変わりゆくもの ー1ー

 旅は変わらずとも、少しずつ変わっていくものはあった。


 何気ない、いつも通りの昼休み。

 僕の席周辺には数人のクラスメイトが集まっていた。


「えっ! 出雲くんのお姉さん小説家ってマジ!?」


「ちょっと葉月、あれこれ勝手に話さないでよ」


「別にいいじゃない。隠すことでもないって前に言ってたじゃん」


 左手の窓枠に腰を乗せて陣取っている葉月は、悪びれた様子もなくスマホをいじっている。そして葉月と一緒に僕周辺に集まっている友人たちに、スマホの画面を向けた。


「これ、結弦のお姉さんが書いている小説。すっごくおもしろいから是非読んでみて」


 あげく布教し始める始末。陽司が姉さんの小説を読んでいることは知っていたが、いつの間にか葉月まで読者になっていた。姉さんからは好きに広めて話のネタにすればいいと言われているが、これはなにか面はゆい。


「あっ、この小説店頭に並んでいるの見たことある! 出雲くんすごい!」


「いやいや、すごいのは姉さんであって僕じゃないから」


 まあ、現在姉さんの健康面を支えていると考えれば、僕も小説執筆に小さじ程度役に立っているのかもしれないけど。

 小説家というパワーワードに色めき立つクラスメイトたちは、興味ありげに葉月のスマホをのぞき込んでいる。


「じゃあ出雲も小説書いたりするのか?」


「僕は読む専門だよ。小説を書こうとは思ってないかな。姉さんのお下がりで、それなりに小説は読んではいるけどね」


「じゃあおもしろい小説あったら教えてくれよ。どろどろぐちゃぐちゃの不倫ものがいい」


「さらりとすごいコアな要求してくるね……」


「じゃあお姉さんの売り上げに少しは貢献できたと思うし、結弦のおごりで新しくできた喫茶店に行こうか。さっき行ってみようって話してたの」


「じゃあの意味がわからない。僕がおごる意味がもっとわからない」


「このハニトーおいしそうでしょ?」


 聞いちゃいない。


「おっ、いいじゃんいいじゃん」


「あそこのお店人気だよね。出雲くんも用事がないんだったら一緒にどう? この間の鶴のお礼に私がお金出すから」


「いやいや、あの折り鶴はそんなつもりじゃないから、本当に気にしないでよ」


「そーそー、だから結弦のおごりうぇー」


 葉月の頬をつかんで引っ張る。


「その話俺も混ぜて。ハニトー食べたい。サッカー部なんてもう、どうでもいい」


 しれっと僕の机にしがみつくように現れている陽司。


 葉月が所属するテニス部の千羽鶴を折って以来、少しずつ僕に話しかけるクラスメイトが増えていった。本当ならあまり目立ちたくないポジションでいたかったのだが、話しかけてくる人たちを邪険にもできないでいた。


 僕の日常は少しずつ変わり始めている。それは間違いなく、江宮島での出会いや出来事がきっかけだ。

 以前ならこんな風に距離を詰められていたら、当たり障りなく拒絶していただろう。


 僕の左手には今も、ペリドットのプレスレットがある。

 自分の世界では異能が使えるはずもなく、ユカリを見ることはできない。でも最近、少しずつ僕と誰かのつながりが増え、強くなっていると感じる。


 明日葉にも言われた。もっと人と話すべきだと。

 痛みや悲しみなどの感情は周囲に伝わる。でも思うだけでは伝わらないものもあると。そんな簡単で当たり前なことに気づかされる。

 僕はこれまで必要以上に誰かと話すことを避け、つながりを作ることを拒否してきた。

 でも明日葉の言うとおり、僕がもっと誰かと会話をすることで僕の周りが、よく変わっていってくれるなら。


 そう考えると、どこかくすぐったい気持ちになった。



 だが、この程度で富岡たちが変なちょっかいをかけてくることをやめるわけもなかった。


「……ない」


 自分の席にたたんでいたブレザーをひっくり返し、僕は茫然と呟いた。


 その日最後の授業は体育だった。曇り空でどんよりとした厚い雲が広がる日で、いつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。


 授業が終わり、汗を吸った体操服で教室に帰ってきたときから、なにか嫌な予感はしていたのだ。


 足早に教室に戻ったときには、取り立てておかしなところはなかった。たたんだ制服もほとんど同じように机に置かれていただけ。


 だけどズボンのポケットに入れていたペリドットのブレスレットだけが、なくなっていた。


 普段なら体育の授業でもポケットにブレスレットだけは忍ばせていた。だが今日に限って、もし途中で雨が降って濡れてしまったら。そう考えると元の持ち主や神様からの借り物である以上申し訳なくなり、教室のズボンに入れたままにしていたのだ。


