寂しがり屋な過去 ー2ー
スーツケースの持ち主さんは一緒に病院に行くことを勧めてくれたが、丁重にお断りさせていただいた。
もともと江宮島に来るに当たって、自分の世界で怪我を負ったり病気になっていたりしたとしても、江宮島に渡ればある程度異常がない状態に調整される。
逆に江宮島で怪我を負ったとしても、自分の世界の肉体に怪我が引き継がれることはない。
一日開けて再度江宮島を訪れれば、江宮島で負った怪我自体もなかったことになる。多少痛むにしても、病院に行くほどのことではない。
落ち着きを取り戻した参道で、スーツケースの持ち主さんたちと別れる。
同時に、明日葉はなにも言うことなく石階段を下り始めた。
「ん、明日葉、ちょっと……」
声をかけてもまったく取り合わず、ずんずんと石階段を下りていく。ただただ不穏な雰囲気をまとっており、一切口を開かない。
ようやく明日葉が足を止めた場所は、山の中腹付近に作られた展望公園だった。懐かしい場所だった。ここは僕が、初めて明日葉を見かけた場所で、ここからユカリを掴んで明日葉のもとまで飛んでいったのだ。あのときと変わらず、展望公園からは広い海を見渡すことができる。
明日葉にもその話をしていたのだが、明日葉のまとう雰囲気はそんな懐かしさを感じさせるものではなかった。
誰もいない展望公園。
海が見える展望公園の端まで足を進めると、明日葉は突然振り返った。
両の拳は赤くなるほど握りしめられ、眉根はぎゅっと寄せられている。
口を結んだまま、ずかずかと僕に向かって歩いてくると、いきなり僕の左腕をつかんで引いた。
「――ッ」
それほど力が込められたわけではないだろうに、左腕が火鉢を押しつけられたように痛みを帯びた。
「やっぱり、痛いんじゃない」
しばらくぶりに開かれた口から漏れたのは、呆れ半分と怒り半分の声。
「ちょっとそこに座って」
有無を言わせぬ強い言葉とともに、展望公園にあったベンチが指さされる。
仕方なく、ずきずきと痛む腕をかばいながら腰を下ろした。
明日葉は僕の前にしゃがみ込むと、パーカーの袖をめくる。
白い布地の下は、赤黒く腫れ上がっていた。手首と肘の間が膨れ上がり、不自然な熱を帯びている。
「これ……」
「折れてるだろうね。ポキッて音してたし」
スーツケースを腕で受けた段階で小気味のよい感触があった。まだ腫れは少ないが、これから野球ボールをつけたようにひどく膨れていくだろう。
「……どうして、黙ってたの?」
腫れ上がる腕に視線を落としたまま、明日葉は静かに問うてきた。
「自分の世界に戻れば怪我はなかったことになる。あの場で折れたことを言っても、みんなが不快な思いをするだけだよ。僕が痛みを我慢して収まるなら、それが一番いいかなって」
「いいかなって、なにもよくないでしょ!」
明日葉は声を荒らげてそう言った。
明日葉の表情には隠そうともしない不機嫌さと怒りがにじんでいた。
「たしかに、あの場で旅人である私たちが怪我のことを言う必要はなかったかもしれない。でも結弦くん、私や葵さんたちにも言うつもりなかったでしょ! こんなになってるのに! いいわけない。結弦くんが我慢すればなんて、なにもいいわけない!」
本気で怒り声を張り上げる明日葉とは対称的に、僕の頭は冷ややかになっていく。自らの口元が緩んでいるのがわかるほどに。
「僕は、誰かが傷ついたり辛い思いをしたりしているのが、一番嫌なんだ。自分が痛みを我慢してどうにかなるなら、そっちの方がよっぽどましだよ」
最後の言葉は吐き捨てるように、自分でも嫌悪していることなのに、それでも構わず口から漏れた。
明日葉の瞳が揺れる。唇は結ばれ、それでも言葉が漏れるのを必死に抑えこむように震えていた。
やがて、ため息とともに目に憂いが宿る。
