寂しがり屋な過去 ー1ー

 僕の世界には、いいつながりもある。

 自分の世界ではユカリを使うことはできないけど、暖かく心地よいつながりはたしかにあるのだ。


 だけど、嫌なつながりも切れることもなく残っている。忘れたいと思っても、つながりを絶ちたいと思っても、それでも寂しがり屋な過去は僕のあとを追ってくる。


 その日、雨が降っていた。


 他の地域に比べてずっと雨が少ない地域だが、それでも雨は降る。

 紺色の傘から響く雨音がなにかを告げていたようだった。


 帰宅途中の通学路に、いくつかの人影が見えた。

 平日の夕方。誰がいても不思議なことではない。


 それでも、全員の視線が僕に向けられていることに気がつき、歩く速度が遅くなった。


 そこにいたのは三十歳くらいの男性と、高校の制服らしきものを着た男女三人。


「やあ、久しぶり」


 落ち着いたグレースーツの男性が、そう声をかけてきた。


 瞬間、全身の皮膚が粟立った。顔が強ばりそうになるのを必死に押さえ込む。

 男性の声が気味悪かったわけでも、人を不快にさせるような声だったわけでもない。


 だけど――


「元気に、してるか?」


「悪いね。突然」


「待ち伏せしたみたいで、ごめんなさい」


 男の子が二人、女の子が一人、それぞれ僕に声をかけてくる。


 かつて、僕を必要とした人たちだ。


 いよいよ夏本番を迎える今日このごろ、雨は降っていても空気は鬱陶しいほど熱気を放っている。


 それなのに、手足が真冬の氷に当てられたように冷たくなる。

 呼吸が速くなり、自分の心臓の音がやけにうるさく、すべての音をかき消していく。


 人気のいない道に傘を手に立っていたのは、かつて同じ教室でともに学んだ三人のクラスメイト。そして当時の担任教師。


 前に顔を合わせたのは一年二年くらい前のことなのに、もう遙か昔のように感じられる。


 なにを話したのか、どんな風に対応したのか、よく覚えていない。

 別に今はなんともない。元気にやってるよ。そんな、中身のない会話だった気がする。ただ二言三言会話をしただけで、僕は足早に、逃げるようにその場から離れた。


 僕がうまくできなかっただけだ。だからあんな悲惨でバカな終わり方をしてしまったのだ。


 ずっと忘れようとしていた過去の奔流に、心がぐちゃぐちゃに乱れていく。


 アパートに帰り着き、扉を閉める。


 足からすとんと力が抜けと、僕はずるずると玄関に座り込んでしまった。


 途中からは傘を差すことも忘れ、ほとんど走るように帰ってきた。汗と雨で体はびっしょりだった。四肢は震え、今にも涙がこぼれそうなほど苦しかった。


 僕は失敗した。僕のせいだ。その事実はどうあっても間違いない。


 あのときはそれが精一杯だった。

 彼らに必要とされたのは僕だ。誰かに役割を代わりってもらうことなどできないし、させるわけにもいかない。


 だからあんな結末にしてしまった人たちを、絶対に許すことができない。


 彼らや、僕自身を含めて。



    Θ    Θ    Θ



 その日は、結弦くんの様子が少し変だった。


 取り立ててなにがと言われれば難しい。けれど、さすがに一ヶ月以上も一緒に江宮島で生活をしていれば、嫌でも気がつくほどだった。


