真実 ー4ー

 星が降る夜だった。街の中でもびっくりするぐらい見える流星が、空を幻想に彩っていた。


 もう自分がなにをしているのか、なにを考えているのかさえわからなくなっていた。


 私が通う高校の屋上。

 月明かりもない。闇の深い夜空。凍えそうに寒い日だった。

 深夜の校舎。

 誰もいない。

 引き留めてくれる人も、必要としてくれる人も、この世界のどこにだっていない。


 その日、私の心のどこが壊れてしまった。


 逃げ込むように忍び込んだ高校で、たまたま屋上へと続く鍵が壊れているのを見つけた。

 高校のセーラー服に、首にマフラーを巻いただけの簡素な格好で。その日にいつも通っている神社で偶然拾った、白紙の日記帳を手に。


 気がつけば、私の背よりも高いフェンスを乗り越えていた。

 こんな街中で、邪魔な光がひしめき合っているこの場所で、そもそもまともな星空なんて見えるはずがない。それでも私が最後に見た星空は、今まで見てきたどんな星空にも負けない、信じられないほど綺麗な空だった。


 きっと、神様が私を祝福してくれているのだと思った。

 私の最後に、素敵なものを見せてくれているのだと思った。


 だから、さして迷わなかった。


 ほとんど考えることもなく、外壁を蹴っていた。

 綺麗な空に手を伸ばしたまま、私は、落ちていく。

 空を瞬く流星が、世界に、私に降り注いだ。


 それが、私が私の世界で見た、最後の光景だった。



「私、自殺したんだよ。自分が通っていた高校の屋上から、飛び降りた」


 こともなげに自らの死を語る少女。

 これまで見たどんな表情よりも、空っぽで冷たかった。


 頭のどこかで、違和感は覚えていた。


 僕は、明日葉が江宮島にいない時間を、一時さえ知らない。一瞬さえ、明日葉がこの世界に存在していないという時間を認識できたことがない。

 僕より先に江宮島に来ていて、江宮島に最後まで残っていた。


 違ったんだ。明日葉は、江宮島から出ることができない旅人だった。


 明日葉の手がゆっくりと、肩から提げているポーチに行く。慣れ親しんだ動作で取り出されたものは、叶明日葉の御守である白紙の日記帳。


「ちょうどその日にね、この日記帳を拾ったんだ。私が通っていた神社の境内に、ぽつんと落ちてたの。一度はすべてのページに文字が書かれていたはずなのに、全部消していた。なんかそれを見て、思っちゃったんだ」


 自分のことであるにも関わらず、さしてなんともなさそうに、少女は笑う。


「ああ、この日記を書いた人も、自分の過去を消したかったんだって。一度は自分の思いをつづったものでも、すべてを消したんだって。私も、同じだった。全部全部、自分を消してしまいたかった」


 どこにも向いていなかった目線が、ふっと自分の指先に行く。


 星空に、手がかざされる。

 指先から、さらさらと砂がこぼれるように光の粒子が舞っていた。存在が少しずつ消えていっているように、削り取られているように、少しずつ、少しずつ、溶けていく。


 非在化ひざいか

 本来それは、旅人が旅を終えるときに起きる現象らしい。

 願いを叶え、使命を果たし、旅を終えた旅人は、体が光の粒子になって消えていく。

 それが非在化。


 だけどもう一つ、非在化が起きる場合がある。

 それが、旅人が何日にもわたって江宮島に留まり続けたときだ。

 旅人はもともと、この世界の人間ではない。長時間江宮島にとどまれば、少しずつ拒絶反応が起きるようになる。その初期症状が非在化であり、体が存在を保てなくなってこぼれるように光になっていく。やがて睡魔に襲われて意識を保てなり、そして強制的に自分の世界に戻される。この現象自体は、どの旅人であっても起きることだそうだ。


