんなものにも負けないつながりになっている。
「君のお母さんやお義父さんが君にどんな傷を刻んだのかは、僕にはわからないし、正直どうだっていい。それは僕がどれだけ考えても、想像してもわからないことだ。でも、これだけははっきり言えるよ」
涙を流し悲しみを露わにする明日葉の姿に、僕の心は、つながりがあるから、それを帯びる。
「明日葉、君が痛いのは、僕も痛いよ」
「……っ」
「僕は、嫌だよ。君がいなくなっちゃうのは、嫌だ。本当に本当に、嫌だ」
思ってばっかりじゃいけない。考え続けたってだめだ。
言葉にして、伝える。僕にしかできない方法で、示す。
「明日葉、君は、自分につながりがないって言うけどさ。僕はそうだとは思わないよ」
「え……」
「僕も、そうだった。僕は誰にも必要とされていない人間で、いてもいなくてもいい人間。だから僕が消えたところで誰も困らない、悲しんだりしないって、思ってた」
自分がよかれと思ってやった行動が、ことごとく誰かを悲しませる結果に終わる。僕の周りには友だちと呼べる人がいたけれど、同情で気にかけてくれているのだと思っていた。
でも、僕は知った。
「君にも、見せて上げるよ」
今にも消えてなくなりそうな少女の両手に、そっと力を込める。
人と人とのつながりは、そんな軽い言葉では言い表せないほど強く、自分ではわからないくらい数え切れないほど存在しているのだと。
「君の、つながりを――」
瞬間、ふわりと暖かい風が広がった。
心地よい夜風が、光に包まれた僕たちを撫で下ろしていく。
重ねた僕と明日葉の両手からあふれたそれは、無数の輝線たちだった。
僕のユカリは、緑色。
そして明日葉のユカリは、暖かい朱色だった。
「……っ」
明日葉の手を介して、僕は明日葉のつながりを明日葉自身が視認できるように示した。
可視化された明日葉のユカリは、僕と同じくらい、たくさんの、たくさんの光となって、夜空へと舞い上がっていた。
「見える? この朱色のユカリたちは、明日葉自身のつながりなんだよ。江宮島の人たちにも、葵さんや栞ちゃんを初めとした多くの人につながりがある。でもね、それだけじゃない。わかるでしょ? 明日葉のユカリが、この島の外にまで伸びていること」
「島の……外……?」
「そうだよ。明日葉とのつながりを持った人は、江宮島だけじゃない。江宮島の外にも、明日葉とのつながりを持った人はたくさんいるんだよ」
江宮島だけじゃない。無数のユカリは夜空を渡り、島の外まで伸びている。どこまで伸びているのかを、見ることはできない。
けれど、ユカリがつながっている僕たちは、それがどこに伸びているかを、感覚的に察していた。
この江宮島が、どの世界にあるものかを。
「僕には、君が必要だ」
明日葉が泣きそうな目で僕を見返す。
「僕だけじゃない。この数え切れないつながりの中には、絶対に君を必要としてくれる人がいる。明日葉、君を必要としない人間が、誰もいないわけない」
この三ヶ月。僕は明日葉とともに旅をしていた。
だから、確信を持って言えること。
「それは遅くなんてない。遅くなんて、ないんだよ」
自らのユカリに戸惑っていた明日葉が、僕の言葉に息をつまらせる。
「明日葉の力は、いつだって誰かのもう遅いを解決してきた。誰かを確実に救ってきた。君が誰かの悲しみを、辛さを思って、神様に願って、多くの祈りを捧げてきた。過去の辛いことを回帰して、明日を生きる力に変えたんだ」
明日葉の手を僕の指を絡めて、一緒に握る。
明日葉も弱いながらも僕の手を握り返し、二人で、胸の前で指を組んだ。
本来存在し得ないはずの、二人の旅人で。
二人で、一つの願いを叶えるために。
「これまで君は、誰かの笑顔を思ってきた。いつだって、自分が救われないとわかっていても、誰かの笑顔を思って、誰かの幸せを願って、祈ってきた。だから、だからもういいんだよ」
明日葉の瞳が揺れる。
「明日葉は、自分のために力を使って、祈って、いいんだよ」
神様から授けられた回帰の力。
明日葉は誰かから求められれば、必ず力を使っていた。壊れたものを直して、失ったものを取り戻していた。
だけど僕が知る限り、明日葉は自分のために一度として回帰を使ったことがない。
髪に結んでいたお気に入りリボンがちぎれてしまったときも、この世界でずっと持ち歩いていた鞄のストラップが取れてしまったときも、力を使わず、大丈夫と笑ってみせた。
それはきっと、明日葉自身に負い目があったから。
自死なんていう、人が絶対にやってはいけない行いをした自分に、そんな資格はないと。
だけど、それでも僕は。
明日葉とともに結んだ両手に、力を込める。思いを込める。
「だから、いいんだよ。自分のために力を使っても。明日葉自身の笑顔を思って、明日葉自身の幸せを願って、明日葉のこれから先、明日を祈って、いいんだよ」
誰かのためだけじゃない。
人は、自分自身のことを願っていいのだ。
自分のために、明日を生きたいと思っていいのだ。
「君がこれまでこの島の人たちを、そして僕を救ってくれたように――」
だから。
「今度は僕が必ず、君を救ってみせるから」
涙で彩られた悲しみあふれるその表情に、ふっと暖かなものが降りた。
