二つの生活 ー1ー

 パンパンと、乾いた拍手が早朝の神社に響き渡る。


 左手につけたブレスレットが揺れて、緑色の石が音を立てる。元の持ち主がこの世界の人ではなく、それはもうあなたの持ち物だと言われているので身につけている。


「やあ、おはよう」


「……おはようございます」


 いつも訪れている神社拝殿の脇から、浅葱色の装束をまとった人が現れる。この神社の宮司さんで、まばらの白髪が目立つ年配の方だ。手には竹箒が握られており、お掃除中のようだ。


「今日も登校前に参拝かい?」


「はい、日課ですので」


 以前は実家近くの神社に通っていたが、姉さんのマンションに越してきてからは毎日この神社に通っている。すっかり顔見知りだ。


 ブレスレットを拾ったとき、あれほど届けようとしたのに会えなかった宮司さん。にもかかわらず、落としものではなく僕の持ち物だと認識した途端に会うことができた。


 なんでもこの御守、僕たち旅人は運命レベルで手放せなくなっているらしい。気になることならなんでも試したがったかつての旅人が実験したとのこと。お馬鹿な旅人さんはあらゆる方法で御守を手放そうとしたものの、どうやっても自分の手に戻ってきたそうだ。自室の机に上にあったり、ポストに入っていたり、見ず知らずの人に手渡されたり。


 つまり僕の場合、本来なら落としものとして引き取ってくれるはずの宮司さんや駐在さんに会えなくなっていたようだ。僕はどうやってもこの御守を手放せなくなっていたのだと実感する。なんか世界ってすごい。


 高校に登校してみると、一番乗りだった。


 僕の机にはでかでかと一言、シネと書かれている。あーはいはい。


 濡らした布巾で手早く拭き取り、読みかけだった本を広げて、一人読書にふける。


 文字列に目を滑らせていきながらも、常に意識はここではない世界にある。


 異世界への旅。できるかどうかは別として、旅を止める手段は簡単だ。


 御守であるブレスレットを手にした状態で江宮島のことを意識して眠れば、世界を超える。だが御守に触れていない状態で眠れば、江宮島へ渡ることなく眠りにつくことはできるらしい。近くに御守があると体が勝手に御守を求めて動くそうなので、離れた場所に置いて眠ることがポイントらしい。その方法をずっと続けていけば、状況の上では旅を止めることはできるだろう。


 だけど今は、そんな気がさらさら起きないほどあの世界に行きたいと思っている。早く夜になれと願うほどに。


 そもそも、旅を途中で投げ出せるような人間は、きっと旅人には選ばれない。

 旅人は自ら捧げた願いを叶えるために旅をする。

 それなら旅は、自分自身が望んでいることだ。


 ただ、僕はこれまでの旅人と、自分がどこか違うのではないかと考えていた。


 なぜなら僕は……。


 昨日から渦巻いている疑念を頭で反芻したとき、教室の扉ががらりと開く。


「ああ、結弦、おはよう」


 登校してきたのは葉月だった。


「おはよう。今日はやけに早いね」


「それはこっちの台詞よ。こんな時間からなにやってんの?」


「朝早く目が覚めちゃっただけだよ。そっちは今日、なにかあるの?」


 葉月は自分の席に鞄を置くと、中から折り紙の束を取り出した。


「部活の友だちが怪我で入院してね。まだ二年生だから来年もチャンスはあるんだけど、へこんでいるから。みんなで千羽鶴を折って励まそうって」


 葉月はテニス部員だ。運動部員なのに怪我とは不運なことだ。


「だったら僕も手伝おうか?」


「ホント? じゃあお願いしようかな」


 葉月は僕の前の席に座ると、僕の机の上に折り紙を広げた。

 早朝二人っきりの教室で、淡々と鶴を折る作業が始まる。


「今日はずいぶん顔色がいいわね。不眠症は治ったの?」


「不眠症ではなかったんだけど、今日は調子がいいかもね」


 あの世界が夢ではなく、一つの現実であると正しく認識できたことで、寝不足のような疲れは嘘のようになくなっていた。もともと本来の体は眠っているので、睡眠自体は取れているはず。ただ別の世界で意識だけが覚醒して動き回っているから、妙な疲れを感じていただけだ。


