旅の終わり ー3ー

「はぁ……はぁ……」


 息を荒くしながら、明日葉は急な斜面に足を進める。


「大丈夫? すごい汗だよ?」


 明日葉は今にもぶっ倒れそうなほどふらふらしながら、横か縦かわからない方向に頭を振る。


 僕たちは今、一つの山に登っていた。

 江宮神社がある山は江宮島で最も高い山で、今登っているのは二番目の山だ。僕たちはその山頂を目指していた。


「わ、私、江宮神社に登るようになって、体力ついたと思ってたけど、まだまだ甘かったので」


 膝に手をつきながら、ぜぇぜぇと息を吐くその姿は見ていて痛ましい。


 肩をすくめて苦笑しながら登山前にあらかじめ買っていた水を手渡す。


「だから途中までロープウェイで登ろうっていったのに」


 この山は頂上付近までロープウェイが伸びているのだ。というよりほとんどの観光客はロープウェイを使い、登山道を上るのは登山客か挑戦者か変わり者だけだと聞く。僕たちは間違いなく最後のそれだ。


「だ、だって、せっかくのデート……だから、できるなら、一緒に登りたかった」


 普通のデートだとそんな汗水垂らす苦行はしないようなものだ。と思わずにはいられなかったが、明日葉の思いに僕はどこか照れてしまう。


 息を整えながら水をまた一口飲み、明日葉は恨めしそうに僕を見上げる。


「ゆ、結弦くんだけ、ずるいので、なんで、そんなに平気なの……。この、体力おかけ……っ」


「姉さんに東西南北秘境魔境に連れ回された僕を舐めてもらっちゃ困る。言っておくけど姉さんは僕以上の化け物だ」


 あの人はふらっと立ち寄った場所で山道を見つけたら、せっかくだから登ろうと僕を連行する。登ってみれば標高千五百メートルのガチ山で、頂上まで数時間かかる道のりだった。街に遊びに出るような軽装で登る僕たちを、登山家さんたちは本気装備で心配してくれたり、珍妙な眼差しを向けたりなどの対応をしてくれたものだ。死ぬほど恥ずかしかった。


「あっ……」


 不意に、明日葉がずるっと砂の上に足を滑らせバランスを崩す。


 僕はすぐに倒れる前に受け止めるが、同時にびりっとなにかがちぎれる音がした。

 明日葉の肩からショルダーポーチがずり落ちそうになり、明日葉は地面に落ちる直前に受け止めた。


「ああっ! 鞄がぁ!」


 見ると、ショルダーポーチのストラップが金具の辺りからちぎれてしまったようだ。バランスを崩した際にどこかに引っかけでもしたようだ。


「うう、リボンに続き鞄までぇ……。私、なんでこうドジなんだろう……」


 汗だくの顔で涙目になりながら、ショルダーポーチを抱えてきょろきょろとする。


「まあまあそうへこまずに。どうする? ここじゃ人目につくから、下に降りてから直す?」


「直す? ああ、うん。たしかに回帰を使えば簡単だけどね。これくらい大丈夫なので」


 明日葉はそう言うと、近くにあった大きな岩に腰掛けて、しゅばしゅばっと手を動かす。

 ちぎれたストラップは端だったので、端を残った金具に器用に結んでいた。


「ふふん。これくらいじゃ私の家事スキルは突破できないっ」


 自慢げに言いながらショルダーポーチを背負い直し、確認して問題ない様子にご満悦だ。


 相変わらず手先器用だ。


 しかしずいぶん体力がぎりぎりなようだ。

 空元気で取り繕っているが、再び歩き出そうとするとまたふらりと体が揺れる。


 仕方なく、明日葉の手を取った。


「ほら、手を引くからもうちょっと頑張ろう」


 明日葉の顔が赤くなったのは気のせいではないはずだ。


「ゆ、結弦くん、ダメなので、私、手汗ひどいから……っ」


「さすがに手汗くらい僕でもかいてる。このまま歩かせたらうっかり転がり落ちていきそうだから。ゆっくり休憩しながら登っていこう」


 明日葉は恥ずかしげに俯いてしまうが、やがてこくりとうなずいた。


 僕が少し先を歩き、明日葉のペースに合わせて手を引いて登っていった。高所になれば幾分か気温も低くなり、風を吹いて涼しくなる。正直少し無謀ではあったが、休憩を挟みながら僕たちのペースでゆっくりと山頂へと向かった。