 嫌な汗が背中を流れていく。


 一瞬、僕の旅が終わったから、もしかしたら御守は消えたのかもしれない。そんな考えも過ぎったが、そんなわけもない。

 旅人は、自らが江宮島に旅をした意味と瞬間を、願いと使命を確信を持ってわかるはずだ。

 この短期間に、ましてや江宮島でもない自分の世界で旅の終わりが訪れるはずがない。稀に自分の世界で旅を終える人もいるらしいが、なにもわかっていない僕が突然終わるなんて、あるわけない。


 視界のすみで、早くも制服に着替えていた富岡がにやにやとした不快な笑みを浮かべている。富岡は体育が始まるやいなや、体調不良を理由に見学していた。途中から姿が見えなくなったことを先生がぼやいているのも聞いていた。


 無意識に、奥歯がぎりっと軋み音を立てる。


 ここでつかみかかり問い詰めたとしても、口を割るとも思えない。

 そもそもそんな明確に、教室に他の生徒もいる状況で富岡に反抗してしまえば、意図して富岡に目をつけられている状況が揺らぎかねない。


 努めて冷静を装い、体操着から制服に着替えながらもブレスレットを探していく。


 それでも、ない。


 ホームルームが始まるが、僕はブレスレットのことが気がかりで気が気でなかった。


 焦りが、苦いものとなって口の中に広がっていく。


 正直、なにをこれほど恐れているのかわからない。

 なくなったところで元の生活に戻るだけ。

 あの世界に行くことができなくなるだけ。

 あの少女に、明日葉にもう会えないだけ。


 いくつもの、だけが頭に浮かんでは消えていく。

 ただ一つわかっているのは、今の僕は、そのすべてをだけで終わらせることがどうしてもできないということ。


 旅を、まだ終えたくない。


 隣の窓にぽたぽたと水滴が当たり始める。今降ってもらうのは困るのだが、雨はお構いなしだ。瞬く間に本降りへと変わった。


 富岡たちは誰に構わず嗤うと、早々に帰っていった。

 僕の身の回りにブレスレットがないことはもう確認してある。


 隠せる時間はそれほどなかったはず。少なくともブレスレットは校内にある。


 まだ富岡が持っている可能性は、おそらくない。あいつは自らが責められるリスクを手元に持つタイプじゃない。


 トイレに流されたり燃やされたりしていれば正直どうしようもないが、あきらめる前にまだやるべきことがある。


 探す。たとえ絶望的な範囲だとしても。


 降り出した雨に辟易する生徒たちがわらわらと動き始めている。


 僕は校内の至るところを探し回った。ほとんど使われていない焼却炉やトイレのゴミ箱、校内に投げ捨てられていないかあちこちを探し回った。ある程度人がいなくなったところで自分の教室に戻り、ゴミ箱や教壇なども探し回った。


 最近少し話をするようになったクラスメイトたちが時折心配して声をかけてくれたが、努めてなんでもないよと答えた。ここで彼らの助力を頼ってしまえば、彼らが富岡のいじめの、次のターゲットになってしまう可能性がある。この手のことには巻き込めない。


 いくら探しても、見つからなかった。

 左手になにも着いていない。二ヶ月ほど前まで普通のことだったのに、今は自分でも呆れるほど心が乱れている。情けないほど、恐れている。


 どれほどの時間がたったのかもわからない。


 いっこうに見つかる気配もない御守に、これ以上思いつかない探すあて。焦燥に思考の大部分が焼き払われている。心落ち着けろという方が無理だった。


 ペリドットのブレスレットは、あの御守は、僕と江宮島を結ぶたった一つの鍵だ。つながりなのだ。


 このまま見つからない。そうなればどうなるか、考えたくもなかった。


「くそっ……」


 校舎の裏にあるイチョウの幹に寄りかかり悪態を吐き出す。


 飛雨はさらに勢いを強めていた。青い葉に降り注いだ水が雫となって樹下の僕を濡らしていく。


 富岡が隠した時間は授業中。余所のクラスや人目につく場所にはそもそも隠すどころか、持っていくことさえできない。だから人目につかない場所、主に校舎の外を探し回ったがそれもでも見つからない。