 江宮神社の最奥、拝殿の前で私と結弦くんはそろって手を合わせる。結弦くんは二礼二拍一礼の基本のやり方で、私は手を二回叩いたあとに手を組んで祈りを捧げるやり方で。


 毎日欠かさない日課。

 本来なら早朝に参拝するのだが、今日は朝一番にお仕事の依頼があったので遅くなっている。


「今朝のお仕事、残念だったね。ごめんね、わざわざ探してもらったのに」


「え……? ああ、うん、大丈夫大丈夫。体を動かすのは慣れてるから、どんとこいだよ」


 どこか上の空ではあるが、結弦くんはこともなげに笑ってみせる。


 今朝一番に入った仕事は、本土の大学に通っている大学生さんからの依頼だった。

 帰省した際に旅人お仕事の噂を聞きつけ、ダメ元でやってきてくれた大学生のお兄さん。葵さんのお知り合いだったらしく、朝から直接葵さんの家を訪ねてきた。


 依頼は探しものと、もし損傷があったら直してもらいたいというものだ。


 なくしたのは一年ほど前、帰省した際になくした指輪だった。彼女からの贈り物だったらしいが、彼女と江宮島を訪れた際にどこかに落としてしまったらしい。


 幸い結弦くんがその人の指からユカリを伸ばすと、思いの外簡単に指輪は見つかった。誰かが拾ってくれていたのか、人通りが少ないガードレールの上にちょこんと乗っていたのだ。

 プレゼントされて間もないものだったらしく、当時は綺麗だったらしい。しかし踏まれたのか動物にでもかじられたのか、銀の指輪は傷だらけで汚れていて、かなりひどい状態だった。


 ただ、ここで一つ問題があった。


「まあでも仕方ないよ。明日葉の力で直せるものは、明日葉が回帰の力を使えるようになってから、旅人になってからなんでしょ? さすがに一年前の状態に戻すのは、無理だよね」


 結弦くんもそう言って励ましてくれる。


 私の回帰には、回帰できるものに制限がある。

 それが時間。私が旅人になったその日から、現在までしか、私は戻せない。

 力の行使は可能だったため少しは綺麗になったものの、それでも新品同様の綺麗さに戻ることはなかった。


 依頼者の大学生さんは見つかったことだけでも跳び上がるほど喜んでくれた。断っても断っても私たちに依頼料として三万円を押しつけて離してくれなかったほどだ。


 そういう経緯もあり、私たちはお昼を食べたお昼過ぎに、日課の参拝をしている。

 朝早くならそれほど人はいないが、昼も過ぎれば参道には多くの人が行き交う。頂上の拝殿までは相当な距離があるので全員は来ないが、それでも結構な人が訪れている。


 依頼が終わってからも、結弦くんの様子はずっとおかしいままだった。どこかぼんやりとしていて、心ここにあらずといった感じだ。


 どうしようかと考えながら、私は髪をまとめている桃色のシュシュに触れる。先日破れてしまったリボンの代わりだ。昔から考え事をするときはリボンやシュシュに触れてしまう。


 拝殿から石階段を下りていきながら、私はついに耐えきれなくなって口を開く。


「ねえ、結弦くん、なんか今日は、もしかして怒ってる?」


 結弦くんはくるりと首を傾げる。


「え? どうして?」


「さすがにそれだけ違えば気がつくよ。なにかあったんでしょ?」


 いつもはどこかつかみ所がなく飄々と会話を転がしていくが、今日は明らかに口数が少ない。前は向いているけど視線はどこか別のところにあって、考え事をしているのは明らかだ。