 道中、明日葉は緊張しているのかただ口を開く元気もないのか終始口数が少ない。僕もなるべく体力を使わせないよう専念していた。


 登り始めて二時間くらいたったころ、ようやく頂上に到着した。


 山の頂上には展望台が造られている。


 空は茜色に染まっていた。

 夏至を少し前に向かえ、今は夏真っ只中。

 雲が散りばめられた空を、地平線の彼方に沈み行く太陽が暖かく染めている。


 すでにロープウェイの運行時間は過ぎており、本来この時間、下山の都合もあるので展望台は閉鎖されている。真夜中に下山するのは相当危険だからだ。


 だけど事前に明日葉が葵さんと展望台の管理人に掛け合っていたようで、特別に夕陽が見える展望台に入ることができた。上は十メートル四方の展望スペースで、周囲をぐるりと柵が囲っていた。その向こうには三百六十度パノラマを見渡すことができる。僕たちの他に人はいない。貸し切り状態だった。


「ふぁ……すごい景色なので……」


 明日葉も来るのは初めてらしく、目の前に広がる光景に息を漏らしていた。


「本当に、綺麗だね」


 緋色に染め上げられた世界。


 僕たちが先刻まで歩いていた街はずっと眼下にあり、江宮神社がある山もずっと遠くだ。


 そして江宮島ではない場所の大地。海岸線から遙か遠くに見えていたそれも、ここからははっきりと見える。江宮島から真っ直ぐ伸びる長い橋。僕がそれ以上進めなかった橋の先に、広大な大地が広がっている。

 江宮島は日本本土の南にあり、展望台から見渡せる範囲だけでもいくつも街が見受けられる。


 だけど、本土に行くことはできない。

 神様が僕たちを江宮島に招いてくれる加護は、僕たちとこの世界をつなぐ縁であり、枷でもあるのだ。


「私、結弦くんに会えて、よかったので」


 ぽつりと、山風にもかき消されそうな声で、明日葉は呟いた。思わず出てしまった言葉なのか、咄嗟に口元を押さえている。


 僕は笑い、空を見上げる。


「僕も、明日葉と会えてよかったよ。一緒に旅をできたのが、明日葉でよかった」


 旅人は本来一人。でも僕には、一人の旅なんて想像できない。この夢の世界への旅は、明日葉がいたからこそ、ここまで素晴らしいものになっている。一人なら、どうなっていたことか。明日葉が見つけてくれなければ、もしかしたら葵さんたちが僕の存在を見つけられず、まだ一人江宮島をさまよっていたかもしれない。


「僕、やっぱり旅をするよ」


 明日葉が僕の方を向く。


「もっともっと、世界を見てみたい。僕が知らない場所に行きたい。まだ会ったこともない人に出会ってみたい。それから、それから……」


 その先になにか言葉を続けたいのに、それでその先は言葉にはなってくれなかった。つないだままだった明日葉の手をきゅっと握る。


「……前に、話したことあるよね。夢の話」


 突然、明日葉は口火を切った。


 僕が首を傾げて戸惑っている様子におかしそうに笑みを浮かべ、明日葉は大きな大地へと目を見える。


「普通の、大人になりたかったので」


 努めて明るく、明日葉は笑う。


「私ね、自分が住んでいた街の外に、ほとんど出たことないんだ。都会も都会だったから大抵なんでもあって、それに生活もいっぱいいっぱいで。だから私は街の外に出てみたかったので。子どもじゃ無理だけど、大人になったらどこまでも自分の足でいけると思ったから。自分の知らない世界を訪れて、知らない人に出会ってみて、自分の世界を、広げたかった」