 それでも明日葉は、ずいぶん長い間非在化が起きなかったそうだ。これまでのどの旅人よりも長い間、それこそ数ヶ月江宮島に留まっていながらも、非在化が起きなかった。


 だがたとえ特殊な旅人であったとしても、やはり非在化は始まってしまった。

 最初は数週間に一度などだったそうだが、今はもう、僕に隠せない頻度で起きているらしい。


 空に向けられた手から漏れていた光が止まる。


 明日葉はふっと笑みをこぼすと、シャツの襟に手をかけた。上のボタンを少し外し、わずかばかり首元が見えやすくする。


 なにかあるのかと勘ぐったこともある明日葉の首元。だけど下げられたシャツの襟の下には、やはり白い肌があるだけだった。

 しかし、明日葉はまるでそこになにかあるように、そっと指を滑らせる。


「最初にこの世界に来てよかったと思ったことはね、体の異常が、ある程度修正されるってことだった。私の体ね、向こうの世界で死んだときは、こんなに綺麗なものじゃなかったので」


 明日葉は、薄い笑みとともにうなずいた。



「……首を絞めたあとが、あったんだ」



 明日葉の実父は、明日葉が子どものころに家を出ていったらしい。それっきり、母親と二人で暮らしていたそうだ。


 しかし、女手一つで明日葉を育てることを難しく感じたからか、もしくは普通に愛があったからかはわからない。明日葉の母親は、数年前に一人の男性と再婚した。


「お義父さんもバツイチだったんだけど、子どもはいなくて、私たち三人での生活が始まった。最初はね、すごくよかったんだよ。お義父さんは優しいし真面目だったし、私にもよくしてくれた。なにより、お母さんが幸せそうで、それだけでも、私はよかったなって思えてたので」


 だけどそんな生活も、長くは続かなかった。


 初めのきっかけは、義父の勤めている企業での業績が芳しくなくなったことらしい。

 それからだという。義父が、明日葉と明日葉の母親に暴力を振るうようになったのは。

 時々は粗暴な振る舞いをすることもあったそうだが、仕事がうまくいかなくなり、石が崖を転がっていくように悪くなっていたらしい。


「もしかしたらそういうことを相談できたり打ち明けたりする、兄弟姉妹とか親戚とかいれば、なにか変わったのかもしれないけどね。お母さんもお義父さんも、あまり親戚付き合いもなかったので」


 明日葉は自らの体を庇うように、腕をさする。


「初めは、私がよく叩かれたり、ものを投げつけられたりしてたんだ。でもお母さんは私を庇って、いつからか、お母さんばっかりがひどい目に遭うようになった」


 子どもで人の目につく場所に行っていた明日葉より、明日葉の母親が受けていた扱いの方が、苛烈なものになったらしい。

 ぶたれ、お金をせびられ、罵声を浴びせられ。昔は明るくよく笑うお母さんだったらしいが、次第にその顔に感情が浮かぶことはなくなっていったそうだ。


「そのころからかな。私が、神社に通うようになったのは。私みたいなのじゃどうにもできない問題ってわかってたからね。神様に毎日お願いをして、いろんなことを願って。神社の参拝の仕方なんて深く知らなかったから、なんとなくなやり方で手を組んで、神様に祈ってたので。今思えば不格好だったけどね」


 明日葉はそう言って笑うが、僕はとても笑みなんて返せなかった。


 いくら願っても、思いを重ねても、祈りを続けても、状況は悪くなる一方だったらしい。


 義父は会社を退職することになり、代わりに明日葉の母親が働かなければいけなくなったそうだ。明日葉自身が高校生になってから、明日葉自身も、アルバイトに出たそうだ。


「働かないわけにはいかなかったからね。お義父さんは働けなかったし、お母さんが働き詰めでも、生活もいっぱいいっぱいで。家事も含めて、私がやらないといけなかった。私なんかでもお母さんやお義父さんの役に立てばって、喜んでもらえたらって」


 以前アルバイトの話をしたときの口ぶり。なんとなくそのときから、喉の奥を突かれるようなひっかかりはあったのだ。


 料理や家事がやけにうまいのも、きっとそれは、明日葉が家族に喜んでもらいたいから頑張っていたことなのだ。


 しかしそんな生活も、一年と続かなかったらしい。

 明日葉の母親は、そのころには病院にも通うようになっており、うつ病だと診断されていたようだ。暴力を受けていることは周囲にも明らかで、警察へも相談が持ちかけられていたなんてことも、あとから聞いたらしい。


 ある日、明日葉の母親の糸は、ぷつんと切れてしまった。


 真夜中、疲れ果てて帰ってきた母親は、数時間にもわたり、義父から暴力と罵声を浴びせ続けられた。母親から向こうに行っていなさいと言われ、明日葉はそれを止めることができずに。

