瀬戸高写真部のきっかけ
十万人写真記念展プレオープンでの一件から、一週間ほどたったある日。
俺とほとりは、先日もらった名刺に記載された住所を訪れていた。それは、倉敷美観地区の近くにある通りだった。
古く趣のある扉には、CLOSEと札がかけられている。
俺の前に立つほとりは、扉に手を伸ばし、やや戸惑ったように指を踊らせたあと、意を決して扉を押した。鍵はかかっておらず、軽快なベルを響かせながら、ゆっくりと扉が開く。
「し、失礼します」
緊張した声音でそう告げ、ほとりはお店の中に足を踏み入れる。俺もそれに続いて扉をくぐる。
雰囲気のいいアンティークな店内には、甘いコーヒーの香りが広がっていた。カウンター席が五席ほどと、四人がけのテーブル席が四つのシンプルな内装。古民家というほどではないが、倉敷美観地区の近くにあることもあり、古く歴史を感じさせる造りとなっていた。
そしてなにより目を惹くのが、店内の至る所に飾られた写真の数々だ。
額縁に入れられた壁面にかけられた写真や、コルクボードにピンで留められた写真。本棚に何冊ものアルバムと、ブックエンドによって作られた隙間にはフォトフレーム、そしてデジタルフォトフレームにはスライドショーが流れていた。写真の種類も多種多様で、人物から風景、天体やスポーツなど、分別されることなく好き好きな写真が飾られていた。
俺とほとりがあふれる写真の熱気に当てられていると、カウンターの側でお店の準備をしていた人が振り返った。白ワイシャツに黒いエプロンをまとった男性だ。
「すいません。まだ準備中……なんだ、お前たちか」
黒縁眼鏡の向こう側で、三白眼がわずかに目を見張る。
だが不思議と、驚いた様子ではなかった。
準備の手を止めてこちらに目を向けるその人物は、先日写真部に現れた来訪者。
「その節は、お世話になりました。一色さん」
人と話すことが苦手なほとりは、いつも通り緊張した面持ちだ。
しかし、今回は引かないと決めているらしく、真っ直ぐ一色さんに向かう。
ここは一色さんが経営しているギャラリーカフェツバメである。
「なにか用か? 初瀬妹」
あのときと変わらない低い声音と相変わらずの呼び名に、ほとりが体をすくませる。
しかしそれでも、ほとりは頭をぶんぶんと振って進み出る。
「先日の写真は、気に入っていただけなかったようなので、改めて写真をお持ちしました」
「……このカフェに置かせてもらう写真の依頼か? 断ったつもりだったんだが?」
強い、わずかに拒絶するような言い回し。
「はっきりと依頼を取り下げたとは、聞いていませんので」
鞄から茶封筒を取り出しながら、ほとりは薄く笑みを浮かべる。
一色さんは少しばかり驚いたように、目をぱちぱちとさせていた。
「そういえば、そうだったかもな」
淡々とした表情の口元に、注視していなければわからないくらいの笑みが浮かぶ。
一色さんは指で眼鏡のブリッジを押し上げた。眼鏡の奥で細められた鋭い視線がほとりを向く。
「はい、この写真が……」
写真を出そうと封筒に手を入れるほとりを、一色さんは手で制する。
「では、その写真をもらおう」
「「……へ?」」
ほとりと俺は、そろって素っ頓狂な声を上げる。
一色さんは呆ける俺たちを見て楽しげな笑みを浮かべ、カウンターの席に手を向けた。
「まあ、座れ。営業時間外だが、コーヒーくらいは出せる」
二つのカップを戸棚から取り出しながら、一色さんはそう言った。
俺たちは顔を見合わせてどうしようかと迷ったが、言われたとおり椅子に腰を下ろした。
「あの……写真……」
ほとりは、まだ取り出せず行き場を失った写真を手に戸惑っている。
一色さんはなぜ少し嬉しそうに笑うと、ほとりの手から封筒を受け取った。
「それなら、せっかくだから見せてもらおうか」
封筒から、一枚の大きな写真が取り出される。