「前から思ってたけど、やっぱり、結弦くんの考え方がおかしいよ。私が海に投げ出しちゃった日記帳を取ってくれたときもそう。ひったくりを追いかけたときもそう。さっきスーツケースからお母さんと子どもを守ったときもそう。危険なんて考えずに海に飛び込んだり、ナイフを相手にまったく引かなかったり、誰かの盾になったり……。普通なら戸惑うところで、結弦くんは気にもしない。なんで、そんなに……っ」
声が揺れる。僕のパーカーの裾を握りしめ、こちらを見据える瞳に薄ら涙が浮かんでいた。
予想し得なかった明日葉の姿に、少しだけ心が冷える。
「ごめんね、明日葉」
言って、少し体をずらし、空いた椅子のスペースをとんとんと叩いた。
目元を袖でこすりながら、明日葉は隣に座った。
パーカーの袖を戻しながら長々と息を吐き、ぼうっと海を眺める。
そして言葉を選びながら、一つ一つ、口を開いた。
「明日葉がそう言ってくれることは、純粋に嬉しい。それに正しいと思う。高校の友だちからも同じようなこと、ずっと言われてるからね。反省も成長もないやつで、申し訳ないけど」
それでも、と僕は続ける。
「きっとこれからも、この生き方は変えていけないかなって思う。一度自分の一部になった生き方は、そう簡単には変わってくれないんだ。頭では間違いだってわかってるけど、変えられない」
自分でもわかっている。僕のやり方は歪で、自己欺瞞でしかないということは。誰かが負うはずだったものを自分で引き受けて、正しいと思い込んでいるだけの浅ましい考え。
「変わらなくなったんだ。手痛い失敗をして、やり方が変えられなくなった」
それを目の前にしてしまえば、考えるより先に体が動いている。
なにがあったのかと、明日葉は言葉を発することなく湿った目で問うてくる。
僕はきらきらと光る海原に目を向け、すっと、過去を落とす。
「この春からクラスメイトになったやつらに、僕はいじめを受けている。ものを隠されたり机に落書きをされたり、暴力もたまにね。あいつらは日頃たまっている鬱憤を僕に吐き出している」
「……誰も、止めてくれないの?」
「体も大きくて態度も粗暴で、周囲の目なんてなんのその。だけど最低限大事になるのを避けている。なかなか面と向かって文句を言う人はいなくてね。先生だってある程度把握しているだろうけど、なにも言わない。友だちは止めようとしてくれてるけど、僕がそれを止めている。止められたら、意味のないことだから」
「意味が、ないって……?」
凪いだ海を前に、僕は口を緩めた。
「僕はね、自分からいじめられてるんだ。いじめっ子たちが僕をいじめるように印象づけて、いじめられやすい人間を演じて、適度な反抗したり適度に傷ついてみたりして、いじめを受けてるんだ」
僕を攻撃してくるクラスメイト、富岡たちは一年生からの問題児だ。常に誰かに目をつけ、自分より下に置き、ストレスや不満のはけ口とする。
特徴として、まったく反抗がない人間には興味がない。ある程度抵抗しなければ興味を失いかねないこと。徐々に内容がエスカレートしていくこと。教職員に直接目をつけられることは避けている。机への落書きなど加害者が特定されないようなことは平気でやるが、教職員の前では直接手は出してこない。
一年生のころにいじめを受けていたのは女の子で、優等生の真面目な子だったと聞いている。きっかけは、富岡たちの非行を注意したこと。女性である彼女が受けた仕打ちはもっと苛烈で、耐えがたいものだったようだ。なんとか二年生になっていると聞いているが、一年の終わりはほとんど登校さえできなかったと聞いている。
他の人たちに、そんな役割をさせるわけにはいかない。
クラス替えがあって、富岡たち三人と僕は同じクラスになっていた。高校が、問題児を意図して一つのクラスに集めたような印象さえあった。
だから僕は、自ら富岡のターゲットになって、いじめを受けることにした。放置しておけば衝突しそうな生徒が何人かいた。葉月なんかはその筆頭だ。