 以前僕が言った、車で旅をしたいというものと近いものだった。


「なんの意味もなく、しがらみもなくって、ただ自分のやりたことが素直にできる、そんな大人に、なりたかった。それが私の、夢だったので」


 明日葉の夢。

 それは、普通に生きてさえいれば多くの人が手に入れられるものだった。

 望みさえすれば、成長とともに経験できるものだった。

 明日葉は、意味もなく夢を持つような子ではない。

 そんな夢を切望するほど、明日葉は未来を見ることができない環境下で過ごしていたんだ。


「それから今は、今の夢は私も、また……」


 明日葉はくしゃっと顔を歪めた。そしてその頬を、すっと雫が流れていく。


「また結弦くんと、旅がしたかったので……っ」


 言葉が、過去になった。


 明日葉は首を振って、手の甲で目元を拭う。


「ごめんね、結弦くん。実はね、今日、旅人お仕事に二つ依頼が来てるんだ」


「依頼が……?」


 穏やかな泣き笑いのような表情を浮かべたまま、明日葉はうなずく。


「私と結弦くんに、それぞれ一つずつ。その依頼が、きっと私たちの、最後のお仕事」



 運行時間を終えていたロープウェイで街まで降りると、ロープウェイ乗り場で葵さんと栞ちゃんが待っていた。


「お待たせしました」


 予定通りだったのか、明日葉はそう言って葵さんたちに声を掛けた。

 街に戻ってきたころにはすっかり日が沈んでおり、一面の闇夜だった。月明かりもなく、街の灯りだけが僕たちを照らしていた。


 いつも穏やかに微笑んで僕たちを迎えてくれていた葵さんの表情が、悲しげに揺れる。


「もう、いいんですか?」


「はい、私には十分すぎるほどの時間でしたから」


 そう笑う明日葉はどこかすっきりした顔をしていた。


「明日葉姉……」


「大丈夫だよ。栞ちゃん」


 心配そうに見上げる少女の頭を、明日葉がそっと撫でる。


 和やかな、いつものやりとり。


 だけどなにか、嫌な空気だった。


 ふと、視界のすみで誰かが近づいてくるのが見えた。葵さんたちから少し距離を取って、スーツ姿の男性が五人ほど立っていた。軒並みがたいがよく、とても一般人には見えない。

 そのうちの一人には見覚えがあった。


「……警察の人?」


 以前、商店街でひったくり犯と一悶着あったときに応対してくれた人だ。礼儀正しい人で、僕が旅人であることを理解した上で丁寧に対応してくれた。たしか階級は警部。


「こんな遅い時間に申し訳ない。手続きに時間がかかってね」


 警部は低い声とともに頭を下げる。


 葵さんと栞ちゃんはそっと脇に避け、歩み寄ってきた警部は僕に向かう。


「君の力を借りたい。旅人としての力を」


 そう言って差し出されたのは、チャック付きの袋。中に収められているのは、親指より少し大きいくらいの無骨な黒い塊。


「わからなければそれで構わない。だけど、これの持ち主をたどることができるなら、試してほしい」


 あまり詳しい事情は話したくないよう様子。なんらかの捜査、のようだった。


 重い雰囲気。ただ事ではない。葵さんや栞ちゃんはもちろん、明日葉も口を挟むことはない。

 なにか知っている。僕がいない間。おそらくは昨夜になにかがあった。それだけはわかった。


 僕が口を挟める空気ではなかった。


「……直接触れなければわかりません。それでも、よければ」


 証拠品ではあるのだろうが、すでに話はついているのかすんなり了承してくれた。


 ペリドットのプレスレットをつけた左手の指で、差し出された黒い塊にそっと触れる。


 持ち主までのユカリを。


 意識するとすぐに、緑色の糸がふわりと浮かび上がった。

 人が通ることができる道に沿って、ユカリはずっと遠くまで伸びている。


 もし仮に、つながりを示したその先に人がいたのなら、決して近づかないように厳命された。


 明日葉たちは危険だからと、僕だけが警部さんたちに同行を促された。



 ユカリが伸びていた場所は、僕が知っていた場所だった。


 この世界に来て間もないころ、行く当てもなかった僕が世界を行き来するために眠りについていた、誰も住んでいない廃屋だ。


 ユカリは、立て付けの悪い扉の隙間を通り、廃屋の中へと伸びていた。


 警部さんたちにそれを伝えると、僕の側に一人だけ残し、残り四人はライトと警棒を手に廃屋に近づいていった。


 警部さんたちが中に入ってしばらく、一瞬廃屋の中が騒がしくなった。ものが倒れる音、なにかが壊れる気配。


 だけどすぐに、しんと静まりかえる。

 すると廃屋の中から、警部さんたちに押さえつけられて、手錠を掛けられた一人の男が連れ出されてきた。


 僕は、驚いて目を剥く。

 

 その人物は以前、商店街でひったくりをしていた男だった。



 警部さんは僕にお礼を言って、警察官さんの一人に僕を伏見さん宅まで送らせてくれた。


 明日葉、葵さん、栞ちゃん、三人とも外で僕を待っていた。


 ちょうどそのとき、送ってくれた警察官さんの無線に連絡が入った。僕らから少し距離を取り、途切れ途切れに会話が聞こえてくるが、内容はわからない。


 やがて警察官さんはこちらに戻ってきて、葵さんに向かう。


「ご協力、感謝します。やはり、間違いないようでした」


「……そうですか。わかりました。ありがとうございます」


 僕にはなんの話か見当もつかなかったが、葵さんは理解したようだった。


 警察官はすぐに踵を返して帰っていった。


「……どういうことだったんですか?」


 踏み込んでいいのかわからなかったが、それでもたまらず尋ねる。


 葵さんはきつく口を結び、なにも言わない。栞ちゃんも、視線を逸らすだけ。


「私が説明するので」


 そう言ったのは明日葉だ。


 明日葉は、葵さんたちから軽快な足取りで離れる。


「もう江宮神社に入れるはずだから、日課の参拝、しよ」

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