写真をカウンターに広げると、一色さんは驚きに目を丸くした。
ほとりの写真は変わった。
いや、正確に言うなら、ほとりが小学生時代に撮っていた写真に戻ったというのが近い。
だがそれでも、以前の写真より確実によくなっている。
ほとりが持ってきた写真は、写真部部室での何気ない風景。桃子が作ってきたきびだんごを初めとした様々なお菓子が机に並べられ、その傍らで湊斗が自前のティーセットでお茶を淹れている。お客として来ていた早乙女は、桃子のお菓子や湊斗のお茶に目をきらきらと輝かせ、俺は隅の席で、文庫本を片手に笑いながらきびだんごをつまんでいる。いつも部室で行われている、とりとめなくも楽しい部活の一場面。
なんということはない、ほとりを取り巻く日常の写真である。
「……ずいぶんと、写真が変わったじゃないか」
楽しそうに、嬉しそうに、写真に目を落としたまま一色さんは笑う。
前回、そして今回も、一色さんに見せた写真はどちらも人物を写した写真だ。前回はヨット部を撮った写真。今回の写真もそれに近い雰囲気はあるが、明らかに以前の写真とは違う。
変わったのは被写体側ではない。撮影者であるほとり自身だ。
これまで数ヶ月間撮ってきたほとりの写真とは明確な差がある。
写真には写っていない撮影者であるほとりの気持ちが、はっきりと写真に写るようになった。ただ気持ちが動いた目の前の光景を撮るのではなく、写真を撮ることを昔のように楽しみ、そして自らの好きという気持ちを隠さなくなった。
ほとりがその写真を撮るときにどんな気持ちだったのか、それが写真から伝わってくる。
「どうでしょうか」
ほとりが口を開く。
「いい写真に、なったでしょうか」
少し自信ありげに、笑いながらほとりは尋ねる。
一色さんは鼻をならし、ほとりに向かって一言。
「知らん」
にべもなく切り捨てられ、呆気にとられるほとり。
「いい写真かどうかなんて、結局は主観だ。一枚の写真を十人が見て、九人がいい写真だと言っても、残り一人が最悪だと判断することもある。構図しかり、テーマしかり、好みしかりだ」
「え……ええ!? じゃ、じゃあ写真部に来たとき、いい写真がほしいと言ったのは……」
「俺はそんなこと、一言も言っていない」
再びばっさりと打ち落とされるほとりの言葉。
その口元にはわずかに笑みが浮かべられており、おもしろがっているのがありありとわかった。
「俺は、気に入っている写真を出してくれと言ったんだ。いい写真なんて、一言も言ってない」
「だ、だって、お店に飾る写真って話でしたよね? お店によくない写真を置くなんて……」
「だから言っているだろう。いい写真か、悪い写真かなんて主観。個人がどう思うかだ。ここにある写真を全部、お前だって一枚残らずいい写真だというわけでもないだろう?」
「それは……」
ほとりは周囲に視線を巡らせる。
ここにある写真は幾人、幾十人もの撮影者によって撮られた写真。同じ撮影者によって撮られた写真はほとんどないのではないかと思うほど、色とりどりの気持ちや雰囲気を持つ写真であふれている。唸るほどうまく撮られた写真、まだまだだと思うが一生懸命撮られている写真、好きだという思いにあふれた写真、失敗したと思われる写真。
色とりどりの気持ちや思いに彩られた、数え切れない写真たち。
でもだからこそ、写真の評価が見る人によって変わることは当然だ。
「俺が写真部に求める写真は、写真の出来やテーマ、完成度なんていう客観的に評価される点ではない。撮影者がその写真に自信を持っているか、好きかどうかという部分だけだ」
「好きか、どうか……?」
「俺じゃない、他の依頼者に写真を提供する際に自信がないのは構わない。依頼者には求める写真があり、依頼主を満足させられるか、要望に応えられるか、そんな不安があるのは当然だ。プロではないとはいえ、相手が欲する写真を提供する以上、善し悪しは判断されてしまう、されるべきだからな」
