探しもの ー1ー
「あいてっ」
日課の参拝を終えて江宮神社を降りていく道中、明日葉は頭をのけぞらせながら呻いた。
「どうしたの?」
振り返ると、明日葉は顔をしかめながら髪を押さえていた。
「ううぅ……リボンを枝に引っかけちゃったので。ああ、ちぎれちゃってるうぅー」
呻きながら枝に絡まったリボンを外す明日葉は悲しげに肩を落とす。いつも髪を結んでいるリボンだが、たしかに端の方がびりっと裂けている。
「むぅー、大事にしてたのにぃ……お気に入りだったのにぃ……」
悔しげに歯がみをしながら、情けない声とともにリボンを握りしめる。
しばし悲しむように呻いたあと、はぁと息を漏らした。
「仕方がないか……」
「……それ、自分の力で直せばいいんじゃない?」
あきらめようとしている明日葉に、僕は至極当たり前に思っていることを指摘する。
途端に、きょとんと口が開かれる。
「おお、その手があったので」
「いやいや、自分の力でしょ。そういえば、そのリボンは自分の世界から持ち込んだものなの? もしそうなら一度向こうに帰って、それからもう一度江宮島に来たら、リボンは直ってるんじゃないのかな」
服に対する神様の加護は少し曖昧だ。僕たちの世界から江宮島にはあるとあらゆるものが持ち込めないが、衣服だけは最初だけ持ち込める。その後、江宮島で服をそろえて一度その服に着替えると、次に江宮島にやってくるときは江宮島でそろえた服になっているのだ。
そして、衣服や体を含めて、自分の世界から江宮島に来た場合の状態は保存されており、江宮島で負った怪我や衣服の損傷は自分の世界に引き継がれない。有り体に言えば、江宮島でどれだけ大怪我をしても自分の世界に帰れば無傷だし、持ち込んだ服がずたぼろになっても自分の世界に帰れば服も元通りになる。
そして体の傷や衣服の損傷が自分の世界でなかったことにされ、もう一度江宮島を訪れると、そもそも江宮島でも体の傷や衣服の損傷はなかったことになるのだ。
現に、僕は海に落ちて当初着ていた服はずぶ濡れになっていたが、自分のベッドの上で濡れ鼠になっているなんてこともなかった。
つまりリボンが自分の世界から持ち込んだアクセサリーなら、一度自分の世界に持って帰り、一日おいて江宮島にやってくれば、リボンは綺麗に元通りになるはずだ。
僕の指摘に、明日葉は腕を組んで考え込む。
「んー、これはこっちの世界で買ったものなんだよね。だから直ってはくれないけど……。うん、でも大丈夫。私の力で直すのもなしなので」
「え? いいの? お気に入りだったんでしょ?」
「大事にしていたものではあるけど、高いものでもないからね。なにか新しいもの買ってみるよ。気分一新だよ。このリボンはせっかくだから江宮神社でお焚き上げしてもらおうかな」
冗談めかしてそう言って、明日葉はリボンを丁寧に折りたたんでポケットにしまった。
「そういうもんか……。女心は難しい……」
「ふっふっふ、まだまだ修練が足りませんな結弦殿」
芝居がかった笑みを浮かべてみせる明日葉は、参道に吹き抜けてなびく髪を手で押さえる。
いつもリボンを結んでいた亜麻色の髪ばかり見ていた僕にとっては、リボンがない方が違和感を覚えた。
「あ、いたいたっ。おーい二人ともお仕事お仕事―」
参道のずっと下の方で、栞ちゃんが大きく手を振っていた。
僕たちが旅人お仕事を始めたばかりのころはどさりと案件があったが、その後はまばらに続いている状態だ。当たり前だが、大切なものが壊れるやら、なくすなんてこと、日常的に頻発するものではない。範囲を島民に絞っていることもあり、依頼が膨大になることもない。
そして今日は珍しく一件も依頼がなく、だから二人で今日はどうしようかとのんびり参拝をしていたのだが。
「結弦にしかできない仕事。もう急ぎすっごい急ぎ。結弦しかできないよ!」
楽しげに意地悪げに笑う栞ちゃん。
もうすっごい急ぎの仕事に、もうすっごい嫌な予感がした。
「ハァッ……ハァッ……」
日も高い白昼のうだるような炎天下。
僕は一人、江宮島を全力疾走で駆けていた。
「白羽の矢を立てたのは別にいいですけどっ、無茶言わないでっ!」
視界のすみでこちらを振り返ってはまた逃げていくコーギーくんを追いかけながら、一人恨み言を吐く。