 イチョウの緑葉の向こう側で、空がずいぶん暗くなっていることに、いまさら気づく。


 もうじき下校時間を過ぎる。今日は金曜日。もし今日中に見つけられなければ、明日探しに来るしかない。部活動はやっているので十分可能なはずだ。


 だけど、足は帰ろうとはしない。


 イチョウの木に背中を預けたまま、薄ら寒い空に息を吐く。

 自分の吐息が、黒く染まっている気がした。


 御守を手にした日から、一度して江宮島に渡らない日はなかった。

 このまま家に帰り、布団に入り、眠りにつく。

 それだけのことが、ひどく恐ろしく感じる。

 冷たい手足も、鈍った思考も、重たい鼓動も、それ以上動こうとはしない。


 富岡は、今の僕を見ればさぞいい気分だろう。軽い嫌がらせのつもりだったろう。

 僕にとってあのブレスレットがどれほど大切なのか、知りもしないのだから。


 誰も、僕があのブレスレットをどれほど大切にしているか、あの世界を大切にしているか、知るわけもないのだから。


「お前、こんなところでなにやっているわけ?」


 問いかけられて、地面のぬかるみに向けていた目を上げる。


 のろのろと上げた視界の先には、傘を差した陽司と葉月が立っていた。


「ずぶ濡れじゃない。なにやってるのよホントにもう」


 強くなってきた雨の中で外を走り回っていたので当然だが、全身はプールに飛び込んだのかと思うほどびっしょりと濡れていた。服は体に張り付き、雨を含んでずしりと重い。


 この学校で数少ない友人を前に、僕はどうにか笑みを取り繕う。


「ああ、大したことじゃないよ。ただちょっと探し物をしてて、結構濡れちゃったから、もういいかなって」


 ごちん。


 頭上で嫌な音がした。じーんと鈍い痛みが広がっていく。

 数秒目をぱちぱちさせて、ようやく陽司が僕の頭にげんこつを落としたのだとわかった。


「そんなに濡れるまで必死になって、なにがたいしたことじゃねぇだバカ野郎。手が必要なときくらい声かけろよ」


 いつもは見ているこっちが気の抜けるへらへらと笑みを浮かべている陽司。しかし今は誰の目から見ても明らかな不機嫌がまゆを曲げており、声にも明確な怒気が宿っていた。


 陽司の少し後ろに立つ葉月も、陽司の拳に声を上げるでもなく、不満げな表情を僕に向けていた。


 二人に協力を求める。たしかにそれも、手段の一つだったかもしれない。

 でも、僕と富岡の問題に、誰かを巻き込むことなんてしたくなかった。考えに至ったとしても、行動は変わらなかったろう。


「ごめん、だけど――」


 僕の言葉を遮るように、陽司がそれを僕の鼻っ面に押しつけた。


「探してんの、これだろ?」


 陽司が指を離し、咄嗟に落ちてきたそれを受け止める。


 渡されたものに僕は目を見開いた。


「これ、なんで……」


 ペリドットのブレスレットだった。雨や泥で少しばかり濡れてしまっているが、ちぎれたりも壊れたりもしていない。


 陽司は小さく肩をすくめた。


「葉月から聞いたんだよ。結弦がなんか探してるっぽいって。お前らが体育やってるとき、俺は教室で授業だったけど、富岡が中庭の隅でうろうろしててな。葉月から話聞いて、校内ふらふらしているお前見たら、いつもしてるブレスレットしてねぇから」


「……なんでブレスレットしてないって」


「お前いつも大切そうにブレスレットつけてたろ。ああ、これは富岡に盗られたと思って植え込み探したら、投げ込まれてた」


「そう、だったんだ……。ありが……」


 お礼を言い終わるより前に、足から力が抜けてすとんと膝をついてしまった。


「お、おい。え、俺そんなに強く叩いてないよな?」


 陽司が心配そうにかがみ込んでくる。


「いや、ごめん、そうじゃないんだ」


 ブレスレットを握りしめながら、僕は笑みを浮かべて首を振る。


 間違いなく、僕の御守だ。

 そのことが、それだけのことが、どうしようもなく安堵をもたらした。


「二人とも、本当にありがとう。助かったよ。これ、うん、本当にすごく大事なものだったんだ」


 誰にも、そんなことは話していない。相談もしなかった。それでも、この御守が僕にとって大事であることを、知ってくれている友だちがいたのだ。


 なにか、目の奥が熱くなる気がした。


 我に返り気がつくと、二人は少し驚いたような表情で僕の顔をのぞき込んでいた。


「あんたでも、そんな余裕のない顔するのね。意外、だわ。ブレスレットつけ始めたのここ数ヶ月、最近よね。誰かからのプレゼントかしら」


「意外と言えば、結弦にそんな大事なものがあることも意外だ。ましてやそれはブレスレット、アクセサリーだ。あ、ひらめいた」


 葉月と陽司は顔を見合わせ、うなずき合う。


「女ね」


「女だな」


 ……だから、それはもういいって。

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