目をつけられるように仕向ける必要はなかった。 もともと富岡たちは僕の過去を知っていた。僕が関わった中学時代の胸くそ悪い事件を友人から聞いていたらしい。もっとも、それなりの事件だったし知っている人がいること事態は不思議ではない。
絡んでくるようになり、そこを適当に刺激してやれば、すぐに僕をいじめのターゲットへと据えた。
ある程度反抗心を見せたり、まだ君たちには負けてやらないよと適度に意志を示したり、時々わざとあおって暴力を振るわれてみたりと。
僕のことを知っている彼らの注意を引くことは容易だったし、行動をコントロールすることも大した苦労はなかった。
結果、クラス替えが行われて二年生になって間もない四月から、僕がいじめを受ける環境を作り出した。
そして、それは今も続いている。
「なんで……っ」
堪えきれなかったように吐き出される声は、はっきりとした怒りに彩られていた。見ず知らずのいじめっ子ではなく、意図していじめられる環境を作り出している、僕に対して。
ずきり、と左腕が痛む。少し力を入れるだけで火のように熱くなる腕が、返って心を落ち着かせる。
「それが、僕が必要とされたことだからだよ」
明日葉が息をのむ。
「誰かに必要とされたい。そんな願いを持っている明日葉には、申し訳ないんだけどね。僕は、誰かに必要とされることが、必ずしもいいことじゃないなんて、知っちゃったんだよ」
「……っ」
僕は目を閉じた。
まぶたの裏に過ぎるのは、凄惨な過去。
「いじめをしているやつらや、それから一部の人も知っているけど、僕は中学で暴行事件に関わっている。クラスメイトを六人、病院送りにした頭のおかしなやつってね」
「病院送りって、全員に暴行したってこと? 結弦くんが? そ、そんなこと……っ」
明日葉はなにかを言いかけるが、途中で口をつぐんだ。
僕が自分の世界でどんな人間かを知らないからか、僕という人間に嫌悪感を抱いたからかはわからない。ただ、向けられる視線はひどく揺れていた。
僕は嗤う。
「中学二年のときだった。小学生のころから問題を起こしていたやつがクラスメイトになったんだ。いじめや暴力沙汰は日常茶飯事の連中だった。取り巻きも含めて、三人」
人の痛みや悲しみ、相手のことを理解できない、ただ身勝手に振る舞うどうしようもないやつらだった。
「新しいクラスになっても、息をするようにクラスの子をいじめ始めた。幼なじみだった三人組をまとめてね。地方だったし、僕にとっては三人とも小学校から一緒の子たちだった。男の子が二人に女の子が一人。暴力を振るわれて、ものを奪われて、万引きの見張りやお金を取られたりもしていたみたいだね」
話すにつれて、明日葉は問うことをしなくなった。
「僕は一言、言ったんだ。いじめなんてバカなことやめなよって。でも返ってきたのは言葉でも感情でもなく、頬を打つ拳だった」
いじめのターゲットが僕に変わった。いじめる対象が誰かなんて、そいつらにとってはどうでもいいことだった。三人が受けていたいじめを、僕は一人で受けていた。
ただ僕の場合は万引きや金を渡すなんてことは絶対にしなかったから、暴力や身の回りに対する嫌がらせが苛烈だった。
僕らは、そういうつながり方をした。いじめる側と、いじめられる側。
つながりなんて、決していいものばかりではないと、そのとき知った。
だからだろう。そのあとも、ろくなことにならなかった。
絵の具を無理矢理広げたような嘘っぽい青空に、さめざめとした息を吐き出す。
「僕がいじめられてしばらくたったころだった。言われたんだ。当時の担任と、僕の前に言われていたクラスメイトたちに。君がいじめられたままでいてくれれば、大丈夫だから。君は強いから。すごいから。君なら耐えられるから。頑張って、耐えてほしい。君が必要だから……って」
