お仕事 ー2ー

 とまあ、立案段階から紆余曲折あったのだが、銭ゲバ中学生栞ちゃんの協力の下、僕たちの旅人お仕事は晴れて活動開始となった。


 いただくお金は一律三千円。ただし中学生以下は無料。葵さんから、栞ちゃん自身が中学生だから中学生に忖度しているとツッコミが入り、一秒たたずにその頭にハリセンが振り下ろされた。中学生に忖度って葵さん……。


 しかしこれは僕にはなかった視点だ。三千円という額は大人なら大した額ではないが、アルバイトもできない子どもにはかなりの大金だ。一律というなら料金交渉も省けて手っ取り早い。もともと僕たちは利益を上げることが目的ではない。自分たちにできることをするというコンセプトが最優先。価格は高すぎず安すぎずという辺りに設定されている。


 利益分配は、僕と明日葉に千円ずつ、栞ちゃんに五百円、そして江宮神社のお賽銭に五百円という割合。江宮神社に返すお金は、僕たちの力が江宮神社からいただいているものなので、しっかり神様にも返したいという明日葉の意見からだ。


 正直僕の取り分については、今回ほとんど役に立たないのでいらないと言ったのだが、またしても栞ちゃんのハリセンが振り下ろされることになった。


 立案者兼責任者という立派な役割があるから、労働の対価はきちんともらうべきと淡々とお説教された。知らないうちに責任者になっていた。問題が起きたらなにさせられるの僕……。


 宣伝は栞ちゃんが大人もびっくりするようなチラシを作ってくれた。デザイナーに依頼したのかと思うような出来だ。ずっとキーボードを叩いて作っていたものはそれだったらしい。チラシは回覧板や地域ネットワークのみに流して江宮島の人たちだけに通知する。実際は島外の人たちに知られたところで、神様がうまーく調整してくれるらしいので神経質になることはないらしいが。


 ホント、神様ってすごい。



 思いつきで始まった僕らの旅人お仕事。


 デモンストレーションも兼ねた最初の依頼は、葵さんたちのお父さん、江宮神社の宮司さんだ。


「い、いやね、もう二十年近く前に買った夫婦茶碗を、二つとも私の不注意で割ってしまってね……。つ、妻は気にしないって言ってくれているんだけど、どうにかしてあげたいんだ」


 娘二人に冷たく白い目で見られ、肩身が押しつぶされんばかりに狭そうな伏見宮司。先日見せてくれた生真面目で厳かな雰囲気は見る影もなかった。


 やめてください! お父さんをそんな目で見ないであげて!


 ちなみに、伏見宮司とその奥さんは葵さんたちとは別の本家に住んでいる。初めて訪れた葵さんたちの本家は古き良い日本家屋で、江宮神社に近い山中に造られていた。


 丁寧に整備された庭園が見える縁側で、明日葉は壊れてしまった夫婦茶碗を受け取った。


 夫婦茶碗なので茶碗は二つ。しかしどちらも見事に砕けている。祭事に使う道具を大慌てで探している際に、収納していた箱ごと落下させてしまったらしい。


 壊してしまったのは一月ほど前、回帰できる制限の範囲内だ。


 明日葉は割れた夫婦茶碗の一欠片ら一欠片を、丁寧に机に広げていく。

 古くから伝わる技法で焼き上げられた一点ものとのことだ。火襷と呼ばれる模様で、薄い茶色の素地に朱色との線が襷をかけるように入っていたらしい。

 接着剤などを使って補修することさえ困難なほどの破損状況。普通ならあきらめるしかない。


 だが……。


「それでは、始めさせていただきます」


 明日葉は迷う素振りさえなく、その手に持っていた白紙の日記帳に、すっと指を滑らせた。

 その意志に答えるように、日記帳はふわりと宙に浮く。

 そしていつもそうしているように、神前でそうするように、手を二回叩き、指を組んで、祈る。


 日記帳が開かれる。

 時をさかのぼるようにページが一枚、また一枚と舞い戻り始める。


 その不可思議な光景に、初めて見る伏見宮司は目を丸くする。伏見宮司もこれまで幾度となく旅人が力を使う光景は見ているそうだ、それでも、目の前で起きている光景には驚きを隠せないようだ。


 日記帳のページが舞い、時計の針を巻き戻していく。


 机に広げられた夫婦茶碗が淡い光を帯びた。割れていた部分がつなぎ合わさり、なくなっていた細かな破片も現れて隙間を埋め、時間をかけながら確実に修復される。徐々に、かつての姿へと回帰していく。