 喧噪が終わり、義父が住んでいたマンションを飛び出したあと、明日葉は母親に駆け寄った。


 一緒に泣き、いろんな思いを吐き出した。


「お母さん、もう休もう、ゆっくりしようって。私は声をかけたんだ。そしたら……」


 跳ね起きた母親は、明日葉の首に手をかけた。


 覆い被され、首元に手をかけられ、あざだらけの痛みと呪いに染まった両手で、細い喉を締め付けた。

 明日葉はわけがわからないままもがいたが、それでも、手は離れることがなく。


「お母さん、私の首を絞めながら言ったんだ……『あなた、いらないの』……って」


 すり減り摩耗した心は、ついに限界を迎えた。


 母親は、思い悩んでいた明日葉に言ってはいけない言葉を言ってしまった。 


 明日葉は月を映してきらきらときらめく水面に目を向け、また小さく笑う。


「でも、私は死ねなかった。えと、そのときの記憶は、あやふやなんだけど、目が覚めたら病院のベッドの上で。――お母さんは、マンションから飛び降りてた」


 首に、あざが残った。

 自殺した母親が明日葉へと残した、赤黒い楔を。


 それは江宮島に来ることでなくなっている。それでも、自分では直視することができない首元を気にしてしまうほどに、はっきりと明日葉に刻まれていた。それほどまでに、深く、深く。


 母親はかろうじて一命を取り留めたそうだ。だけど、いつ意識が戻るのか、もしかしたらもう二度と戻らないかという昏睡状態に陥ったらしい。


 母親が明日葉に無理心中未遂を計ったこと。義父が母親と明日葉にひどい暴力を強いてきたことは、すぐに公のことになった。


 義父は警察に逮捕された。母親のことを気遣った職場の人が警察に相談しており、逮捕状が出るところまで捜査が進んでいたらしい。


 他に身寄りのなかった明日葉は、一人で暮らすことになったそうだ。


 首元をなにかで隠さなければ誰の目にもわかるほどの傷が残った、出来事のあと。


 ニュースに取り上げられるほどのことにもなり、明日葉のことは高校でも地域でも、周知の事実になってしまった。


 みんな優しくしてくれる。同情してくれる。悲劇のヒロインとして扱われる。


「でも、みんな必ずといっていいほど言うんだよ。君なら、お母さんを助けてあげられたんじゃないの、お義父さんをどうにかしてあげたんじゃないの、って……」


「……っ」


 無責任な言葉に、僕の心は粟立った。


 僕は、その言葉を知っている。


 どこかで思い当たる節のあったいくつもの事柄が、少しずつ、少しずつ、パズルのピースがはまっていくように心地よく、胸くそ悪い感覚。


 自分の胸をかきむしりたい気分だった。


「しばらくしてお義父さんに会う機会があったんだ。高校の先生に付き添われてね。最後見たときから、別人かと思うほどやつれてた」


 直接的に明日葉の母親を手にかけたわけではないが、苛烈なDVをしていたことによる心因的要因のほぼすべては義父にある。警察からも手痛い尋問を受けたことは想像に難くないし、世間の風当たりは厳しかったはずだ。


「そのとき言われたんだ。お前が死ぬなら、まだよかったのに。お前なんて、誰も、必要としてないのに……って……」


 明日葉の言葉が揺れた。僕から顔を背け、なにかの感情を誤魔化すように乱雑な吐息を漏らす。冷たい熱を帯びた吐息は、夏夜に霞んで消えていく。


 叶明日葉は、どんなことでも器用にこなす女の子だった。料理や洗濯、掃除などの家事は当たり前にやり、人当たりもよく誰からでも受け入れられる雰囲気を作っている。

 それが、一人の少女が生きていくために身につけたこと。


 なぜなら、明日葉が神様に祈り続けてきた願いとは……。


 薄く笑みを浮かべたまま、明日葉は僕を見返した。


「初めて神社に通った日から、欠かさず神様に祈ってたんだよ? 毎日毎日神社に通って、誰かに必要とされる人間になれますようにって、絶対私も頑張るからって。お母さんやお義父さんの役に立てますようにって、必要とされますようにって。願いを、祈りを捧げ続けたので」