一色さんは再び、ほとりの写真に目を落とす。
「たしかに、いい写真は俺もほしい。だが、いい写真の前提条件はまず第一に、撮影者が自分が撮影した写真を好きかどうかだと思っているんだ。自分が気に入ってるわけでも好きでもない写真は、いい写真にはなり得ない。まず撮影者が、自分の写真を一番好きであるべきなんだよ」
一色さんは、写真部を訪れた際に言った。君が気に入っている写真をもらいたいと。
しかし口ではそう言いながらも、一色さんは初めから写真を見ていなかったんだ。
「瀬戸高写真部に写真提供を依頼する際に俺が見るのは、写真ではなく撮影者。どんな思いを込めて撮った写真か、どれくらい写真が好きか。俺が見るのはそのポイントだけだ」
ぽかんと口を開けて呆けるほとりに、一色さんは楽しそうな笑みを浮かべる。
先日ほとりが一色さんに写真を見せた際、不安げに相手の顔色を窺うように写真を出していた。あのときの写真が一概に悪かったわけではない。あの写真はあの写真でいい写真だったと思う。
だが、ほとり自身でもわかっていたように、あの写真はほとりの気持ちがこもっていない味気ない写真だった。だから、ほとりはあの写真に自信を持つことができなかった。
一色さんは、そんな自信のなさを見逃さなかった。
俺もどちらかと言えば、一色さんと同じ考えを持っている。
以前、倉敷美観地区で桃子にいい写真とはなにかと尋ねられたときにも、俺も似たようなことを考えていた。俺は他人からの評価を気にして写真を撮っていない。だからこそ写真の善し悪しの判断は、ただ自分が好きかどうか。それくらいでいいと考えていた。
「この間の写真との違いには驚いたがな。なにがあったか知らないが、ついこの前からずいぶん写真が変わったじゃないか。あいつの写真そっくりだ」
再び一色さんは楽しげに笑いながらそう言い、俺とほとりは顔を見合わせて首を傾げる。
それで、と一色さんの視線が俺を向いた。
「お前はどんな写真を撮るんだ。お前も写真を撮るんだろう?」
言われて、俺は自分の鞄からほとりと同じように封筒を取り出した。
「真也君も写真持ってきてたの?」
「一応、写真部なもので」
つい数日前に撮影し、昨日プリントアウトしたばかりの写真だ。
封筒の中から写真を一枚取り出し、一色さんに差し出した。
そこに写っていたものに、ほとりが目を丸くする。
「って、この写真、私……」
十万人写真展で俺が過去に入選した写真と同様、カメラを構えるほとりの写真である。
俺がカメラで狙っていることなど気づく様子もなく、一心不乱に楽しげに、カメラの向こう側を見据えるほとりの姿が写し出されている。
一色さんの目が、眼鏡の奥でわずかに緩んだ。
「お前はずいぶんと綺麗な写真を撮るな。色使いも構図も、こんな風に撮りたかったんだということがストレートにわかる。ああでも、人物写真はあまり撮らないんだったか?」
「普段は風景写真がほとんどです。知り合いはともかく、知らない人を撮るのは苦手で。ただ今回は、今の写真部部長がどんな風に写真を撮るのか、それを知ってもらいたくてお持ちしました」
「つまり瀬戸高写真部の部活動はお前にあっているわけか。依頼報酬に依頼者を撮らせてもらう。写真を撮るのがうまいのに人を撮るのが苦手なのは、お前はお前であいつと同じだな。創部の趣旨とはあっているが、まあ当然と言えば当然か」
一色さんの言葉に、今度こそほとりが眉をひそめた。
「あ、あのすいません。写真部創部の趣旨って、なんですか? それに先ほどから言われている方というのは……」
一色さんがきょとんと目を丸くする。
「ん? お前たち、もしかして知らないのか?」
