二つの世界 ー2ー
江宮神社から参道をひたすら下りていくと、江宮島の市街地へと道が開ける。
江宮島の主産業の一つは観光業である。
江宮島は江宮神社を初めとした古い建物や、自然豊かな観光名所が数多く有する。
本土からフェリーを利用した渡航や、長い橋を車で渡って結構な旅行者がやってくる。外国人さんも多く、いつも街は繁盛している。観光客の人気も高いそうだ。
「ちょっとこれから浜辺でやることがあるんだけど、結弦くんはどうする?」
長ーく続く商店街を歩きながら、明日葉が首を傾げながら聞いてきた。
商店街を真っ直ぐ進めば海に出られるらしい。
商店街は日用品や雑貨屋さん、食料品店など様々な店が入り交じり、島民の生活を支える重要な施設だ。海産物や名産品を扱う港町も併設されており、双方が観光客と島民の人気場所となっている。勝手に歩き回って調べた情報だ。
「どうするって言われても、僕はずっと島を徘徊していただけだからね。明日葉が迷惑じゃなければ、そっちに付き合わせてもらいたいけど…………ん?」
「徘徊って……。じゃあせっかくだから手伝ってもらおうかな。これからね――」
明日葉がそれ以上話すより先に、僕は明日葉の腕をつかんで引いた。
「えっ、どうしたの? ――わっ」
直後フードを目深にかぶった黒服の男が、明日葉の体をかすめて走り去っていく。小脇に鞄を抱えた男だ。
「ひったくり! ひったくりよ! 誰かその男捕まえてええええ!」
人垣の向こう側で、女性が声を張って叫んでいる。
「え、男の人ってもしかしてさっきの……ってぇえ、結弦くん!?」
明日葉の声を背中で聞きながら、僕はもう走り出していた。
商店街の往来を強引に押しのけながら一目散に進む男。人混みに紛れて逃げるつもりだ。見失ってしまえば、土地勘がない僕は追いつけない。
その前に、捕まえる。
男は往来の人を押しのけながら無理矢理進んでいくが、僕の前には男が通った道が開けている。
姿勢を低くし、道が埋められる前に開けた道を全速力で駆けていく。
不意に、男がこちらを振り返った。フードが外れ、くすんだ金髪が露わになる。明確な敵意とともに男の視線が突き刺さるが、構わず突き進む。
「どけッッ!」
怒声とともに進行方向で紙袋を抱えた女の子が突き飛ばされる。女の子は手に持っていた紙袋とともに路上に投げ出された。
そのとき、女の子の手から僕の左手に緑が走る。
僕は、その緑をつかみ取った。
瞬間、十メートルは離れていた距離が一気につまり、僕の体は女の子のすぐ近くに移動する。
そして倒れかけた女の子の体を受け止める。投げ出された女の子の紙袋も拾おうと手を伸ばすが、そちらは空を切ってしまう。紙袋は商店街のタイルを転がっていく。
女の子をそっと道路の隅に座らせてあげると、再び男を追う。紙袋を拾ってあげたかったが、申し訳ないけど先に男に向かう。
女の子の近くに瞬間的に移動したことで、僕と男の距離は目と鼻の先。
先ほどまで距離が空いていたにもかかわらず、いつの間にかすぐ真後ろにつけている僕に、男は驚いた様子で目を丸くしている。
直後、後ろを振り返っていた男は進行方向にあった看板に足を引っかけて、派手にこけた。車両進入禁止の看板だ。
ひったくり犯はアスファルトに体を打ち付け転がっていく。
ようやく追いついた僕は、開けた場所で男の前に立つ。
男は顔をしかめながら立ち上がるが、盗んだ鞄は手放さず抱えたままだ。
男がポケットからなにかを取り出した。ナイフだ。刃渡り十センチほど。ホームセンターで販売していそうな簡素なものだ。
付近の人たちが悲鳴を上げながら離れていく。
ひったくり犯は鞄を脇に抱えたまま、ナイフの鈍い光を僕に向ける。
「……」
ただ、僕はナイフには目を向けず、構わず男に一歩近づいた。
「ど、どけよ!」
しゃがれた怒声を浴びせられるが、気にせず、さらにもう一歩踏み出す。
瞬間、ナイフが突き出される。
腕を切りつけるように突かれるナイフ。
僕はナイフの切っ先が僕に届くより先に、男の手首をつかみ取った。
男が目を見開き体を強ばらせた隙に、男の体を自分に引きつけ、もう一方の手を男の首に戻す。そして男が突っ込んできた力を利用し、男の体をくるりと回転。
そのまま背中から商店街のタイルに叩きつけた。
