僕の夢

「なにしてるんですか?」


 突然投げられた声。

 一週間近く聞いていなかった声だが、誰のものかは目を向けずともわかった。

 もう一度ため息を落として、声がした方に目を向ける。


「それはこっちの台詞だよ。未来こそ、こんな遅い時間になにをやってるの」


 いつの間にすぐ近くに立っていた未来。

 まだ高校のブレザーを着たまま、笑みを浮かべてこちらに目を向けている。


「叶太さんを探していたんです。もしかしたらここにいるんじゃないかって言われたので」


「誰に教えられたのかは知らないけど、もう帰るよ。寒いしね」


 十一月の夜はもう冬を思わせるほど寒くなっている。こんなところにいつまでもいたら風邪をひいてしまう。


「もう新しい小説は投稿しないんですか?」


 自転車に向かおうとしていた体がぴたりと止まる。

 先ほどまで浮かべていた微笑はなりを潜め、真剣みを帯びた表情がこちらを向いていた。


「……言ったでしょ? 前に書いていた小説は消した。もう投稿できる小説なんてないよ」


「なら、もう一度書けばいいじゃないですか」


 当たり前のようにそんなことを口にする未来に、少しばかりの苛立ちが心に落ちた。


「僕はもう決めていたって、言ったよね。中学時代に書いた小説全部投稿して、そのときに小説を書くことができなかったら、僕はもう小説を書かない。そう決めていたんだよ。その期限は数日前にきている。僕はもう、小説は書かない」


「書かない。書けないんじゃないんですね?」


 真っ直ぐこちらを見つめながらそう尋ねてくる未来に、僕は言葉を詰まらせた。


「……同じことだよ。最近、ちょっと小説が書けるような状態になっていたけど、それでもやっぱりダメだった。僕は小説を書くべきじゃない。書いたって、誰も喜ばなかった」


「朝鳥怜治さんや、二色ちとせさんのようにですか?」


 二人の名前が未来の口から出たことに、僕は驚かずにはいられなかった。

 だが、すぐに誰に聞いたのかは合点が言った。


「天音に聞いたんだね」


「ごめん。話しちゃった」


 いつからそこにいたのか、未来の後ろから天音がやってくる。


「……別にいいよ。隠すようなことでもないしね」


 口ではそう言いながらも、未来にそのことを知られていることに内心動揺してしまっていることが腹立たしい。


「二人そろってなにか用なの? 特に用がないんなら、僕は早く帰りたいんだけど」


「用があるからここにいる」


 天音は肩をすくめながらため息を落とす。


「叶太の様子がおかしいことは私たちだってわかってる。心配しないわけない」


「別に普通だよ。それに天音も、聞いているなら未来だってわかるでしょ? 僕はあの二人が持っていた夢を奪ってしまった。僕が小説を書いたところで誰も喜ばないし、意味なんてないんだよ。僕だって、これ以上辛い思いをしたくはない」


「私は、叶太の小説に助けられた」


 天音は微笑みながらゆっくりと口を開く。


「私が学校に行けなくなったときに、私は叶太の小説に助けられた。もう一度学校にいこうかって、思えた」


 天音に渡した小説の話も未来に話しているようだ。


「叶太の小説があったからだよ。私は、叶太が小説を書いていて、よかったと思う」


 たしかに僕は書いていた小説を天音に渡した。天音が中学で受けていた扱いに納得できず、その事を題材に小説を書いた。

 でも、そうではない。


「……違うんだよ。あのとき僕は、面と向かってクラスの連中になにかを言うことができなかった自分に嫌気が差した。だから、あの小説を書いたんだ。天音に小説は渡したけど、最終的にはネットに投稿して、クラスの連中に僕が書いている小説を読ませるつもりだったんだ」


