旅人と御守 ー1ー

 自分と同じ存在だと告げた少女、叶明日葉さんはとりあえず僕を近くの温泉にぶち込んだ。連れていかなければいけない場所、説明しなければいけないことが多々あるそうだ。


 しかし僕は雨の日にベランダに放置されてしまったぬいぐるみのごとくずぶ濡れ。まともに会話できる状況ではなかったので、温泉で体を洗って温めてきてほしいとのこと。

 老舗の温泉旅館とのことらしい。清掃時間なのだが、叶さんが受付で事情を説明すると、手早く掃除を終えて案内してくれた。


 叶さんは脱衣所に僕を押し込むと、すぐに戻ってくるのでそれまで逃げないようにと鼻っ面に指を突きつけて厳命。一度温泉旅館を出ていった。


 ちゃぽん、とどこかに水滴が落ちる音を意識の片隅に聞きながら、海水を洗い流した体を目元までお湯に沈める。


 ぶくぶくぶくと、疑問符とともに湯船に気泡を吐き出した。


 温泉なんて久しぶりで、気持ちよすぎて悦に浸っていると、いつの間にか営業が始まる時間になっていた。名残惜しい気もしたが、仕方なく湯船から体を上げる。


 脱衣所まで出てくると、海水を吸って重たくなってしまった服の代わりに、新品の衣服が置かれていた。これに着替えてくださいと丸みを帯びた字で書かれたメモと一緒に。


 すっかり温まってぽかぽかになった体に服を通していく。

 黒のTシャツに白パーカー、下は紺のジーンズだった。わざわざ準備してくれたようだ。


 ほくほく気分でフロントまで出て行くと、僕と同じだと言った少女、叶さんが戻ってきていた。


 叶さんはフロア脇の椅子に腰掛け、手に持ったドライヤーを机の上に向けている。僕が出てくるのに気づくなり、くりっとした目がこちらを向いた。


「お、出てきた出てきた。服のサイズはどうだった?」


「ああ、えっと、うん、大丈夫。これ、叶さんが準備してくれたの?」


「そうだよ。あ、着ていた服はとりあえず預かってるから」


「な、なにからなにまでどうもです。それで、叶さんはなにしてるの?」


 ドライヤーの電源を切りながら、叶さんは机の上のものを手に取った。


「これ乾かしてたの。服はすぐには無理だけど、これは早く返した方がいいと思うので」


 差し出されたのは、海に飛び込んで一緒に濡れてしまったブレスレット。微かに湿り気が残っているが、それでもドライヤーをあててくれたこともありほとんど乾いている。


「それはたぶん、あなたにとってすごく大事なものだと思うので、絶対になくさないでね」


 大事なものとか以前に僕のものでさえないんですが。拾いものだと説明するわけにもいかず、曖昧に笑う。

 渡されたブレスレットをポケットにしまうのもおかしい感じなので、左手首に通した。実際に身につけるのは初めてだが、意外にも違和感はなかった。


 温泉の女将さんに何度も頭を下げ、僕は叶さんに連れられて外に出た。


 叶さんは僕を連れて軽快に歩みを進めていく。港町や住宅街から外れ、江宮島で最も高い山に足を向けた。


 微かに潮を感じさせる風が、温泉上がりの火照った体を涼しく撫でていく。


 これまでも現状について理解できていたわけではないが、さらに不明瞭になった。


 木漏れ日が舞う参道には、太陽が降ろす幾重もの影が落ちていた。だけどその陰影に、僕らの影だけは刻まない。普段自分の影なんて気にしていないので、今日まで影がないなんて気づきもしなかった。


 影から視線を上げ、前方を歩く少女に視線を向けた。


 どことなく儚げな雰囲気を持つ女の子だ。


 同い年というには小さく細めの体つき。肌はこれだけ日差しが強い島であるにも関わらず透き通るような白。背中の中ほどまである長い亜麻色の髪。丈の長いスカートに、上はシャツの上からニットを着ている。肩からはショルダーポーチを下げており、その中にカメラや手帳を収めているようだ。