なんの話かわからず、そろって首を傾げる。
途端に、一色さんは笑い始めた。
「はははっ! なんだお前たち、それを知らずに瀬戸高写真部に入部してたのか」
呆気にとられる俺たちを余所に、ひとしきり笑ったあと、一色さんは告げた。
「瀬戸高写真部は、初瀬妹、お前の兄である青葉と俺で創った部活なんだよ」
こともなげに言われたその言葉に、俺たちはぽかんと口を開ける。
「「え……ええええええっ!?」」
一色さんは笑いを噛み殺しながら、俺たちのすぐ後ろ、カウンターの正面を指さした。
振り返った先には、瀬戸高の生徒二人を撮影した写真が額縁に入れられて飾られていた。
一人は、今よりもずっと若いが俺たちの前にいる一色さん。
そしてもう一人が、俺が出会ったばかりのころの、十年近く前の青葉さんだった。
二人とも首からカメラを提げて、楽しそうに談笑している一場面が写し出されている。
「どどどどどどど、どういうことですか!?」
おもしろいくらいパニックを起こしたほとりが一色さんに尋ねる。
「言葉通りだ。瀬戸高写真部は、俺と青葉で創部した部活だ」
受け取った写真をそっとカウンターの脇に避け、一色さんはコーヒーの準備を始めた。
「青葉は人の写真を撮ることが苦手だったんだ。いつも言ってたよ。僕の妹は相手が誰であろうとカメラを向けて写真を撮ってすごいんだ。僕も真似したいけど絶対できないってな」
懐かしそうに笑いながら、一色さんは続ける。
「俺と青葉は、瀬戸高で一年のときに同じクラスになったんだ。それからお互いに写真を撮ることがわかって、一緒につるむことが多くなってな。でも、青葉は人の写真を撮ることが苦手だったんだよ。それで僕も妹みたいに人の写真を撮りたいんだって燃えててな。俺としては、撮りたいんなら撮ればいいだろって感じだったんだが、それができるなら苦労しないって嘆いてた」
知らなかった。
青葉さんは、たしかに風景写真を撮ることが多い印象だった。でも同じくらい、人物写真も撮っていたのだ。それこそ、ほとりと同じように、いろんな人にお願いをして、誰かに心を動かされて、写真を撮っていた。
一色さんの視線が、俺へと向かう。
「そんなある日、青葉が血相変えて俺のところにやってきた。妹の写真友だちに、天才がいたってな」
その写真友だちが誰であるかは、言われなくともわかる。小学生から写真を撮り歩いている子どもなど、そうそういない。
だが、理解できない単語が一つ。
「……天才?」
「ああ、なんでもその子は、行く先々で写真撮影を頼まれるんだそうだ。カメラを持って歩いているだけで、遊びに来ている人や旅行者、果てはただ近くを通りかかった地元の人まで、いろんな人から写真を撮ってほしいと頼まれる。それで、自分のカメラでも写真を撮らせてほしいとお願いをして、頼んできた人の写真を撮っているんだと」
「え……それって……」
横に座るほとりが視線を向けてくる。
一色さんが再び笑う。
「そこで青葉が考えたのが、瀬戸高に写真部を創り、写真撮影の依頼を集めて、依頼報酬として依頼者の写真を撮らせてもらうという部活内容だった。人を撮ることが苦手で、それでも人の写真を撮りたくて、そのために写真撮影の依頼を募る。それが、瀬戸高写真部創部の顛末だ」
それが今俺たちが所属している瀬戸高写真部らしい。
妹のように人の写真が撮りたくて、その妹の友だちがやっている頼まれた人の写真を撮るという方法で。
それはつまり……。
「つまり、瀬戸高写真部はお前たち二人をきっかけに青葉が創った部活だということだな」
初めて聞かされる、瀬戸高写真部創部の趣旨。
瀬戸高は活発に活動されてきた部活とされていたが、赤磐先生が顧問になったのはここ数年の話。それ以前の顧問は定年退職しており、詳しい話など聞くこともできなかった。