 僕が小説を書いてネットに投稿していることは周知の事実で、その小説を読むことでクラスの考えが少しは変わればと思ったからだ。


「天音があの小説を読んで学校に出てこられるようになったのは、天音にその勇気があったからで、僕の小説は関係なかった」


 天音は、いつもは表情が少ない顔にわずかばかりの優しげな笑みを浮かんだ。


「そんなことない。私は結局自分一人じゃ学校にいけなかった。中学なんてもう行くのを止めて、高校からまた通えばいいって、諦めてた。中学三年生の一年間過ごせたのは、叶太が小説を書いてくれていたから。叶太の小説がなければ、私の中学三年は存在しなかった。私は、叶太が小説を書いてくれていて、よかった」


 そこまで言われるほどのことを、僕はしていない。

 天音がいじめられて不登校になるまで、そして怜治とちとせがいわれのない迫害を受けているときでさえ、僕は結局なにもできなかった。

 自分の世界だけに引きこもり、小説にだけ向き合っていたほうが楽だったからだ。

 僕はいつだってなにもできなかった。


「いつだって、小説を書いていて、楽しかったことなんてないんだよ。ただ、小説を書くことができたから、書いていただけで……」


「なんでそんな嘘を吐くんですか?」


 僕の言葉を遮って、未来は言う。


「叶太さんは小説を書いていたいんでしょう? 心の底から小説を書きたくないなんて、思ってるわけではないでしょう?」


 なんのことを言われているのかわからず、沸き上がる苛立ちとともに未来を睨み付ける。


「――君になにがわかるっていうんだ。夢さえ持っていない君に」


 未来がわずかに目を見張る。


「ちょっと叶太!」


 普段天音が発しないような大きな静止の声がかかるが、一度あふれ始まると止まらなかった。


「ああ、そうだよ。僕にはずっと夢があった。小説をずっと書いていたかった。でもダメなんだよ。僕がいくら小説を書いたところで、誰かに喜んでもらえるわけがない。誰かを傷つけていたばかりだったんだ」


 怜治を、ちとせを、そして今回は御崎さんたちを。

 ただ楽しんで読んでもらえればそれだけで十分だった。それでも、僕より小説を書くことが好きな人を潰すことにしかならなかった。

 感情を噛みしめるように歯を食いしばり、かぶりを振る。


「元々小説を書くのはやめるつもりだったんだ。でも、書いた小説を投稿しないのは、小説が可哀想だと思ったから――」


「だから、なんでそんな嘘を吐くんですか?」


 僕の言葉を遮り、未来は再び疑問を口にする。


「小説をやめるつもりだった。書かれたままの小説が可哀想だったから。なんでそんな嘘を吐くんですか?」


「嘘じゃない本当――」


「ならなぜ、小説を一度にまとめて投稿せずに一年の期間をつけて投稿したんですか?」


 言葉に詰まり、僕は口を閉ざす。


「小説を書くことに未練がなければ、どうして第二文芸部なんて小説に近い場所にいたんですか? 小説に関わらなければそもそも小説を書くことなんてない。書き上がった小説が可哀想だというなら一度に投稿してしまって、もう二度と見るつもりがないならそのスマホからアプリを削除してブックマークも削除してしまえばいい。そうすれば、もう小説に関わることない生活に戻ることができたじゃないですか。それなのにどうして、そうしなかったんですか?」