「いや、特別なにかがあったわけじゃないから」


 誤魔化すように口にされる言葉が、どこか空々しかった。

 私の視線がどのように刺さったのかはわからないが、結弦くんは乾いた笑いを浮かべる。


「本当に大したことじゃないよ。今日は昼からお仕事もないし、島のゴミ拾いをするんだよね?」


「それはまあ、そうなんだけど……」


 結弦くんはもう一度心配しないでという風に笑うと、少しだけ歩く速度を速めて石階段を下りていく。


 私は追いつこうと足を進めるが、結弦くんはそれより早く駆けていく。

 こちらを振り返ることがない仕草が、どこか顔を見せたくないように振る舞っているようだった。


 ここまで余裕がない結弦くんを、初めて見た。


 私と初めて会ったときからこれまで、いろいろなトラブルや問題に直面しても何事もないように解決をしていた。


 だけどその心のうちにあるものは、冷静、とは違うものだと私は思っていた。


 一言で言えば、冷めている。

 表情は笑っていても、言葉はおどけていても、明るく振る舞っていたとしても、心の中はいつも凪いだ海のように静かだった。風が吹いても波立つことはない。


 凍り付いているのだ。

 だけど今は、心の氷が割れて、なにか感情が漏れているようだった。


 山を下りていくにつれて、観光客が増え始める。なにか声をかけたかったが、人目がある状況でははばかられた。


 だからなんとか会話を持たせようとして、また私が口を開きかけたときだ。


 耳の片隅に、がん、と重たいものがぶつかる音がした。

 音がしたのは、私たちが今下りてきた石階段の上。


「あっ――」


 誰かが声を上げた。


 階段の上から、黒く大きなスーツケースが転がってくる。ずっと上に進んでいた観光客の荷物のようだった。手を滑らせてしまったのか、スーツケースは石階段を弾みながら勢いよく転がってきた。


 スーツケースが落ちる先にいる人たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


 だが逃げられない人もいた。

 私たちより十段くらい上に、女の子を連れたお母さん。咄嗟のことに驚いたお母さんは、女の子を守るように抱きかかえてその場にうずくまる。


 スーツケースは石階段の角に当たり、勢いよく舞った。


 その下には、うずくまる母子。


 私が声を発するより早く、結弦くんが眼前に手を伸ばし、なにかを握った。

 瞬間、私の傍らから結弦くんの姿が消える。

 瞬きするより早く、結弦くんは母子の前に移動していた。


 結弦くんが持つユカリの能力だ。母子に伸びるユカリをつかんで一瞬で移動したのだ。


 迷いすら感じさせない動作で、私とあまり変わらない太さの腕がスーツケースにかざされる。


 鈍い音が森に響き割った。


 あまりの衝撃に結弦くんは踏みとどまることができず、スニーカーが滑り、一段下に落ちた。膝が石階段の角に当たる。


「……はぁっ」


 押さえ込まれた空気とともに、痛ましい吐息が漏れる。


「結弦くんっ!」


 私は階段を二段飛ばしで駆け上がり、結弦くんの手からこぼれて落ちていきそうになるスーツケースを石階段の上に押さえつける。


「す、すいません大丈夫ですか!?」


 階段の上からスーツの持ち主と思われる女性が大慌てで下りてくる。遅れて、連れと思われる男性も一緒にやってきた。


「ああ、はい……なんとか……」


 言いながら結弦くんはどうにか笑みを取り繕うが、足は震えていて立ち上がることができないようだった。代わりに、もう一度息を落とす。


「僕は大丈夫ですよ。誰かに当たらなくてよかったです」


 うずくまっていた母子はたしかに無事だった。結弦くんが身を挺して守ったからだ。


 心の中が、少しもやっとにじんだ。


「本当に、本当にごめんなさい……っ」


 顔を歪めながら何度も何度も謝罪を重ねる女性を前に、結弦くんはようやく体を起こす。

 もうなんともないような顔で、女性に笑いかける。


「いえいえ。でも気をつけてくださいね。こんな山の上までスーツケースを持ってくるのは危ないですから」


「そ、それはわかっているんですけど、このスーツケースの中に江宮神社でお焚き上げをしてもらうものを入れてまして……」


 それを聞いて納得する。理由は江宮神社ならではだ。

 聞けば、先日亡くなった祖母の遺品を、故人の意向で江宮神社まで持ってきたらしい。へとへとになりながら登ってきたところで取っ手が汗で滑り、落としてしまったそうだ。


「結弦くん、本当に大丈夫?」


 階段になんともなさそうに立つ結弦くんを見上げながら尋ねる。

 結弦くんはスーツケースを受け止めた左手を庇いながら笑みを浮かべていた。


「大丈夫。たしかに少し痛むけど、しばらくすればひくと思うから」


 私が押さえていたスーツケースを受け取りながら、結弦くんはまた笑う。


「誰も怪我をしなくて、本当によかったよ」


 一瞬、私の頭からいろんな思考が抜け落ちた。


 結弦くんが、不思議そうに首を傾げて私を見返していた。


 次にやってきたのは、真っ赤な感情の波。意識すべてを塗り替えられるほどの熱だ。


 私は結弦くんの手からスーツケースを取り上げると、代わりに持ち主の人へと返した。

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