「今日は久しぶりに頭がすっきりしている。鶴もたくさん折れちゃうよ」


 せっかせっかと、見ず知らずの怪我部員さんのために折り紙を重ねていく。


 しばらく当たり障りのない会話を続けながら、一つ、また一つの鶴を積み上げていく。


 色とりどりの鶴が机の中央にこんもりと一山できたころ。

 葉月が少し会話に間を置いて、口を開いた。


「あの子たち、この春から復学できたみたいよ。高校一年生から」


「……そうなんだ」


 僕は鶴を折る手を緩めることなく、ただ葉月の話を聞いていた。


 あの子たちが誰を指しているかはわかる。


 僕の昔のクラスメイトだ。

 今年の春から高校生。つまりは僕たちの一つ下、一年遅れで再スタートしたようだ。一つ年下の人たちに混じって高校に馴染んでいくのは、大変なことだと思う。


「なんとか高校でも落ち着いて、楽しく学校生活を送れてるって、お父さんが教えてくれた」


「そっか。それなら、よかったよ」


 葉月の父親は教育委員会で仕事をしている。僕の中学時代にはずいぶん迷惑をかけてしまった人である。今でも会えば、謝罪の言葉が喉から漏れるほどに。


「会って、あげないの?」


 鶴を折る手を止めて、葉月は僕に言葉を投げてきた。

 僕の折り紙を重ねる手が、少しだけゆっくりになった。


「僕が会ったところで、お互い嫌な中学時代を思い出すだけだよ。あれの責任は僕にある。僕はあらゆるものをかなぐり捨てて一人逃げ出して、普通に高校二年生。ある程度普通の高校生活を送っている僕が、みんなに会う資格なんて、ないよ」


 寂しがり屋な過去は着いて回って、富岡たちみたいに絡んでくるやつらはいる。だけどそんなことは些細な問題だ。僕は自業自得を除いて、ほとんど実害を受けていない。彼らと、違って。


 折り終わった鶴をまた一つ山に乗せ、窓の外の曇り空に視線を向けた。


「その子たちはともかく、もう片方は高校にだって通えてないでしょ。いまさら僕が会ったところで、なにもよくなったり、変わったりしないんだよ」


 あの一件には、加害者と被害者が存在した。そして僕は、加害者でもあり、被害者になったのだ。全部、僕がうまくやれなかったから。


 僕は六人もの人生をねじ曲げた。


 あの事件で被害者として受け取られている元クラスメイトたちが復学できたのなら、きっとこれからはうまくやっていけるだろう。


 でも、一般に加害者として受け取られているクラスメイトたちは、高校生になることはなかったと聞いている。そして、それは今も変わっていないはず。


 一度出会い、関わり、結ばれたつながりも、時間がたてば希薄になる。後腐れがなく。

 それでいい。それがいいのだ。


 心配そうまゆにを下げる葉月に、僕は笑った。


「大丈夫だよ。みんなが元気にやってるなら、僕だって嬉しいんだ。もし葉月のお父さん経由で伝言を頼めるなら、あのときのバカは、のんきに高校生をやってるって、伝えてあげてほしいな」



 再び夜がやってきた。


 洗い物、洗濯、戸締まり、明日の高校の準備をすべて終わらせ、ベッドの上に体を投げ出す。


 姉さんは数日前に元気な姿を見せたまま、そのあと数える程度しか姿を見ていない。時折部屋の外でも会うのだが、あごに手を当ててぶつぶつと何事かを呟くだけ。リビングの机に座ったタイミングで僕が料理を前に置くと一応食べている。生命機能的には問題ないだろうが、唯一の姉弟としては心配になる。嫁のもらい手とか。


 しかし、僕にとって姉さんの存在はありがたいと思える。


 旅人が江宮島に渡っている間、僕たち旅人の体は昏睡状態にあるらしい。揺すっても体をつねっても、殴りつけても起きることはないのだとか。万が一江宮島に行っている間に姉さんが僕を呼びに来たりでもした場合、目を覚まさない僕は救急車を呼ばれかねない。