「それ、は……」 


 答えが見つからず、言葉が口の中で弾けて消える。

 投げられた極々当たり前の事実が、頭の中で反芻する。


 たしかに、そうだ。

 どうして僕は小説の更新に期日をつけた。なんでアプリを消すこともせず残している。

 ポケットの中のスマホが、二人には聞こえないくらい小さな電子音を奏でる。きっとまた小説へのメッセージかなにかだ。

 僕は小説をもう書くつもりがないと思いながらも、常に更新することができる状態にあり、小説を読んでくれる人たちのコメントを見ていた。

 なんで僕はそんなことをしていたのだろうか。


「……っ」


 心の中に最初から答えなどあるにも関わらず、それでも頭を振って振り払う。

 瞳が熱を帯びる。あふれ出しそうになる感情を堪えた。


「それでもダメなんだよ! 僕がどれだけ小説を書いたところで意味なんてない! 夢を持ってさえいない未来にはわからな――」


 突然、僕の頭ががつんという音とともに鈍い痛みが走った。


「いっづぅ……なに……?」


 視界がちかちかするほどの痛みに、呻きながら後方に視線を向ける。

 そこには、僕の頭を殴りつけたと思われるタブレットで手のひらを叩きながら、憮然とした態度でこちらを睨み付ける見知った顔。いや、見知ったもなにも――。


「お兄ちゃん、なに未来さんいじめてるわけ? 私に殴られても文句言えないのでは?」


 僕の頭をタブレットで殴りつけた張本人は誰であろう妹である菜子。スウェットパンツにパーカーという部屋着丸出しの姿で苛立ちを隠そうともせず、小さな子どもなら泣き出しそうな表情でこちらを睨み付けている。


「い、いじめてないよ。いきなり頭を殴りつけてどういうつもり……え? 未来さん?」


 菜子の口から、未来の名前が出た。どういうことだ。

 そもそも何故ここに菜子がいるのかはわからない。

 頭に走る痛みに、高ぶっていた心が徐々に落ち着いていく。

 僕の疑問を悟ってか、菜子は深々とため息を吐いて未来を見やる。


「未来さんはもうずっと前から友達なの。私が入院してたときに、病院で知り合った」


 今でこそ菜子もごく普通に生活ができているが、昔は入退院を繰り返すほど体が弱かった。そしてそれは未来も同じで、高校生まで生きられないと言われていた未来もずっと入院していることが多かったと聞いている。


「お兄ちゃんが家に帰ってこないからどこでなにをしているのかと思ったけど、やっぱり図書館だった。お兄ちゃん考え込むとき、いつもここでバカみたいに呆けているもんね」


 久々に口をきいたかと思えば口悪く罵ってくる菜子に頬が引きつる。

 ここに未来や天音が現れたのはこいつが理由か。


 菜子は不満と怒りを顔一杯に浮かべながら口を開く。


「お兄ちゃん、いい加減うじうじウジ虫みたいに考えるの止めなよ」


「……」


「お兄ちゃんが小説を書かないと生きていけない人種だってことは、お兄ちゃん以外みんな知ってる。小説を大切にしていることもわかっているし、真っ直ぐな夢を持っていることもわかっている」


 菜子は視線を僕から外し、少しだけ恥ずかしそうに頬を掻く。


「私も、お兄ちゃんには小説を書いてもらいたい。書いてもらわないと困る」


 言って、菜子は手に持っていたタブレットを放り投げた。

 飛んでくるタブレットを危うく落としそうになりながら受け止める。

 電源が入ったままになっており、ディスプレイに表示された画像が目に飛び込んできた。

 画像は、菜子が書いたイラストだった。誰よりも見てきたイラストレーターのイラストなので絵のタッチを見間違えたりしない。

 そして、表示されているイラストがなんなのか、一瞬で理解ができた。


「これ……僕がこれまで投稿してきた小説のイラスト……?」


 一年前に投稿した小説の表紙絵だ。僕がイメージしたとおりの登場人物と小説の雰囲気に合ったタイトルのフォント。指で触ってスクロールしていくと、これまで一年間投稿し続けてきた小説の表紙絵が、実に十作品、数十枚ずらりと並んでいた。


「なんで……」


 僕が一年前まで上げていた小説には、全てに菜子のイラストが表紙絵になっていた。だが僕が小説を書くことを止め、ただ手元に残っていた小説を投稿するようになってからは表紙絵は添付していなかった。

