僕と彼女の願いと使命 ー2ー

「さてと、これで全部かな」


 結弦くんが旅を終えたあと、私はあてがわれていた自室を初めてきたときと同じように片付けた。


 旅人は本来、あまり自分の旅の終わりを明確に選ぶことはできない。だから次の旅人を迎えるまでの片付けや準備は葵さんや栞ちゃんがやっているそうだ。


 でも今夜、私はこの世界を去ることになる。それは間違いないので。


 力の行使は、人々が寝静まった深夜にしようと事前に話していた。可能な限り、誰の目にもつかない時間帯に。


 部屋の窓を開けると、暖かい夜風が流れ込んできた。潮の香りがする。

 私は、この場所が大好きだ。大好きな人たち。大好きな景色。大好きな島。


 向こうの世界は、お昼頃だろうか。結弦くんはどんな気持ちで目を覚ましたのかな。


 そんな疑問を苦笑いとともに浮かべ、窓を閉めた。


 窓際にある机の上には、一冊の日記帳を残している。私が江宮島で書き始めたクローバー柄の日記帳だ。


 日記には私と結弦くんがこの島で行ってきた旅人お仕事の数々がまとめられている。私たちがこの世界にいたことを記すため。もう帰ることができない私に、許されないことをした私に神様がくれた大切な時間を記したもの。