 すべてのページが舞い、最初のページまでめくられたとき、浮力を失ったように明日葉の手に日記帳がぽたりと落ちる。


 全員が呼吸することさえ忘れているなか、明日葉はそっと息を吐き出した。


 机の上には、立派な夫婦茶碗が二つ、茶碗としての完璧な状態で鎮座していた。

 我に返った伏見宮司が、一言断りを入れて、おそるおそる夫婦茶碗を手に取った。


 つい半時前まで、以前の形を想起させるのも不可能なほど砕けてしまった造形。

 しかし今伏見宮司の手の中にあるそれは、かつて二人をお祝いしていたであろう姿で、優しげな手に包まれていた。


 栞ちゃんはこの最初の依頼から宣伝用のチラシを完成させた。江宮神社の宮司お墨付きと実例エピソードを添えて。だからやめてあげてよぅ! お父さんの尊厳を大切にしてあげて!


 伏見宮司の実例エピソードは明日葉がさすがにと割愛するに至ったが、江宮神社宮司のお墨付きは絶大だ。


 神様から授かった力で江宮島の人たちに必要とされる。

 願いを叶えていく。


 明日葉の願いを叶えるための、誰かの願いを叶えるお仕事が始まった。



 旅人お仕事に持ち込まれる依頼は様々だ。


 本来、神様の力をもってしても回帰は理に背く禁忌とも考えられる。

 だけど願いの根底にあるのは、そこまでしても取り戻したい大切なもの、どうにかしたいという純粋な気持ちだ。


 誰もが長年にわたって大切にしてきた思い入れがあるもの。不注意からくるもの、運が悪かったとしか思えなかったもの。悪意にさらされたもの。人によって理由はそれぞれだけど、神様の力を借りてもなお取り戻したいものが、人にはある。


 なんでもかんでも持ち込まれることはない。もともと江宮島は、神様とつながりが深いとされている神域だ。そこに住まう人たちも信仰深い人が多い。無礼や不義理を考える人はそもそもいない。


 初日だけでも数件の依頼が持ち込まれた。


 先が潰れた大切な万年筆や、落として砕けてしまったガラス模型などなど。どれも、明日葉にしかできないことだ。


 依頼が終わり、次までの依頼の合間に、明日葉は机の上に広げたなにかをせっせと文字を書き込んでいた。

 買ったばかりだという新品の日記帳。

 依頼主と持ち込まれた思い出の品について記しているそうだ。


 なぜそんなことをしているのかと尋ねると、


「私たちは他の世界から来た旅人だけど、この世界に私だけのなにかを残せたらなって、思ってるんだ。これまで日記は書いたことないんだけど、私がちゃんとこの江宮島にいて、こんなことをしていたんですってことを、残したいので」


 と、クローバー柄のかわいらしい日記帳を手に、少し照れくさそうに笑っていた。



 そして、僕にしかできないことも依頼として持ち込まれることになった。

 お仕事初日、最後の依頼だ。


 海岸沿いの古民家を利用した喫茶店で僕が冷たいフロートを飲む傍ら、野外テラスで明日葉はぐでーと伸びていた。回帰を使うことには体力の消費などはないそうだが、お仕事初日ということでプレッシャーもあり存外疲れている様子だ。


 栞ちゃんはお行儀悪くスプーンをくわえて、タブレットパソコンのキーボードをカタカタやっている。活動実績を早くもまとめているらしい。お金をもらっている以上、金銭管理はしっかりやらねばならないとのこと。


 しばらくすると、葵さんをともなって追加の依頼者はやってきた。


 葵さんの高校時代の同級生とのことだ。窓口の栞ちゃんが受けていた依頼はすべて終わっていたのだが、葵さんが直接相談を受けたらしい。

 葵さんの同級生とのことで今年二十三歳。僕たちより六つばかり上であるが、小動物を思わせる童顔のかわいらしい人だった。


 ふと正面の椅子に腰掛けていた明日葉に目を向ける。腕を机に投げ出して完全に伸びていた。


「こらこら明日葉さん、人が来られていますよ」


 突っ伏している明日葉の肩を揺する。しかし反応がない。


「おーい、明日葉さーん」


 少し声を大きくして呼びかけると、途端にがばりと体を起こした。


「はっ、危ない危ない。もう少しで寝ちゃうところだったので……」


 口元を腕でごしごしこすりながら恥ずかしそうに笑みを浮かべる明日葉。

 僕らこの世界で寝たら消えちゃうんだからね。本当に気をつけてね。人体消失マジック見せちゃダメだよ。


 失礼しましたと、葵さんとその同級生さんも一緒の席に座っていただく。


「あの、これなんですけど……」


 気弱そうな女性が差し出したものは、鈍く古い光を放つチェーンだった。


「これ、本当は懐中時計だったんです。昨年亡くなった祖母の形見で、いつの間にか、時計の部分がなくなってしまって。とても大事なものだったんですけど、どこを探しても、見つからなくて……」