 なぜなら菜子のイラストは僕が菜子にイラストを頼んで描いてもらっており、この一年間菜子には一度としてイラストを描くことを頼んではいない。

 僕が惰性で投稿していたその小説に、菜子のイラストを使うのは申し訳ないと思ったからだ。


「頼まれなくても、私はお兄ちゃんの小説のイラストを描くよ。私が描きたいから描く。誰に強制されるでも、頼まれるでもなく、私はお兄ちゃんの小説のイラストを描きたい」


「……」


「まともに私のイラスト見るの一年ぶりだと思うけど、前よりずっとうまくなってるのでは?」


「……そう、だね」


 一年。僕が立ち止まり停滞していた間にも、菜子がイラストを描き続けていたことは知っている。イラストは全て菜子が描いたイラストだと断言できるが、でも同時に一年間より遙かに画力は向上している。

 僕が動けずいた間にも、菜子はずっと先まで進んでいる。

 菜子は小さくため息を落として、そして笑う。


「私はずっと絵を描きたいと思っているけど、それでもやっぱり私の夢は決まっているよ」


「菜子の夢……?」


「お兄ちゃんが自分の本を出したときに、その本のイラストを描くこと。それが私の夢」


 はっきり堂々と語られる夢。

 菜子はいつもイラストを描いている右手で僕の腕を小突いた。


「お兄ちゃんが小説を書いてくれなきゃ、私の夢は叶わない。それに、私のイラストが上達するにはやっぱりお兄ちゃんの小説がなくっちゃね」


 正面から告げられる、これまで知らなかった菜子の夢であり願い。

 普段そんなことを口にすることなどないくせに、それでも菜子は真っ直ぐ続けた。


「やっぱりお兄ちゃんに小説を書いてもらいたいよ。絶対」


 自問するように呟きながら、それでも僕に向けて願いを紡ぐ。

 イラストは、どれも輝いている。生き生きしている。楽しいという気持ちがあふれている。

 僕が小説を書いていたときと、同じ気持ちが宿っている気がした。

 手の中のタブレットがひょいっと取り上げる。

 菜子は赤くなっている顔を隠すように、タブレットで目元までを覆った。


「お兄ちゃんにも責任があるのでは?」


 問いかけられる言葉が、心を締め付ける。

 空っぽになった両手に力がこもり、虚無感が広がっていく。


「もう、遅いんだよ……」


 苦々しく漏れ出た言葉が、なにもない手の上に落ちる。


「僕はもう、昔のように小説が書けない。あいつらから小説を奪った俺が、小説を書いてちゃいけないんだよ」


 いつも小説に向かおうとすると、二人の顔が頭に浮かんでしまう。

 文章に向き合い、パソコンに向き合い、物語に向き合い、それでもその先にいつも、僕が小説を書いていた一番楽しかった時間が浮かんでしまう。

 僕は間違えた。きっといくつも、いくつも、数え切れないほど。

 楽しく輝いていた時間は消え去り、あの二人は小説を書くことを止めてしまった。

 だから、僕は……。


「みんなが僕の小説のことを思ってくれるのは、本当に嬉しい……。でも、あいつらがもういないのに、僕が小説を書く事なんて……」


「叶太さん」


 顔を上げると、未来が微笑みながらこちらを見ていた。


「私も、叶太さんには小説を書いてもらいたいと思っています。でもそれは、私が叶太さんの小説が好きだからとか、もっと読んでみたいからとか、そういうことだけじゃなくて、私にとって、これが私にできる恩返しかなって、思っているからなんです」


