後悔 ー1ー
教室から見上げる窓の空は、取り立てて特徴のない青空だ。だけど普段よりもくすんでつまらないものに見えてしまう。
教室では頭皮の薄くなってしまった先生が、いかに過去の偉人が素晴らしいかを熱弁している。クラスメイトたちは偉人たちにそこまで熱を燃やすことができず、話半分に聞いている。
かくいう僕も、ノートの上にシャーペンを転がしたまま、窓の外に視線を逃がしていた。
明日葉の口から真実を知らされることになったのが、五日前の金曜日のこと。
僕は翌日、体調を崩した。土曜の昼に目を覚ますと、すでに熱っぽかった。洗面所まで歩くだけでもふらついてしまって、そのまま座り込んでしばらく動けなくなったほどだ。姉さんが家を空けているときでよかった。
熱がようやく下がったのが水曜日。今日になってやっとこさ登校できたのだ。
風邪を引いた期間は、江宮島に行かなかった。というより、風邪を引いたと伝えた土曜日に、今すぐ帰るように厳しく止められたのだ。葵さんを始め、栞ちゃんや明日葉にもきっちり言い含められた。夜遅くまで残っていたこと、連日の旅で疲れがたまっていることは間違いない。だから風邪が治るまで旅禁止と厳命されたのだ。
基本的に、一時的に抱えている異常、たとえば風邪や怪我などがそうだが、そういったものは世界を渡る際になかったことになる。
明日葉の言っていた、体の傷と同じ。
江宮島に僕が行っても、風邪の症状は微塵もなかった。
しかし当然だが、自分の世界で風邪引き小僧が完治しているわけもない。
江宮島では僕の風邪が治ったのかどうかは判断できないので、誤魔化すこともできたはできた。だけど明日葉の話を聞いたばかりの手前、顔を合わせにくく、心の整理をする期間としてはちょうどよかったのだ。
「はぁ……」
そっとため息を一つ落とすと同時に、チャイムが鳴った。
教科書やノートを机の中に入れようとして、入らなかった。机の中には丸められたゴミやら雑巾が大量に詰め込まれている。
今朝もまだ本調子ではなく、登校は始業ぎりぎりになってしまった。一日中ぼんやりしていたので机の整理もできていない。
仕方なく教科書類を鞄に入れる。
ホームルームが終わるなり、重い体を起こしながらそそくさと席を立つ。
だけど足を扉に向けるより早く、前の席の女子生徒がクリアファイルに入れたプリント類を差し出してきた。
「あの、出雲くん、これ、昨日までのプリント、なんだけど……」
「わざわざ取ってくれてたんだ。ありがとう」
お礼を言いながら受け取る。机に入れることができなかったからまとめてくれていただろう。
クラスメイトの女の子は申し訳なさそうにまゆを下げる。
「ご、ごめんね、ホントはもっと早く渡そうとしてたんだけど」
「いいよいいよ。取っていてくれただけでも嬉しいし助かるよ。本当にありがとうね」
もう一度お礼を重ねると、今度はちゃんと安堵したように笑ってくれた。
以前ならこんな風にクラスメイトから厚意を向けられることはなかった。だけど最近は次第に変わってきている。接してくれる人も増えている。それがいいのか悪いのかは、まだわからないけど。
「いやぁ、本当なら私がするよっていったんだけど、この子が自分で渡すって言い張ってねぇ」
笑いながら近づいてきた葉月は、恥ずかしそうに頬を染める女子生徒の頬をツンツンと推す。
「それにしても放課後までかかるとは思わなかった。もう少しで私が口を挟むところ――」
「は、葉月ちゃんは黙っててぇっ!」
もうずいぶん言ってしまったあとだったが、大慌ててでおしゃべりな口がふさがれる。
僕は乾いた笑いを浮かべながら、なんと答えていいか迷う。
「じゃあまだ病み上がりで風邪をうつしてもよくないから、早めに帰るね。プリント、本当にありがとう」
言って、僕は教室の外へと足を向ける。
しかし、廊下に出るより先に、そいつは立ちふさがった。
「おいおい、出雲、学校休んで出てきたのに、友だちに挨拶もなしかぁ?」
ねちっこい言葉を吐きながら、扉に足を掛けて進路を富岡は嗤っている。
僕はプリントを収めたクリアファイルを鞄に入れながら、深々とため息を落とす。
「富岡、君はもともと友だちでもなんでもないでしょ。邪魔だから、どけよ」
気がつけば、そんな言葉が口から漏れていた。
富岡の目が一瞬動揺に揺れた。瞬間、クラスの空気がざわりと波打つ。
これまで僕は、富岡たちからの嫌がらせに対してほとんど反抗を見せなかった。当たり障りなく、問題がないよう受け流すだけ。
でも別のことで頭がいっぱいだった僕は、いつものように仮面を貼り付けることができなかった。咄嗟に僕の口から吐き出されたのは、僕の素の言葉。