「がっ――」
苦しげな息を発しながら男が沈黙する。
僕は男が手放したナイフを踏みつけ、そして男の手から鞄を拾い上げた。
しかしその瞬間、動けないと思っていた男が跳ね起きた。
振り上げられた拳が前髪をかすめ、ナイフを蹴り飛ばしながら距離を取る。
ぶん殴らないと動きを止めてはくれないか。大人しく捕まってくれないものか。まあ無理か。かー、めんどくさい。
再び身構え備える。
だが、男は苦しげな顔で舌打ちを一つ落とす。
そして僕に背を向けて、人通りがない路地に飛び込んでいった。
「結弦くん……本当に無茶苦茶するので……」
ようやく警察から解放されたとき、明日葉は呆れたように深々とため息を落とした。
僕は乾いた笑いとともに頬をかく。
「いや、なんかごめん。咄嗟にね」
通報を受けて、警察がすぐに駆けつけてきた。
僕は思わず逃げようとしてしまった。この世界で戸籍もへったくれもない人間が警察に関わるのはまずいと思ったのだ。
だからこそ、ひったくり犯を直接捕まえることをためらって逃がしてしまったのだけど。
しかし、あとから息を切らして追いかけてきた明日葉から大丈夫だと説明を受けた。旅人のことはこの島の警察にも周知されており、僕たちのことを知られても問題ないとのことだった。
もっと長時間警察に拘束されるかと思ったが、連絡がいった葵さんが取りなしてくれたことで手短に終わった。この世界の人間ではない者があれこれ聴取を受けたところでややこしくなるだけ。簡単な事実確認だけすると、ひったくり被害に遭った女性から厚くお礼を言われただけで解放された。
「もしかして、結弦くんはなにか武道とかやってるの? なんかすごかったよ。シュバシュバッ! って感じで」
擬音だけでなにを言っているのかわからないが、とりあえず驚いたらしいことはわかった。
「いやいや、あれはそんなたいしたものじゃないよ。武術家さんに怒られちゃう」
なんと答えようか迷いながらも、僕は左手でゆらゆらと揺れるそれが気になっていた。
「ねえ明日葉、これ、見える?」
言って、僕は左手を明日葉に向ける。
「ん? ……あれ、なにそれ、緑の糸?」
基本的に僕にしか見えない緑の糸。しかし、意識してもらうとそれは僕以外の誰かの目にも映る。自分から言わなければ、ほとんどの人は気づきもしないのだけど。
明日葉は戸惑い気味に糸に手を伸ばす。しかし触れることは叶わず、細い指は糸をすり抜ける。
「いや、ごめん。これから浜辺に行くんだったよね。その前にちょっと寄り道してもいいかな?」
僕は明日葉に断って、糸が伸びる方向に歩いていく。疑問に首を傾げながら、明日葉は一緒に来てくれる。
警察署は商店街の隣、江宮島の市役所などがまとまっている市街地の中心に造られている。
糸は商店街を挟んで少し山に戻った辺りに伸びていた。
「さっきのは見よう見まねだよ。姉さんが昔、小説のためにって道場に通っててね。何度か見学させてもらったことがあるんだ。ああでも、ちょこっとはやらせてもらったことがあったか。へたっぴがうまくなるのを見せてほしいって」
思い出すのも憂鬱な記憶がよみがえる。大変だったなぁあのころ。
「……結弦くんのお姉さんって、本当に小説のためならなんでもする人なんだね」
明日葉の気遣いが心にしみる。
子どものころから、姉さんのその手の押しをまともに断れた試しがない。無邪気に奔放に、悪意など微塵もなく、目をきらきらさせながらお願いしてくる妙な圧。僕は幾度となく屈服してきた。普段はふざけたことしか言わないのに。
まあ僕は慣れずにすぐに道場から逃げ出したのだが。
「あれはそれとは関係ないけどね。昔から運動神経はいい方だったし。武術なんて言うと本職の人にひんしゅくを買うよ。あれは、ただの喧嘩だよ」
僕に特技と呼べるものなんていくつもない。
ただこれは、といえるのは運動神経が他の人より優れていること。
あとは嬉しくもないが、喧嘩がそこらの不良なんかよりもよっぽどできることだ。
思い出したくもない過去に、胸がざわついた。
明日葉は大人が子どもを叱るように、めっと指を突きつけてきた。
「でも、ダメだよ結弦くん。海に飛び込んで日記帳を拾ってくれたときもそうだけど、結弦くんはもっと自分を大事にするべきだと思うので」