「恩返し……?」


 僕たちが出会ったのは、ここ二ヶ月くらいの話。その間、未来には散々振り回されてきたが、僕は未来から恩を感じられるような覚えなどない。

 だが、思い至ることはある。

 初対面、だったと思っていた。にも関わらず、未来は僕と屋上で邂逅したとき、既に僕のことを知っていた。

 そして、未来と菜子は知り合いだった。

 いや、ずっと疑問はあったのだが、未来は僕に妹がいることを知っていたり、小説をネットに投稿していることを知っていたりするきらいさえあった。


 まさか……。


 目を見開く僕の視線を向こう側で、未来が自身のスマートフォンを取り出した。


「以前にもお話ししましたけど、私は、高校生まで生きられないと言われていました。中学生までのほとんど期間を病院で過ごしました」


 懐かしむように、それいて少しばかりくすぐったそうに笑みを零す。


「中学三年生になったころにすぐ、手術を受けることになっていたんです。私がある程度成長しないとできない手術でした。でも、その手術には問題があったんです」


 元々、大人になることはできないという難病。手術にリスクがあっても不思議ではない。


「手術の結果はシンプルでした。手術をしなければ、病気が私を殺すまで短い期間ではあるけれど、生きていられる」


 未来の病気は徐々に進行するもので、手術をしなくてもすぐに命に関わるということはなかったらしい。

 聞き入ってしまうなか、未来は自らの過去を淡々と語る。


「手術をして、もし成功すれば病気は完治します。でも、失敗すればそれまで。成功するかどうかは五分五分だと言われました」


「五分五分……? 半分の可能性で……」


 未来は薄く笑みを零す。


「はい。高いですよね。半分の確率で、死んでしまう手術なんて。私もそう思いました。手術のことはずっと以前から言われていて、手術が終わると自分の命が終わる。毎日毎日、そんなことばかり考えて、怯えて、怖がって、限られた命を生きていました」


 想像を絶する未来の過去に、僕はなにも言えずに耳を傾ける。

 未来は、自嘲気味な笑みを浮かべて自分の胸に手を当てた。


「手術が失敗する可能性があるなら、もう手術はしないでおこうと思ったんです。そうすれば、少なくとももう何年かは生きていられる。それでいいと思って、毎日を生きていました。先生からは手術を勧められました。お父さんとお母さんは、好きに決めていいって言ってくれましたけど、本当は手術をしてほしかったんですよ。でも、私は結局、手術をする勇気を持つことができなかった。自分の、力だけでは」


 未来の笑みが、口を開けずにいる僕に向けられる。


「病院でやることもほとんどなくて、ずっと本ばかり読んで過ごしていたんです。でも、病院にはいつも本があるわけじゃなくって、お母さんが持ってきてくれるまで、なくなったら読むものがなくなることもありました。そんなとき、私は菜子ちゃんに会いました」


 視界の隅で、少し恥ずかしそうに菜子が視線をずらす。


「これ、私のお兄ちゃんが書いている小説なんですけど、もし時間があったら読んでみてくださいって」


 最初はネット小説なんて、と敬遠して特に読むつもりはなかったそうだ。だが母親がしばらく来られなくなって、読むものがなくなって、時間つぶしに勧められた小説を読むことにした。


「すごいと、思いました。私が知らない中学校の物語が、楽しそうな、輝いている世界が、私の知らない世界がたしかにそこにあったんです。同い年の男の子が書いているとはとても信じられないその物語に、私は一気に引き込まれてしまいました」


 嬉しそうに、心から嬉しそうに未来が笑う。


「今もこうして病院で私が立ち止まっている間に、この世界のどこかで、菜子ちゃんのお兄さんがこの物語を書いている。今だけじゃなくて、これから何年先もきっと。だから、もっと読みたい。もっとこの人が書く小説を、これからも紡がれる物語を読んでみたい。もっと、もっと生きて、この人の小説を読んでみたい。そう願うことができるようになったんです」


 改めて、未来は告げる。


「叶太さん。私はあなたが小説を書いてくれたおかげで、手術をする決心がついたんです。叶太さんの小説に出会わなければ、私は手術を受ける勇気を持てなかった。叶太さんのおかげで、私は今、生きていられるんです」