 もっとも、長期間江宮島に居座れば生命活動の維持すらできなくなるかもしれないと考えたのだが、一応それはないらしい。


 江宮島から戻るには、江宮島で眠る以外に方法はない。しかし、江宮島に行くときとは違い、御守を持っている必要はない。江宮島で眠りさえすれば、必ず自分の世界に帰ることができるのだ。


 さらに、江宮島に連続で長時間居座ろうとした場合、ようになっているらしい。

 そうそう起きることではないらしいが、睡魔に絶えきれなくなるとのこと。結果、自分の世界に強制的に戻されることになるとか。まあ僕はそんな経験するつもりもないので、大人しく自分から帰りますけど。


 ベッドに仰向けになったまま、暗い天井に左手をかざす。

 手首に巻かれたブレスレットが、常夜灯に照らされて暗い緑を放つ。


 右手でそっとブレスレットに触れながら、目を閉じる。


「お願いするよ。僕の御守」


 僕をまた、僕の新しい世界に。



    Θ    Θ    Θ



 視界に、再び光が差す。


 窓から差し込む朝日が、部屋を暖かく照らしていた。


 僕の世界とこちらの世界の時間は、おおよそ半日ずれている。眠ったのは午後九時くらいであるが、目が覚めたのは早朝のようだった。


 不意に、ブレスレットをつけた腕、左手からふわりと緑の輝線が舞う。


 江宮島に来てから気がつけば、知らず知らずのうちに舞うようになった糸。


 視線は無意識に糸の先を追う。


 僕の左手から伸びた緑色の糸は、いつも誰かの手首に結ばれている。

 今回も、肌色のような服をまとった人物の手に伸びていた。


 ……いや、紛れもなく肌の色だった。


 うつらうつらと、まだ半分夢の中にいるようで、ふらふらしながらパジャマを脱いでいる人物。


 僕が同じ部屋に現れたことなど気がつきもしないようで、脱ぎ終わった上着がパサリとベッドに落とされる。さらに小さなおしりをこちらに向けたまま、もぞもぞとズボンをも脱ぎ去ってしまう。


 江宮島にやってきたばかりのとき、仮初めの体も眠りから目を覚ましたような感覚になる。


 起き抜けで意識が鈍っていた僕だが、目の前の光景に急激に思考が覚醒する。


「……」


 ああ、これは夢だ。夢でなければ困る。僕が死ぬ。


 目の前にはもう、清楚な白色の下着しか身につけていない少女の姿がある。

 未だにこくりこくりと船を漕ぎながら、ベッドに用意している着替えに手がいく。


「……ん」


 そのとき、とろけたような二つの目がぴくっと動き、こちらに向いた。


「「……」」


 そして、寝ぼけていた顔が一瞬無になり、そしてその数瞬後、猫のように目が丸くなる。


 眠気が爆散したように、丸い目に明確な感情が宿る。動揺や疑惑、羞恥などを闇鍋のごとく混沌としたものがどろりと揺れる。


 僕はそっと、左手のブレスレットに触れた。

 眠ろう。そうすれば僕の世界に帰ることができる。


 これまでこの世界で眠りを意識すると、特に眠気を感じていなくても否応なしに睡魔がやってきていた。だが僕は自分が思っていた以上にパニックだったのかもしれない。

 睡魔が遠くで大爆笑しており、いっこうに眠気がやってくることはない。


「ひっ――」


 少女、おそらくはこの世界にやってきたばかりであろう明日葉の喉からようやく吐き出されたのは、そんな情けない声。


 ベッドの着替えをつかみ取り、首元を隠すように引っ張り上げる。いや、どこ隠してるんだそこじゃない。僕がそう思うと同時に、少女ははっとした様子でもう一枚ひったくって、自らの体に覆い隠す。が、そんな少ない布地では隠しきれないほど肌が露わになってしまっている。


