つながる世界 ー3ー

 初めてだと言われている、二人目が現れた可能性がささやかれるようになって一週間。


 パシャリと、街ゆく旅行者らしき人を遠目に撮影する。手にしているのは、押し入れの奥で何年も眠っていた古い一眼レフカメラだ。カメラなんてほとんど触ったことはないが、ぎりぎりデジタルカメラなので知識のない私にも簡単に扱えた。写真を撮る趣味はないけれど、今は必要だ。


 私はカメラとショルダーポーチを手に、人通りの多い街を歩き回っていた。


 本土から海を隔てた島であるこの場所は、船はもちろん、本土からつながった橋から車を利用してやってくることもできる。

 島といっても、人口は他の離島に比べてずっと多く、地方都市くらいはある街を港の隣に構えている。島単体で多くの産業を発展させており、中でも観光業にはとても注力している。

 綺麗な海、神々しさすら感じる自然、この島の最上に位置する歴史ある神社を見るために、連日多くの観光客が行き交っている。


「ようお嬢ちゃん。今日はカメラ片手にお出かけかい?」


 観光客や地元住民に親しまれる港の市場を歩いていると、気のいいおじさんが声をかけてきた。白いシャツに頭にタオルを巻いた、いかにも市場のおじさんという格好だ。私がよくお魚を買わせてもらうお店で、いつも鮮度のいいお魚をたくさん仕入れている。今日もおいしそうなお魚がたくさん。目移りしちゃう。


「はい。ちょっと人を探しているので」


「人? ああ、もしかして探しているってのは……」


「そうですそうです」


 意味ありげな視線を向けてきたおじさんに、私はうなずいてみせる。


「それはご苦労様だ。おじさんも気をつけてはいるんだけど、それっぽい人は見てないんだ。ごめんね」


「いえいえ、大丈夫ですので」


「しかし本当かね、二人目なんて。俺もこうして何度か会ってるけど、もう一人なんて聞いたこともないんだけどね」


 次に買い物に来たときはサービスするよとおじさんに送り出され、私は再びふらりと歩き始めた。


 私が本殿の内院に誰かの足跡を見つけてすぐ、他の人を連れだって玉垣の内側を確かめた。

 けれどやはり、中には誰もない。だけど確実に、誰かがいたであろう痕跡が残っていた。


 もしあの神社に招かれてあの内院の玉砂利を踏みしめたのなら、その人はこの島にいる。再びこの島に来ることにしたのなら、という条件付きではあるが。


 そういう存在がいるということが周知されているこの島においても、今回はまったくのイレギュラー。完全に前例がないらしい。


 街から離れてやってきたのは、連なる山々と隣接している海だ。


 顔の横で髪をまとめたリボンに触れながら、私は一人唸る。


「でも、二人目の人にも問題があると思うので。うん、思うので。この島の誰かに声をかければこっちはそれで十分なのに、どうしてそうしないのかな。まあなんて声をかけるかって問題もあるけどぉ……」