 海から運ばれてきた潮風が僕たちの体から体温をかすめ取り、そして江宮神社がある山嶺へと舞い上がる。


 でも、と明日葉の体から力が抜ける。


「それでもダメだったので。結局私は、私の世界では誰からも必要とされない人だったんだ。いらないもの、だったんだ。それで、全部がどうでもよくなっちゃったんだよね……」


 目を閉じ、薄いまぶたの下に過去の情景を思い出すように、そうささやかれる。どこか他人事のように、空っぽで、痛くて、泣き出したくなるほど鮮烈に。


 再び海から強い風が吹き上がり、明日葉の亜麻色の髪がふわりと舞う。髪を押さえる手が、わずかに震えていた。


 それ以上言葉を紡げず、吐息だけが力なく吐き出された。



 それがやってはいけないことだと知りながらも、明日葉は高校の屋上から身を投げた。



 心は疲弊する。精神は摩耗する。

 人の目には見えないものであっても、形なきものであっても、薄れ、削れていくものだ。


 僕自身も覚えがある。

 中学時代、三人のいじめっ子を障害が残る状態にまで叩きつぶしたとき。そんなことをする必要がなかったことなんて、今考えれば僕でもわかる。でもその後診察を受けた精神科の先生から、相当心が消耗している状態だったと診察を受けた。まともな思考能力を保てないほどに、ぼろぼろに。

 現に僕は、当時自分がなにを考えていたのかを、今ではよく思い出せない。


 結果だけが、罪として残っている。


 明日葉の母親も、そして義父も、きっと二人とも心が限界を超えてすり減ってしまったんだ。


 そして、明日葉自身も。


「私の回帰の力ね、巻き戻せる時間に限度があるってのは話したよね。私が江宮島に旅人としてやってきた、今からだいたい八ヶ月まで。当たり前なんだよ。こんなすごい力、生身の人間が使える力じゃない。私は、私が死んだその瞬間までしか戻せない。それが、私の回帰の使用条件なので」


 意識したわけでもないのに、僕の左手から、ふわりとユカリが舞う。


 明日葉の左手に伸びたそれは、明日葉にもしっかりと見えているようで、嬉しそうに、どこか愛おしそうにきらきらと光る碧糸を見つめている。


 ユカリが自然と消える。


 明日葉は両手を広げ、潮風を体一杯に浴びるようにしながら息を吸い、吐き出した。


「私の話は、だいたいこんな感じかな」


 また僕の方を向いたとき、そこにはいつもの穏やかな笑みを浮かべる少女の姿があった。


 先ほどまでの弱さをおくびに出さずに、声の震えも心に抱えた闇さえすべて、その綺麗な顔の下に押し隠して。


 これまでもきっと、ずっとそうだったんだ。


 旅人である少女の、元の世界を聞くというある種の禁忌に触れないようにしてきたがために、僕はこれまで、どれだけ……。


 以前、僕の過去を話したとき、言った。


 つながりがあるからって、必ずしも救いになるわけじゃないと。必要とされることが、必ずしもいいことじゃない。


 あんなこと、どうして言ってしまったんだ。



 明日葉が両手をぱちんと軽快に合わせた。


「はい。これで私の話は終わり。それじゃあ、さっきの続きをしようか」


 突然の言葉ではあったが、僕は明日葉の真実にまだ思考が追いつかないでいた。


 身じろぎさえできず、握りしめる拳が、なにをつかんでいるのかわからなかった。


 気づいているのか気づかないふりをしたのか、明日葉はショルダーポーチから手提げ袋を取り出した。僕が渡した誕生日プレゼント。いつの間にかポーチに入れてきたらしい。


「結弦くんも、持ってきてるよね?」


 明日から受け取ったプレゼントは、僕もパーカーのポケットに入れている。突然の事態にそのまま持ってきていた。


 ポケットから取り出した小さな箱。白い包装紙で丁寧にラッピングされ、細い金色の糸で結ばれている。


「ねえ、私から開けてもいい?」


 手提げ袋を胸に抱え、嬉しそうに尋ねてくる。


 どうにか、僕はうなずいた。


 もう一度嬉しそうにはにかんだ明日葉は、手提げ袋の中から包装された正四角形の小箱を取り出した。包装が丁寧に外される。

 中には、肌触りのいい紺のケースが納められている。


 そっと、ふたが開けられる。


 納められているものは、色とりどりの鉱石に組み紐を編み込み、明日葉が以前使っていたリボンと同じように髪をまとめられるもの。僕のブレスレットとどこか造りは似ている。


「これって、天然石の、髪飾り……?」


「……こないだ、リボン、破れてたから」


 僕が明日葉のプレゼントに選んだものは、以前コーギー犬を捕獲する依頼を受けた、天然石を販売している雑貨屋さんで購入したもの。あの日に破れてしまったリボンの代わりに明日葉のプレゼントするのはどうかと、誕生日とは関係なく考えていたのだ。