「い、いやっ……」


 白い肌がトマトソースを塗りたくったように色を帯びていき、大きな音の塊が肺から喉へと沸き上がっていく。


 あっ、終わった。僕の新しい世界が、今終わった。


 南無三、と心の中で呟く。


 しかし、吐き出されそうになっていた声の爆弾は、ごくりと肺の中に飲み込まれていった。


「んっ――」


 そして、真っ赤になった顔を背けながら、ぴっと指さされる。その指は正直どこを差しているのかわからないほど揺れていたが、扉辺りを向けられていた。


 僕は努めて音を立てないようにそっと立ち上がり、扉を開けて外に出た。


「~~~~~~~~~ッ」


 後ろ手に閉めた扉の向こう側で、声にならない悲鳴が吐き出されていた。


 僕は扉に背を向けたまま呆けて立ち尽くす。


 すると、二部屋隣からちょうど出てきたこの家の住人、伏見栞ちゃんが驚いて体をびくつかせていた。


「うおっ、びっくりした誰かと思ったら……。ああ、結弦だったわね。二人目が来るなんて初めてだから、忘れてた。おはよう」


「……お、おはよう」


 喉から出た声は、呆れるくらい震えていた。


 栞ちゃんが首を傾げる。


「どしたの? そんな顔真っ赤にして。まさか、本当に明日葉姉になんかしたんじゃ……」


 僕はなにも答えることができなかった。

 床に座り込んで再び立ち上がるまでにずいぶん時間がかかった。



「ねえ……いい加減機嫌直してよ……」


 僕の方を見向きもしないまま、明日葉は江宮神社の参道をずんずんと登っていく。

 明日葉が部屋から出てきて、かれこれ二十分ほど謝り倒している。


 しかし、明日葉は振り返ることも反応することもなく、ひたすらに参道を突き進んでいく。


 やがて、江宮神社の入り口、最初の大鳥居が見えてきた。


 明日葉は二回手を叩き、そしてそのまま指を絡めて祈る。前見たときはゆっくり祈っていたが、今は沈黙ももどかしいようで鳥居の奥に進む。


 僕はその少し後ろで頭を下げ、神域へと足を踏み入れる。


 こっちで服を揃えると、話に聞いていた通り自分の世界から持ち込んだ服はなくなっていた。明日葉が揃えてくれた黒のTシャツに白パーカー、それから紺のジーンズ姿だった。


 明日葉も江宮島で買いそろえた服なのだろう。薄手のニットに涼しげな水色のシャツを羽織り、丈の長いスカートを穿いている。


 まだ知り合って間もないというのに、いきなり修羅場にしてしまった。これから一緒に旅をしていく以上、どうにか機嫌を直してもらわなければ。


「別に……」


 必死に頭を回していると、ぽつりと、明日葉が口を開いた。


「別に怒ってるわけじゃないので。た、ただ恥ずかしすぎるから、もうちょっと顔、見ないで」


 長い亜麻色の髪からのぞく耳は、今でも真っ赤だ。


「……了解しました」


 思い出すと僕の顔も再び熱を帯びていく。


 明日葉はこちらを見ないまま口をぷくーと膨らませ、顔の横に結んでいる白いリボンをいじり始める。


「そ、そりゃあ部屋で眠るようにおすすめしたのは私なので、結弦くんにどうこういうのは違うとわかってますっ。でもでも、結弦くんもあんなにじぃーっと見るなんてひどいと思うのでっ」


「……返す言葉もございません」


「も、もうだから、今日の記憶はすべて抹消しやがれですっ」


「……デリート、完了しました」


 とはいえ、CD―Rに焼き付けて書き換え不可な気分だけど。こうなるとへし折るくらいしか選択肢がないけど、僕も死にたくはない。


 気がつけば、じとーとした視線がこちらを向いていた。


「……絶対デリートしてやがらないなぁ」


「し、仕方ないでしょ。女性の、その、あんな姿、姉くらいしか見たことがないんだよ」


 しばらく明日葉はぶすーとむくれていた。


 やがて、切り替えるように首が振られる。


「結弦くん、お姉さんいるんだ?」


 ころりと表情を好奇に染めて振り返る。


「はちゃめちゃな姉が一人いるよ」


 そもそも姉さんなんて、僕が引っ越してきたころは下着姿がデフォルトだった。僕がスウェットを投げつけてようやく人類レベルが少し上がったのだ。脱いだ下着類をリビングに散乱させたり、風呂上がりに全裸で部屋をうろうろしたり、息をするように一般男子高校生の夢を踏みにじっていく。まあ僕は姉さんにそんな熱望、初めから抱いていないが。