第一、まだ小学生だった俺たちが理由で、高校に部活が一つ立ち上がるなどと誰が予想できようか。
「お、お母さん、そんなこと全然……」
「青葉は変なところで見栄っ張りだったからな。人の写真を撮りたいからという理由で、写真部まで創ったことを、おばさんたちに知られたくなかったんだろう。現に、お前たちにも何も言ってないわけだからな」
コーヒーを淹れながら、一色さんは穏やかに笑いながら続ける。
「でも、あいつの写真には不思議な力があった。写真には、あいつの好きだという気持ちが明確に写っていて、いつもいつも楽しそうに写真を撮っていた。それでも人を撮るのは苦手だから、普段は風景ばかり撮ってる。本当に、今のお前たちそっくりだよ」
俺とほとりは顔を見合わせる。
そして、お互い吹きだして笑ってしまった。
俺たちの前では、青葉さんは大人なお兄さんにしか見えなかった。行動こそ子どもっぽくて危なっかしいところはある人だったけど、普段は落ち着いていて、楽しそうに写真を撮る人、くらいの印象だった。
しかし実際は、俺たちと同じように普通の高校生だったんだ。悩みもあれば苦手なこともある。でもそれ以上に、写真が大好きな青葉さん。
不意に、足になにかが触れる感触があった。驚いて視線を落とすと、足下で小さな生き物が、俺の足をげしげしと踏んでいた。
犬だった。普通のサイズよりもさらに小さな小さな豆柴だ。
構え構えと足を踏んでくるので、仕方がなく持ち上げて膝に乗せる。豆柴は俺の膝の上で体を丸めてくつろぎ始めた。
見覚えのある、犬の気がした。
「あれ、このわんちゃん……」
ほとりも気がついて目を丸くしている。
一色さんはカウンターの向こうから豆柴を見ると、わずかに眉を曲げた。
「起きて出てきたのか。こいつコーヒーの香りが好きなんだ。飲むわけじゃないが」
「この子、一色さんの飼っているわんちゃんなんですか?」
「そうだ。うちの看板犬の小夏だ」
そこまで言って、一色さんは思い出したように声を上げる。
「ああ、そういえば美観地区でこいつが逃げてたのを捕まえてくれたらしいな。面倒をかけて悪い」
「やっぱり、あのときの犬ですか……」
美観地区でも俺の足を踏んできた犬だ。出くわした犬とはいえ、頭に乗ることを許した犬。すぐにわかった。
だが、すぐに疑問が湧いた。
「どうして一色がそれをご存じなんですか?」
「小夏を連れていた女がいただろ? あいつは俺の一つ下の後輩で、写真部OGだ。写真部が再発足したことも、そいつに聞いた」
あのときこの豆柴を連れていた女性。
たしかにあの女性は瀬戸高写真部のことを知っており、再発足していることを驚いている様子だった。あの人が一色さんの知り合いで、というより瀬戸高写真部OGだったのか。
「じゃ、じゃあもしかして、私がお兄ちゃんの妹だってことも……」
「一目見てわかったと言っていたぞ。兄と妹でも、お前たちはよく似ているからな」
それで再発足した話を一色さんに言って、一色さんは写真部を訪れることにしたそうだ。
「あいつもずっと写真を続けている。あそこにある俺と青葉が写っている写真は、あいつが撮った写真だ」
もう一度、俺とほとりは一色さんと青葉さんが写る写真に目を向ける。
それから、美観地区で出会ったあの女性。
それだけでも、青葉さんたちの楽しそうな部活動の風景が、心に浮かんだ。
「え、えっと、あの方は今はどちらに?」
「今は仕事で県外に行っている。最近はよそにいることが多くてな。あの日は久しぶりの休みで美観地区散策するから一緒に行かないかといきなり誘われたんだが、仕事だから帰れと追い返したんだ。でもやっぱり一人だと寂しいからって、代わりに小夏を連れていった。それで逃がすとか、とんでもないやつだろう?」
呆れている一色さんに、俺たちは乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。