僕は曖昧に笑った。
「……気をつけておきます」
道沿いにふわふわと漂う緑の糸は、これまで通ったことがない道に続いていた。その先にあったのは、古くも大きな日本家屋。
その民家の縁側には、一人の女の子が座っていた。
柔らかそうな黒色の髪をお下げにした幼い女の子。小学生くらいだろう。
なにやら服のようなものを抱きしめて、大きな目からぽろぽろと涙を流している。
僕と明日葉は顔を見合わせた。
明日葉は少し戸惑ったように眉根を寄せたあと、女の子に近づいていった。
「こんにちは」
明日葉が声をかけると、女の子はびっくりしたように体を震わせた。服を抱きかかえたまま、突然現れた僕たちに赤くなった目を向ける。
「さっき商店街にいた子だよ」
僕はぼそりと明日葉に口添えをする。ひったくり犯が逃走時に突き飛ばした女の子だ。
わずかに小さく、ああと明日葉はうめいた。そして、女の子の目線に合うようにしゃがみ込むと、柔らかな笑顔で口を開く。
「どうしたの? 大丈夫? どこか怪我しちゃった?」
ポケットから取り出したハンカチで涙を拭ってあげながら、明日葉は笑いかける。
小学生くらいの子からすれば、高校生なんて大人と同じくらいに大きな存在。普通なら気後れするかもしれないが、明日葉の笑顔はどこか人を安心させる。
女の子は肩を震わせながら顔をくしゃくしゃにして首を振った。
「お、おばあちゃんが買ってくれた浴衣……破れちゃったの……っ」
それだけ言うと、押さえ込んでいたものがあふれ出したのか、声を上げて泣き出してしまった。わんわんと涙を流しながら、女の子は浴衣のことを話してくれた。
どうやら前に使っていた浴衣が成長にともない着られなくなり、夏に備えておばあさんが新しいものを買ってくれたそうだ。そして先ほどひったくりにぶつかられたとき、持っていた紙袋に入れた浴衣を投げ出してしまい、パニックになった通行人に踏みつけられたらしいのだ。
明日葉は女の子から浴衣を借りて、縁側に広げた。
女の子ものの浴衣。淡い水色の布地に黄色の雪が散りばめられた品のあるものだ。
しかし、見るも無惨にいくつも靴あとがある。さらには襟元から十センチほど、布地が引きちぎられたように破れてしまっている。
おばあさんは怪我がなくてよかったと言ってくれているらしい。また新しいものを買ってくれるとも言ってくれるそうだ。けれど女の子は、せっかくおばあさんに買ってもらった浴衣をこんな風にしてしまったことが申し訳なくて仕方がないようだ。
ある程度は裁縫で取り繕えるかもしれないが、まず元通りにはならないだろう。素人がどうにかできる破れ方ではない。
明日葉は開いた浴衣をそっと、女の子の膝に戻した。
「そっかそっか。せっかくおばあちゃんが買ってくれた浴衣だったから、すごく嬉しかったんだね」
「うん……うん……っつ」
明日葉がそっと頭を撫でると、また女の子はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
女の子に、明日葉はまた笑いかける。
「大丈夫なので。お姉ちゃんに任して」
言いながら、肩にかけているショルダーポーチに手を伸ばす。取り出されたのは、白い日記帳。明日葉がこの世界に来るために必要な御守だ。
「え? ちょっと明日葉」
僕は慌てて声をかけるが、明日葉は私に任せてという風に笑っていた。
明日葉は、日記帳の表紙に指を滑らせた。
「待っててね。お姉ちゃんが直してあげるから」
言うと、日記帳がひとりでに宙に浮いた。誰に触れているわけでも、糸でつられているわけでもなく、日記帳が空中に浮いている。
その驚くべき光景に、僕と女の子は目を見開く。
さらに明日葉がなにかしたわけでも、風が吹いているわけでもないのに、最後のページが開かれる。
僕たちの様子におかしそうに口を緩めたまま、明日葉は目を閉じる。
パンパンと、清らかな拍手が二度、響く。
そしてそのまま指を絡ませ、祈った。
明日葉の眼前に広げられた日記帳が一枚、また一枚と舞い始める。
それらのページが、最後のページから一枚ずつ最初のページに向けて舞い戻っていく。
白紙。
ひらひらと舞うページには絵も文字も記されていなかった。表紙には日記帳の文字があったが、中はすべて白紙のページ。