 月明かりを受けて、いくつもの鉱石が夜闇でもきらきらと鮮やかに光る。


「すごい……。こんな高そうなもの、本当にいいの?」


 僕はまだ強ばってる顔にどうにか笑みを作る。


「もちろん。使えないようだったら、部屋につるしてくれてもいいから」


「ううん、使う。絶対使う」


 明日葉は首を振って、宝物を抱くように胸に抱えた。


「ねえ、今、今つけてもいい? すぐに、つけたいので」


 断るわけもなかった。


 明日葉は髪を束ねていた桃色のシュシュを外すと、ケースと一緒に手提げ袋に収め、代わりに髪飾りを持つ。


 そして初めてつけるものであるのに手慣れた様子で、シュシュでまとめていた顔の横の髪を一房すくい、髪飾りで束ねた。

 鏡はないけど手で位置を確かめながら調整する。

 天然石を使用しているが派手なものではなく、普段使いができる落ち着いたデザインのものだ。


「どう? 似合うかな?」


 髪飾りをつけた少女は、恥ずかしそうに笑いながら聞いてきた。


 亜麻色の髪に結ばれた髪飾りと、明日葉の表情と、それらすべてが……。


 僕は胸がいっぱいになって、言葉が出なくて、ただ、うなずく。


 そして明日葉は、また笑う。


「ああ、本当に嬉しいので。こんなプレゼントがもらえるなんて、夢にも思わなかった。十七歳になれただけでも十分なのに、こんな、こんな……」


 あふれ出した感情を見られまいと、顔を伏せる。そして乱暴に目元を拭うと、わずかに腫らしたまぶたで、僕を見やる。


「はい。じゃあ今度は結弦くんの番っ。開けてみてほしいので」


 僕の体がまた強ばる。どうしてかは、わからなかった。ただなんとなく、これ以上時間を進めたくなかった。


 それでも、言われるまま、僕はラッピングの上から巻かれた金色の糸をするりとほどく。


 中から出てきたのは、ベルベットケース。明日葉にプレゼントした髪飾りよりも、さらに高級感のあるケースだった。


 期待の眼差しを受けながら、ケースを開く。

 微かに金属が重なる音を響かせながら顔をのぞかせたのは、銀色のチェーンだった。ケースのフタからすらりと伸びたその先にあるのは、二つの指輪が組み合わせられたダブルループ。


 ダブルループのネックレスだった。


「どうかな? 結弦くんに似合うと思って、選んだんだけど」


 少し不安そうに、それでいてどこか自信ありげな笑みを浮かべながら、明日葉は尋ねてくる。


「プレゼントに、その、ネックレスはちょっと重いかなって、思ったんだけどね。私は、こっちにきて首のあとはなくなってるけど、ネックレスとかできる気持ちになれなかったので。でも結弦くんなら似合うかなって」


 僕はネックレスを前に、言葉を出すことができなかった。


 それでも、明日葉は続ける。


「私たちは、この世界を去るとき、この世界のものを持ち帰ることができない。だけど私たちの気持ちだけは、絶対になくならない。プレゼントに込めた思いも、絶対になくならない。だから、私もずっとつけるから、結弦くんがこの世界にいる間だけでも身につけてくれると、嬉しいな、思ったから」


 そして、少し口にするのをためらうような間のあと、僕の方を見上げて言った。


「私の旅が終わるのは、もうすぐ、だから」


 理屈ではない。だが、確信をもって言い切られる。


 非在化。この世界に留まり続ける異世界からの旅人に起こる、世界そのものからの拒絶反応。そして徐々に非在化の時間の間隔が短くなっている。それがなにを意味するのか、僕にだってわかる。