「結弦くんはお姉さんと、それからご両親と暮らしているの?」


「いや、僕は姉さんと二人暮らし。両親とは別々だよ」


「え? どうして?」


 反射的に聞き返された問いに、言葉が喉につまった。


 さっと、明日葉が表情を悪くする。


「あ、ごめんなさい。立ち入ったことを聞いちゃったので」


「いやいや、深い理由はないよ。ただ姉さんが一人暮らししていた近くの高校に通うことになったから、一緒に住まわせてもらっているだけ。今でも両親は元気だし、仲もいいよ」


 おそらく普通の家族よりも仲はいいと思う。今でも姉さんの仕事が空いたときは、四人で旅行にも行く。だいたい理由は、姉さんの小説ネタ探しに連行されている体だが。


「え? お姉さん小説家なの!?」


 話の中で、先ほどの下着うんうんはどこにいったのか疑問になるくらい、ブラックバスのごとく食いつきを見せる明日葉。


 参道に歩みを進めながら、会って間もない僕らの会話は弾む。


「まあね。どの程度が売れている作家ってラインはわからないけど、片田舎のマンションを買って適当な生活をしても貯金ができるくらいには売れているみたい……って、こういう話はしても大丈夫なの?」


 何気なく自分たちの世界を話してしまったが、ふと考える。

 その気になれば自分たちの世界で会うことできる。それがいいことなのか、それとも絶対にするべきことじゃないのか、旅人になって間もない僕には判断できなかった。


 明日葉は口元に指を当てながら首を傾げる。


「んー、そういえばどうだろ。二人も旅人がいること自体が初めてだから、葵さんたちもきっとわからないと思う。でも、なんかいろいろぐちゃぐちゃになりそうだから、とりあえず向こうの世界の話は控えておこうか」


 歩きながら、ご神木立ち並ぶ山々を見上げる明日葉。その横顔はどこか陰りが帯びている。


「ごめんね。江宮神社の参拝は、私の日課だから。もうちょっと付き合ってほしいので」


 明日葉はそう言いながら、手を握りしめて末社の一つに祈りを捧げる。各所にいくつも社があるが、明日葉はほとんどすべての参拝している。


「いいよ。僕も毎朝神社に参拝してる。日課って簡単にはやめられないもんね」


 元より僕は、この世界は右も左もわからない人間だ。先輩の明日葉に教えてもらわなければいけないことがたくさんある。


 参道には地元の人や旅行者も多く訪れていた。もうじき五月になる江宮島の朝は、涼しく参拝しやすい時間だ。


 とはいえ、江宮神社の最奥、本殿や拝殿がある山の頂付近はさすがに時間もかかり距離もあるので、さすがに人気は少なかった。


 最後の石階段を上がると、一番大きい赤鳥居が迎えてくれる。


 ここは僕が初めてこの世界に降り立った場所だ。


 拝殿の前で、明日葉は二回手を叩き、そして祈りを捧げる。

 その隣で、僕は二回頭を下げ、二回手を叩き、そしてもう一度頭を下げる。


 二人そろって祈りを終えると、明日葉はちょいちょいと手招いて、拝殿裏手にある本殿が見える場所に足を進めた。


「手前の大きな建物が拝殿、奥の玉垣に囲まれた建物が拝殿だよね」


「そうだよ。さすが、毎日神社に参拝する勢はよくご存じです」


 ころころと楽しげに笑う明日葉は、玉垣の前に立った。

 僕の身長の軽く三倍、見上げるほど高い石造りの玉垣。人の体を通すことはできない間隔で並び立てられた石柱は、さながら檻のように本殿とその周囲の敷地を取り囲んでいる。玉垣の内側、内院は一面玉砂利の絨毯が敷き詰められ、清く尊い光景だ。


