天然さん?
岡山県立図書館は、全国でもトップレベルの来館者数、蔵書数、新書購入数を誇る。僕にとって本当に大好きな場所だった。
数え切れない書籍と次々に増えていく新書、今注目されている話題の本など。
様々な本が置かれている素晴らしい場所。
僕は子どものころから何度も何度も足を運んでいた。
そして、中学生になって初めて迎えた中一の夏休み、三年前のことだ。
「これを読んでほしいんだけど」
「感想、聞かせてほしい」
岡山県立図書館で出くわしたクラスメイトの二人。
差し出されたのは、新たに創り出された二人だけの物語。
ほとんど会話もしたことがない二人だけの世界に触れ――
僕は、小説を書くということを知った。
Θ Θ Θ
小説を毎日書きふけっていたあの頃は、目を覚ますと机に突っ伏し寝ていたということも珍しくなかった。
だが高校生になってからは、いつも起床はベッドの上だ。
体中に重りをつけているかのような倦怠感と戦いながら、布団から這い出る。
身支度を調えながら机の上に置いている、初代ノートパソコンを見つめる。
小学生のころ、単身赴任でほとんど岡山にいない父親が、遊び道具にすればいいと古いノートパソコンをくれた。かといって小学生はまだインターネットは使っちゃいけませんと母親から。
だからずっとほとんど使わずに放置されていた。
だが、あの二人に出会ってから僕は毎日パソコンに、自らの小説に向かうようになった。
新たに沸き上がった衝動。どうすればいい小説が書けるだろうか。この表現は正しいんだろうか。小説を書くとはどういうことなのか。子どもながらに毎日小説を書くことが楽しくて仕方がなかった。
だけど今は……
衣替え間近の夏服に着替え終え、鞄を背負って部屋を出る。
部屋の扉を閉じるとき、使わなくなったノートパソコンが、僕を見ている気がした。
「あ、お兄ちゃんおはよう」
リビングに降りると、トーストを加えたまま器用に髪型をセットしている子がいた。
「おはよ。母さんは?」
「もうお仕事いったよ。しばらくまた忙しいんだって」
僕たちの母親はバリバリのキャリアウーマンである。
父さんと同じ会社に勤務しており、それがきっかけで結婚したそうだ。
僕たちが生まれてから現在に至るまで、まだまだ楽しそうに二人揃って仕事をしている。
父さんは単身赴任中、母さんもそんな調子だ。
二人とも家にいないことが多く、僕たち二人だけの朝も慣れたものだ。
トースターにパンを一枚押し込み、焼けるまでの間に冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。
僕の席には、菜子が作った目玉焼きとサラダが置かれている。母親は料理が致命的で、僕や菜子の方がよっぽどまともな料理ができる。
僕と同じ少し茶色を帯びた髪を左右でお下げにセットし終えた菜子は、トーストをむしゃむしゃと食べていく。
目はまだとろんと溶けており、思考はどこかぽわぽわしているようだった。
「ずいぶん眠そうだね。夏休み明けからそんな夜更かしばかりしているといけないよ」
「連日寝坊ばかりしていたお兄ちゃんに言われたくないよ……。中学の頃に何回も遅刻してたくせに」
「あの頃は若かったからね」
「つい一年やそこらの前のことなのになに言ってんのホント。ぼけてるのでは?」
呆れたようにため息をつく菜子は、やれやれと食べ終わった食器を流しに運んでいく。
流水で手早く食器を洗いながら、一緒に調理器具もまとめて片付けている。
「お兄ちゃん」
洗い物の手を止めることなく、菜子はこちらに背を向けたまま口を開いた。
「お兄ちゃんはこれからも小説を書いていくの?」
「ん? なんの話?」
突然の問いにわからないという風に、とぼけてみせる。
菜子が不機嫌そうな表情でこちらを振り返ったが、なにか言う前に僕が口を開く。
「というか菜子は最近体の調子どうなの? 夜更かしばっかりしてちゃ体調崩すよ」
菜子は僅かばかりに眉を上げ、そして小さく息を吐き出した。
「……もう大丈夫だってば。お兄ちゃん心配性過ぎ」
「たくさん前科持ってる菜子が悪い」
最近こそ、菜子はどこにでもいる女の子と同じように元気だ。
しかし菜子は生まれつきからだが弱く、一時期は頻繁に体の調子を崩していた。
両親もほとんど家を空けているので、心配するなという方が無理である。
こちらを振り返った菜子は、少し怒ったように眉根を寄せていた。