 相当大事なものだったのか、言葉の端から悲しい感情が漏れていた。チェーンの先端は金具が割れたように曲がっている。形見というからには道具以上の価値が込められていたもの。やるせない思いだろう。


「これを、明日葉さんの力で直すことはできるでしょうか」


 葵さんが尋ねると、明日葉は眉根を寄せて険しい顔を作った。


「それが、いろいろ試してみたんですけど、ある程度現物が残っていないと私の力は使えないみたいなんです。だからこのチェーンだけでは、懐中時計の形を取り戻すことは、できないと思います」


 力を使うことに対価や代償はなくとも、そもそも可能かどうかの制限は存在する。


 条件は大まかに分けて二つ。


 その一つが、ある程度本来の形としての形状が残っていること。たとえば伏見宮司の夫婦茶碗も、すべての破片や粉末レベルが残っていたわけではなかった。しかし大部分の破片は残っていたため、それらを基点に回帰させることができる。最低でも七から八割ほどないと回帰を行使することができないらしい。明日葉の力は明日葉の意識できるものを少し前の状態に戻すもの。意識できない部分まで干渉することはできないのだ。


 もう一つ条件はあるのだが、そちらに関しては問題ない。


 破損状況の制限については宣伝用のチラシにも書いてはあることだが、判断はいささか複雑で曖昧である。

 しかし懐中時計の時計部分が残っていない現物は、十全に残っているとは言いづらい。明日葉が言葉を濁すところを見るに、できないと判断したのだろう。


 葵さんの同級生はダメ元ではあったらしい。でも一縷の希望を見いだしてやってきたのは事実。なにか言うわけではなかったが、それでも気落ちした様子を隠すことができないでいた。


「あの、少し質問なんですけど」


 僕は手を上げながら会話に割って入る。


「その時計をなくされたのは、この島であることは間違いないんですか?」


 意図の曖昧な質問に、女性は薄ら涙が浮かぶ目をぱちぱちとさせながらうなずいてみせる。


「そ、それは間違いないです。これをなくしたのは先月ですけど、私はここ数ヶ月島から出ていないので。もちろん盗まれたり、ゴミとして捨てられていたりしたら、今はどこにあるかも、形を保っているかもわからないんですけど」


 言いながら、また声が落ちていった。


「それなら、少しだけ、そのチェーンに触らせてもらってもいいですか?」


「は、はい、それは、大丈夫ですけど……」


 わずかに首を傾げ戸惑いながらも、女性は手のひらに載せたチェーンをこちらに差し出す。


 僕は右手を御守のブレスレットに添えながら、左手の指先でそっとチェーンに触れる。

 すると、チェーンからふわりと緑の糸が伸びた。

 その糸は葵さんや依頼者さんにもはっきり見えているようで、その不可思議な光景に目を丸くしていた。


 基本的には僕の目にしか映らない不思議な糸。しかし糸が作られる瞬間に側にいると、その人たちにも糸を知覚できるようなのだ。


「じゃあ、少し探しに行ってきます。ちょっと待っててください」


 頭に大量の疑問符を浮かべる依頼者さんを残して、僕は喫茶店を離れた。


 金具が壊れてしまった懐中時計は思いの外早く見つかった。全力疾走で三十分ほど走った上でだが。

 山の脇を迂回するように通る道の傍ら、落ち葉の山から時計が見つかった。長い時間雨風にさらされており、針は止まりあちこち汚れてしまっていたが、緑の糸が示す時計は間違いなく依頼者さんのものだった。


 初夏の青空の下を全速力で走り抜けたこともあり、戻ってきたころには汗でびっしょりになっていた。葵さんが追加でアイスココアのビッグサイズを注文してくれたので、ありがたく水分補給。