 僕が他の世界からやっているという実例がある以上、僕の他に同じ存在がいることについては不思議ではない。


 ただ、正直なにがなんだかさっぱりだ。


 初めてこの世界に訪れた日から一週間。

 現在僕に起きていることは、今でもほとんどわかっていない。


 けれど確実なこともある。


 山道を歩きながら、眼下に広がる大自然と、それに囲まれる街を見渡す。


 初めは夢だと思っていた。明晰夢のように、自覚できている夢だと。


 でも違う。僕が訪れているこの場所は、夢などではない。

 この世界は、僕の夢の中だけで終わるものなどではなく、確固として存在している一つの世界。


 僕は世界を越えて、別の世界に訪れることができるようになっていた。


 僕のことを誰も知らない、誰かとのつながりがない世界に。


 僕が降り立った場所は、江宮島という島だった。


 一週間、僕は毎日この島に訪れ、あちこちを歩き回ってみた。


 江宮島は本土から離れた島。主な移動手段は本土から架かっている橋を利用した自動車での行き来。もしくはフェリーでの渡航のようだ。


 人口は十万人くらい。離島であることを考えればなかなかの規模だ。


 だが、わからないことも存在する。


 最たるものはなんといっても、この世界と僕の世界の関係性だ。


 僕の目と思考で考える限り、言葉は日本語。旅行者は別として、この島の住人は日本人に見えるし、日本語を話している。

 ただ日付は、こちらの世界の方が半日遅い。半日遅いだけで、西暦も月日も同じだ。時間が昼夜逆転しているのだ。僕の世界で夜に眠れば、こちらは昼。もっとも、こちらの世界に夜まで居座ったことがないので、その場合時間がどうなるかは謎だが。


 でも僕の世界に、この江宮島という島は存在しない。


 名前をインターネットなり図書館で調べたが、そんな名前の島は僕の世界に存在しなかった。


 この世界に来る手段は、ただ眠ること。帰る手段についても、この世界で眠るだけだ。行き来の方法は眠ることがトリガーになっている。


 服装についてはよくわからないが、最初にこの世界にやってきた際に着ていた、白のパーカーとカーゴパンツのまま変化がない。他の服を着て眠ったとしても結局同じ服だ。寝ていたときは靴を履いているはずもないが、こちらの世界に初めて訪れた際に普段使いの運動靴を履いていたのだ。今は叶さんが用意されている服を着ているのだが、次に行き来するときはどうなることやら。


