僕と彼女の願いと使命 ー1ー
「……」
すでに遅刻をしていたのだが、毎朝参拝していた参道を前にすると、どうしても足がとまった。
高い高い石階段の先にある鳥居。その先にある神社。
旅人は誰しも、神前で願いを捧げ続けた人が選ばれる。
僕は普通ではなかったけれど、その例に漏れることはなかった。
ほとんど毎日欠かさず、願いを捧げ続けてきた。
だけど、今はもう。
どうしてか、胸の中がざわざわした。もやもやした。
とても今の気持ちでは、神社に参拝するなんてこと、できないほどに。
もしかしたらもう、僕はこの神社に参拝することができないかもしれない。
ここを登ってしまうだけで、泣いてしまいそうだ。
石階段に向けていた足の先を、通学路へと向けた。
高校に着くより前から、なにか、嫌な予感はしていたのだ。
登校した時間はちょうど休憩時間。だけど明らかに教室の空気がいつも違っている。
重たく冷たい空気。僕が明確にいじめを受け始めたときと雰囲気は似ているけれど、それでももっとどろりと卑しい。
自分の机に荷物を下ろす。僕の机は、綺麗なままだった。だけど、昨日見たときよりも綺麗になっている気がする。本当はひどい有様だったのだろうが、それを誰かが拭いてくれていたのだ。誰かは、考えずともわかる。
遅刻して登校してきた僕に、周囲の目は否応なしに向けられている。
中でもとびっきりねちっこく、下卑た視線がいくつかある。悪意や害意をともなって向けられるその視線は、言わずもがな、富岡たちからのものだ。
嘆息とともに、僕は窓の外に視線を向ける。
僕たちがいる生徒棟は三階建てで、三階が一年生、二階が二年生、一階が三年生だ。僕たちがいる二階からは中庭を見下ろすことができる。昼休みは多くの生徒が賑わう場所だが、授業間の短い休みなのでほとんど人はおらず、僕を見上げる視線も外まではない。すぐ真下は、植え込みがあるだけ。
僕は視線を教室の一点に目を向ける。
窓際の僕の席から少し離れた席。このクラスでただ一人僕の友人である、葉月の席だ。
僕の席は、なんともなっていない。代わりに、おかしなことになっている席が一つあるのだ。
「おー、悪いな出雲」
離れた席に座る富岡から声が飛ぶ。わずかばかり、取り繕うようにささやかれていた声さえ消え、教室の音がしんとなくなる。
富岡は机に足を乗せて、顔だけでこちらに向けながら悪びれもせず笑う。
「今日高校に来てみれば、そいつがお前の机を拭いていたからよぉ。そんな掃除が好きなんならって、やってやったんだよ。なかなかいい出来だろ?」
その言葉には反応せず、僕はその前まで進んだ。
「ああ、結弦、おはよう」
いまさら僕に気がついたような素振りで、葉月はいつも通り口を開く。
「おはよう」
僕は挨拶を返す。自分の口から出た声は、自分が思うよりもずっと冷え冷えとしていたのかもしれない。近くのクラスメイトが体を震わせていた。
葉月はつまらなさそうに、なんともなさそうな表情で、頬に肘をついてぼーっとしている。
その机が、昨日までの姿は見る影もないほど、みっともない状態にされていたとしても。
葉月の机は、ひどいものだった。僕が普段されているより、ずっと凄惨な状況だった。
殴り書かれた罵詈雑言。黒や赤のマジックで乱雑に書かれた文字が、机いっぱいに広がっている。ナイフか彫刻刀かなにかで机のあちこちが削り取られて足は曲がり、少し触れるだけで揺れるほど不安定だった。
葉月は表情では気にしていない風を装っている。しかし、それは違う。
思っていることがすぐに表情や態度に出る素直な性格なのだ。僕が富岡からのつまらない仕打ちを受けているときでさえ、不機嫌さや憤怒を隠すことなく振りまいていた。自分に対する理不尽も、他人のそれより下がるとはいっても許しはしない。
現に、僕を見上げる葉月の目は明らかな怒りが見て取れた。だけど机をどうにかするわけでもなく、離れた場所からくだらない嘲笑を投げる富岡を咎めることもしなかった。
僕は葉月の頬に押し当てられた手を取って、こちらを向かせる。
「……頬は、どうしたの?」
押し当てた小さな手では隠しきれていない。片頬だけ明らかに不自然な赤を帯びていた。いつもは白く綺麗な肌に悪意がついていた。
僕が静かに尋ねると、葉月はそっと僕の手を離させる。
そしてまた頬に手をついてさっと顔を背けた。