「というか話をそらさないで……まあ別にいいんだけど」
不機嫌な様子をにじませる菜子は、リビングの隅に置いていた鞄を手に取った。
「じゃあ私、先に行くね。次に私に描いてほしいものがあったら早めに言ってね。私もコンクールとかで忙しいから」
「んー、わかった」
菜子はもう一度ため息を落とすと、いってきますとだけ残して出ていった。
「……さて、僕も行くか」
朝食を終え、鞄を背負い家を出る。
僕の家から瀬戸高までは自転車で二十分ほどの距離だ。
瀬戸高は近くに駅もあり、生徒によっては電車通学をする生徒もいるが、多くの生徒や自転車通学がメインだ。悲しきかな地方の性、大都会ほど交通手段が十全にあるわけではない。
あくびをもらしながら自転車を走らせる。
高校入学までは、高校生活は破天荒でわくわくさせられる生活が待っていると思っていた。だが入学すれば、中学とは変わらない毎日があるだけだ。
今だからこそわかる。
環境がいくら変わったところで、人一人の世界は変わらない。
世界を変えるには、つまるところ自分が変えなければいけない。
そして、中学の頃よりも世界が褪せて見えるのは、僕自身が中学生よりダメになっているからなのだと思う。それがわかったからといってどうにかできるわけではないし、するつもりも起きないのだが。
「はぁ……」
朝っぱらから情けないため息を落とすと、少し後方でちりんとベルを鳴らされた。
「おはよう叶太」
「ああ、おはよう」
黄緑色の自転車を転がして現れたのはクラスメイトの天音だ。
少し速度を落として並んで走ると、天音が笑いながら僕の顔をのぞき込む。
「なんで朝からため息吐いてるの? 疲れてる?」
「いや、そういうわけじゃないけど、ただ寝不足で憂鬱なだけ」
いつものほほんと笑う天音を見ていると、自分の悩みなどちっぽけに感じられる。
「あ、そうだ。天音さ、桜葉未来って子、知ってる?」
「桜葉未来さん? 一年生の女の子の? 綺麗な子だよね」
ダメ元だったのだが、普段とぼけているがさすが交友関係が太平洋のごとく広い天音。僕など聞いたことも見たこともない生徒だというのに、名前を聞いただけでわかるとは。
「ああ、たぶんそう」
「桜葉さんがどうしかしたの? 一目惚れでもした?」
突然じとりとした目が向けられる。なぜそういう話になるのか。
「違うから。いや、僕は知らないんだけど、なんか桜葉さんは僕のことを知ってたみたいで、もしかしたら小中どこかで一緒だったのかなと」
屋上での邂逅。
桜葉さんは僕の存在を認めると、そのままなにも言わず満足げに屋上を去って行った。
階下で御崎さんが待ち構えている可能性があったので、見送ることしかできなかった。
いくら考えても桜葉未来という名前に心当たりない。
人の容姿に気など配っていない僕から見ても、とても綺麗な子だったと思う。同じ高校一年生とは思えないほど大人びた容貌だった。一度会えばそうそう忘れないはずだ。
横断歩道の信号が赤に変わり、二人揃って自転車を停めた。
天音は首を傾げながら顎に手を当てる。
「いや違うよ。どこの学校かまではさすがに知らないけど、小学校も中学校も違うはず。中学不登校だった私がいっても信用ないかもだけど」
「そんな疑い持ってないよ……」
真顔で自虐ネタに走る天音に思わず苦い顔を浮かべてしまう。
確かに天音は中学時代不登校だったが、あれは天音に責任はない。
僕を含めたクラスメイトが悪かっただけだ。
だがそれはともかく、となればいよいよわからない。
僕は取り立てて目立つところがない一般生徒だ。排他的な生活を送っているわけでもなく、生徒指導室に連行されるような悪目立ちもしていない。それなりに人付き合いもしている。
勉学はそこそこ、運動神経もいいか悪いかでいえばいい方。だがそれも人の目を引くほどのものではない。
桜葉未来。彼女は一体誰なのだろう。
信号が青に変わり、再び自転車を走らせる。
「どんな子か知ってる?」
思い出すように、自転車の上で体を左右に揺らしながら天音は答える。
「うーん、たしかに綺麗な人だから他のクラスでも入学したときは話題に上がっていたみたい。けど今はそんなに聞かないかな」
名前と学年はわかっているので、調べればどこのクラスの生徒かはわかるだろう。
しかし、正直どうしていいかわからない。
ただ僕のことを知っていて名前を確認しただけ、ってこともないわけじゃない。