 これまで、多くのお願いを叶えていった。

 私が神様やこの島の人たちにしてもらえたように。

 クローバー柄の日記帳は、最後の一ページまで埋まっていた。


 最後のページは、今日。

 でも今日のお仕事の結果は、この部屋に帰ってくることができない私には、書くことができない。けれど結びになにを書けばいいかもわからなかった。


 だから一言。


 『これが、私たちの旅』。


 この日記帳はこの部屋に残していく。またこれからこの世界を訪れる旅人たちに、私たちのことを知ってもらいたいから。

 日記帳を閉じて、本棚の一番隅に立てかける。


 ここでやるべきことは、やり終えた。


 私は、服を着替えた。


 クローゼットの奥にしまい込んでいた、私がこの世界に招かれたときに着ていた服。私が通っていた高校のセーラー服だ。

 この世界で買いそろえた服を脱ぎ、代わりにセーラー服に体を通していく。


 着替え終わったあと、姿見で自分の姿を確認する。


 半年以上も前のことだが、それでも、この服を着ていた毎日のことは克明に思い出すことができる。


 でも当時のような、お腹の奥から凍り付きそうな恐怖はやってこなかった。


「私も、ちょっとは成長できたのかな……」


 一人呟きながら、小さく笑う。


 机の上に置いていた髪飾りを見やる。

 結弦くんからプレゼント、天然石を散りばめた髪飾りだ。

 顔の横の髪を一房すくい、髪飾りを結いつける。


 それから、もう一つ。


 髪飾りの隣に置いているのは、ネックレス。ダブルループのネックレスだ。

 結弦くんがいなくなったあと、服も他の持ち物も消えたのに、このネックレスだけは石畳の上に落ちていた。

 チェーンを首に回して胸元に下げる。もう首にアクセサリーはつけられないと思っていたけど、最後くらい。


 この髪飾りとネックレスだけは、持っていく。

 この二つは、私と結弦くんがこの世界にいた証なのだ。

 許されるなら、一緒に持っていきたい。


 最後に、ずっと私の首を隠してくれていたチェック柄のマフラーを巻く。

 懐かしく暖かいものが、首元から体を温めていく。


 これで、準備は整った。


 机の置き時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。夜はすっかり深くなっている。


 私の御守、白紙の日記帳を手に部屋を出る。


 見送りはない。

 葵さんとも、栞ちゃんとも、すでにお別れは終えている。

 二人にとって、旅人とのお別れは何度も経験していることだ。

 私が自分の世界に戻るか、戻れないか。一度旅を終えた旅人とはもう会えない以上、葵さんたちにとって、結果は変わらない。


 感じるものも、変わらないでほしい。


 静まりかえった家の中を歩き、階段を下りて、玄関まで進む。

 私にとって、もうすっかり自分の家となっていた。

 新しい家として、私を温かく迎えてくれた場所だ。


 思い出がたくさんつまった場所に向けて、深く頭を下げる。


 そして、私たちの家をあとにする。


 見慣れた参道。続く道には灯籠の明かりが灯されている。祭事以外は使われない設備だが、私が登るためだけに灯された特別だ。


 初めは一人で、ここ最近は二人で登り続けた道を、最後はまた一人で登る。どこか寂しく思ってしまうが、それでもこれが最後だと思うと、進める足もどこか軽くなった。


 夏の涼しい潮の香り。灯籠のせいで時間を勘違いしているのか、深夜だというのに賑やかに鳴いているセミ。空を見上げれば、私が住んでいた都会では絶対に見られない満天の星々。


 なにもかもが尊く、今の光景なのにどこか懐かしく感じる不思議。


 一歩、また一歩と、足は止めずに参道を登っていく。


 つい先刻まで封鎖されていた場所に、コーンやポールはなかった。参道だけでなく、もっと広範囲の場所を、警察の人たちや関係者さんたちが封鎖してくれている。ここはもう、私だけの場所だ。


 私の体からは、今も光が漏れている。体の端から粒子となって消えていき、徐々に存在が霞んでいく。もうほとんど、私の体がこの世界に存在している実感がない。なんとか意識が飛ばないように保っているが、次に眠ってしまえばもう二度と目を覚ませそうもない。


 これが私の役目。私が自分自身で欲し、捧げ続けてきた願いの答え。


 誰かに必要とされたかった。

 私の世界では、誰一人、私を必要としてくれなかった。


 お母さんには置いていかれ、お義父さんには必要ないと言われ、私の世界ではみんなが、私を不要品として扱った。


 でも、私は一つ結弦くんに言わなかったことがある。言えなかったことが、ある。


 お母さんが私の首に手をかけたとき、私はお母さんに言ったのだ。


 『死にたくない、嫌だよ』、と。


 首を締め付けられたまま体をよじり、一瞬力が緩んだ間に漏れたのは、そんな言葉だった。


 その言葉に、お母さんははっとしたように私の首から手を離した。


 私は激しく咳き込み、肺に空気を取り込もうとあえいだが、それでも視界は暗く染まっていった。


 最後、意識がなくなる間際に、『ごめんね』と、お母さんの言葉が聞こえた気がする。


 病院で目を覚ますと、もうお母さんは眠ったまま起きなくなっていた。


 私は、お母さんを拒絶してしまった。


 お母さんは疲れていたのだ。そして私と一緒に逝こうとしたのに、私はそれを拒んでしまった。


 だけど結局、私は自ら命を絶った。


 お母さんを拒絶し、お母さんと一緒に逝かなかったのに、私は結局お母さんと同じことをしたのだ。昏睡状態になったお母さんを残し、少なくとも一緒に生活してきたお義父さんを残して、私は一人逝った。


 本当に、私はどうしようもない。

 私は、誰かに必要としてもらう資格なんてないのだ。


 世界にたった一人。つながりや関係はなに一つ存在しない。どうしようもなく辛く悲しかった。息をしても苦しく、足を動かしてもまったく進んでいない。暗い感情ばかりが頭にまとわりついていた。


 でも、時々考えてしまう。


 もしあのとき、私が高校の屋上から身を投げなかったら。もしあと一日でも実行を遅らせていれば。御守を手に眠りについて、生きたままこの世界に来ることができていたのなら。


 なにかが、変わったのだろうか。


 もしかしたらそのときは、私はなんらかの形で願いを叶えて、あるいはこの世界で大きななにかをつかんで、自分の世界でやり直す機会を得ることができたのだろうか。


 そんな仮定に意味はない。


 だけれどそう考えると、どうしても一つ残念でならないことがあった。

 もし私が普通の旅人としてこの世界を訪れていたのなら、きっと二人目の旅人は現れることはなかった。出会うことがなかった。

 結弦くんとのたくさんの時間がなかったのだとしたら、それは悲しい。


 帰る世界がないイレギュラーな私のせいで、本来来るはずがなかった旅人として招かれた男の子。


 初めて会ったとき、私がうっかり海に投げ飛ばしてしまった白紙の日記帳を拾って、そのまま海にダイブしていた。初対面がずぶ濡れという、なんとも申し訳ない出会い方をしたものだ。