「ど、どうやってこれを見つけたんですか?」


 まさか懐中時計が戻ってくるとは思ってなかったらしく、感極まって泣き始めてしまった女性の代わりに葵さんが聞いてきた。


「僕の力は、人とかものを糸で結んで見える形にできるようなんです。ただなんにでもできるわけじゃなくて、会ったことがある人とか、触れたものくらいなんですけど。懐中時計はチェーンが残ってましたから。僕が出られない島の外に行ってしまっていたらどうしようもなかったですけど、幸い江宮島にあったので」


「あ、ありがとうございます。壊れちゃいましたけど、でも、でも時計が戻ってきてくれて本当によかったです。本当に、なんとお礼を言っていいか……。お礼は、三千円で、よかったですか? もっとお出しできますが……」


「え……?」


 お礼って、もしかしてお仕事の件?

 と僕の頭は少しばかり思考停止してしまう。お礼もなにも、僕はなにもお金をもらおうと思ってやったわけではないのだけど。


 そんな言葉で断ろうとしていると、視界のすみで守銭奴中学生の目がキラリ。


 僕は苦笑いしながら肩をすくめた。


「さ、三千円で十分です。大丈夫です。だけど、それは最後までお仕事が終わってからにしてください」


 今度は僕の言葉に女性が首を傾げた。


「僕たちの旅人お仕事は、大切なものを直すこと、ですから。ね、明日葉」


 僕が目を向けると、明日葉は笑顔でうなずく。


 そして日記帳の表紙にそっと指がすべらせた。

 明日葉の力によって、懐中時計は以前の姿を取り戻す。わずかばかりずるい方法で、だけど神様に授けられた不思議な力で。


 こうして、初日最後の依頼もつつがなく完了した。


 僕たちの旅人お仕事に、失せもの探しが加わった。



「結弦くんの御守の力は、つながりを示す力だと思うので」


 江宮島の西部。海を見渡せる堤防に二人で腰掛けていると、明日葉はそう言った。


 暖かく染まった夕陽が、どこか知らない大地の向こうにゆっくりと沈んでいく。


「つながりを、示す力?」


 僕の御守、緑色のブレスレットの力については、よくわかってないことが多い。

 その話を持ちかけると、明日葉は優しげな笑みで答えてくれた。


 現在、わかっていることは二つ。


 僕の手から誰かの手に、あるいは触れた人やものの間に、緑色の糸を伸ばすこと。人に限定されるが、糸をつかむことでその人の側まで一瞬で移動できるということ。

 それくらいだ。


 わかっていないこととしては、僕の意志とは別に勝手に糸が伸びるなどがある。


 僕が首を傾げていると、傍らに座る明日葉は僕の左手にある御守にそっと触れた。


「このブレスレットの石は、たぶんペリドットだよ」


「ペリドットって、あの宝石の?」


「そうだよ。八月の誕生石でもあるペリドットには運命の絆や夫婦愛っていう宝石言葉があって、ブレスレットは形通りつながりを意味する。革紐や組み紐も、人と人とのつながりを意味するプレゼントに使われることがあるらしいよ」


「おー、詳しいですな明日葉さん」


 すらすらと出てくる知識に僕は感嘆の声を漏らす。


 明日葉はくすぐったそうに笑いながら、堤防から足をぶらぶらとさせる。


「乙女は奇跡や運命が好きなんだよ。花言葉や宝石言葉、由来やモチーフとか、占い誕生石などなど、女の子はみーんな大好きなので」


 奇跡、そして運命。


 今の僕たちには、どこかしっくりくる言葉だった。

 異世界の離れ島に僕たち二人が一緒にいるのは、まさに奇跡であり運命だ。


 夕陽から差し込む日差しを受けた海がきらきらと輝き、明日葉の表情を照らしていた。


 沈みゆく太陽に、緑石のブレスレットをかざす。

 緋色のとばりのもとでも、緑石は焦ることなく輝きを放つ。


「つながりを示す、ペリドットのブレスレットか……」


 御守は借り物だ。 


 かつて、このブレスレットには本来の持ち主がいた。その持ち主のことや、持ち主がそこに込めた思いを僕は知ることができない。けれどきっと、大切な思いが込められているであろうことはわかる。