 未来は手に持っていたスマホに、指を滑らせる。

 そして、指で画面を弾くとスマホをこちらに掲げた。

 なにを、と疑問を抱いたその瞬間、ポケットのスマホが電信音を立てた。


 信じられない思いで、スマホを取り出す。

 ディスプレイに通知が表示されていた。いくつもの通知のほとんどが小説投稿サイトからのもの。

 今来た一番上にある通知も小説投稿サイトから、丁度通知が来たものだった。

 無意識に、通知に指が触れた。

 小説投稿サイトのリンクへ飛び、表示されたのは僕のアカウント、ハルカナ宛てに直接送られたメッセージだった。


『デイドリーム:次回作も楽しみにしています。素敵なお話、ずっと待っていますよ』


 表示されたハンドルネームに息をのみ、目の前で微笑む少女に目を向けた。


「君が、デイドリーム……?」


「はい。私、桜葉未来が、ずっと叶太さんの小説から力をもらっていた、デイドリームです」


 そのハンドルネームは知っている。知らないわけがない。

 僕の小説やアカウントにもう何年も前から、頻繁にコメントや感想をくれているアカウント。僕が小説を投稿し始めた最初期から見てくれている読者だ。

 未来は少しばかり恥ずかしそうに苦笑を浮かべる。


「ごめんなさい。この間叶太さんから小説のリンクをもらったんですけど、あのときにはもう叶太さんの、ハルカナさんの小説全部読んでいたんですよ。コメントとかしようにも、もうデイドリームの名前でたくさんコメントしてたんで、今更できなくて」


「……」


 頭の中で理解が追いつかない。まだ出会って三ヶ月とたっていない同級生が、もう何年来の読者だった。


「私の名前は、桜葉未来。未来です」


 自身のスマホを胸に抱きながら、少女は自らの名前を口にする。


「ずっと、私は両親がつけてくれたこの名前が嫌いだったんです。未来なんてない私に、これほど不釣り合いな名前はありません。未来なんて考えたくも、絶対に来てほしくないものだった」


 悲しそうな表情で少女はそう言い、そして未来は笑う。


「でも、叶太さんの小説で私は自分の未来を生きたいと思うようになったんです。この名前が好きになりました。未来が来るのが楽しみになりました。もっともっとこの名前を呼んでもらいたい。だから私は、皆さんに私を未来と読んでもらうようにお願いしているんです」


 真っ直ぐな言葉。


「だから私は、桜庭未来に未来をくれた叶太さんに、小説を書いてほしいと思うんです」


 夜の帳の中でもはっきり未来が笑う。

 未来を思うことができなかった少女の今の笑顔を作ることができたものが、僕の、小説……。

 誰にも必要とされなかったはずの、僕の小説。

 悲しい気持ちを思い出さずにはいられない物語を、未来が肯定してくれる。


「でも叶太さん、私だけじゃないと思うんですよ。もっともっと、いると思うんです。ハルカナさんの、叶太さんの小説を待ってくれている人は、私や天音ちゃん、菜子ちゃん以外にも、もっともっといると思うんですよ。他にも、メッセージがありませんか?」