「江宮神社のもの供養はね、この拝殿で執り行われるんだ。ここからすべてのものはお焚き上げをされて、神に、世界に還される。そして強く思いが込められたものは御守となって私たちのもとにやってきて、私たちは旅人になる。だからすべての旅人は、最初この場所に訪れるんだ」


 ふと、明日葉は思い出しように僕の方を見る。


「そういえば、葵さんたちも気にしてたんだけど、結弦くん、どうやってここから出たの?」


 なにを聞かれているのかわからず、首を傾げる。


「ここの玉垣、すごく高いでしょ? もともとはもっと低かったらしいんだけど、旅人が知らないうちにどこかに行っちゃうと説明もできない。だから、中から出られないように玉垣を高くしたって経緯があるらしいの」


 ……冗談でも言葉の綾でもなく、本当に檻目的で作られているらしい。


「僕としてはずいぶん待ったんだけど、なかなか誰も来なくてね。じっとしてても仕方ないかな思って出たんだよ」


「いや、だからどうやって?」


「どうやってって……」


 僕は玉垣を見渡す。周囲に人目がないことを確認、さらに玉垣のいい感じのくぼみが探す。


 少し明日葉から距離を取り、駆け出す。大きく跳び上がり、玉垣のくぼみに足と手を引っかけ、そのまま石柱を駆け上がる。


 そして、高さ五メートルほどある玉垣の先っぽに、すとんと着地。


「っと。えと、こんな感じで」


 真下で、明日葉があごが外れそうなほど口を開き、空気を求める魚のようにぱくぱくさせている。


「ば、罰当たりなので! 早く降りてっ!」


「え? あ、はい、すいません」


 そそくさと、玉垣から飛び降りた。どうやってって聞いたから実演したのに。なんか理不尽。


 五メートルほどの高さから飛び降り、砂利の上にすたりと降り立つ。


「ひっ……」 


 側に立っていた明日葉はわずかに悲鳴のようなものを上げていた。


「どうしたの?」


「……結弦くんって、いろいろ壊れてるんだね。この高い玉垣は、旅人が何時間たっても外に出ようなんて気を起こさせないために作ったものなのに」


 制作者さんドS過ぎやしませんかね。異世界からの来訪者にずいぶん洗礼だ。まあ僕のように説明もされないままどこかに行かれると、探すのが大変だから仕方ないのだろうけど。これはさらに玉垣が高くなっちゃうかな。ははっ。


「旅人の存在にはいくつか特徴あるんだ。影を落とさないこと、江宮島で眠れないこと。あとは、写真に写らない、というか電子機器と相性が悪いんだよね。電話もノイズが入って使えなかったりね。だから監視カメラをつけても見つけられないので、仕方なく出られないようにしているらしいの」


 旅人の体は神様が作った仮初めの体だ。それ故に存在する制限らしい。


「一応、旅人は江宮島からは出られなくなってるんだ」


「出られない?」


「正確には江宮島の海岸線から少し行ったところ、だったかな? それから先は進めないようになってるんだって。それがなかったら結弦くん、島の外に出ちゃってたかもしれないもんね」


「さ、さすがに状況もわからないのでそんなことしませんよよよ……」


 とは言っても、僕は葵さんたちに会うまでに江宮神社から脱走。江宮島を勝手に走り回っていた僕に信用などあるはずもないが。

 しかし出られないというのはどういうことか。少し気になるところだ。なぜそんな仕組みがあるのだろうか。


 玉垣の間だから内院をのぞき込む。僕が踏み荒らした玉砂利は、今ではすっかり綺麗に整地されている。なるほど、旅人が必ずここに現れるなら、確実に足跡を起こしてしまう。さらに中から出ることはできない。いつくるともわからない旅人をずっと待つわけにはいかない。そしてカメラの類いも使えない。


 つまり出られなくするのが手っ取り早いと。ぞっとする話だ。

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