 まったくの、原理不明の数々である。


 あげく、僕と同じだという少女まで現れた。


 いったい、なにがどうなっているのか。


「あの、叶さん」


 掃除が行き届いた石階段を上りながら呼びかける。


 数段先を歩く綺麗な少女は、小さく笑って振り返った。顔の横で髪に結ばれた白いリボンがひらりと揺れる。


「私のことは明日葉でいいよ。この世界では私たち、家族も身よりもないから、私たちが名字を名乗ってもってことでね。同い年だから、私は結弦くんって呼ばせてもらうね」


「……じゃあ、僕も明日葉さんで」


「さん? んー、さんか……。ううん、さんもいらないよ」


「……明日葉ちゃん?」


 少女はいたずらっぽくくすりと笑う。


「ちゃんもいりません。わ、私は男の子を呼び捨てにするなんてしたことないので、くん付けさせてもらうけどね」


 そちらはくんづけなのに、なぜこちらはさんもちゃんも許してもらえないのか。これが女尊男卑というやつだろうか。違うな。

 僕だって女の子を呼び捨てになんて……、いや普通にしてるか。でも葉月とかはちゃんづけするキャラじゃないからなー。気持ち悪いとか言われそうだし。


「それじゃあ明日葉。僕たちはこれからどこにいくの?」


「これから結弦くんを案内するのは、私たち旅人を迎えてくれる人のところ、なので」


 そうして、明日葉は石階段の一番上を蹴った。


 たどりついた場所は、この島、江宮島の山高き場所にある神社だ。


 僕が最初に訪れた場所でもある。


 階段を登り切った先には、大きな鳥居が迎え入れてくれる。

 そして鳥居横の石碑に、その場の名前が刻まれていた。


 江宮神社えみやじんじゃ


 江宮島が祀る、あまたの歴史を誇る巨大な神社だ。巨大と言っても、江宮神社の敷地は広大で、全容はまったく把握できていない。


 実際ここはまだ江宮神社の入り口に過ぎない。

 江宮神社の入り口には大きな鳥居、そして江宮島の頂上に至るまでの道中に、摂社や末社が存在している。そしてこの参道の最奥にして山の頂に、本殿と拝殿があるのだ。


 明日葉は江宮神社の入り口である鳥居の下までやってくると、立ち止まった。


 二回、パンパンと手を打つ。そしてそのまま打ち合わせた手をほどき、指を絡める。


 そして、祈る。


 見たことがない作法だった。神道では見られない、どちらかと言えばキリスト教、クリスチャンの祈り方だ。


 しばらく目を閉じて祈っていた明日葉は目を開けると、鳥居をくぐって神域に足を進める。


 僕はいつも通り、多くの人がそうするように、ぺこりと一礼して神域に入った。


 明日葉が歩いていったのは、鳥居をくぐってすぐ左手にある大きな建物。宮司さんたちが事務を執り行う場所、社務所である。


 僕はなにも言わず、社務所に足を向ける明日葉の後ろまでやってくる。


「……あなた、変わってるね」


 扉を開けるより前に、明日葉はそう言って僕を振り返った。その表情はおもしろそうな生き物を見つけたように笑っていた。


「私の参拝の仕方を見て、なにも言わなかった人なんて結弦くんが初めてだよ」


 先ほどの、手を叩いて指を組むやり方を言っているらしい。


「やり方や考え方なんて、人それぞれだよ。宗教や限られた場所にはたしかに決められた作法がある。けど、まだよく知りもしない相手に、自分の知っている知識や考え方を押しつけるのは傲慢ってもんだよ」


「ははっ、やっぱりすごく変わってる。でも、いい変わり方。私は好きなので。そういうの」


 楽しげに笑う少女は、またくるりと体を回して前を向く。


 失礼しますと断りをいれながら、社務所の扉を開けた。


 勝手知ったる様子で案内された部屋は、厳かな空気を感じさせる和室だった。


 十数畳の広々とした部屋に大きな木製の机があり、座布団が向かい合わせで三組置かれている。部屋の奥には水墨画の掛け軸や木彫りの置物など、見るからに高級そうな工芸品が並べられていた。


 明日葉は僕を部屋に通したあと、誰かを呼びにいっている。


 僕は一人座布団に正座し、針で体を刺されるようなプレッシャーに耐えていた。


 なにやら場違い感がすごい。僕だけ部屋の内装にコピペされている気分。

 もし隻眼で頬に刀傷とか、どう見ても堅気じゃない人でも出てきたらどうしよう。最近そういう小説を読んでいたから少し不安だ。


 しばらくすると、ふすまの向こうに人の気配がした。


「失礼します」


 風鈴のような心地よい声が響く。すっと、ほとんど音を立てずにふすまが開かれる。


 現れたのは一人の女性だった。すらりと細くも高い身長。その身にまとわれている服は神社特有の衣装、巫女装束。コスプレや娯楽的な要素はまったく含まれない、清廉な紅白の装いだった。巫女装束を引き立てるような長い黒髪はうなじでまとめられ、背中へと流されている。


「お待たせしました」


 見た目通りの柔らかな表情で、女性は僕に笑いかける。


 年齢はおそらく二十代前半ほど。穏やかで優しげな雰囲気が印象的な人だった。


 見るからに僕が緊張していたのだろう。女性はおかしそうに表情を綻ばせる。


「そう緊張されないでください。とって食うつもりはありませんよ。混乱させてしまったようで、申し訳ありません。いろいろ手違いがあったものですから」


 はあ、と僕が気の入らない言葉しか返せない間に、女性は僕の正面に腰を下ろした。育ちのよさを感じさせる、乱れのない所作だった。


「お邪魔しまーす」


 続いて女性の開けたふすまから、うきうき気分の明日葉が大きなお盆を手に現れる。


「粗茶ですが」


 ことりと、僕の前に高そうな湯飲みが置かれる。ほんのり漂うお茶の香りが、乱れた心を静めてくれる。さらにきなこがふんだんに振りかけられたわらびもちも並べられた。


 女性と僕の前にそれぞれ出し終えると、明日葉は机の隅に自分の分のお茶とお茶請けを置き、ちょこんと座る。


「申し訳ありません。まずは、自己紹介から」


 再び謝罪の言葉を述べながら、女性は自らの胸に手を置いた。


「はじめまして。私は、伏見葵ふしみあおいと言います。この江宮神社で、巫女をしているものです」


「こちらこそ、はじめましてです。僕は、出雲結弦と言います」


 緊張しながら、僕も名乗る。


「この島には伏見という名前の人間がそれなりにいるので、私のことは葵とお呼びください。あなたのことは、古くから続く慣例なのですが、結弦さんと名前で呼ばせてもらっていいですか?」


「あ、はい、大丈夫です」


 薄い笑みを浮かべたまま、伏見葵と名乗る女性は続ける。


「結弦さん、あなたにはわからないことが多くあると思います。ですが、心配しないでください。私たちの世界、いえ、正確に言うならこの島では十分に起こりうることなんです」