そのときのことは今でもよく覚えている。
ぐちゃぐちゃに散らかされて教室の隅に投げ捨てられた机や教科書。放課後、一人教室に残って片付けをしていたときだ。
やってきた担任教師といじめを受けていたクラスメイト。彼らがいじめられていたことは、彼らの両親も出張ってきて問題になっていた。教師は気の弱い若い先生。僕がいじめのターゲットになるまでは、いじめの対応に追われて鬱気味だったと、あとから聞いた。
僕はもともと、心の起伏が淡泊な子どもだった。いじめのことを親に打ち明けることも、他の先生や友だちに相談することもしなかった。暴行されていることも、ものを取られていることも、それなりに器用に隠していた。
だから彼らは勘違いした。
僕が、強いと。
だから頼んだのだ。
出雲くんがいじめられてくれていれば、みんな助かるからって。
君が、必要だからだって。
だから僕は信じたのだ。
世界をまだ知らず、なにが正しいかもわからない僕は、それを受け入れた。
「そ、そんな、ことって……」
隣に座る明日葉の表情は、見なかった。見たくなかった。ただ、震える声と悲しげな吐息だけが耳の片隅に届いていた。
僕は目を閉じ、当時のことを思い返す。
「それで解決したのなら、本当はよかったのかもしれない。結果として誰かがいじめられるなら、僕一人で終わるなら、それでもよかったのかもしれない」
そんなわけはないと今ならわかっているが、それでも、終わってくれればよかったと本気で思っている。
「先生やクラスメイトたちは勘違いをしてたんだ。いじめっ子たちは、いじめがしたかったんじゃない。いじめることで相手が苦しみ、悲しみ、泣き叫ぶのを見たい連中だった。僕が泣いたり叫んだり、やめてって懇願でもしたら違ったのかもしれない。でも、僕は感情の振れ幅が希薄でね。いじめっ子の前で泣いたことはおろか、困る素振りさえほとんどしなかったんだ」
だからあいつらの行動は、これまでとは違う方向にエスカレートした。
「休日、家でテレビを見ていると、警察の人が家に来た。出雲結弦という男の子がクラスメイト三人に暴行を加えて、三人が救急車で運ばれたって」
明日葉が体を強ばらせる。
「クラスメイトの三人っていうのは、僕の前にいじめられていたクラスメイト。わかっていると思うけど、やったのは僕じゃない。僕たちをいじめていたやつらがやったことだ。中学生のいじめでやっていいはずもない怪我を負わせた上で、出雲にやられたって言えって、脅しをかけたんだ。そうすれば、これ以上お前たちになにもしないでやるって。痛めつけられた彼らに、選択肢なんてなかったんだよ」
被害者が三人とも明確に僕の名前を出し、きちんと事実確認がされるより早くその情報は拡散された。加害者のいじめっ子たちがSNSに書き込み、友人に吹き込んだことで、瞬く間に情報が一人歩きした。
「あいつらは僕に、そんなことはやってない。僕じゃないって、言わせたかったんだよ。あれこれやってもほとんど心揺さぶられない僕に対して、さらに意味のないことをしてね」
幼稚な思惑は、すべてつがっていく。
「僕は否定しなかった。クラスメイトを暴行したと認めた。当時の僕は、自分がいじめられることが正しいって、誰かのためになることだって信じてた。僕を陥れるために僕の名前が出されたってことも全部わかってた。だけど僕は、暴行の事実を否定しなかった」
事件はニュースで取り上げられる事態になった。学校中がパニックになり、地域が大騒ぎしていた。僕も両親も学校に呼び出しを受けて、暴行を受けたクラスメイトの親御さんたちから厳しい言葉を受けた。
「じゃ、じゃあ結弦くんがクラスメイトを病院送りにしたっていうのは、それ自体が事実無根だったってこと?」
「……言ったでしょ? 僕がやったことは、クラスメイト六人を病院送りにしたことだよ」