わずかばかり面をくらったようだが、富岡はすぐに鋭く目を細める。
伸ばされた腕が僕の胸ぐらを締め上げた。
「お前最近調子にのってんな……。てめぇみたいなゴミが、俺にたてついていいと思ってるわけ?」
怒気が込められた害意が、はっきりと向けられる。懐かしい感覚だ。人前でこんな感情を向けられるのはいつ以来だろうか。
明日葉もそうだったのだろうか。
両親とうまくやることができず、周囲から君ならどうにかできたと必要を強いられ。苛烈な仕打ちに遭い、感情に押しつぶされ、耐えきれなくなってしまったのだろうか。
吐き気がする。
僕はそういうことに無頓着だ。自分に向けられる感情に抑圧されるということが、他の人より少ないのだと思う。
元々この環境だって、僕が自ら築きだしているものだ。この二年生のクラスになって、富岡が誰かをいじめのターゲットにしようとしたことを気取った瞬間から、意図して創り出したもの。
だからこれまでだって受け流してこられたし、今だってそうすることはできた。
でも――
胸ぐらにある、富岡の手をつかむ。
腕に力を込めると、骨が軋むような音とともに富岡は顔をしかめた。
「あのさ、そろそろ、僕に意味もなく絡んでくるの、やめてもらえる? 富岡のつまらない行動に付き合うの、そろそろ面倒になってきたんだよ」
口から吐き出されたのは、真っ向から富岡を否定する言葉。
目を見開き呆気にとられる富岡。クラスメイトたちがざわめいた。
だけど、そんなものに構うことなどできるはずもない。
富岡の手が緩んだところで払い落とす。
僕はそれ以上構わずに、富岡の脇を通り過ぎ、教室をあとにした。
頭の中も心のうちも、あちこちがどろどろとした得体の知れないものに埋め尽くされていた。
弱いうさぎの着ぐるみをかぶることはできる。でも僕はいつだって脱ぎ捨てることができるのだ。
だけどもし、僕にそれができなかった。
その先に行き着くものがなんなのか考えると、どうしても抑えきれない情動が沸いてくる。
自然と、足の進みが早くなかった。
「結弦、最近、なんかあった?」
キッチンで料理をしていると、いつの間にかリビングに出てきていた香澄姉さんがそう問いかけてきた。キッチンとリビングの間にあるカウンターに両腕を乗せ、僕の方をのぞき込んでいる。
僕はおたまでポトフをかき混ぜながら、首だけ動かして振り返る。
「僕としては姉さんがこんな時間から正常な意識を保っている方が驚きだね。なんかあった?」
「……さらりと失礼なこと言うわね。そんなことばっか言ってると、寝込み襲うわよ」
どうにかいつも通りの軽口を叩きながら調理を続けてみるが、姉さんは僕の後ろから動こうとはしなかった。夕食で出される料理を待っているわけでもなく、かといって動くつもりもないようだった。
沈黙が肌を刺してぴりぴりと痛く、耐えきれずに口を開いた。
「姉さんはさ、あのとき、あんなことをしなければよかったのにって思うこと、ある?」
一切思考せず口を開いてみれば、突拍子もないことを吐いていた。
いったいなにを言っているのか、姉さんには見えないように自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「ああしていればよかった、じゃないのね」
姉さんはなんともなさそうに呟いた。
言われて、たしかにそうだと思った。
二つは同じようで、明確に差違がある。
やったことに対する後悔と、するべきことをできなかった後悔。
僕が聞きたかったのは、どっちだったろうか。
「私のあんなことをしなければよかったってのは、書いてた小説をうっかり気の迷いで新人賞に応募しちゃったことかなぁ」
リビングのカウンターに上半身を投げ出して、この世の終わりのようなため息を漏らす。
「あのとき新人賞なんて取らなければ、今でも実家で自堕落な生活ができていたのにぃー……。小説は趣味で書き続けてればよかったのにぃ……」
駄々っ子のようにじたばたしながら、ごろごろごろごろーっと机の上をのたうち回る。口々に編集者や出版社への恨み辛みを垂れ流す。
「そ、そんなことお外で絶対に言っちゃダメだからね。ファンが幻滅しちゃうよ」
編集者の意向でサイン会や献本などでファンサービスも行っている姉さんは、小説だけでなく作家である姉さん本人も人気者だ。弟のひいき目なしでも、性格をのぞけば美人だ。全力で断っているらしいが写真集の提案もくるほどプロポーションもいい。
「ファンなんて、いいやつばっかとは限らないわよ」
どこから取り出したのか、ぱさーっと机の上にハガキやら封筒やらが広げられる。
「見なさいよこのファンレターの山。普通なら一度編集部に送るものなのに、直接届くのよ」