 この島の住人にも二人目の存在は伝わっている。だからもしその人がそうだとわかれば、私たちのところに連れてくることになっている。


 それでも、二人目がこの世界にやってきたであろう日から一週間がたっているのに、まだ見つけられない。


 それとも、もしかしたら……。


 私は肩に提げていたポーチから、日記帳を取り出す。


 真っ白の装丁が印象的な日記帳だ。

 肌触りのよい紙の感触。私にとって、とても大事なもの。いつも肌身離さず持ち歩いている。


「もしかしてその人はもう、この世界に来るのをやめてしまったのかな……」


 肩を落とし、歩道から海を見渡す。フェンスを挟んだ向こう側には、海底が透けて見えるくらい綺麗な海が広がっている。


 この島にやってくる人たちは、願いを持っている。


 だからこそ、この島を一度訪れた人は、何度もこの世界に足を運ぶのだ。

 自分の世界で捧げた願いを叶えるために。


 照りつける太陽を受けて、きらきらと光を放つ水面。

 神々しく緑を放つ山並み。

 心優しい、暖かな人たち。

 この島はなにもかもが新しく、尊く、綺麗で、素敵なものであふれている。


 吹き付けた潮の風に、私の髪がふわりと広がった。なびく髪を手で押さえていると、自然と口元が緩む。


 私もこれまでの人と同じように、この島での生活が、やっぱり楽しい。


「さて、もうひと頑張りするのでっ」


 気合いとともに声を上げ、振り返る。


 そのとき――


 風を切る音とともに、歩道を突っ切るようにマウンテンバイクが迫ってきた。 


 私は思わず飛び退いた。

 服の袖をかすめて、マウンテンバイクが勢いよく走り去っていく。


「――とっと」


 後ずさると、敷き詰められたタイルの段差に足を取られた。バランスを崩して慌てて体勢を立て直そうと、腕を振ってしまう。


 その拍子に、抱えていた日記帳が私の手を滑り落ちて、宙を舞った。


「あっ――」


 勢いよく飛び出した日記帳は、海へと投げ出される。


 咄嗟に手を伸ばすが、日記帳は私の短い手では届かないほど遠くにいってしまっていた。


 頭が真っ白になる。



 いけない――大事な、借り物なのに――



 瞬間、トンッという軽快な音が響く。


 羽が踊るような自然な動作で、目の前のフェンスが踏みしめられた。


 手を伸ばしても絶対に届かないほど遠くにあった日記帳が、突然飛び出したその存在につかみ取られる。


「パスっ」


 空中で体を翻しながら、こちらに向かって投げられる日記帳。

 ふんわりと緩やかな放物線を描き、日記帳は私の手にすっぽりと収まった。


 と、同時に。


 盛大に水しぶきを巻き上げ、海に、人が、落ちた。


「え……ええええええええっ!」


 受け取ったばかりの日記帳を胸に抱え、フェンスに手を突いて海をのぞき込む。


 透明な海に、真っ白の気泡が沸き上がっていた。


 お、落ちたああああああああっ! う、海に人が!? な、なんでなんで!


 パニックに陥って誰か近くにいないかきょろきょろと辺りを見渡す。

 だけど、付近には誰もいなかった。先ほどのマウンテンバイクは遙か遠くに走り去っている。もうっこんちくしょうっ。


「――ぷはっ」


 泡立つ水面から、その人は顔をのぞかせた。


「けほっけほっ、ああえーと、すいませーん、手帳はどうでしたかー?」


 軽く咳き込みながら、海に飛び込んだ人は手を振って問いかけてくる。


 …………いやいやいやっ。


「こ、これは大丈夫でしたけどっ! そちらが全然大丈夫じゃないですよ! なにやってるんですか!?」


 海に投げ出されたにもかかわらず、日記帳には水滴一つついていない。大事なものでもあるが、それ以前に紙製品なので濡れれば冗談ではすまない。


「ははっ、たしかに」


 海に落下した当の本人は、私の心配がバカらしくなるほどあっけらかんと笑っていた。


 全然笑いどころじゃないんですけど!


 男の子だった。私と同い年くらいの男の子。


 男の子は周囲を見渡すと、すいすいと海水に手を泳がせ、少し離れた波打ち際へと近づいた。


 舗装された波打ち際には、強度補強のためかところどころ出っ張っている部分がある。男の子はその出っ張りに手を掛けた。


「よい……っせ……っと」


 ばしゃんと勢いよく水しぶきを上げながら体を踊らせる。さらにもう一方の手でフェンスをつかんで体を引き上げた。そのままフェンスまで跳び越え、歩道の上に緩やかに降り立った。


 な、なんて身軽な人……。


「気持ちいいけどさすがに少し冷えますね」


 雨でずぶ濡れになった猫のようになっているにもかかわらず、男の子は変わらず笑顔のまま濡れた髪を払う。だけど着ていたパーカーとカーゴパンツは、そんなことではどうにもならないほどずぶ濡れだ。