病院送りになった人間は、あと三人いる。
「いじめっ子の考えはすべて裏目に出た。これまで自分たちのいいように泣き叫び懇願してきた相手が、まあ僕みたいなやつならさぞつまらなかっただろうね。思い通りにいかなかったことのはけ口が、そもそもクラスメイトを暴行なんだよ。でも、それすらうまくいかなかった」
だからあいつらは、直接僕のところに来た。
みんなが寝静まった真夜中、人目につかない街外れの公園に呼び出された。
殴られ、蹴られ、口にするものはばかれる無数の罵声を浴びせられた。
痛みで意識が鈍っていくなか、僕はいったいなにをやっているんだろうと、思考が揺らいだ。
これは本当に、うまくやれているのだろうかと。結果、どうなっているんだろうと。
「いじめっ子の主犯は、僕に言った。お前の世界を壊してやると。お前の家族も生活も、ありとあらゆるつながりを滅茶苦茶にしてると。お前とつながりを持った人間すべてが不幸になるくらい、ぶっ壊してやるって」
一字一句、覚えている。
心の中で、なにかが外れた。
気がつけば、僕は殴り返していた。そのころにはもうある程度体ができあがっていた。運動神経だって、人一倍よかった。
でもそれだけじゃなくって、僕は人よりずっと喧嘩が強いみたいだと、そのとき知った。喧嘩なんてしたこともないのに、僕は強いみたいだった。
やり返してからは、一方的。僕が一方的に、いじめっ子たちがクラスメイトにやった以上のことをしてやった。
我に返った僕は警察に取り押さえられていた。
幸い、警察は僕が被害者であるとすぐに判断してくれた。通報してくれた通行人が、僕が暴行されているところを見ていた。公園には防犯カメラがあり、一部始終が撮影されていた。警察も僕の素行や日頃の扱いをある程度調査を進めており、僕が全面的な被害者であると判断してくれた。
過剰ではあったものの、正当防衛だという扱いにもしてくれた。
しかし結局のところ、よく知らない人や噂では、僕は六人を病院送りにした極悪人ということになっている。
「でも結構言われたよ。君がもっと早く相談してくればここまでのことにはならなかったんだよって。君みたいな強い心を持っていれば、どうにかできたんじゃないかって」
「……っ」
明日葉が目を見開き、苦しげに胸を押さえる。
僕は周囲に辟易して、その一件以来、中学では一人ひっそりと生活した。
そして姉さんが僕を引き取ってくれることになり、高校は離れたところを受験し、姉さんのところで厄介になっている。
いじめの被害者である三人のクラスメイトは、退院したあとしばらく不登校になった。そして一年遅れでようやく三人とも復学できているそうだ。
僕が病院送りにした三人の加害者は、退院こそしているもののどこかしらに障害を抱えているらしい。高校への進学はおろか、社会復帰もできていない。
暖かい風が吹き抜け、僕たちの体を撫でていった。
前髪が目に掛かり、そっと目を閉じる。
「前に、明日葉は言ったでしょ? 僕が神様に、自分の境遇を願ったんじゃないかって。これが、そんなことをするわけがない理由だよ。僕は自分から自分がいじめられる状況を作り出している。そんな僕が、神様にいったい、なにを願うんだって話なんだ」
自虐めいたなにかが、口元にただ浮かぶ。
「つながりがあるからって、必ずしも救いになるわけじゃない。つながりがあるから、必要とされて、身代わりにして、傷つけて、自分を守って、虐げて。つながりはそういうものでもあるって、僕は知っちゃたから」
「……だから、今も自分からいじめられるようにしてるの?」
静かに、問われる。
震えそうになる息を、悟られないようにそっと吐き出す。
「今も、やり方は変えられない。変えられなくなったから」
先に告げたことを繰り返しながら目を閉じる。
