幾重の夢
未来はそそくさと体育館を出ていき、僕もその後に続く。
入れ違いに、顧問らしき先生とすれ違った。
離れた体育館から、再びボールがフロアを打つ音が響き始めた。
「いや、あの、未来さん?」
未来は呼び止めても立ち止まらず、一直線に第二図書室がある実習棟へと向かっていく。
だが第二図書室の前まで来たところで、いきなり扉に頭を打ち付けて崩れ落ちた。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
慌てて肩に手を回し、その細躯を支える。未来の額には、滝のような汗が浮かんでいた。
「つ、疲れました……」
いつもののほほんとした表情を緩めながら、未来は力なく笑う。
とりあえず第二図書室に運び込んだ未来は、死に体で机に伸びていた。
日が暮れても体が動かないと言うので、僕が家まで送って行くことになった。
仕方なく自転車の荷台に荷物として乗せて家までいくことに。未来はバス通学らしいが、今はバスに乗る元気もないとか言い始めたのだ。
警察や教師陣に見つかれば補導間違いなしの愚行。
いつもなら、こんな危険な上に法律違反な真似絶対にやらない。ただ今回は、未来の様子が様子なだけに放置して帰ることもできなかった。
もうじき十月になろうという空は暗い。相当運が悪くなければ、補導されるなんてことはないはずだ、というフラグを立てておく。自覚をすればきっと大丈夫。大丈夫?
「ご、ごめんなさい。叶太さん……」
未来は荷台に横向きに座り、ぐったりと僕の体に身を預けながらか細い声で言う。
なにがどうなってこんな状況になっているのか。理解が追いつかない。
すぐ近くに感じる未来の体温にどぎまぎしながらも、自転車をゆっくりと走らせていく。
「気にしなくていいよ。通り道だし」
実際は、真反対とは言わずとも結構違う方向にあるのだが。送ることができない距離ではない。いちいち口にしない。
自転車のかごに詰め込んだ二人分の荷物が揺れる。なるべく振動が伝わらないように走らせているが、慣れない二人乗りにどうしても走りが粗雑になってしまう。
「い、いえ……それもなんですけど、さっきのこと……」
後ろに座る未来の表情はうかがい知れない。
だけどなにやら申し訳なさそうに、恥ずかしそうに声を紡ぐ。
「巻き込んでしまって、あんなことまでして……。軽蔑……しましたよね?」
「本当に嫌だったら、僕だって付き合ったりしない。軽蔑もしたりしない。ただ、ちょっと意外だっただけ」
背中の服を握る未来の手が、少しだけ強くなった。
「私のお話……聞いてもらっていいですか?」
「……いいよ」
少し考え、答える。
本当に小さく、未来が笑った。
「私、子どものころ、高校生まで生きられないって言われてたんです」
「は? 高校生? それって……」
「ああ、ごめんなさい。今はもう大丈夫です。病気は治ったので。もうすぐ死んじゃうとか余命が幾ばくかとか、そんな話じゃないです」
びっくりした。驚きすぎて、このまま赤信号の横断歩道に突っ込むところだった。
赤信号を前に、自転車を停める。
「もしかして今体調が悪そうなのも、それが関係あったりするの?」
「か、関係ないわけはないですが、病気だからというわけじゃないです」
「そう。それならよかった」
病気が影響でこの様子なら、行き先を家ではなく病院に変更するところだった。
心配されたことがこそばゆかったのか、わずかに未来が身じろぎする。
「先天性の病気で、子どものころから高校生までは生きられないって言われていました。今はすっかりよくなりましたけど、かなり長い時間を病院のベッドで過ごしました。その間は、ずっと勉強したり本を読んだりして過ごしていたんです」
先ほどバスケのルールが頭に入っていると言ったとき、一時期本ばかり読んでいた時期があったっていうのはこのことか。
「私、嫌な子だったと思うんです。他のみんなはもっともっと長く生きられるのに、私は高校生までしか生きられない。みんなはいろんな夢を持って、将来を思って生きていけるなんて、なんて世界は不合理なんだろうって、そんなことばかりを言っていました」
言葉を挟むことをせず、僕は静かに話を聞く。
「私も子どものころは、いろんな夢を持っていたと思うんです。もう覚えていないんですけど、夢があったことは覚えています。でもその夢は、全部大人になって叶う夢だった」
夢とは本来、将来の、もっと先にある未来を願うもの。
一年先二年先のことも、夢にならないわけではない。
でもやはり、子どもの夢とは大人になってからの叶うものが多いと思う。
子どもにとって夢とは多くの場合、憧れる大人になりたいという願いなのだから。
横断歩道の信号が青に変わり、再び自転車を走らせる。
「夢を抱いても、叶わないから忘れる。消す。意識しない。ずっとそうやって生きてきたんです。それで、中学三年生になったばかりのとき、手術を受けることになったんです。先生から失敗のリスクはあるけどもし成功すれば、きっと君の病気は治るって」