「ガチの獣相手に、足で勝てるわけないでしょっ!」
逃亡したコーギーくんの捕獲。それが今回急に持ち込まれた仕事の内容だった。
なんでも今朝、江宮島のとある雑貨屋さんからコーギーくんが脱走したらしい。本土から遊びに来ていた親類の飼い犬だ。コーギーの飼い主は本日中に本土に帰らなければいけないとのことで、なんとしても今日中に捕獲しなければいけないとのこと。
外れたリードを新品のリードとともに渡され、ユカリを伸ばした。するとユカリが伸びている先は山のど真ん中。初めての大自然で野生を満喫していたようだ。やんちゃな性格らしく、捕まえようとしても逃げるまあ逃げる。
ユカリをつかんで距離を詰めれば楽勝だが、それは人相手にしか使えないのだ。
あっちに走りこっちに走りする僕を見て、江宮島のみんなが声援をくれる。さながら気分はマラソンランナーだ。ゴールしてもいいですか? アッハイ、ダメですよねそうですよね。汗水垂らしてここまでするなんて、僕は企業戦士の才能があるね。
車道にでも飛び出されてしまえばことだが、幸いなんとか車道がない山付近ばかりを走り回っていた。だからひたすら走って追いかければ、いつかは捕まえられると思っていたのだが。
茂みから抜け出すと、その先は海岸だった。
「あー、これはまずいよ」
江宮島の海岸線は整備されて自動車も走る道路になっている。犬は猫などと違い、車道に飛び出してひかれる可能性は低い。猫は危険を感じた結果、道路に飛び出して車と衝突してしまう。しかし犬は危険を感じるととりあえず引く、離れるという選択をするため轢かれる危険は少ないのだとかなんとか。
それよりもまずいのは、コーギーくんが逃げている先にあるもの。
コーギーくんは飼い主に不満があり本当に自由になろうとしているのか、はたまた本土にある実家に戻ろうとしているのかはわからない。
海岸線の終わり。コーギーくんは江宮島から本土へ向けて真っ直ぐ伸びる橋に入ってしまった。
「ちょっと待ってよ……っ」
本土との連絡橋ともなれば車は走っているが、車道と歩道は通り抜けられないガードレールで完全に分けられている。コーギーくんが入ったのは歩道。轢かれる可能性はない。
問題はそういうことではない。
「ぼ、僕、江宮島の外に出られないんでしょ!? どうやってこれ以上追えばいいの!?」
焦りが言葉となって海上に吐き出される。
旅人は江宮島の外に出ることはできない。旅人であれば真っ先に教えられる約束事だ。
だが追うのをやめるわけにもいかず、どうしたものかと思考を巡らせているときだ。
体全体にねっとりと重たいなにかがまとわりつくような、不可思議な感覚に陥った。
まだ止まるつもりはなかったのに、突然走る速度が遅くなる。
徐々にスピードが落ちていき、やがて立ち止まってしまった。
コーギーくんは僕が追いかけてこなくなったことに気がつき、橋のど真ん中で立ち止まった。そのまま自分がやってきた場所に戸惑うように、うろうろし始める。
僕は、体が動かなくなった。体を糸で縛られているわけでも、阻む壁があるわけでもない。進む意志を持てない。進もうとすることができないのだ。
眼前に向けて、手を伸ばす。
少しは進むのだが、手を伸ばしきる前に、それ以上伸ばせなくなった。
反対側の手には、コーギーくんがつながれていたリードが握られている。リードからコーギーくんまで緑の糸はたしかに伸びている。
しかし僕は、それ以上先には進めない。
江宮島の海岸線から橋に入り、二百メートルほど。
僕たち旅人が進める限界、境界だ。前に進むことはできずとも、後ろには簡単に体が動いた。
今まで試したことはなかった。
旅人が島の外に出ようとすればどうなるのか、一応それは聞いていた。
旅人は、江宮島の外に出てはいけないのではない。
出ることができないのだ。江宮島の周囲に張り巡らされた旅人だけを阻む境界から、出ることができない。
これが旅人に神様が降ろした加護。
「え、ええ……これ、どうしたらいいの……?」
そんな呟きとともに立ち往生してしまったときだ。
江宮島へと走ってきた黒いプリウスが、ハザードランプを出して、橋の上で緩やかに停車した。
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