明日葉の持っていた日記帳は、なにも書かれていない白紙の日記帳だった。
やがて、少女の浴衣が淡い光を帯びた。
浴衣の破れた部分がゆらゆらと動き始める。
そして、まるで時間をさかのぼるように、破れていた布地が少しずつ溶け合うように縫合されていく。靴で踏まれたあとも、端から徐々に浮かび上がっていき、初めからなにもなかったように、消えていった。
時間をかけて日記帳すべてのページが最初のページまで戻ってきたとき、日記帳は浮力を失い、明日葉の手の上にぽとりと落ちた。
小さく息を吐き出しながら、明日葉は女の子に笑いかける。
「どうかな? 浴衣、綺麗になった?」
女の子はしばらく呆けていたが、はっと我に返って浴衣を広げた。
今の今まで肩を落とさずにはいられないほど、無残に引き裂かれていた浴衣。
しかし現在、女の子の手にある浴衣は、損傷どころか汚れ一つ見受けられない、新品同様の浴衣になっていた。
「この世界に来た旅人はね、不思議な力が使えるんだ」
江宮島の海岸までやってきた明日葉は、浜辺のゴミを大袋に入れながらそう言った。
綺麗になった浴衣を手に、おばあさんに見せてくると家に駆け込んでいく女の子を見送り、僕たちはそのまま家を離れた。
浜辺まで降りてきた僕たちは、今のシーズンは使われていない海の家から掃除道具を手に掃除を始めた。
江宮島は周囲を海に囲まれている。自然を観光の売りにしていることもあり、普段から綺麗に掃除されている。しかし海は、波に乗って海の向こうから様々なものが運ばれてくる。
コーラのペットボトルを火鉢でつかんで、明日葉はまたぽとりとゴミ袋に放り込む。
「私の力は、回帰。ものを少し前の状態にまで戻すことができるの。さっきみたいに汚れていたり壊れていたり、そういう状態の時間を戻して直す。回帰すること。それが、私の力」
先ほど、明日葉の日記帳を少し見せてもらった。表紙以外一文字も書かれていない白紙のページ。しかしよく見ると、一度も文字を書かれたことがないわけではないらしい。
「あの日記帳ね、なにも書かれていないわけじゃなくて、一度書いた文字をすべて消しゴムで消してるみたいなの。一文字一文字、丁寧に読めなくなるまでね」
日記帳は意識してみれば、たしかに文字が書かれていた形跡があった。だがかつてどんな文字が書かれていたのかは、うかがい知ることができないまでに消されている。
持ち主がなにかを思い日記をつづり、どんな思いを記していたのかも。
明日葉が僕の左手に目を向けた。
「結弦くんも、もう自分の力のことを少しわかっているみたいだね」
「わかっているというほど、明確に把握できているわけではないんだけど……」
左手につけたブレスレットに触れる。
「緑色の糸が伸びるんだ。僕の手から、誰かの手に」
意識すると、ふわりと左の手から一本の糸が伸びる。宙を舞う糸は、少し離れた場所でゴミを拾う明日葉の左手に伸びている。
「こんな風に、一度出会った人なら自分の意志で糸を伸ばせる。あとは時々、さっきの女の子みたいに勝手に糸が伸びることもあるね。なんの糸かは、よくわからない。ただ……」
僕は砂浜に埋もれるガンダムの人形を拾い上げる。
明日葉とは五メートルくらいの距離がある。僕たちの間にあるのは、一本の碧糸。
その糸を、握って引いた。
「わっ」
息がかかるほど近くから、明日葉を驚かせる。
「うわびっくりしたっ……え、今……」
跳び上がって目を瞬かせる明日葉。
僕と明日葉には数メートル距離があったが、その距離が一瞬で縮まった。
「こんな風にね、僕と誰かを結ぶ糸をつかめば、その人の側まで移動できるみたいなんだ」
抱えるのも大変そうなほど膨れ上がった明日葉のゴミ袋を受け取り、ガンダムを放り込んで口をしばる。
「……なるほどなので。海に落ちそうになった日記帳を拾ってくれたときも、それでいきなり近くに現れたんだ」
「そういうこと」
実際はかなり離れた展望デッキにいたのだ。挙動が怪しい変な子だなと、遠目に眺めていた。ところが自転車とぶつかりそうになり、海に日記帳を投げ出すものだから。
気がつけば糸をつかんでおり、僕は明日葉のすぐ側に一瞬で移動していた。