 明日葉は、笑った。僕なんかでは到底想像もできない苦しみの中で生きていながら、これまでずっと僕たちに見せてきた、暖かで、人懐っこい笑顔で。


「結弦くん、そのネックレス、かけさせてもらっていい?」


 少しだけ恥ずかしそうに、欲しいものをねだる子どものように無邪気に、明日葉はそう聞いてきた。


 もう言葉なんて紡ぐことなんてできなくて、ただまた、うなずく。


 視界のすみで少女は笑うと、一歩前に踏み出して、僕のすぐ前に立った。


 僕の手にあるケースから、ダブルループのネックレスがそっと取り上げられる。心地よい金属の音が奏でられ、慣れた手つきで留め具が外された。


 そしてつま先立ちになりながら、自分よりも高い位置にある僕の首元に両手を伸ばす。うなじの辺りに両手が添えられて、留め具をはめる。そのまま位置を整えるように、すっと指が滑り落ちていった。


 僕の胸元で、ダブルループのネックレスが、月明かりを受けてほのかに光る。


「うん、似合ってるよ。自分で言うのもあれだけね」


 朗らかに笑いながら、明日葉はそう言った。


「このネックレスにも意味があってね、ちょっと、恥ずかしいんだけど……」


 もう、ダメだった。


 言葉をすべて聞き終わる前に僕は、少女の体を抱きしめた。


 少女は一瞬驚いたように体をすくませるが、やがてそっと、僕の背中に手を回される。

 その手つきがまるで、泣き虫の子どもをあやすよう、なにかをあきらめてと言われているように思えて、さらに体が熱を持つ。


 抱きしめた少女の体は、力を込めればそのまま折れてしまいそうなほど、脆く儚い。


 だけど、間違いなくここにいる。心地よい人のぬくもりを持って、僕たちと同じように生きている。触れ合った体からは、はっきりと命の脈動も伝わってくる。


 それなのに。だというのに。


 ふっと、明日葉が笑う気配がした。


「ダメだよ結弦くん。私たち旅人の旅は、楽しくて素敵なものでないといけないので。泣いちゃ、だめ……」


 頭の中で、明日葉の言葉が、感情が反芻する。


 それは葵さんたち旅人を迎える人たちが、旅人にかけ続けた言葉。

 旅人の旅は、楽しく素敵なものでなければいけないと。


 だったら、叶明日葉という少女の旅のどこに、楽しく素敵なものがあるというのだ。


 その終わりは、叶明日葉という少女の、命の終わりでしかないというのに。


「君は……バカだよ……明日葉……っ」


 ようやく絞り出せた声は、みっともないほど濡れていた。こぼれ出した熱が、頬を伝って流れていく。


 押さえることなどできるはずもない、強くどろどろとした、嫌な感情。


 明日葉は、なにも言い返さなかった。言い訳さえすることなく、取り繕うこともない。

 僕の肩口に顔が埋められる。服が握りしめられる。


 僕の体は震えていた。


 でも、僕だけじゃない。僕だけじゃ、ないんだ。


 明日葉は、きっとなにかを間違った。

 どこでなのか、いつからなのか。それは誰にはわからないこと。

 もしかしたら、神様ならわかることなのかもしれない。でも、神様はそれを僕たちに教えてくれることはないし、教えてもらっても、今さらどうすることもできないのだ。


 周りの連中は神様気取りで言ってくる。

 君なら、どうにかできたんじゃないかって。

 僕のときも言われた。


 ふざけるな。


 怒りで吐き気がする。

 問題の外にいる人間は、いつだって当事者のことなんて考えていない。


 明日葉はたしかに間違った。肯定などしていいはずもないほど、絶対的に間違った選択だ。


 だけど時に、選択肢はいくつも、複数用意されているわけではない。大衆や外野から見ればいくつもの選択肢があったように見えるかもしれない。


 でも心をすり減らし精神を病んだ人から見れば、それがたった一つしかない、選ばざるを得ない選択肢だったかもしれないのだ。


 僕も、いくつも間違ってきた。間違って間違って、何人もの人生を滅茶苦茶にしてきた。


 なにが、君なら、だ。


 お前たちが僕たちのなにを知っている。


 望んだ結果なんかじゃなかった。やりたくてやったわけではない。


 でも当事者である僕たちには、どうすることもできなかった結果でしかないのだ。


 過去も、今も、そして未来さえも。


 僕たちの声なき慟哭は、ただ江宮島の月夜に溶けて、消えていった。

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