旅の終わり ー4ー

 参道は明るかった。月明かりはないが、普段は使われていない祭事の際にだけ使われる灯籠に明かりがついていた。


 先導する明日葉は、僕がついてきていることを疑わず軽快に足を進める。後ろ出に手を組み、先ほどまでの疲れを感じさせない足取りで。


「神様には申し訳ないけど、今日の参拝は拝殿と本殿だけなので。さすがに暗いし、危ないからね」


 残念そうに肩を落とし、それでも足下に気をつけながら一歩一歩登っていく。


 参道は長いが、それでも通い慣れた道だ。灯籠の明かりだけでも十分に登ることができる。


 一歩、また一歩と進んでいく。


 足を踏み出すたびに、言いようもない悪寒が込み上げてきた。


 いや、悪寒じゃない。明確に違う。今朝も感じた。


 臭いだ。なんだこの変な臭い。


 頂上に近づくにつれて、明確に臭気が強くなっていく。


 やがて、封鎖された参道までやってきた。左右に大きなコーンと渡されるポール。さらに立入禁止のテープが厳重に木々の間を通されている。

 そして門番のように、二人の警察官が立っていた。僕たちに気づくなり、警察官は敬礼をする。すでに連絡が行っていたのか、ポールとコーンを避け、立入禁止のテープを上げてくれる。


 明日葉が手招き、二人そろって封鎖された参道を進む。


 もうそのころには、予感があった。

 参道は、崩落などしていない。

 鼻を刺す臭いが、なんであるかも。


 参道が終わる。


 その先には空高く伸びる大鳥居。

 最後の一段を上りきる。



 そこには、江宮神社の変わり果てた姿があった。



 敷地一面にある灯籠が、江宮神社の拝殿と本殿が、場所を照らし出している。


 歴史を感じさせる尊厳たる建造物の数々は見る影もなかった。


 江宮島が誇る最も古くから存在する、拝殿と本殿が、ない。


 崩れ落ちた社。周囲一帯に撒き散らされる異臭。

 灯籠によって照らし出されたその色は、闇夜にも勝る、一面の漆黒。


「なに……が……」


 なにが起こったのかは一目瞭然。


 だけど、そう問わずにはいられなかった。


 明日葉は、崩れ去った拝殿の前までゆっくりと進む。そして僕に背を向けたまま、口を開く。


「昨日の夜にね、火事があったんだよ」


 こともなげに、ただ毎日の出来事を口にするように、明日葉は言う。


「放火だったんだよ。ここは火事の火元になるようなものがそもそも少なかった。電気系統は灯籠の明かりや防犯カメラくらい。日付が変わる少し前に出火して、でも場所も場所だから、消火設備も十全じゃなかった」


「どう、して……」


「理由なんて、たぶんないんじゃないかな。なんでもいいから、悪いことをしたかったんだよ。けど犯人は、結弦くんが見つけてくれた人だよ。拝殿近くで燃え残ったライターが見つかった。それが火元の可能性が高かった。でも誰がやったかはわからなかった。拝殿や本殿には防犯カメラはあったけど、夜だったから不鮮明で状況が不確かでね。風も強くて、瞬く間に炎が広がって、焼け落ちちゃったの、拝殿も本殿も全部」


 当初、事件か事故かの判別が難しかったそうだ。

 ただ付近から黒焦げのライターが見つかった。僕がユカリを使用した証拠品はライターだったのだ。

 やったのは、以前商店街でひったくりをしていた、あの男。捕まっていなかったらしい。

 経緯も、犯人も、動機も、すべてどうだっていい。


 結果として、江宮神社の拝殿と本殿が、すべて焼け落ちてしまった。


 旅人が迎えられる神聖な場所が、消滅した。


「大丈夫なので」


 明日葉は、そう言って振り返った。いつもと変わらない、穏やかな笑みで。


「私の力をなんだと思ってるの? 私の力は、回帰だよ」


 明日葉の言っていることが、よくわからなかった。


「な、なにを……。こんな大規模で広範囲なものを、どうにかできるわけ……。それに、火事のことを知っている人が多すぎる。そんなこと――」


「できるよ」


 ごくごく当たり前の問答のように、明日葉はうなずく。


「私の力に、範囲や大きさは関係ないんだ。やろうと思えばきっと、どんなものでも直すことができると思う。いや、ちょっと違うかな」


 自虐的に明日葉は笑った。


「もしかしたら、この島に来たことならそんなことはできなかったかもしれない。けど、今ならできる。結弦くんとたくさん旅人お仕事で力を使ってきた、今なら」


 力のことは使わずとある程度理解できる。でもわからないことだってあるのだ。できないことだって当然ある。


 僕が提案した旅人お仕事。明日葉は仕事の中で数え切れないほど力を使ってきた。

 その中で確実に、明日葉の回帰は使える規模を大きくしていくことができたのだという。


 かつてできなかったことを、できるように。


「それに火事のことを知っている人はほとんどいないので。私が頼んで、島外の人はもちろん、島の人たちにも極力伝わらないようにしてもらってる。言ったでしょ? 参道が崩落したって。火事を見た人はいるけど、崩落の原因で起きたちょっとした小火ってことになってる」