先ほどの女の子もそうだ。自ら伸ばした糸ではなくても、見えた糸をつかめば瞬間移動ができる。
「人前では、あまり使わない方がいいよね? 主に、島外の人とか」
「基本的にはね。でも大丈夫らしいよ。私たちの力を人前で使っても、島外の人は忘れてしまうらしいので」
「わ、忘れて……え、なにそれ……」
「神様の力? みたいなもので記憶とか出来事がうまく調整されるらしいので。問題がない形に収めてくれるんだって」
なにそれすごい。神様ってすごい。またこの世界のでたらめな部分を垣間見てしまった。
能力の使用については個々の判断に任されているらしい。
僕の場合は疲労や回数制限はなさそうだが、会ったこともない人には糸を伸ばせないなどの制限がある。
明日葉の回帰にはいくつか制限があり、直せるものに一応条件があるらしい。
明日葉が葵さんから聞いたところによると、時間がたつと力が使えなくなった人や、一度きりしか使えなかった人など、過去には様々な例があったらしい。
世界を渡るだけではなく、この異能も旅人に与えられた特権というわけだ。
「そういえば、なんで僕たち今、浜辺でゴミ拾いのボランティアをしているの?」
「……その質問投げてくるまで、ずいぶん時間かかったね。結弦くん付き合いいいので」
アドバルーンみたいに膨れ上がった十ほどのゴミ袋を眺めながら、明日葉は苦笑いを浮かべている。
集めたゴミは海の家の前に置いていれば、浜辺を管理している役所が処理してくれるそうだ。
一通りのゴミ袋を片付け終えると、明日葉はゆっくりと浜辺を歩き始めた。
「神社でお守りをいただいたあと、最終的にどうするか、知ってる?」
投げられた問いに、僕は少し考える。
「お守りは本来、神社でお金を納めていただくもの。そのあと、お守りをいただいてから目的の期間、たとえば一年の健康なら一年、願いなら願いが叶うまでの期間。その期間を終えたあと、お守りと同程度のお金と一緒に、神社にお返しする。そんな風習があるって、姉さんからもらった本で読んだかな」
「おっ、詳しいね」
嬉しそうに笑った明日葉は、不意に立ち止まって真っ直ぐ海を見やった。
「この世界の外から来た私たちは、神様に捧げた願いを叶えるためにやってきた。でも、私の願いを叶えてもらうだけだと、なんか申し訳ないので」
澄み渡る青い空と海を前に、明日葉はそう言った。
幼くも大人びて見える綺麗な、明日葉の横顔。磨き上げられた宝石のような輝きがある。けれどその反面、ステンドグラスのようにつなぎ合わせた、複雑な色を帯びているようにも見えた。
「ボランティアやゴミ拾いでないといけないわけじゃないんだ。けど私、これといって得意なこともないから。だからなにを神様に、この世界にお返しできるか、わからないので」
そして、自らの首にそっと手が添えられる。
服の襟からのぞく、明日葉の白い肌。
昼間に下着姿を見てしまったとき、なにか首を隠すような仕草をしていた。なにかあるのかと勘ぐったが、特になにかあるわけではなく、傷一つない綺麗な肌があるだけだった。
明日葉が僕へと視線を向け、慌てて首から目を逸らした。
「私たちは、神様から御守をいただいた。私たちは今、神様から特別な時間と機会をもらっている」
意志を固めるように、あるいは自分に言い聞かせるように、繰り返される言葉。
その吐息が、少しだけ冷気を帯びていたように思えた。
「ただまあ、まだまだ私も自分の願いのためになにをすればいいかわからなくって、あれこれ模索しているところなんだけどね。ちゅっとずつでもこの江宮島に、お返ししていきたいので」
お返し。
無意識に、左手のブレスレットに触れていた。
僕たちは、たしかに御守をいただいた。
神社で、神様のお膝元で、毎日毎日願いを捧げて、御守をいただいたのだ。
僕が捧げてきた願いが、僕自身をこの世界に招いた。
そして、明日葉も――
「明日葉は、その、どんな願いを、神様に捧げていたの?」
僕の問いに、明日葉は目をぱちぱちとしばたたいた。
やがて、人差し指を唇に当てて、恥ずかしそうに笑う。
「誰にも、言っちゃダメだからね」
秘め事のように紡がれるその願いは、清く優しいものだった。
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