「中学のころがそうだった。誰かがいじめられているのを見るよりは、ずっと気が楽だった。傍観しているよりも、ずっと。誰かが痛いことを僕は痛いと感じるけど、僕が痛いことを誰かは痛いと感じてないみたいだったから。だから誰かが傷ついているのを見るより、よかった」
それに、と僕は目を閉じたまま、当時のことを思い返す。
「誰も、誰も、さ……」
その先の言葉を、口にしたくなくて、喉で殺した。
その願いを、噛みつぶした。
情けなく、みっともなく、でもそのときの僕の中に間違いなくあった願い。
僕一人じゃどうにもできなかった。
もしかしたら自分からもっと行動して、相手を止めるように、周りの人に害が被らないようにすればなにかが変わったのかもしれない。
でもそれを願わなかった。口にしなかった。
覚えているのだ。
僕が一人、教室で迫害されているときの、周囲の冷めた目を。
すぐそこにいるのに、声を発したところで、手を伸ばしたところで届かないほど、遠くに感じられた。
だから、僕は願うことをやめたのだ。
誰かになにかを求めること。言葉は簡単だ。そうすれば自分の現状を変えられるかもしれない。
でもそれは、相手になにか代償を払わせることになる。
その願いは、ある種呪いの言葉なのだ。
なんだかんだ言っても、僕は腕の痛みが思い出す過去のことで弱くなっていたのかもしれない。気がつけば、なにからなにまで話してしまっていた。
自分で口にしていることがどれほどみっともないことか。口にしながらわかるほどに。
「だから、まあいいんだよ。このままで。このままでなにも――」
突然、後ろから首に腕が回された。
いつの間にか立ち上がっていた明日葉は僕の後ろに来ており、包み込むように腕を回していた。
耳元に口が寄せられる。そして、優しく、手を差し伸べるようにささやかれる。
「ごめんね。嫌なこと、話させて。結弦くん、ずっと辛かったんだよね」
否定したくても、首を振りたくても、抱きすくめられた体を動かすことができなかった。
ただ、差し出された言葉に、心が熱を持った。
「人の生き方に口を出せるほど、私も、うまくやってこれなかった人間なんだけど。結弦くん、私には言いたいことはちゃんと言ってよ。私は、結弦くんに全部背負わせたり、苦しめたり、しないから」
「……だから、僕は別に」
言葉を重ねようとするが、抱きしめられる腕に力が込められ、言葉が止まる。
「私も同じような経験あるから、わかるよ。つながりが救いにならないってことは、私だってわかってる。誰かに本当の意味で必要とされるって、大変だってことも知ってる。だけど、だけどね……っ」
先ほど僕の言いかけた言葉を、明日葉が引き継ぐ。
「だけどつながりは、それでもなくしちゃいけないものなんだよ。思うだけでは伝わらないこともある。結弦くんが辛いなら、苦しいなら、誰かに言ってよ。もっと話してよ」
揺れる言葉と声音とともに、熱いなにかが僕の首筋にぽたりと落ちた。
「結弦くんが痛いのは、私も、痛いよ……っ」
僕の目元が、徐々に熱を帯びた。
誰からも、かけてもらうことがなかった言葉。
もしかしたら、それは僕が欲していたものだったのだろうか。
かつて僕にそんな言葉をかけてくれる人はいなくて、自分の中にだけありとあらゆるもの抑えこんでいた。自分からなにかを求めることもしないで。
中学時代のことは正解だったとも間違いだったとも、もう判断はできないし、する意味もないことだけど。
「ダメだよ。旅人は、楽しく素敵な旅をしないと、いけないんでしょ……っ」
そう問い返す僕の言葉も、揺れていた。
明日葉は答えない。
ただ濡れた、それでも暖かい感情がふわりと広がっていく。
旅人の女の子から言葉に、僕は。
だから、僕は。
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