 江宮神社へ奉納され、お焚き上げをされて神様のところにいく。そして僕たち旅人が神様に捧げていた願いに御守が応え、世界を越えて僕たちのもとにやってくる。


「……はは、なんか皮肉。僕にいいつながりがないから、神様がつながりをくれようとしたのかな」


 うっかり漏れてしまったのは、そんな呟き。隣に座る明日葉にも聞こえないくらい小さなものだったと思う。


 しかし、明日葉は僕の方を向いた。二つの黒い目が、真っ直ぐこちらをのぞき込んでいた。


「結弦くん、もしかして元の世界で、なにか嫌なことあるんじゃない? その、高校とかで」


 その問いに、ぎくりと胸が波立った。


「……どうして、そう思うの?」


 そんなことないよ、とすぐに返せば誤魔化すことができたかもしれない。だけど、こちらの心根を見透かすような悲しげな瞳を前に、なぜか気持ちを押し隠すことができなかった。


 明日葉は物憂げに目を伏せる。


「なんとなく、少し前から高校は楽しくないのかなって。結弦くん、お姉さんのこととかはよく話すのに、高校でのことはほとんど話さないので……」


 それほどまでにわかりやすく悟られていたことに、情けなくいたたまれなくなる。


 僕は一つため息を落とし、拳で額をとんと叩いた。


「別に、高校が嫌いだってわけじゃないよ。高校には友だちだっている。毎日登校してる。普通の高校生だよ」


 でも、だけど、と暗くなりつつある空に苦いものを吐き出す。


「昔ね、嫌なことがあったんだ。なかったことにしたいくらい、苦いこと、嫌なつながりだった。ずっと前のことだけどね。そのつながりが理由で、今でも僕のことを煙たがってる連中はいる。ただ、それだよ」


 たぶん周囲から見て、僕は単純にいじめられている。

 でも、ただいじめられているかどうかといえば、それもまた違うけれど。

 いじめのことや排他的扱いを受けていることは、努めて言わなかった。


 だがこちらを見据える叶明日葉という少女には、すべて見透かされているように思えた。

 その瞳から逃れるように顔を背け、正面に広がる海へと視線を戻す。


 潮風が僕らの体を慰めるように撫でていき、そして江宮島へと流れていった。


「一つ、明日葉に話しておかないといけないことがあるんだ」


 唐突に僕は口火を切った。



「願いが、わからない?」


 目を丸くしながら尋ねてくる明日葉に、僕はうなずいて説明する。


 僕は自分の心の中で何度も答えを探した。参拝を続けてきた神社に同じように足を運び、そして心のうちを探し続けた。

 でもついぞ、僕は自分の願いを知ることはできなかった。


 江宮島に招かれる旅人の定義、毎日神前に願いを捧げてきたというものに僕は当てはまっていない。あるいはそれが、本来一人しか存在しないと言われる旅人の、二人目がいる理由なのかもしれない。


「違ってたら、申し訳ないんだけど、結弦くんがその、高校でのことが嫌だから、なにか神様に願っていた、ということはないの?」


 わずかな逡巡もなく、僕は首を振る。


「違うよ。少なくとも僕は、神様にそういった類いの願いはしてない」


 そもそもそんなことをするつもりも、資格さえない身なのだから。


 人の願いには、鬱屈していたり抑圧されていたりすると沸き上がってくるものがある。満ち足りた人間は、それだけ願い望むことがそもそもないのだから。


 僕は傍目から見れば十分に鬱屈して抑圧されているだろう。

 

 でもやっぱり、それと僕の願いは違うと断言できる。


「そ、そう、なんだ……」


 僕の言葉は少しきつく聞こえてしまっただろうか。明日葉はひるんだように言いよどんでいた。


「願い……願いが、わからない……」


 考え込むように口の中で言葉を転がす明日葉の目には、明らかな動揺の色があった。それっきり細いあごに手を添えたまま考え込んでしまう。


「……もしかしたら、私のせいかも」


「明日葉のせい? なんで?」


「え、えっと……」


 聞き返されることに頭が回っていたのか、はっとして明日葉は口を押さえた。そしてしどろもどろになりながら目を泳がせる。


「だ、だってね、普通旅人が一人しかいないなら、最初の一人が普通の旅人だったら、それで二人目の旅人がやってくるわけないでしょ? それなら私がなにかおかしいから、二人目の結弦くんが来たのかなって、思って……」