「小夏が邪魔なら引っ込めるが?」
「ああ、いえ、大丈夫です」
答えながら膝の上に座る豆柴、小夏のあごを撫でてやると、気持ちよさそうに鼻を鳴らしていた。ほとりも一緒に撫でてほくほく顔だ。
しばらく小夏と戯れていると、俺たちの前に二つのコーヒーが置かれた。白いコーヒーカップから、心地よい香りが漂ってくる。
今更ながら、申し訳なさそうにほとりが手を上げる。
「す、すいません私、ブラックコーヒーは……」
「いいから、飲んでみろ」
一色さんは口を緩めながらそう言い、カウンターの下でごそごそとなにかをしている。
ほとりはまだ少し戸惑ったが、いただきますと断って、おそるおそるカップに口をつけ。
「あ……あれ、甘い……?」
俺もいただきますと一口、コーヒーを飲んでみる。
淹れ立てのコーヒーは火のように熱く、それでも体にすっと染み渡っていく。
ミルクや砂糖が入っている様子はない。それでもたしかに甘く、すごく飲みやすいコーヒーだった。
「コーヒーは砂糖を入れなくても、豆を選んできちんと焙煎すれば、十分に甘いコーヒーになる。これはいつも、青葉が飲んでいたコーヒーなんだ」
「お兄ちゃんが、このコーヒーを……」
「いつか、妹がここに来ることがあったら、同じように甘いコーヒーを淹れてくれと言っていた。あいつ、ブラックが飲めないからって。自分だってブラックコーヒーは飲めないくせにな」
これでよしと、カウンターの上に二つの額縁が置かれた。
いつの間にか、俺たちが持ってきた写真がオシャレな木目の額縁に入れられていた。
「こんな感じで飾らせてもらおうと思うが、いいか?」
端的な確認だったが、俺たちが断るわけもなかった。
「せっかくだから、あの俺たちの写真の近くに置かせてもらおうか。少しレイアウトを変えないといけないが、明日までには飾らせてもらうからな」
青葉さんと一色さんの写真部時代の写真。その隣に、俺たち写真部の写真が並ぶ。まさか、青葉さんたちと俺たちの写真が、そんな風に飾られる日が来るなど、夢にも思わなかった。
不意に一色さんの視線が、俺が撮った写真、ほとりを写した写真に落ちていた。
「よくよく見れば、こっちの写真にはおもしろい気持ちが写っていそうだな」
にやにやとした笑みが向けられ、ぎくりと胸が打った。
「おもしろい気持ち……って、なんですか?」
「な、なんでもないなんでもない。そんな気持ちないですから」
誤魔化しながら小夏をほとりの顔に貼り付ける。
ほとりはもごもごとうなり声を上げたあと、何事かとびっくりしている小夏を抱えて首を傾げている。
額縁に入れた写真をバックヤードに下げながら、一色さんは自覚ありかと呟いていた。
体の火照りを、熱いコーヒーを飲んで紛らわす。
ほとりが腕を組んで唸っていると、一色さんが小さな本を手にカウンターに戻ってきた。
「それから、これを返しておく」
それを見た瞬間、ほとりの目の色が変わった。
俺も、それがなにであるかを理解した。
俺とほとりは二人で青葉さんをはさんで、その手の上に広げられるそれをいつも見ていた。優しい声で、楽しげに、それがどんな瞬間であったかを教えてくれた、あの日々の。
「お兄ちゃんの……アルバム……」
自らの名前にもある青を基調とした装丁の、使い古されたアルバム。
俺とほとりに、気に入った写真は印刷して、アルバムに入れて持ち歩くようにと教えてくれたのは青葉さんだ。当然、青葉さん自身も自分のアルバムを肌身離さず持ち歩いていた。
「なんで……お兄ちゃんのアルバムがここに……」
表紙にそっと指を滑らせながら、ほとりが震える息を吐き出した。
俺とほとりのカップに新たにコーヒーを注ぎながら、一色さんは、俺たちの前で初めて寂しそうな表情を浮かべた。