「いいのよ。これは私の問題。私がどうにかするから、結弦は気にしないで」
意図したのか意図してないのか。
その言葉は、かつて僕が口にしたものとまったく同じだった。
ずきりと、僕の胸に明確な痛みが広がった。
ああ、これだ。
あの女の子が言っていた痛みは、これなんだ。
「ほらほら、出雲。早くその汚い机を綺麗にしてやれよ。お前、掃除大好きだろ」
離れた席から、再び富岡の声が飛ぶ。
「なんならお前の席と交換してやってもいいんじゃねぇか? ゴミみたいなやつにはゴミみたいな机がお似合いだからな」
その声に呼応するように、富岡の取り巻きたちから笑いが漏れた。
僕へと浴びせられる罵倒に、今度こそ葉月が不機嫌そうにまゆを歪めた。
まったく、この子は。
自分のことなら耐えるくせに、どうして友人のこととなるとこうもわかりやすく顔に出てしまうのか。
でも結局、僕も同じ。
不思議と、こんな状況にもかかわらず笑みが漏れてしまった。
教室の空気が変わる。
「……なに笑ってんだよ、てめぇ」
富岡の一声に、クラスメイトたちが一段と張り詰める。
もうじき休み時間も終わるのに、逃げ出すように教室の外まで出て行く生徒までいる。
僕は富岡に笑みを返す。
「いや、おかしくってね。バカじゃないの? 富岡」
「あ? なんだと?」
「いつもなら誤魔化せる程度にしかやらないのに、こんな隠しようもない状況にしてさ。やるなら頭を使いなよ」
富岡の目が怒りと、わずかな疑惑に揺れる。
「でも、ここはバカな富岡に合わせてあげる。僕の机はまだ綺麗だし、交換するよ」
「は? ちょっとあんた――」
「でもこの机は汚いしボロボロだし、もう使えないね」
声を上げようとした葉月の言葉を遮り、僕は葉月の机を持ち上げた。パイプ足を両手でつかみ持ち上げると、葉月の机からばさばさと教科書類が落ちる。
葉月は目を丸くし、富岡も机の上で組んでいた足を下ろして立ち上がった。
「だから」
机の足をつかんだまま、振りかぶる。
「――ゴミは、捨てないとね」
空気が震える。
バッドを振るような勢いで振るわれるそれ。風を切り裂くような勢いで投げ飛ばされたそれは、誰もいない教室の空間を一直線に突き抜ける。
机は教室の窓を突き破った。ガラスが弾け飛び、耳を刺す派手な音が撒き散らされる。それに続き、中庭へと落ちていった机が弾ける音が響いた。
かちゃかちゃと、ガラス窓の破片が床に散らばる。
誰も声を発することをせず、まるで空気そのものが消し去れたかのような静寂に包まれる。
そんな中で、僕は両手の指を絡めて、腕を頭上に高く伸ばす。
「ああー……すっきりしたー」
心の中でつっかえていたものが、ガラス窓が割れると同時に綺麗さっぱり。久しぶりに、いい気分だった。
クラスメイトたちは息をひそめ、廊下や他の教室にいた生徒たちが何事かと教室の前にわらわらと集まってくる。
「……あ、あんた、なにやってんの?」
真っ先に硬直から立ち直ったのは、葉月だった。
僕は笑みを浮かべ、首をすくめる。
「さあ、なにやってんだろうね」
自分でも本当になにを言っているのか、やっているのかわからない。それでも、馬鹿げたことをやったとわかっていながら、どうしようもなくスカッとした気分だった。
落ちた教科書類を拾い集め、呆ける葉月に渡す。
「友だちがひどい仕打ちされてたんだから、ちょっとくらい怒るのは許してほしいな」
「……それ、昨日までのあんたに言ってやりたいわ」
恨み言のようにぼそりと呟く葉月に、僕は苦笑せずにはいられなかった。同意見でぐうの音も出ない。
「て、てめえなにやってんだッ!」
次に声を上げたのは富岡だった。自らの机を蹴り倒しながら立ち上がり、目を怒りとともに血走らせている。
僕は鼻で笑い、拳を手のひらに打ち付ける。
「これまで僕にやってきたことは、僕だから許してやってたんだ。他の誰かに、ましてや僕の友だちにこんなバカなことをしようものなら、最初から、許すつもりはない」
「お、おま、え、なに言って……っ」
富岡は明らかに平静を失っていた。取り繕うとしても、もう遅い。僕が賽を投げてしまった。
誰かを一方的に虐げることばかりしてきた人物は、存外脆い。やり返されることに耐性がないのだ。
焦燥一色に顔を染めた富岡を、僕は笑う。
「どう? 自分がいじめていたやつに反抗される気分は?」