 思い出して吹きだしてしまい、マフラーに顔を埋めて笑いを抑える。


 お人好しなだけだと最初は思っていた。だけどその心のうちには、触れればそれだけで壊れてしまいそうな氷のような脆さも持っていた。


 こんな私のために泣いてくれて、私のことを思ってくれて。


 わずかに弾んだ息とともに、熱を落とす。ネックレスの二つの指輪がぶつかって金属音を響く。


 もう会うことはできない。

 でも結弦くんのこれからが、楽しく素敵なものにあふれてくれると嬉しい。


 山頂に近づくにつれて、ものが燃えた嫌な臭いが鼻を刺すようになった。


 石階段の最後の一段を、登り切る。


 これまでの参道にあった鳥居よりも一際大きな赤い鳥居が私を迎えてくれる。江宮島にやってきて最初に通った神様の門で、最後の門でもある。


 そして、その先には……。


 鳥居の下で私は二度手を叩き、そして手を組んで祈りを捧げる。


「……今まで、本当にありがとうございました」


 これまですべての、お礼を述べる。


 不思議で、そしてこんなにも幸せな時間をくれた神様たちに、心の底から感謝する。


 私は目を開け、最後の鳥居を進んだ。


 江宮神社拝殿、そして本殿。

 清らかな空気を包まれていた聖域は見る影もない。備え付けられていた消火設備によって鎮火こそされたが、拝殿と本殿はほとんど形も残らず焼け落ちている。

 何十年、何百年とこの島を守り続けた神社の社は、今はもうない。


 だけど、私ならできる。


 不意に見上げた、雲一つ月明かりすらない空に、一条の流星が流れた。


 夜空に手のひらをかざす。

 私の手はもうほとんど実体がなく、手のひらの向こうには星が輝いている。


「本当に、本当に楽しくて、素敵な時間だったので……」


 闇夜に一つ、私の言葉がはらりと漏れる。


 数え切れないものを手に入れた。多くのつながりを得た。たくさんの感情をもらった。

 最後の旅立ちに必要な、勇気をもらった。

 迷いはない。


 手にしていた白紙の日記帳に、そっと指を滑らせる。


「あなたも、今までありがとう」


 強い思いが込められることで世界を超える御守。私の願いに、答えてくれた。


 対象は、すべて。建物も、地面も、周囲の森も、火事が起きる前の状態まで回帰させる。


 ふわりと、日記帳が宙に浮かぶ。


 いつもは私の手元に浮かんでいた日記帳が、三メートルほどの高さまで浮かんでいく。


 空っぽになった手を二回、パンパンと打ち合わせた。

 合わせた手をそのままほどき、指を絡めて胸の前で組む。


 これが、私の最後の祈り。


 ぱらぱらと、日記帳が舞い始める。

 最後のページから一枚、また一枚とめくられていき、そして淡い光を帯びていく。


 この瞬間こそが、私が江宮島に来た役割。


 お願いします、神様。

 私はあなたの望みに答えます。

 私に江宮島での時間をくださったお礼に、神様のおうちを、あるべき姿に戻します。


 視界すべてが、光を放つ。

 くらみそうになるほどの光でありながら、それでも目を逸らすことなく前を見る。


 私として、一人の旅人として。

 私の願いを叶えるために、旅人とし与えられた使命を果たすために。

 私は、私の世界でなにも残すことができなかった。

 けれど、この江宮島でなら、私が誰かに必要とされた証を残すことができる。


 それがどうしようもなく嬉しくて、同時に、どうしようもなく……。


 だから、せめてこれだけ、私が必要とされる、ありったけを。





 舞っていた日記帳のページが、止まった。

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