僕がやろうとしていること、明日葉にやってほしいこと。
思いも願いも祈りもすべてつながりに込めて、明日葉に託す。
そして。
「わ、私……そんなこと言われたの……初めてなので……」
嬉しそうに、それでもどこか悲しげに、明日葉は笑う。
「ゆ、結弦くん……私、私ね……」
淡い光に包まれ、僕と明日葉を花のように咲くユカリに包まれて、明日葉は口を開く。
これまで、その胸のうちに秘めてきた、思いを。
「私、死にたくなんて、なかったんだぁ……でもあのとき、だんだんなにがなんだかわからなくなってきて……っ」
「うん、わかってるよ」
「今考えると、バカなことをしたってわかってるので。お母さんがそんなことしたのだって、一度だって許してない。また誰かがそうするなら、私は全力で止めるってわかってる。でも、ずっと首元に、首を絞められる感触と、あとが残っていて……だから……っ」
「わかってる」
明日葉の手を握る両手に、そっと力を込める。
「私は、生きていいのかな。もっともっと、未来まで、生きてて、いいのかな……」
「僕は、明日葉に生きてほしいよ」
「私も、生きたい……それで、結弦くんと、一度きりじゃなくて、もっとたくさんデートがしたいので」
「まだまだ、行ってみたいところ、いっぱいあるもんね」
「うんっ。まだまだ見たことがない世界を、旅してみたいので」
「一緒に行くよ。僕も明日葉と、旅がしたい」
「私も、結弦くんと旅がしたい……一緒に生き……っ」
これまであふれ出してきた感情が、押さえつけられるように途切れる。
それはきっと、これまで明日葉を縛り続けてきた認識、価値観、過去だ。
自分のような存在がそんなことを思ってはいけないと、願ってはいけないという縛り。
それでも明日葉は、僕と握る両手に力を込めた。
思いが、宿る。
「もっともっと、結弦くんと一緒に、私を必要としてくれた、結弦くんと……一緒に……っ」
心からこぼれそうになったそれは、それでもやっぱりなにかに押さえられて喉に止まる。
「だから結弦くん……私を……」
だけど。
明日葉の笑顔が崩れ、再び、涙に染まる。
「私を助けて――ほしいので――」
思いは、願いは、祈りは、ここに成った。
白紙の日記帳、そしてペリドットのブレスレットが眩い光とともに弾け飛んだ。
僕たちを江宮島へと導いてくれた御守は、光となって僕らを包み込む。
花のように広がっていたユカリは、極彩色の光となって夜空に広がっていった。
ユカリで押さえ込んでいた江宮神社への力の行使も再開される。せき止められていた力が一気に押し寄せるように、焼け落ちていた拝殿本殿も回帰され、急速に本来の姿を取り戻していく。
そして、僕たちの体も一気に非在化し始めた。
僕の体も、明日葉の体も、光の粒子となって体が世界に溶けていく。
明日葉は涙ぐんだまま、それでも精一杯笑みを作る。
明日葉自身も、わかっているのだ。
これが本当の、お別れだ。
たとえ願いが叶ったとしても、僕たちは別れなければいけない。
明日葉が僕の手に力を込め、僕も握り返す。
ずっとこの手を握っていたい。離さないでいたい。
でも、それは運命が、神様が許してくれない。
「明日葉」
僕は彼女の名前を呼ぶ。
「僕は、いつか絶対また、君に会いに行く。僕には君が必要だから。そのために僕はこれからも、今度は自分の足で、旅を続けるよ」
彼女は大きな目を涙に濡らしながら、それでも笑って僕を見返した。
「私も、私も絶対に、結弦くんに会いに行くのでっ。もっともっと、結弦くんと、一緒に――」
瞬間、明日葉の体が宙に浮き、ふわりと風に誘われる。
体の実体が急速に失われていき、離れていく。
霞む視界の先で明日葉が笑う。ただ儚く微笑んだ口元が、優しく揺れる。
僕らの世界が光を帯びた。
握り合っていた手は離れ、彼女の姿は光に飲まれ見えなくなる。
指を踊らせるが、その先にはもう明日葉の姿はなかった。
ただ残っているのは、今にも見えなくなりそうな、だけどはっきりと輝く緑と朱が混じった、一本のユカリ。
目元が熱くなり、喉が震え、感情が漏れそうになる。
でも、大丈夫。
今もこうしてつながりはある。もう見えなくなるだろうけど、ユカリがある。
一度できたつながりは、消えることはない。
たとえ君がどこにいても、僕は会いに行く。
たとえそれがこの島ではないどこか知らない場所であったとしても。
たとえ、過去であったとしても、たどり着く。
それが僕のユカリの力。
僕は最後のユカリをつかみ取った。
景色が変わる。
押しつぶされそうなほど強い風が全身を打ち付ける。
夜だった。
僕の体は、空高く投げ出されていた。
眼下には寝静まった街が広がっている。どこか知らない、きっと訪れたこともない街。
空には無数の星が煌めいていた。
星の海を、いくつもの流星が舞っていた。
荒れ狂う気流に乗って、微かに、だがたしかにそれは、僕の耳に届く。
自然と、口元が緩んでいた。
先ほど聞いたばかりの、彼女の本当の願い。
ああ、そうだ。やっぱり、そうだ。
旅人は誰しも、いつか自分の願いと使命を知るときが来る。
僕は、今このときのために、旅人に選ばれたんだ。
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