僕やこれまでいじめられてきた人たちへの仕打ちは、誰かに告げ口することもなかったために内輪の出来事で終わっていた。
しかし僕がやった行動によって、すべては白日の下にさらされる。
中庭もずいぶんな騒ぎになっており、喧噪は二階まで響いてくる。
これまで見て見ぬ振りをしてきた生徒たちも、気づいていても対処してこなかった教職員たちも、手を出さなければすまなくなった。
机を窓から投げ捨てたのは僕だが、見るも無惨な姿にしたのは富岡たち。調べればすべてわかること。騒ぎにならないわけもないほど、ことを大きくなる。
僕自身、これまでのように自分だけで終わらせることはできないけれど。
「――ッ。ふざけんなゴミが!」
机を蹴り散らかしながら富岡が殴りかかってきた。
周囲から悲鳴が上がる。
「――ッ」
片方のクラスメイトが宙を舞い、誰もいなかった机と椅子に突っ込んだ。
意識のずっと遠くで、授業の開始を告げるチャイムが情けなく響いていた。
「がっ……な、に……」
散らかった机の上で呻いているのは、他でもない、僕に殴りかかってきた富岡自身。
富岡の顔面に拳を叩き込んだ僕は、冷めた感情とともに富岡を見下ろす。
「ふざけてるのはそっちだよ、富岡。僕がゴミなら君はクズだ。これまで、一方的に誰かを虐げてきたんだ。そろそろバカな遊びは終わりにしよう」
僕自身、罰を受けるのは避けられない。もしかしたら、これまでよりずっと生きにくくなるかもしれない。辛い時間になるかもしれない。
だけど、これ以上誰かに痛みを背負わせ続けるよりは、きっとましだ。
「舐めたこと言ってんじゃねぇよ!」
「野郎ッ!」
富岡が殴り飛ばされたことに怒り狂った取り巻き二人が、クラスメイトを押しのけながら殴りかかってくる。
教師のものか生徒のものか、制止の声があったがそれでも彼らは止まらない。
でも僕も、今回ばかりはやめてやるつもりはない。
先にやってきた拳を手で払う。
そして二人目が放ってきた蹴りをかわし、軸足を払った。バランスを崩したところで襟首をつかんで引き寄せると、先に殴りかかってきたやつ目がけて投げ落とす。
二人は盛大にもつれ合いながら教室の隅に倒れ込んだ。
僕は運動神経なら絶対に負けない自信がある。
そして粗暴なやつらとはいえ、喧嘩は僕の方が強い。暴力、悪意、邪気、害意。僕は彼らより、ずっと知っている。
「うああああああああっ!」
富岡が叫び声を上げながら倒れていた机を持ち上げる。
「やめなさ――」
見かねた葉月が叫び声を上げるが、机はその手から放たれる。
だが、机が富岡の手から離れるより先に、富岡の体は先ほどよりも派手に吹き飛んでいった。再び見るも無残に机の海に飛び込む富岡。
やったのは、僕ではない。
富岡を蹴り飛ばした張本人は、富岡が手放して落ちていく机を器用に受け止め、そして床に置く。
「ついに、ついにこのときがやってきたぜ……」
口元に笑みを浮かべながら、指の骨をパキパキと鳴らす大男。そのでかい背中は、これまで見たどんな姿よりも生き生きしているように見えた。
「よ、陽司……なにやってんの……?」
先ほど葉月が僕にかけたものと同じ言葉を、今度は僕が口にしてしまう。
突然現れたにもかかわらず、流れるような動作で迷いなく富岡を蹴り飛ばしてみせたのは、誰であろう榛名陽司。
陽司はニヤリと笑みを浮かべながら、びしっと親指をたてる。
「友だちの喧嘩に飛び入り助っ人ってのが、子どものころからの夢だったんだ。最高の展開だ」
一昔前のヤンキー漫画みたいなことを言ってのけながら、それでも明確な怒りを持って富岡たちに向かう。
「これまで散々結弦にあれこれやってきて、でも結弦が止めるから我慢してたんだぜ俺はぁ……。あげく葉月にまで手ぇ出しやがって。放課後まで待ってやろうと思ってたのに、結弦がホイッスル鳴らしてくれるとは思わなかったぜ」
普段のお気楽な様子からは想像もできない、子どもなら泣き出すんじゃないかというくらい低く重い声が漏れる。
友人である僕でさえ震えるような怒りに、クラスメイトたちも止める気を失っている。教室は静まりかえり、廊下の向こうから教師が必死に声を上げているのだけが、ずいぶん遠くに聞こえる。
ゴキゴキとならされる指の骨が、恐ろしく響く。
「覚悟しろや。クズ野郎ども」
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