 そうだ。今日一日、僕たちは街を歩いた。カフェに行った。水族館を回った。展望台に登った。それでも火事が起きて江宮神社が焼け落ちたなんてこと、欠片程度もわかりはしなかった。


 明日葉は最初から決めていたのだ。

 自らの力で、僕たちと世界をつないでくれたこの江宮神社を直すと。


 だけど、わからないことが一つ。


 なぜそのことを僕に、黙っていたか。


 明日葉は、笑う。


「でも、結弦くんの旅はここまで、なので」


「……え?」


 意味がわからず、問い返す。


 明日葉は自らの手に胸を当て、穏やかに笑う。



「結弦くんの旅は、ここで終わり――」



 僕の体が光を帯びた。


 まるで、がトリガーになったかのように、それは始まった。

 なにが起きたのか理解するより先に、左手につけていたブレスレットが光の粒子となって周囲に散らばった。


 そして、僕自身の体も。


 非在化。

 僕の体に起きたことは間違いなくそれだ。

 旅人がこの世界から拒絶されるもの。


 そして、旅の終わりを告げるもの。


「やっぱりね」


 合点がいったように明日葉は呟いた。


「ちょっと待ってよ! なんだこれっ、なんで僕に非在化が起きてるんだ!」


 突然だ。あまりにも突然すぎる。


「僕の願いは叶ってないっ。僕はまだ、自分の願いなんてわかってないのに、なんで――」


 口にしようとしていた言葉が、途切れる。


 明日葉の儚い笑顔を見ると、僕は、その先の言葉を紡げなかった。


 心のどこかで、わかっていたのだ。

 僕の旅が、なんだったのか。それを考えれば、自ずとわかる。

 願いを叶えたときが、使命を果たしたときが、旅の終わり。


 その理が変わらないのなら、僕の旅の終わりは――


「それはたぶん、結弦くんが旅人になった願いが、そもそも旅とは関係ないものだったからだよ」


 光を帯びた視界の向こうで、明日葉が寂しそうに笑う。


「ごめんね、結弦くん。私、なんとなくわかってたんだ。結弦くんが旅人になったのは、私の願いが理由なんだってこと」


「……ちょっと、ちょっと待ってよっ」


 僕は明日葉の手をつかんだ。温かい人の心地をした、彼女が間違いなくここにいることを示すぬくもりを。


 明日葉は僕がつかんだ手にもう一方の手を重ね、淡く微笑む。


「私は、誰かに必要とされたいって思ってたので。けど私一人じゃ、誰にも必要とされなかった。そのまま半年近くも時間が過ぎちゃった。江宮島に来る前の私と変わらないから当然だよね。だからきっと、神様が結弦くんを招いてくれたので。これまで一度も例のない、二人目の、旅人として」


 頭が理解しようとすることを拒絶する。


「それにもしかしたら、私がこの江宮神社をどうにかするまで力が使えるようにって、神様が結弦くんを送ってくれたのかもね。私一人じゃきっと、全部は直せなかったと思うので」


 なにか取り繕うと答えを探すが、徐々に存在を失っていく体のせいでどこか思考が鈍ってしまう。


 心のどこかで僕が考えていることが、すべて明日葉の口から語られていく。


「結弦くん、言ってたよね。私に世話になりっぱなしだったって。違うよ。私が結弦くんにはお世話になりっぱなしだったので」


 言って、明日葉はまた笑う。


「結弦くんが来てくれて、私に旅人お仕事を提案してくれて、一緒にお仕事をしてくれた。それから、うぬぼれじゃなかったら、誰より私を、必要としてくれた。結弦くんから、たくさんのものを、思い出を、気持ちをもらったので」


 光の向こうでくすぐったそうに言葉を口にする明日葉。


 そんなことを言ってほしいわけではない。

 言わないで、ほしい。


「僕は、明日葉になにかをしてあげたかったわけじゃない。ただ、明日葉に願いを叶えてもらいたかっただけなんだよ……」


 言葉が揺れる。視界がにじむ。


「もう十分だよ。十分すぎるほど、私の願いは叶ったので。こんなに誰かから必要とされたこと、今までなかったから。本当に嬉しい」


 満ち足りた表情はどこか吹っ切れたようで、いや、なにかを覚悟した目だった。


「ずっと考えていた。私がイレギュラーな旅人で、結弦くんは私がイレギュラーな旅人だったために願いが不完全なまま選ばれた旅人なら、結弦くんの旅の終わりはいつだろうって」