このまま、なにもなければいいんだけど。
「こんにちは叶太さん。一緒にお昼ご飯食べにいきませんか?」
僕の期待をありのように踏みにじり、桜葉さんは昼休みになると同時に僕の席にやってきた。その手には弁当らしき大きな包みを抱えている。
周囲の視線が体を機関銃のように撃ち貫いていく。死にたい。
教室から逃げるように、コンビニで買ってきたおにぎりを手に実習棟の屋上に向かう。
相変わらず天気のいい、残暑厳しい九月の屋上。みんなご飯を食べるなら空調が効いている教室で食べるし、時間の限られている昼休みにわざわざ実習室の屋上に来る生徒は少数だ。
屋上のフェンス前にあるベンチに腰を下ろす。
すぐ前に並んでいるベンチに桜葉さんが腰をかけ、そしてその横に何故かついてきた天音が一緒に座る。
僕を含めて三人。いつもは寂しい屋上もさぞ喜んでいるだろう。そんなわけないな。
「いい場所ですねここ。お昼をゆっくり食べるには最適です」
僕のゆったりスペースを侵略する、いまいちキャラが掴めない桜葉さん。
「私も来るの初めて。叶太はよく来るんでしょ?」
「まあ第二図書室じゃご飯食べられないからね」
ほとんど部室として使っている第二図書室の残念な点が飲食禁止であること。こればっかりはどうしようもない。
桜葉さんは僅かに目を見開いて小さく笑う。
「なるほど、どちらを探してもいらっしゃらないと思っていたら第二図書室にいたんですね。あそこに人がいるなんて思いませんでしたので」
「……あの、桜葉さん」
「なんですか?」
「君って一体どこの誰?」
聞きようによっては非常に失礼な質問。
だけどこうして改めて見ても、やはり全く知らない人だ。にも関わらずやはり桜葉さんは僕を探していたという。向こうがこちらを知ってこちらが知らないというのは失礼な話だが、このまま知らない振りをするわけにもいかない。
桜葉さんは楽しげに笑うと、膝の上に置いていた巨大な包みをほどき、中から大きな弁当箱を取り出した。男子運動部員が使っていそうなサイズの弁当箱である。
「言ったじゃないですか。私は桜葉未来です。未来って呼んでください。叶太さん」
「いや、名前じゃなくてさ……。どこかで会ったことある?」
「いえ? ないと思いますよ?」
思いますよって……ええ、なに言ってるのこの子……。
「ただ、お友達になって頂けたらと思いまして」
「「友達……?」」
僕と天音の声が重なり、お互いに顔を見合わせる。
この子天然さん? みたいな視線が天然本人から送られてきて、聞いてみてと目で返事をする。
「えと桜葉さんって、天然さん?」
そのまま聞きやがった。
「どうでしょう? 違うとは思うんですけど」
「それじゃあ、叶太と友達になりたいってことだけど、なんで?」
「ふふふ、それは叶太さんが輝いて見えたからです」
……なにを言ってるんだろう。
「ああ、叶太って体に蛍光塗料つける癖あるもんね」
「ないよそんな癖……」
あるわけないじゃん。意味がわからなかったからって現実逃避してるんじゃないよ。
「それよりもご飯食べませんか? 私おなかすいちゃって」
桜葉さんはそう言いながら、ぱかりと自分の弁当箱を開ける。
手作りのお弁当のようだが、細身の桜葉さんとはあまりに不釣り合いな大きさのお弁当。中には色とりどりの料理と白いご飯がぎっしりと詰め込まれていた。
「……それって桜葉さんの手作り?」
女性目線から見ても異様らしく、いつもフラットな天音も引きつる顔を隠せていない。
「はい、そうですよ。私食べるの好きなんで、ついつい自分で作っちゃうんです」
自分で作った料理を前に手を合わせ、いただきますと口にした。
清々しいまでのマイペースっぷり。天音と揃って顔を見合わせて苦笑する。
昼休みの時間はそう長くないので、僕たちも桜葉さんにならう。
僕はおにぎりを二つ、天音はおばさんお手製のお弁当。こちらは女の子らしい小さなお弁当で、桜葉さんの弁当が一層大きく見える。
「叶太さんはそれだけで足りるんですか?」
「ああ、うん。僕はこれだけで十分お腹いっぱいだよ」
元々小食だ。これといって頭を使う必要もなければ、お昼を抜いても凌げる。母さんに弁当を作ってもらうという選択肢はそもそも存在しない。あの人はドッグフードにマヨネーズをかけて食べた方がまだましというレベルのものを平気で出す。
しかし謎である。
なにをどう間違えれば、このメンツでお昼ご飯を食べているというのか。