「んー? なにストーカー?」
「いや、作家仲間とか? さすがに読者のファンにこのマンションの住所が知られることはないんだけど、作家仲間には知られててねぇ。今度ご飯に行きましょうとか、小説談義しましょうとか。TRPGやりましょうとかゲームしましょうとか」
かなり直接的なアプローチだな。おそらく、姉さんはスマホで連絡を取りたがらないから直接文書を送りつけているのだろう。
「でも中にはハガキとかもあるわね。送り主も住所も書かれてない。どこの人からか知らんから、いかんともしがたいんだけど。実害もないし」
とんだシャイボーイだ。でも作家仲間とは言え、香澄姉さんと話すことが緊張するのは理解できる。こんな雑な扱いができるのは姉弟だからだ。
「あとは下着やら髪の毛やらも名前なしで来るかな」
「通報だ通報。警察に届けてよ」
「あははは、冗談冗談」
どこからどこまでが冗談なのか。本当にやられてそうで困る。
ふっと笑って、姉さんはカウンターに仰向けになる。
「で、結弦は今なにか後悔してるわけね」
そんなギャグみたいな状態で、どこまで本気で話を聞いてくれているのか甚だ疑問だ。姉さんは僕に目を向けることなく尋ねてくる。
後悔、という言葉が正しいのかはわからない。
僕が知らないところで、おそらくは一年とたたない以前に、この世界で一人の女の子が自死している。僕が訪れたことがない場所で、生涯出会うはずもなかった少女が。
ずっと、考えてしまう。
どうすれば、救うことができたのだろうと。
僕がどんな行動をとって、あるいは発言して、なにかを起こしていれば、少女を救える道があったのではないかと。
わかっている。万に一つも、そんな可能性なんてなかったことは。
僕は、自分の身の回りのことでさえ満足になにも為せない、ただの一高校生なのだから。
僕が答えることなく黙って調理を続けていると、姉さんは少しだけ声のトーンを落として口を開いた。
「後悔ってさ、つまるところ現在に不満がある人しかしないものだと思うのよね」
「現在? 後悔って過去を悔やむものじゃないの?」
「後悔は過去の過ちや失敗を悔やむものだけど、今現在に不満がない人はそもそも後悔をしないものよ。いくら過去が無茶苦茶でも、今がかつてないくらい充実している人は後悔なんて頭をかすめもしない。人の頭はそれくらい都合がよくできている」
人間という生き物をバカにするような口ぶりではあったが、それでもその口元は優しかった。
「後悔について考えているなら、今、どうにかしなければいけないものがある。過ちへの贖罪だったり、償いだったり。どうしようもない後悔なら、これから自分がする選択の教訓になる」
出雲香澄という一人の小説家は、僕に顔を向けることなく、それでも姉を思わせる声音で言う。
「結弦がなんで悩んでいるのか、深く聞いたりしない。けどたとえば、中学のころのこととか、最近のことでもなんでも。結弦がなにかを後悔について悩んでいるなら、きっと今、結弦になにかしなければいけないことがあるんでしょうね」
「……そうなのかな。僕に求められるものなんて、きっとなにもないと思うんだよ」
僕という旅人が明日葉という旅人が異常だったために誤って招かれた存在だとするならば、僕にできることは万に一つもない。役割を持たず発言権も用意されていない、ただの背景だ。
願いがわからないのも当然と言える。そもそもまともな旅人でさえなかったのだ。
本来旅人に与えられる使命さえも、きっとない。
願いが叶えるときが旅の終わり。
その理が変わらないのなら、僕の旅の終わりはきっと……。
姉さんはぐるりと体を回して、僕の方を向く。
「自分のやろうとしていることに、誰かに望まれているかどうかは関係ないでしょ。やっていいかの問題は別としてね。できるかできないか、じゃない。やるかやらないかの選択よ。その選択で、もしかしたら後悔するかもしれない。でも後悔はただの結果。やらない理由にしちゃだめよ」
「でも姉さんは小説家になったこと後悔してるんでしょ? それはよかったと思ってるの?」
「私? 私は別に小説家になったことを後悔はしてないわよ」
「いやさっき、新人賞取らなければよかったって」
「それは後悔とは別。たしかに新人賞を取らなければ実家で自堕落な生活ができたとは思うけどね。小説家やってるおかげで、こうやって結弦と二人っきりでいちゃいちゃできてるから、現状には大満足よ」
弟として反応しにくいことを言って、そして姉さんは笑う。
「結弦も男の子なんだから、とりあえず主人公っぽい選択を取りなさい」
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