 私はポーチから白いタオルを引っ張り出し、大慌てで男の子へと駆け寄った。


「あ、当たり前じゃないですか! まだ四月ですよ! なんで、こんな危ないことを……っ」


 タオルを渡そうとしたけど、やんわりと手で制された。


「タオルは大丈夫ですよ。今日は天気もいいので、外にいればすぐに乾きます」


「バカですか!? 風邪引きますよ! だいたい怪我したりおぼれたりしたらどうするつもりだったんですか!?」


 私がひどく取り乱して一気にまくし立ててしまっているのに、男の子は人懐っこく笑うばかり。


「あはは、これくらいどうってことないですよ。これでも、運動神経には自信あるんです」


「そ、そうじゃなくて、困るのは私なんですからあなたが無茶やる理由はないと思うので!」


 詰め寄りながら声を荒らげる私の剣幕に、男の子は一瞬面食らったようだった。それでも、小さく笑みをこぼす。


「女の子に飛び込まれるより、僕が飛び込んだ方がましですから。危ないとわかっていることを、誰かにやらせるわけにもいかないでしょう」


 わずかばかり、険のある言い方だった。私に向けられた棘ではない。知らない彼のどこかに、誰かに向けたもの、だと思った。


「あなたは……っ」


 私はまた声を上げそうになるが、吐き出す前にすっと熱が冷えていく。


 続いて、長々とため息が漏れた。


「……お人好しですね、あなたって」


「そうかもですね」


 のらりくらりと笑顔を絶やさない男の子。不思議と不快感はないが、でもなにか、警戒されているようだった。


「海に飛び込んだのはあれとして、ありがとうございます。そちらは大丈夫ですか? スマホとかお財布とか、濡れて困るものとか持ってなかったんですか?」


 見たところ手提げの鞄一つ持っている様子はない。


 男の子は曖昧な表情を浮かべたまま、海水が滴る指で頬をかいた。


「あー、スマホも財布も持ってな……えと持ってきてないので大丈夫ですよ。ああっ、でも」


 はっとなにかに気がついた様子で、カーゴパンツのポケットに手を入れた。


 取り出されたのはブレスレットだ。緑色の石を基調に革紐と組み紐をあつらえたブレスレット。ハンドメイドのようでありながら、とても綺麗なアクセサリーだった。


 男の子は困り顔で頭に手をやり、ブレスレットを見下ろす。


「これが濡れたのはちょっとまずかったかも……。ま、まあ乾けば大丈夫。きっと大丈夫」


 言い聞かせるように呟くと、またポケットに戻した。なんで、つけていないんだろう。


「……この島の人ですか?」


「いえ、違いますよ。でも大丈夫です」


 大丈夫なんて言っているが、男の子は見るも無残に濡れねずみ状態だ。体から落ちる水滴がぽたぽたと熱されたアスファルトに染みを作っていく。


 ふと、違和感があった。


 はっとして、私は自分の足下を見やる。


 男の子は優しげな笑みを浮かべると、こちらに背を向けた。


「それでは、僕はこれでうえっ」


 立ち去ろうとする男の子の腕を私がつかんだことで、男の子は勢い余ってすっころびそうになる。


「っとと、ええと、どうかしましたか?」


 口元を引きつらせながら、やっぱりなにやら警戒心をのぞかせる男の子。


 私は答えるより先に、日記帳をショルダーポーチにしまう。そして代わりに一眼レフカメラを取り出す。

 そして無遠慮ではあるが、戸惑う男の子に向けて、シャッターを切った。


 撮影し終わったばかりの写真が、液晶モニターに表示される。


 その写真を見た私は、安堵して、吐息を漏らした。


「はぁ……やっと見つけたので……」


 私の言葉に、男の子は首を傾げる。


 続いて、失礼しますと前置きして、もう一度男の子に一眼レフカメラのレンズを向けて、シャッターを切る。


 再び驚いて目をぱちぱちとさせる男の子に、今し方撮影したばかりの写真を向ける。


 その表情が、いぶかしげに歪んだ。


 男の子は、なにかのトリックだと思ったかもしれない。たまたま似た構図で撮影した写真だと思ったかもしれない。でも、はっきりとしている事実が一つ。


 撮影したばかりの写真に、男の子の姿はない。誰もいない、人っ子一人写っていない、海岸線の歩道が写っているだけ。


「この世界に来た人には、いくつか特徴があります。たとえば、写真に写らないこと」


 その言葉に、男の子の警戒心が一気に強くなった。その気持ちはわかる。わかるが、逃げられてしまう前に説明する。


「私はずっと探していたんです。あなたを」


 腕を伸ばし、カメラのレンズを私自身に向け、液晶モニター側を男の子に向ける。


 そして、シャッターを切る。


「ぁ……」


 男の子は驚いた様子でぽかんと口を開けた。


 この一眼レフカメラは、撮影した直後の写真が液晶モニターに映るようになっている。

 男の子が見たばかりの写真を、私自身も確認する。


 誰も写っていない、先ほどと対称的な、海岸線の歩道の写真。


「ごめんなさい。誤解しないでください。不安に思うのはわかります。けどこの島では、珍しいことではありますけど、あり得ないことではないので」


 そして私は、もっとわかりやすく、決定的な例を提示する。


「足下を見てもらっても、いいですか?」


 男の子が絶賛水滴を垂らしているアスファルトを指さす。


 私が自分たちの足下へ視線を促したとき、ちょうど道路の向こう側から大型観光バスが走ってきた。ゆっくりと走る回送バスの大影が、私たちの体をすっぽりと覆い尽くす。


 私たちの眼下には、私と男の子の足がそれぞれある。それだけだ。


「えっと、足下になにが……」


 男の子の言葉が、バスが通り過ぎると同時に、止まった。


 爛々と輝く初夏の陽光。ほとんど雲さえない快晴は、私たちに明確な影を落としているはず。


 いる、はずなのだ。


 私、男の子、それぞれが立つアスファルトの上には、文字通りの意味で、影も形もない。


 私たち二人が落としているであろう影は、この世界のどこにも存在しなかった。


「写真にも写らない。この世界に影を落とすこともない。それが、私たちの特徴なので」


「……君も……なの?」


「はい、私もです」


 戸惑いとともに声を漏らす男の子に、私は笑みを向ける。


「はじめまして。私は、叶明日葉かのうあすはと言います。あなたのお名前はなんですか?」


 突然名前を尋ねられたことに、少しばかり驚いた様子ではあったが、男の子は私を見返して口を開く。


「僕は、出雲結弦いずもゆづる


「いつくですか?」


「……今年十七で、今は十六」


「あ、同い年なので。私も今十六で、今年で十七だよ」


 近しいとは思っていたが、まさかの同い年だった。うっかり私の言葉も崩れた。


 男の子のなにを考えているのかわからなかった子犬のような目が、微かに開かれる。


 あ、今この人絶対私のこと、もっと年下だと思ってた、とか考えやがったなぁ……。


 実年齢より幼く見えることは、私自身気にしていること。ではあるのだが、初対面の人にそんな不平を漏らすわけにもない。とりあえず拳をぎりぎり握りしめるだけに留める。


 咳払いを一つ落とし、私は改めて、戸惑う私と同じ人に笑みを向ける。


「出雲結弦くん。あなたがこの神々の島、江宮島えみやじまに旅をしてきたように、私も同じようにこの島に旅をしています。私も、別の世界からこの世界に招かれた、旅人なので」

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