 僕も、同じことを考えていた。


 結論はひどく簡単なものだった。


「その考えが正しいなら、私の旅の終わりが、結弦くんの旅の終わりにもなるんだよ」


 力強く口にされる言葉たちは、これまでその口から聞いたこともないほど、熱を帯びていた。


「私は、この江宮神社を回帰するために、この世界に招かれたんだ」


 焼け落ちた江宮神社を背に、明日葉は告げる。


「ここは旅人を迎える神聖な場所。江宮島の人たちがみんな大好きで必要な場所。私にとっても、結弦くんとのつながり作ってくれた、大切な場所」


 日記帳を胸に抱えながら、明日葉はうなずく。


「私が力を使うのは、これが最後。わかるの。これが、私に与えられた役目。私にしかできないこと。私が必要とされていること。これで、私の願いが叶う」


 それを実行することがどういうことかわかっていながら、それでも明日葉は笑う。

 旅人は、自分の願いが叶うそのときを、自分が与えられた使命を果たすそのときを、知ることができる。


「私、本当に幸せだった。自殺なんてバカなことをした私に、他の人には絶対にないこの時間を作ってくれた神様に、本当に感謝してる。結弦くんや葵さん、栞ちゃんたちにも、たくさんたくさん感謝してるので」


 非在化は止まらない。明日葉の言葉に聞き入っている間にもそれは止まらず、自分の存在が消えていく。


「ごめんね。結弦くん。私の願いに、巻き込んじゃって」


 その言葉が、なにもかもを決定づけている気がした。


 僕の非在化が、僕の願いも意志もすべて関係なく、明日葉の一言で始まった。

 明日葉が自らの旅の終わりを告げたから、僕の旅は終わったのだ。


 ああ、きっとこれだ。明日葉も感じているものはこれだ。

 理屈ではない。旅人として生きてきた時間が、真実だと叩きつけてくるような感覚。



 僕は、だった。



「……謝らないでよ」


 ようやく絞り出せた声は、震えていた。


 込み上げてきた熱が、まぶたを通じて外に出ようとする。けどそれを、必死に抑えこんだ。


「僕は、江宮島に旅をすることができて、よかった。旅人として、明日葉と一緒に旅をできたことが、本当に楽しかった」


 伝えたいことはもっともっとあるのに、限られた時間では口にできる言葉も少ない。


 もう、明日葉の姿もおぼろげにしか見ることができなかった。


「この世界で、僕は変われたんだ。明日葉に出会えて、変われたんだ。たとえ、願いがなくなったって、この世界で僕がやるべきことがなにもなかったんだとしても……っ。僕は、明日葉に出会えたことを、明日葉と旅ができたことが、本当に――」


 その先は、言葉にならなかった。


 明日葉は笑う。ずっと僕を迎えてくれた笑顔で、優しい笑顔で。

 明日葉は僕の胸元に目を向けた。そこには、明日葉がプレゼントしてくれたダブルループのネックレスがある。


「これ、結弦くんに持って帰ってもらえないのが、残念なので」


 こともなげに、日常会話でもするように肩が落とされる。

 それでも、明日葉は両手を僕の胸に添えたまま、また笑う。


「結弦くんの願いは、ちゃんとここにあるはずだよ。今はまだわからないかもしれないけど、ずっと神様に願い続けてきたんだもん。私たちの世界で、この世界で、私と同じように。だから、結弦くんの旅が終わったら、今度は結弦くんの願い、ちゃんと探してみてね」


 その言葉に応えようと、握っていた明日葉の手に力を込める。

 だけどもうほとんど実体を失っていた僕の手は、明日葉の手をすり抜けていった。


 虚しく空を切った拳を、力なく握りしめる。


「最後に、一つ約束」


 意味も価値もない僕の手を、明日葉が両手でそっと包み込んでくれた。


「結弦くんはもう、これまでみたいに自分を犠牲にしないこと。結弦くんが痛いことは、結弦くんとつながりがある人だって、みんな痛いんだからね。嫌なことは嫌と言って、やりたくないことはやりたくないって言えばいい。誰かになにかをしてほしいときは、ちゃんと求めればいいので。わかった?」


「…………わかった。約束するよ」


 僕が明日葉にできることなんて、もう幾瞬も残されていなかった。


 ただ、ささやかな約束と言葉をかわす、程度しか。



「結弦くん、ありがとうなので」



 これまでとは違う笑み。


 最後に見た明日葉の笑みは、なぜか様々なものを複雑に絡み合わせた、ジグソーパズルのようだった。


 僕が言葉を返すより先に、眩い光が、視界すべてを埋め尽くす。



 こうして僕の旅は、終わりを迎えた。

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