 葵さんの瞳が不思議な熱を帯びる。


「あなたたちの世界から、あなたたちにとっての異世界、私たちの世界へと渡る、旅人は」



 旅人たびびと


 旅行者などと近い意味で使われる言葉だが、この江宮島ではとある隠語として使われるそうだ。


「あなたたちがこの世界に渡るために必要な行動は二つ。一つは、世界を渡る意識を持って眠ること。そしてもう一つが、眠る際、近くに御守おまもりがあることです」


「おまもり……ですか?」


 意味合いはわかるが、僕には覚えのないものに首を傾げた。


 僕の反応をおもしろがるように、葵さんは口に手を当てて笑う。


「わかりませんか? ここ最近、あなたの身の回りでおかしなことがあったはずですよ。おそらくは、この世界に初めてやってきた日の直前です。なにか、拾いませんでしたか?」


 言われて、僕はあっと思い当たった。


「もしかして、これでしょうか?」


 机の下から持ち上げた左手。その手首には、緑色の石をあつらえたブレスレットがある。


 この世界に最初に来たとき、目を覚ますと手の中にあった。ずっとポケットに入れて持ち歩いていたが、先ほど明日葉から渡され初めて身につけるに至った。

 思い返せば服以外の持ち物で、こちらの世界に来たときに持っているものはこのブレスレットだけだ。


 葵さんは黒い目を細めて、ブレスレットをのぞき込んだ。


「それがあなたの御守で間違いないですね」


「あの、御守というのは神社などに置かれている、あのお守りと同じものですか?」


 その問いに答えたのは、机の隅でお茶を飲んでいた明日葉だ。


「違うよ。御守は便宜上そう呼んでいるものなので。神社に置かれているお守りは加護や魔除けの意味があるもの。それで私たちが言う御守って言うのは、私たち旅人が世界を渡るために絶対に必要なものなんだ」


 明日葉は近くに置いていたポーチから白い手帳を取り出した。


「これが私の御守。どんな形のものであるかは人それぞれで、私の場合は日記帳なので」


 手帳かと思っていたが日記帳だったららしい。たしかによく見させてもらえば、留め具で固定されている表紙に、手書きの文字で日記と書かれている。


「これは私たち旅人にとってすごく重要なものだから、大事にしてほしいので」


 たしなめるように指を立てて明日葉は言った。


「……さっき、海に投げ捨てかけてたよね?」


「あ、あれは違うよ! じ、自転車! 全部自転車が悪いので!」


 僕たちのやりとりに、葵さんは楽しげに笑った。


「少しお話も長くなるので、結弦さんもお茶とお菓子をどうぞ。どちらも、明日葉さんが用意してくれたものです」


「どうぞどうぞ」


 勧められるがまま、いただきますと断ってお茶をずずっと一口。暖かくて甘く適度な渋み。あまり本格的なお茶を飲み慣れていない僕にも飲みやすいものだった。


 そして、お茶請けとして添えられていたわらびもちもぱくりと一口。


「おぉ、このわらびもちおいしい。これ手作りなの?」


「ふふーん、料理は数少ない私の特技だからね」


 自信満々にもの悲しいことを告げながら薄い胸を張る明日葉。


 葵さんも一口お茶を飲んで喉を潤した。


「旅人の存在は、島外の人間には秘匿されています。ですが、この江宮島では周知の事実です。もうずっと昔から続いている伝統なんです」


 おおよそ僕がいる世界では今日、非科学的なものはかたっぱしから否定される。

 しかし僕はこうして自分の身で体験した以上、受け入れざるを得ない。


「私たちの世界にも、異能と呼べるものはまずありません。ただこの島で唯一、旅人は理を越えた存在です。あなた方だけが特別である。私を含め、この島の人たちはそれを知っているだけの普通の人間だと、ご理解ください」


 僕はうなずきながらも、説明を頭の中で消化できずにいた。


「ここは、日本なんですよね?」


 僕はこの島を一週間近くさまよった。そこにあるのはどこにでもある普通の風景。僕の世界とほとんど同じ文明レベルに、言語に知識も、差を見つけるのも困難なほど同じだ。


「ええ、あなたも生きている世界の日本と同じです。ただし、どこかで世界が完全に分岐した、いわゆる平行世界になります。地理や歴史もそれなりに違うのですが、最低限同一のものになっています。過去訪れた旅人の方は、世界の強制力、なんて表現していました」


 世界の強制力。なんとなく腑に落ちる言葉だ。


 元が同じ世界であっても、わずかなことで大きく歴史や出来事が十分変わる。僕らがこうやって同じコミュニケーションを取ることができて、共通の文明レベルを持っている。それは、世界の強制力で同種ものに強制されていると思うと、納得できる気がした。