 歯切れ悪く答える明日葉に、僕は苦笑する。


「いやそれなら、二人目の僕が勝手にやってきたって考え方の方が自然じゃない? 明日葉は普通の旅人で、明らかに僕の方がおかしいわけだし」


 なんなら自分の願いを把握している明日葉の方が普通にまともだ。


「そ、それもそうだね」


 恥ずかしそうに笑い、それでも明日葉はまた考え込む。


 そして一分ほどの熟考ののち、ぱちんと頬を叩いた。


「よくわかんないので。でも、私たちのどちらかが本来の旅人でないとしても、御守は私たちをこの世界に導いてくれた。もしかしたら神様や御守にもなにか手違いはあったのかもしれないけど、一度旅を始めたんだから、ちゃんと終わらせよう。この世界に招かれたお礼に、私たちの願いを叶えるため。この世界でやるべき使命をまっとうするために」


 たどりつくべき目的地も、進むべき理由もわからない。


 それは旅の本質である。旅行と旅の違い。一説には、旅行とは目的地が決まっているもの、旅は目的地が決まっていないものと聞いたことがある。


 今の僕たちがまさにそう。


 いつ、どこで終わりかもわからないけど、僕たちはこの世界で旅をする。


 なぜこのつながりを示すブレスレットが僕のもとにやってきたのか。それはまだわからない。いつか、その意味もわかる日がくるのだろうか。


 願いを持たずやってきた僕に、この世界での使命があるかもわからない。

 もしかしたら、自分の願いと使命を知るときこそが、僕の旅の終わりかもしれない。


 そしてそれは同時に、この少女との別れでもあるのだ。


「あっ、言い忘れそうになったけど、結弦くん、高校でも嫌なことがあるならもっとちゃんと言うべきだと思うのでっ」


 突然叱るように明日葉は言った。


 あまりの落差に思わず苦笑してしまう。


「いや、別に僕は嫌とかじゃないんだけど」


「絶っ対嘘。結弦くん、実は高校で結構露骨にいじめられてるでしょ?」


 ずばり断言される。


 僕がさっと顔を歪めたのを見て、明日葉は口を尖らせて僕の脇腹を突く。


「ほらほらやっぱりなので。でも結弦くん、傍目から見ていたらいじめられそうになるタイプじゃないもん。すごく世渡り下手なタイプ」


「その一言余計じゃない?」


 明日葉はいたずらっぽく笑うと、途端に真剣な表情を作った。


「痛みって実際に体が傷つかなくても伝わるものだから。結弦くんが痛いと思っていたら、周りも痛いんだからね」


「ははっ、なんだよそれ」


「いやいや、笑い事じゃなくて」


 思わず笑ってしまう僕を前にも、明日葉は子どもを叱るような姿勢を崩さなかった。


 しかしふと、明日葉がぽんと手を打った。


「そうだ。緑の糸とかつながりとかじゃ呼びにくいから、結弦くんの力はユカリと呼ぼう」


「え……突然なに? ユカリ?」


「人と人とのつながりってエンとかユカリって言うでしょ。だからユカリ。なかなかいい呼び名だと思うので」


 よっと勢いをつけて、明日葉は堤防の上に立った。


「これから私たちは二人でお仕事を始める。私たちの世界じゃないこの島で。旅を終えたら、私たちは別れないといけないけど。私たちは本来あり得ない奇跡として一緒にいる。だから結弦くん」


 緋色の空を背に、明日葉は笑う。


「私とのつながりも、絶対に忘れないでね」


 ふわりと、僕と明日葉の手に緑色の糸、ユカリが舞った。


 明日葉にも見えていたようだった。明日葉はそれを見るとくすりと恥ずかしそうな笑みを浮かべ、また夕陽に視線を戻した。


 ユカリはすぐに、空気に溶けるように消えていった。


 今のユカリも、僕の意識とは別に浮かんだもの。

 僕が一度出会い、なんらかのつながりを持った人なら、ユカリは僕の意志で結ぶことができる。

 ただそれ以外の、自らの意志とは違うタイミングで現れるユカリがなんなのか、未だに理解ができない。


 まだまだわからないことだらけの僕の旅。


 旅人。御守。ユカリ。願い。使命。

 それらになんの意味があり、僕がなにをするべきなのか。

 旅人がすべき使命は、そのときが来ればわかるものだと葵さんは言っていた。


 そのとき、僕はすべてを知ることができるのだろうか。


「おーい、二人ともー」


 道を挟んだカフェで仕事の集計をしていた栞ちゃんが声を上げる。


「今日のお仕事、もろもろの整理が終わったから給料分けよー」


 栞ちゃんの手には、でかでかとお給料と書かれた封筒がいくつか握られている。


「いこっ」


 明日葉は笑いながら、小さな手を差し出す。


 もうひとしきり笑い、僕はその手を取った。

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