変わりゆくもの ー2ー

 雨が降り注ぐ日暮れに、僕たち三人は高校から徒歩数分の距離にある葉月の家にやってきた。


 一年生のころに何度か連行されたとき以来だが、まさか捨て犬のようにずぶ濡れ状態で来ることになろうとは思いもしなかった。葉月にシャワーを借りて、陽司が自転車をマッハで走らせて取ってきてくれたスウェットに着替えた。


 葉月のお父さんはまだ仕事で、お母さんも外出しており、家には僕たち三人だけだ。


 体は芯まで冷えており、シャワーで暖めたにも関わらずくしゃみが漏れた。


「ホント、そんなになるまで一人で抱え込んでんじゃないわよ。バカ」


 葉月は呆れた声を吐き出しながら僕にコップを差し出す。夏なのにわざわざ暖めてくれたミルクココアだった。


「いや、いろいろごめん」


 自分でも恥ずかしさといたたまれなさで泣きたくなるみっともなさを、ココアとともに胃の中に流し込む。


 葉月の部屋はシンプルではあるが女の子らしい部屋だ。白いシーツの掛かったベッドに橙色のカーテン。今日は突然の雨で休みとのことだが熱心に取り組んでいるテニス用品を並べたラック。葉月は大の少女漫画好きで、本棚にはびっちりピンク色の表紙が並んでいる。陽司の影響で読んでいるライトノベルもちらほらある。


 僕は中央に引っ張り出された丸机に葉月と座り、陽司は部屋の隅で少女漫画を読んでいる。


「でも、知らなかったなぁ……」


 ぺらりと、少女漫画のページをめくりながら陽司がぽつりと呟く。


「あの結弦に、彼女ができていたなんて」


 ぶふっ、と口に含んでいたココアが虹を作る。


「そうよね……。友だちなんだからそれくらい、私たちにくらいには言ってほしかったわね」


 どこか嬉しそうに、それでいて寂しそうにうなずきながら布巾を渡してくる葉月。

 気管に入ってしまったココアをむせ返しながら、口の周りと机を拭く。


「いやいや違うから彼女なんていないから。だいたい、僕がどこで彼女を作るって言うのさ」


 高校では早朝に登校して教室で一人。そして放課後は誰よりも早く帰宅する。交友関係も陽司や葉月が知る以外のことはない。塾や習い事にも通っていない。基本的無趣味だし、どこで彼女を作ることができるというのか。


「だったらそのブレスレットを、なんでそこまで大切にしているのか言ってみなさい」


 星空のようにきらきらとさせる視線とともに、楽しげに葉月が問うてくる。


 あなたにはこのブレスレット、落としものとして一度相談したことがあるんですけどね。自分のものにしちゃえばいいとか言われて、本当に自分のものにしちゃってますけどね。


 しかしそんな回答ができるはずもなく、喉の奥に挟まった言葉はぐうっと音を立てた。


「いやいや、ちょっと高価なものなんだよ。それを富岡に盗られたあげくなくしたりしたら悔しいから、だから必死に探してただけだよ」


 ブレスレットは先ほど洗面所を借りて可能な限り綺麗な状態にした。まだ湿ってはいるものの、僕の左手には戻っている。濡らしてしまうのはこれが二度目。本当に申し訳ない限りだ。


 必死に弁明を重ねるが、二人はまったく信じてくれない。


「どう思うよ。葉月さん」


「これは間違いなく嘘言っている顔ですね陽司さん」


 幼なじみのいとこ同士であるため息もぴったりに攻め立ててくる。


 それからしばらく中身のない押し問答が続いた。僕にとって説明しようがない問題があるだけに、あやふやな回答しかできない。


 今にして思えば、この御守は運命レベルで僕が手放せないものだと聞いている。だからどこに行っていようが結局は僕のもとに戻ってきたのではないかと、いまさら気づいた。しかしどちらにしても冷静ではいられなかっただろうけど。


「で、その人、どんな人なんだ?」


「だからどんな人でもないって……」


 思い返せば、僕がどれだけ御守がなくなって困るのか、その理由は極めて簡単だった。自分の中ですでに答えが固まっているくらい、簡単だった。


 江宮島に行けないこともそうだ。旅人お仕事ができないこともそうだ。葵さんや、栞ちゃんに会えないこともそうだ。


 でも、なにより。


 そう考えてしまうことがもう、僕にはどうしようもないことだったのだ。


 本当に、呆れる。


 コップに少しだけ残っていたココアを飲み干す。二人の詰問の間に、すっかり冷たくなっていた。


 長々と息を吐き出しながら、乱暴に頭を掻く。


 気がつけば、陽司と葉月はこちらに顔を寄せてにんまりと詰め寄ってきている。

 腹が立ち、恥ずかしくなり、そのムカつく顔々に手のひらを押しつけた。



 葉月の家を出るころには、雨雲はどこかに去っていた。もう夏といえどすっかり日は沈んでおり、未だに分厚い雲も相まって暗い空だ。


 なんやかんやで、夕食までごちそうになってしまった。


 僕がそろそろ帰ろうかと腰を上げると同時に、外出していた葉月のお母さんが帰宅して見つかってしまった。さらに、せっかくだから陽司くんと一緒に晩ご飯を食べていきなさいとまで言われてしまったのだ。


 幸いと言っていいかはわからないが、姉さんは出版社の飲み会で不在の予定だった。夕食の準備という免罪符を使うことができずに、ありがたく夕飯をごちそうになってしまった。

 一応、なんとか葉月のお父さんが帰ってくる前においとますることはできた。教育委員会に勤める葉月のお父さんには中学時代に多大な迷惑をかけてしまっている。今でも会うのはかなり気まずい。土下座したくなる。


 どたばたとした一日が終わり、ようやくマンションに帰ってきた。


 まだまだ絶賛飲み会中であろう姉さんのために、いつ帰ってもすぐに食べられるスープでも作っておこう。どうせ酒を飲まされるばかりで食事なんてまともにしてこない。社会人の飲み会とはそういうものだと、いつか姉さんが遠い目で言っていた。お疲れ様です。


 ドライヤーでまだ湿っていたブレスレットを乾かす傍ら、まな板で野菜を刻んでいく。


 今日一日のことを振り返りながら、心の中であれこれと整理をつけていく。


 本当に僕は、なんのために旅人として江宮島を訪れているのかわからなくなっている。


 旅人が当たり前に持つ願いを、僕は未だに知らない。

 それでもきっと、僕は願いを理解している旅人たちに負けないくらいあの世界に、江宮島に行きたいと思ってしまっているのだ。


 もういまさら、自分の中で誤魔化ないほど気持ちが大きくなっている。

 本当にわかりやすいやつだと、深々とため息を吐く。


 野菜たっぷりの卵スープを作り終え、電磁調理器の電源を落とす。


 ドライヤーを当てていたブレスレットを手に取る。何度濡らしてしまっているのか本当に申し訳ない限りだが、今回もしっかり乾いてくれた。


 そして左手首にブレスレットをつけて、また、眠りにつく。

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