思わずおにぎりをくわえたまま、おいしそうにご飯を食べる桜葉さんを見入る。
いくら考えても思い出そうとしてみても、全く心当たりがない。そもそも桜葉さんは僕のことは知っているようだけど、名前を問いかけてきたということは僕の容姿についてはあまり知らなかったということ。
おいしそうにご飯をぱくぱくと、咀嚼しているのか疑問になるほどのペースで食べている桜葉さんからは、意図が読み取れない。
僕の視線に気がついた桜葉さんが目をぱちぱちと瞬く。
「食べますか?」
「え?」
「もしよろしければどうぞ。卵焼きとか、今日おいしくできたんですよ」
言って、桜葉さんは箸でひょいっと卵焼きをすくい、こちらに向ける。
「はい、あーん」
「……」
目の前に掲げられている卵焼きに思考が止まる。
「ちょちょちょちょちょ桜葉さんなにやってるの!」
普段のフラットな振る舞いはどこへいったのやら、なぜかこの場で一番動揺する天音。
「え? なにって……」
一瞬首を傾げた桜葉さんだが、今更現状を理解したのか白い頬に徐々に赤が差していく。
ずれた発言やなにを考えているのかわからない思考をしているが、羞恥心がないわけではないようだ。
「それじゃあせっかくなので、いただきます」
一言断りを入れて、顔を赤くしている桜葉さんの箸から指で卵焼きを受け取る。
「あ……」
小さく声を上げる桜葉さんに気がつかない振りをして、卵焼きをぱくりと食べる。
ほのかな甘みと出汁の旨みが口いっぱいに広がった。
「うん、おいしい。桜葉さん料理上手だね」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
褒められたことは嬉しかったのか、照れた笑みを浮かべて恥ずかしそうに視線を落とす。
天音がじとりと鈍い眼光を向けてきたが、つとめて気がつかない振りをする。
むしろこの場を納めたファインプレーを褒めてほしい。
桜葉さんも気を取り直したように食事を再開する。
「そういえば、お二人はどんな関係なんですか?」
「なにがそういえばなのかわからないけど、普通のクラスメイトだよ。中学が一緒ってだけ」
視界の隅で天音がややぶすっと口をとがらせていた。
「中一から一緒だから、もう三年の付き合い」
瀬戸高から少し南にある中学で、三年間同じクラスだったという繋がりだ。
「あと、バイト先が同じだね」
「アルバイトですか?」
「老舗のカフェ。もしよかったら今度来る? サービスする」
天音の言葉に桜葉さんはぱあっと顔を輝かせる。
「はい! 是非行かせて頂きます」
「じゃあライン交換。お店の場所送るよ」
ラインを交換し始める二人をよそに、残っていたおにぎりを手早く食べきる。
この子本当になんなんだ……。
なにか話があるのかと思いきやただ普通に話をするだけとは。
これじゃあ本当にただ友達になりにきたようだ。
――あなたの夢はなんですか?
昨日問われたばかりの言葉が頭の中で反芻する。
以前はあれほどずっと熱を持っていたにも関わらず、一年もたっていないにこれだけ心根が変わってしまった。
ただ一つのことを追い続けている時間は、あっという間のように一瞬に感じられ、同時に永遠かと思えるほど長く長く感じられた。今はもう、ただ毎日と過去を浪費するだけの日々。
高校に通い、クラスメイトと馬鹿をやって楽しんで、バイトをして、家に帰り、眠り、また起きる。同じサイクルをもう半年以上も続けている。
それがいいかどうかなんて人それぞれ。それが幸せという人もいるだろう。
ただ僕は、今の人生を心の底から楽しむことなどは到底できない。
当然のことを心の中でうそぶくと、いつの間にか二つの黒く大きな目がこちらを見据えていた。
「……なに?」
首を傾げながら尋ねると、桜葉さんはにっこりと笑ってスマホの画面をこちらに向けた。
「叶太さんも、ライン交換しませんか?」
「……お友達になりたいから?」
「はい、そうです」
僕は小さくため息を落として、ポケットから自分のスマホを不思議な少女へと向ける。
中学までは大して多くなかった登録件数が高校生に上がると同時に一斉に増え、そこからはほとんど増えていなかったもの。そしてまた新たに一つ増える。
桜葉未来。
未だ謎と疑問に包まれた少女の名前が、厄介事のように電子音を響かせて追加された。
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