結果として手術は成功し、もう病気とは無縁の健康体になった。
本来うれしいことなのだろうが、あまり未来から喜びといった感情は伝わってこない。
「手術を受けるの、すごく怖かったんです。でもこのまま治らず終わるのを待つなら、たとえ失敗しても手術を受けたいって。怖かったけど、頑張ったんですよ? でも、わからなくなったんです」
「……わからなくなった?」
「……私、なんのために生きていくんだろう、って」
いつもニコニコと穏やかに笑っている姿からは、想像もできないほど悲しげで切なげな声音。
「私にとって夢は、絶対に叶わないものだったんです。でも突然、君は夢を叶えることができるって先生から言われて……。私の夢って、生きる意味って、なんなんだろうって」
生きる道を幼少時から閉ざされていた未来。しかし、突然広がった、広がりすぎた道のどこに進めばいいかわらかなくなったと言う。
幾重もの、夢に。
「だから私は夢を探していています。私自身の人生が、私が生きている意味が、きっと見つかる――そんな夢を、私は探しています」
まだまだ夏を残した生暖かい風が、僕たちの体を撫でていく。
「だから、私が持つことができない夢を、どんなに小さくても夢を持っている人を、あんな風にバカにされることが我慢できなくて……つい……」
恥ずかしげにそう呟きながら、背後で吐息を漏らす。
「なにかのきっかけでスイッチが入っちゃうと、自分ができると思うことがなんでもできるようになっちゃうんです。昔はそんなことなかったんですけど。さっきも、バスケットボールをやったこと一度もないのに、あんな風に、できるようになっちゃうんです」
自慢するでもなく見せびらかすでもなく、ただ知ってもらいたそうに、未来は零す。
未来がやってみせたことは、単純に運動神経がいいとかセンスがあるとかでは片付けられない。僕が同じことをやれと言われても逆立ちしてもできないことを、未来は特になにも考えることなくやってのけた。あれを目の前で見せられてしまえば、たとえ荒唐無稽な話だとしても疑うことはできなかった。
夢を馬鹿にする人を許せない。
そしてスイッチが入れば、才能や技術を飛び越えた力を発揮してしまうと。
「でも、なんでもできるんですけど、どれも夢にはならないんです……」
「それが、君が夢を探す理由……か」
「はい……」
僕らみたいな不自由もなく育ってきた人間にとっては、夢は見ようと思えばいつでも見られるものだ。本気で目指したいのであれば、好きなだけ追うことができるもの。
しかし未来は違った。
全ての夢が叶わないと言われ、諦めざるを得なかった。にも関わらず、突然みんなと同じでどんな夢でも見られる状態になり、そして一気にわからなくなった。
どこに行きたいか、なにをすればいいか、これからどんな風に生きていけばいいか。
「叶太さん」
「なに?」
「あなたの夢は、なんですか?」
静かに、夢を持てなくなってしまった少女から問いかけられる。
それでも、答えは変わらない。
「僕に、夢はないよ」
夢を持てない少女に、夢なんてないよ、とはとても言えなかった。
過去の言葉を後悔しながら、取り消すことができないことに歯がみしながらも自転車のハンドルを握る手に力を込める。
僕の背中で、未来がきゅっと僕の服を掴む手を強めた。
運転に気をつけながらちらりと後ろに視線を向けると、夜道に浮かぶ街灯の光を受けて、未来の目がきらりと光を色めいた。
「そうですか」
それ以上なにも言うことはなく、ただ自転車を未来の家の方向に走らせていく。
運良く、誰にも見咎められることなく目的地まで辿り着いた。
まだ新しい造りの一軒家。白い壁に青い屋根の清潔感ある家で、リビングと思われる場所にだけ灯りがついている。
「あ、ありがとうございます。叶太さん」
自転車から降りるだけでも四苦八苦している未来に、自転車に座ったまま手を貸してあげる。
僕の手に捕まりながら、未来はよろよろとアスファルトの上に足を下ろす。
「ありがとうございます……」
再び頭を下げる未来の顔は、夜の帳の中でもほんのりと赤くなったのがわかった。
そのせいで、こちらまで意識してしまう。
熱を冷ますように深々と息を吐き出し、ペダルに足をかけながら小さく手を上げる。
「じゃあここで。またね」
「はい。ありがとうございます」
自転車を走らせ、少しずつ未来の家から離れる。が――
「叶太さん」
呼び止められ、自転車を停めて後ろを振り返る。
周囲には街灯はなく、月夜もない。
それなのにはっきりと、闇夜で儚げに笑う未来の表情が見えた。
「私、夢を持っている人がわかるって言ったら、信じてもらえますか?」
一瞬、なにを言っているのかわからなかった。
「なにを……」
「夢を持っている人が、輝いて見えるんです」
暗い夜道の中で、未来が笑い、そして言った。
「春木叶太さんは、輝いています。叶太さんは、夢を持っていますよ」
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