「いつからか、正確なことはわかっていません。最低でも百年ほど昔からですが、江宮神社でお焚き上げをした様々なものが、世界を越えて誰かのもとに渡るようになりました」


「世界を、渡る……?」


「はい。この江宮神社には、神社では珍しい風習があります。もの供養です」


 もの供養。思いや気持ちがこもっていてそのまま捨てることがしのばれるものを、神社やお寺などで引き取ってもらい、お焚き上げをする風習だ。有名なのはお寺などで行われる人形供養だろうか。ただ人はいろんなものに思い入れがあるので、様々なものを供養している場所もあると聞く。


「江宮神社には、日本全国各地から様々なものが届けられます。現在は私、私の先代は私の祖母と、もの供養は連綿と続いています。結弦さんのブレスレットも、明日葉さんの日記帳も、私がこの神社でお焚き上げをさせていただいたものです」


 僕は眉をひそめずにはいられなかった。


 お焚き上げ。つまりは燃やした、ということ。

 でも僕のところにも、明日葉のところにも、間違いなくブレスレットや日記帳が形を持って存在している。


 僕の考えを読み取ったように、葵さんは目を閉じて説明を続ける。


「神々のもとに還されたにも関わらず、この世界に留まることを選び、なおかつ世界を越えるほど強い思いが宿ったもの。それらの思い出の品を私たちは敬意を込めて、御守と呼ぶんです」


 つまり、このブレスレットも以前はこの世界の誰かの持ち物だったということ。それがこの江宮神社に届けられ、お焚き上げされて、そして世界を渡って僕たちのもとに訪れた。


 それなら、ブレスレットの以前の持ち主はいったいどんな人なんだろうか。


 葵さんは細く白い指を唇に当て、パチリとウインクした。


「ただし、元の持ち主や詳細についてはプライバシーに関わることなので、絶対に秘密です」


 不意に浮かんだ疑問が、かわいらしい仕草で即シャットダウンされてしまった。


 魚の骨のように喉に言葉をつまらせる僕を見て、葵さんはおかしそうに口を押さえて笑う。


「御守はあなたたちの願いをくみ取ったんです。あなた方の願いを叶えるために」


「僕たちの願いを、叶える?」


 うなずき、葵さんは正面から僕を見据える。


「旅人に選ばれ、御守を手にしたみなさんには、共通点があります」


 すっと、視界のすみで明日葉が表情を強ばらせた。


 葵さんもそれに気がついたように見えたが、視線は向けず、薄く笑みを浮かべる。


「神社に毎日のように通い、そして願い続ける方。結弦さん、あなたにも覚えがあるんじゃないですか?」


 言い当てられ、どくりと胸が脈打つ。

 たしかに僕は、本当に毎日毎日神社に通っている。もう何年も続けていることだ。


「江宮島が奉る神々は、直接人の願いを叶えてくれるわけではありません。しかし、きっかけは授けていただけます。その一つが、旅人と御守。願いを捧げる人たちに御守を授け、旅人として異世界である江宮島に迷い人を招きます。御守を手にした人は、この世界を意識して眠りにつくことで、江宮島に渡る。そして、自らで自らの願いを叶える機会を与えられます。すべて、あなたたちが神前で捧げ続けた願いを叶えるために」


 旅人は誰しも神社で、神前で祈りを捧げ続けているという。


 僕も、これまでの旅人も、そして、きっと明日葉も。


「それともう一つ。あなた方の願いの他に、あなた方旅人には、この世界でやるべき使命が存在します。それは旅人それぞれ違っています。その人の願いによって、一つの絵を描き上げることであったり、この島に現れた犯罪者を捕まえたり、大昔だと食糧事情を解消したり。自分のためであったり、島のためであったり、誰かのためであったり、旅人にはこの世界に招かれた意味が存在します」


「僕たちが、この世界に招かれた、意味……」


「今は深く考えないでください。そのときが来れば、旅人は自ずと自らの願いと使命を悟ることができるそうですから。あなた方の願いが叶うとき、それがあなたたちのやるべき使命のときでもあります」


 そして、と葵さんは続ける。


「あなた方の願いが叶ったとき、あなた方がやるべき使命を終えたとき、御守は自らの役目を終えて消えます。そのときが、旅の終わり」


 ふと、僕自身の御守であるブレスレットに、僕の視線は落ちる。


「私たち伏見はあなた方旅人が、旅を楽しく素敵なものにできるように手助けをさせていただく一族です」


 穏やかで、優しげで、どこか神聖さを感じさせる表情で、葵さんは諭すように言った。


「旅人、出雲結弦さん。あなたも、世界を渡り訪れたこの世界で、あなたの願いを叶えてください。そしてあなたの旅を、楽しく素敵なものにしてくださいね」

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