変わりゆくもの ー3ー
隣の部屋から人の気配がする。結弦くんの部屋だ。
今日はずいぶん来るのが早い。なにかやっておきたいことでもあるのかな。
私はまだやってきてないことを取り繕うために、机に座ったまま静かにしていた。
結弦くんが来てから、様々なことが変わり始めている。
昨日あまり時間が取れなくて、日記を書きかけにしていた。途中まで書いていた日記帳にすらすらと文字を刻んでいく。
先日、結弦くんの話を聞いた。昔の自分を思い出すような気がして、途中からはみっともなく泣いて結弦くんを困らしてしまった。
旅は楽しく素敵なものに。
私たちを迎えてくれる葵さんたちは、口々にそう言ってくれる。
でも私は自分でも呆れるほど泣き虫で、今でもしょっちゅう泣いている。
結弦くんの過去の話に、自分のことのように涙があふれてしまった。
時折、結弦くんが見せる自分を軽んじる振る舞い。ずっと気になってはいたのだ。
結弦くんは、強い子だと思う。私とは違う。
扉が開く音がして、息を殺すように歩く気配が階下へと行った。もしかしたら私が来ているのかもしれないと考えて、そっと出ていったようだ。同じ旅人と言えど、すべての行動をともにする必要もないし、結弦くんには結弦くんのやりたいことだってあるだろう。あとで会っても、深く聞かないようにしないとね。
結弦くんは大抵のことならそつなくこなすし、要領だっていい。誰に対しても親切で優しい。正義感が強く、誰か困っている人がいると放っておけない。
正直、同じ人間かなと思うほど運動神経がいいことをのぞけば、普通の男の子だ。
結弦くんは自分が江宮島に来るに当たって、神様に捧げた願いがわからないと言っていた。
実際、願いがわからなかったという人はこれまでもいたらしい。
神様に漠然と願いを捧げている人だっているのだ。神様はそんな願いの中から、真に願っていることをくみ取って、私たちをこの世界に導いてくれる。自分がなにかを願っていたという事実の元、意識して毎日を送ることで願いは明確なものとして固まっていくのだという。
それもこの江宮島で旅人が成し遂げなければならない使命を果たすために。
そして自分の願いが成就するその瞬間を、使命を果たしたそのときを、旅人は知覚できるらしい。この瞬間がそれなのだと。
人によって旅の長さはそれぞれだが、いつだってその瞬間は江宮島で訪れる。その瞬間は誰にでも平等に訪れるそうだ。
その瞬間を知覚し、そして願いを叶えて使命を果たした旅人はほどなく旅を終える。
これが旅人という存在の基本だ。
だが結弦くんは、未だに自分の願いの欠片もつかめていないそうだ。
結弦くんが江宮島を訪れるようになって二ヶ月。
今は私の、誰かに必要とされたいという願いを叶えるために協力してくれている。だから結弦くんにも、この世界でやるべきことがある。
でも、ふと思う。
もし私がいなくて、結弦くんだけが旅人として訪れていたのなら。結弦くんは二ヶ月もの時間、旅人として意味のない無為な時間を過ごしていたかもしれない。
神様がそんないい加減なことをするとは思えなかった。
けど神様は固く閉ざしたその口から、私たちに神託をくださることはない。
自分の願いも思いも、目指すべき場所も、この旅の中でたどりつける答えでさえ、すべて私たち旅人が自分自身で探し出さなければいけないもの。
昨日の内容を日記に書き終えて、ペンを置く。
気がつけば、私が江宮島で書き始めた日記帳もずいぶんな分厚さになってきた。半分はずっと前に過ぎ去り、もう二十ページも残っていない。それだけの依頼をこなしてきたのだ。
机の隅には、私をこの江宮島へと導いてくれた、白紙の日記帳がある。最初から最後のページまで書き込まれた形跡はあるのに、すべて消しゴムで丁寧に消され、そこにあったはずの思い出は読み取れない。
でも、誰かの思いは絶対そこにあったのだ。
私のクローバー柄の日記帳も、きっとそう。私の心と思い出と、私が旅をしてきた記録がたしかに残っている。
表紙に、すっと指を滑らせる。
でも、もうそろそろ。
「あ……」
気がつき、自分の手のひらに目を向ける。
指から、さらさらと光の粒子のようなものが舞っていた。しばらく目を向けていると、やがてその現象はなくなる。情けなくちっぽけな指があるだけだ。
きゅっと手を握りしめ、胸に抱く。
普通の旅は、自分の意志によって始め、自分の意志で終わりにする。
けれど、旅人の旅は違う。
旅人の始まりには私たちの願いがくみ取られているけど、旅の終わりは私たちの意志では選べない。
だけど旅は、いつか必ず終わる。普通の人がする旅も、私たち旅人がする旅も、それは同じ。
「私の旅の終わりは、もうすぐそこなので……」
それまで少しでも私にできることを、この世界に残したい。
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