「あいつがここに来なくなって、あいつの写真がこの店に増えることもなくなった」
一色さんとの関係を聞いた、今だからわかる。
店内に飾られている数多の写真に、青葉さんの写真が何枚も、何枚も飾られている。
青葉さんの気持ちにあふれた写真たちが。
「青葉の葬式から、一週間くらいたったころだったか。おじさんとおばさんがこの店にやってきて、このアルバムを置いていったんだ。このアルバムを、このギャラリーに置いてやってほしいと。このアルバムを家に置いておきたくなかったんだ。他でもない、青葉の妹であるお前がこのアルバムを見て辛い思いをすることになるから、と」
ほとりの両親は写真を撮らない。
青葉さんの生きた証しであるこのアルバムは、本来ならほとりに渡したかっただろう。しかし青葉さんがなくなった直後のほとりは、アルバムを受け取るどころかカメラに触ることすらできない状態だった。だからおじさんたちは、このアルバムを一色さんに預けたのだ。
一色さんは目を閉じて、思い出すように言葉を紡ぐ。
「『いつかもう一度、あの子が歩き出したそのときは、このアルバムをあの子に渡してあげてほしい』。あの人たちはそう言って、このアルバムをここに置いていった」
小さく息を吐くと、一色さんの表情から悲しみといった感情が消え去り、優しく暖かな感情が宿る笑みを浮かべた。
「あのバカは、本当にいろんな場所に行って写真を撮ってきた。このアルバムにある写真は、その一部だ。でも、もしお前がこれからも写真を続けていくなら、きっと励みになる。お前が思い描く未来に、これからも写真があるなら、絶対に力になる」
一色さんは自分の分のコーヒーを淹れて、ゆっくり口をつけた。
ほとりは、青葉さんのアルバムを受け取り、宝物のように胸に抱いた。
「お兄ちゃん……」
そう呟くほとりの目には、薄らと涙が浮かんでいた。
これまで不明瞭で不確かだったほとりの道は、きっと青葉さんが照らしてくれる。青葉さんのこれまでが、ほとりのこれからを。
ほとりは袖で乱暴に目元を拭い、青葉さんのアルバムと、自らのカメラを手に立ち上がった。
「一色さん。お渡しした写真で、写真部への依頼は完了でよろしいですか?」
「ああ、お前たち写真部の気に入っている写真、たしかに受け取った」
「でしたら依頼の報酬に、一色さんの写真を撮らせていただいてもいいですか?」
一色さんはわずかに目を見張り、眼鏡のブリッジを指で押す。
「俺の写真部への報酬は、もっぱらこの店のコーヒーや食事なんだがな。まあ、最初と言うこともあるか。青葉の妹に写真を撮ってもらうのも、悪くはないな」
そしてほとりの要望で、一色さんは苦笑しながらも言われた場所に向かう。
途中で俺の腕から小夏をひょいと取り上げて、抱えながら。
それは、青葉さんと一色さんが写る写真の隣。
ほとりは慣れた手つきでカメラを持ち上げ、ファインダーをのぞき込む。
相変わらずの単焦点レンズ。
自分の好きな場所を探すように、ファインダーの向こうを見たまま体を動かす。
そして、ほとりは苦笑する。
「一色さん、できれば、笑っていただけると」
ずっと淡々とした表情を浮かべてカメラに向かっていた一色さんが、わずかに目を見張る。
「……青葉にもずっとそれを言われていたな。だが悪いな、写真写りはいい方じゃなくてな、カメラの前で笑うのが苦手なんだ」
そう言いながらも、一色さんの口元は、懐かしそうに綻んでいた。
ほとりも、おかしそうに笑う。
「その写真にはきっと、これまで、それとこれからも、お兄ちゃんの親友が写っていますよ」
一色さんはその言葉を聞くと、今度こそ声を上げて笑った。
小夏がカメラに向かってワンと吠える。
そして、シャッターが切られる。
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