 言われて、デイドリームからのメッセージの下に並んでいる他のメッセージを見る。 

 デイドリームの下二つ。先ほどポケットで音を立てていた通知のメッセージ。


「……っ」


 そこに、見知った二つのハンドルネームからメッセージが届いていた。


『カザミ:早く次の小説書けよ。それからまた、俺たちの小説も読みに来い。R.A.』


『虹玉模様:暖かくて楽しい物語、待ってる。また小説の見せ合いっこしよ。T.N.』


 並ぶ二つのメッセージ。

 カザミ、虹玉模様。


 その二人は、ここ一年くらいよくコメントをくれるようになった読者で、いつもは普通の読者らしく丁寧な言葉で感想や誤字脱字の指摘などをしてくれていた。

 しかし今受け取っているメッセージは、短い文章ながらもひどく懐かしく感じられる言葉遣いで、なぜか急に胸が一杯になった。

 メッセージの最後に書かれている二つのイニシャル。


 R.A. 朝鳥怜治

 T.N. 二色ちとせ


 このメッセージが、二人のものであるとわかってしまった。


「な、なんで……」


 ハンドルネームは違う。中学時代に二人が使っていたハンドルネームはどちらも一年近く前から更新が途絶えたままなのは数日前に確認したばかり。 

 メッセージが来ているアカウントに飛ぶと、それぞれが小説を投稿していた。最近始めたばかりのようで、どちらもページ数は少なく閲覧数も少ないようだった。

 でも、確実に小説が更新されている。最新の更新日は、今日だ。

 天音が小さく息を吐きながら、やれやれとばかりに肩をすくめる。


「二人とも少し前から、小説を書き始めているみたい。やっぱり、やめられなかったって」


 怜治、ちとせ。

 もう小説を書いていないと、やめたと思っていた。いや、事実やめていたはずなのだ。

 もう一年近くも言葉を交わしておらず、あの輝かしい日々はもう二度と戻ってこない。

 戻るはずがなかった。


 でも、それでも……。


「なんだよ……あいつら……っ」


 気がつけば、熱いものが溢れ出し、頬を伝ってスマホの画面に落ちていた。

 止まらず、止めどなく、ぽたり、またぽたりと。


「小説書き始めたなら……言ってよ……」


 そんなことを言う資格が僕にないのはわかっている。

 二人から小説を奪ったのは僕なのだから。

 なにもできず、どうすることもできずに離れてしまった過去は、今でも鮮明に覚えている。

 未来が歩み寄ってきて、僕の頬を柔らかいハンカチで拭っていった。


「どうしますか?」


 僕に救われたという少女は、笑いながら問いかけてくる。

 なにを問われているかどうかは、聞かずともわかる。


 未来の後ろで、天音が笑う。


「叶太の小説を待っているのは、私たちだけじゃない。怜治も、ちとせも、他にももっと多くの人が待っていると思う。でも、それでも一番大切なのは、誰かが待っているから書かないといけないわけじゃない」


 自らの胸に手を当てながら、過去を思い出すように言う。


「誰かが望むからじゃなくて、自分がどうしたいかだと思う。だから、叶太のやりたいようにすればいい」


 僕のことを尊重し、促してくれる優しげな言葉。


 菜子が、小さく鼻を鳴らしながらタブレットを肩に当てる。


「私はいつでも、お兄ちゃんの小説の絵を描く準備ができてるよ。ずっとお兄ちゃんの小説の絵を描いてきた。それでも、お兄ちゃんが小説を本気でやめたいっていうなら、このタブレットの絵はすぐにでも消すよ。夢も叶わないから、二度とイラストは描かない。それはお兄ちゃんも困るのでは?」


 脅迫染みたことを言う妹。

 だが、菜子はすぐに肩をすくめて笑った。


「まあでも私は、お兄ちゃんは絶対に小説を書き続けると思ってるよ。だって、小説を書いていないと、そんなのお兄ちゃんらしくないもん」


 ずっと一緒に育った妹の、僕のことを知っているからこその言葉。

 二人の言葉に、再び目に熱いものが込み上げてくるがどうにか堪える。


「まったく本当に、みんなして、よってたかって……」


 恨み言のように呟きながら手で顔を覆う。


 声が震え、息が詰まる。

 心の中でなにかが氷解していく。

 曇った空が晴れていくように、決定的に変わっていく。 

 消えていく。いや、違う。


 また、世界が生まれていくその感覚。 

 胸の内に、言葉で言い表せないなにが広がっていく。


 僕のすぐ目の前で、未来が笑っていた。


「どうしたいですか? 叶太さん」


 改めて問われ、思わず笑ってしまった。


「ははは……本当にもう……」


 その言葉は、当たり前に普通に、息をするように自然と口から出てきた。


 久しぶりに、純粋にそう思った。



「小説が書きたいよ」

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